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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
一章
4/207

眠りの森が見せた夢 【3】

 喫茶店【Jardin Secret】は開店は遅く、閉店は早いという少し変わった店だ。

 こうした飲食店なら客を呼び込む為に朝は早くから店を開け、太陽が沈むまで営業するのが普通だろう。しかし、秘密庭園の名を持つ喫茶店はその名の通りひっそりと開店してひっそりと閉店する。

 こんなやり方で経営面で問題はないのかと疑問に思いもする。

 雇われている側に訊くのも変な気もするが、気になってレヴェリーに訊ねてみた。彼によると、この喫茶店は金持ちのぼんぼん(ノーブル)が遊び半分で始めた店で、特に金を稼ごうとして開いている訳ではないらしい。

 記憶をなくしたクロエに、ヴィンセントもレヴェリーも優しくしてくれた。

 ヴィンセントは微笑みを絶やさず、気が利く人で、見知らずの場所で慣れない生活を送ることになったクロエに不自由はないかといつも気を回してくる。

 レヴェリーは明け透けな感じが親しみ易い人で、トランプやチェスといった娯楽を持ち運んできては一緒に遊ぼうと誘ってくれる。

 記憶喪失の娘など誰も面倒を見てくれずに路頭に迷うはずなのに、自分は衣食住全てを与えられている。助けてくれたこともそうだが、こうして置いてくれていることに関しても、クロエは垂れた頭が上がらないほどの感謝を彼等に感じている。

 目覚めてから二週間が経ち、居候になっているだけでは申し訳なく感じたクロエは日常生活の雑事を手伝い始めた。

 あまり調子に乗って動き回るとまだ目眩や頭痛に襲われるので無理はできないが、クロエは出来る限りの手伝いをした。

 今日はヴィンセントやレヴェリーの使う部屋や水回りの掃除をしている。

 レヴェリーの部屋は漫画本、玩具、菓子類などが散乱した、まさにやんちゃな少年の部屋といった様子で片付け甲斐があった。今掃除をしているヴィンセントの部屋は掃除する必要がないほどに整理整頓されていて、余計な物も殆どない。

 窓や机を拭き、毛ばたきで棚の上の埃を落とす。

 背の高い本棚の奥まで中々はたきが届かなくて、思い切って飛び跳ねてみる。その拍子に棚の上に乗っていたものが埃と共に落ちてきて、クロエは「あちゃあ」と額に手を当てた。

 落ちてきたのは、水彩色鉛筆の入ったケースと、古びて表紙が色褪せた一冊のスケッチブック。

 床に散らばってしまった色鉛筆はどれも使い込まれて短くなっている。慌ててケースに戻し、クロエは何処か懐かしい感じのするスケッチブックを手に取る。


(ローゼンハインさんも絵を描いたりするのかな)


 もしもヴィンセントが絵を描くことが好きなら、どんなものを描くのだとか、どんな画家が好きだとか語り合えるかも……とそこまで考えて、クロエは自分が絵を描くことが好きかもしれないと思い出す。

 スケッチブックの中を見てみたい気持ちに駆られた。

 けれど、他人の部屋で見付けたものを勝手に見るのは失礼だろう。

 クロエはスケッチブックと色鉛筆のケースを重ねて机の上へ置くと、掃除道具を持って部屋を出た。

 階段を下りたところで、仕事を終えたばかりなのか仕事着のままのレヴェリーと鉢合わせる。


「クロエ、お疲れさん」

「レヴィくんもお疲れ様」


 猫っ毛で収まりが悪いらしいレヴェリーの髪はぴょこぴょこと跳ねていて、クロエはいつも触れてみたい衝動に駆られてしまう。


「なあ、調子良かったら週末にでも買い物行かね?」

「買い物に?」

「お前も女なのに、そんな格好をさせてるのは悪いっつーかさ」


 申し訳なさそうに目を伏せる。レヴェリーは、クロエに男のような格好をさせていることを気に病んでいるようであった。


「ううん、気にしなくて良いよ。置いて貰っているだけで私は充分だから」


 ホワイトシャツとダークグレイのスラックス。首からエプロンを掛け、長い髪を耳の横で纏めた姿は何処からどう見ても【お手伝いさん】といった風体だ。

 クロエは何も気にしていなかったので、その気持ちを素直に表して微笑む。


「充分とかそんな気ィ遣うなよ。オレ等、マジで助かってるんだからさ!」

「少しでも役に立てているなら嬉しいんだけど」

「特にメシは助かってるよ。ヴィンスにやらせると味覚異常になりそうだし」


 貴公子然とした雰囲気のあるヴィンセントは何でも涼しい顔をしてこなしそうである。しかし、それは見てくれだけで、彼は料理の腕が壊滅的だった。

 クロエが小さく笑うと、レヴェリーも釣られるようにしてにやりと口の端を吊り上げた。


「じゃあ、私、これを片付けたら夕飯を作るね」

「オレも着替えたら手伝いに行くわ」

「うん、有難う」


 廊下で別れた二人は別方向へいく。クロエはバスルームの方へ、レヴェリーは自室へと。

 掃除道具をロッカーに片付けて、洗面所で手を洗う。濡れた手を清潔なタオルで拭いてから店内へと続く扉を潜った。それとほぼ同時に、喫茶店の入り口のドア上部に付いたベルが澄んだ音を発する。

 クローズの看板がもう下げられているはずの時間だが、客だろうか。


「あ……えと……いらっしゃいませ」


 クロエは店に入ってきた男に声を掛けた。

 襟の立った黒いコートを羽織った男は薄氷のような鈍い色の双眸をじっと眇める。突き刺すような視線が向けられて、クロエは思わず身を固くした。

 陽の光を知らないような真っ白な肌は無機物じみていて、眼差しは見たものを凍て付かせそうなほどに厳しく、冷徹な色を湛えている。青み掛かった銀髪も相俟って男は人間離れした空気を纏っていた。

 その様はまるで常世からやってきた死神のようで、クロエは瞬きもできぬほどに気圧された。


「ちょっとエルフェさん。あんまり睨むものだから、この子怯えてるよ」


 いつまで続くか知れない睨み合いに終止符を打ったのは、笑みを携えやってきたヴィンセントだった。

 ヴィンセントは微笑んだまま、黒コートの男とクロエの顔を交互に見る。


「ローゼンハインさん、この方は?」

「この人はエルフェ・レイヴンズクロフトさん。今まで所用で空けていたけど、この店のマスターだよ。……で、エルフェさん。この娘が電話で説明したクロエ・メイフィールドさん」

「それくらい判る。金髪碧眼はそうそういるものではないからな」


 エルフェのその言葉に、クロエは何故だか傷付いた。心の奥底に封じ込めた痛みの記憶へと続く扉へ触れられたような感覚がした。

 クロエは逃れるように頭を垂れた。


「私、クロエといいます。皆さんには優しくしていただいて、感謝してもし足りないくらいです」

「……気にするな。困った時は何とやらと言うしな」


 クロエに深々と礼をされて、エルフェは何処か困ったように視線をさ迷わせ吐息をついた。

 硬質な見た目通りの低く落ち着いた声だった。起伏が少ないので情が欠けているように感じてしまう。悪い人ではないと理解しつつも、一度感じてしまった意識を変えるのは難しいもので、クロエは恐る恐るエルフェを見上げた。

 面長でほっそりとした顔。思慮深げな切れ長の目を縁取る睫毛は特別長い訳ではないが、優美な線を描いていて、白い下瞼に印象的な影を作っている。端正な顔立ちはヴィンセントのそれに比肩するが、より繊細な細工を思わせる気品がこちらにはあった。

 美貌、なんていう単語はクロエには縁のない言葉だった。

 自身の顔立ちはこの通り地味な出来であるし、そもそも美貌などと呼べるほどの容姿を持つ人間と出会ったこともなかった。だが、目の前にいる。二人も存在している。


「あれ、幽霊でも見たような顔をしてるね」


 ヴィンセントにぐいっと覗き込まれて、クロエは飛び跳ねるように慌てて身を引く。


「レイヴンズクロフトさんは不思議な雰囲気をお持ちなので、てっきり私にあの世からの迎えが来たのかと思いまして……」

「あはははは! 面白いこと言うね、君。でも、ちょっとそれは失礼かな」


 驚いた顔をしたのはほんの一時で、ヴィンセントは盛大に笑い出す。

 笑い過ぎて涙目になった様子に呆気に取られるクロエ。


「……で、ですよね。済みません」

「良いよ。エルフェさんは確かに死神っぽいし。陰気というか不吉というか……ね」

「言うに事を欠いて何を言っている」


 肩を揺らして楽しそうに笑うヴィンセントが少しだけ意地悪な目つきをしたように見えたが、気の所為だろう。


(ローゼンハインさんって)


 本当に見た目と中身が違う人だな。クロエはこっそりと思った。

 見た目だけだと高貴で、どうにもツンと済ましたような雰囲気を持っているのに、いざ口を開けばヴィンセントは冗談のような本気のような軽口ばかりだ。

 そういえば、とクロエは口を開く。

 ローゼンハインさんは絵を描いたりするんですか?

 しかし、問おうとしたその言葉は口から出る前に喉で死んだ。強い目眩と頭痛がやってきて、クロエは歪む景色から逃れようと目を閉じる。熱っぽい頬に筋張った大きな手が触れた。


「顔色が悪いね。大丈夫?」

「……平気、です」

「君は目覚めたばかりなんだから無理しないで。まずは身体を治してから、ゆっくりとやっていこう?」


 そう言った彼は優しいような冷たいような曖昧な表情をしていた。

 ヴィンセントはにこやかに目を細める。その笑みと声にクロエは訊ねごとをする機会を逃してしまった。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 木枯らしの吹く【クレベル】の街角にぽつぽつと明かりが灯り出す。

 紫色の夕闇空の下で教会の鐘が気怠げに鳴っている。

 夜の訪れを告げる鐘の音。家路に就く者がいれば、街に繰り出す者もいる。厳かな鐘の音色は煌びやかな夜の始まりの音だ。しかし、中心街から少し外れた公園には人影は少ない。


(ちょっと疲れたかも)


 【クレベル】の中心街は近代的な街並みで、背の高いビル群や人の多さにクロエは辟易した。

 久し振りに外に出たということもあり人混みに酔ってしまった。たった数時間の買い物なのにへとへとに疲れてしまったクロエは公園のベンチで休んでいた。

 噴水を中央に眺める席で休むクロエは手を頬に当てる。冷たい風が吹いているというのに頬が熱かった。


「待たせたな!」


 何か冷たいものを買ってくると出ていったレヴェリーが戻ってきた。彼の手にはアイスクリームがある。


「チョコミントとストロベリーチーズ、どっちが良い?」

「レヴィくんはどっちが好き?」

「オレはストロベリーが――って、クロエに訊いてるんだし!!」

「私はチョコミントが好き」


 本当はどちらでも良いのだけれど、折角買ってきてくれたレヴェリーに気を遣わせては悪い。クロエはチョコミントが好きということにした。

 今日の買い物は主に食料品や衣類といったものだ。その日の献立によって食料品はその都度レヴェリーに頼んで揃えて貰っていたのだが、やはり自分の手に取って選ぶのは違う。男性では気にも留めないだろう野菜の大きさだとか、重さ、鮮度。そういったものを確かめながら、吟味するように買うクロエをレヴェリーは感心したように見ていた。

 喫茶店の店主たるエルフェは公平で、厳しくも優しい。

 記憶のないクロエを健常者として扱い、自主的にこなしていた雑事を仕事として扱った。店員として働いているヴィンセントとレヴェリーとは勿論桁が違うが給金を貰った。ここ何週間で少しずつ溜まったそれを今日纏めて貰い、クロエは感謝しながら使った。


「なんつーか、ごめん。オレと買い物したってつまんないよな」


 寒い中でのアイスも良いものだね、と語り合っていると、レヴェリーは急に申し訳なさそうにそんなことを言った。


「ううん、レヴィくんといると楽しいよ」

「そうか? 無理してない?」

「ローゼンハインさんとレイヴンズクロフトさんが相手だと緊張しちゃうから……」


 ヴィンセントの輝きが太陽ならば、エルフェの美貌は蒼白い月光を思わせた。

 二人は別世界の人間のような気がする。浮き世離れしているという訳ではないが、雰囲気が独特だ。そんな二人を前にするとクロエは気後れしてしまう。


「レヴィくんは懐かしい感じがしてほっとするの」

「懐かしい? 郷愁ってやつ? オレって古臭い?」

「あはは、そういうことじゃなくて」


 溌剌とした表情や、明け透けな明るい性格も勿論好きだけれど、レヴェリーには何処か懐かしい空気がある。その【空気】にクロエはほっと安らいでしまうのだ。

 恐らく、クロエに一番親身になってくれているのはヴィンセントではなく、レヴェリーだ。

 ヴィンセントは確かに気が利く人物であるが、他人の内面のことまでは踏み込んでこない。例えると、遠くから照らしてくれる太陽だ。

 対するレヴェリーは大雑把で粗野であるが、人の心に敏感である。困ったことがあっても話せずに弱っているクロエに気付き、親身になって助けてくれる。それは人間的なあたたかさだ。


「レヴィくんはあたたかくて、家族みたいでほっとするの」


 大きな目を真ん丸に見開いたレヴェリーは何度も瞬いた。

 珍しい紫色の瞳に不思議な【色】が感じられて、クロエも思わずきょとんとする。すると、目の前の少年から長く深い溜め息がこぼれた。


「帰りたい……よな。家族とか待っているかもしんねえし……」

「覚えてはいないけど、いないような気がするの」


 レヴェリーはクロエを待っているだろう本当の家族のことを思って憂いだ。

 けれど、クロエには自分の帰りを待つ家族など存在しないだろうと確信にも似た予感があった。


「だったらオレと同じだな」

「え?」

「オレは施設で育ったから本当の家族ってのがいないんだ」


 その告白に、レヴェリーから感じる【懐かしさ】が強くなったような気がした。

 何故だろうと考えながらも「ごめん」と謝ると、レヴェリーは気にするなというように首を振った。


「家族がいないからって特別大きな不幸って訳でもねえよ。多分、それが【オレ】ってものを作る一つなんだろうし……って、まあそれは受け売りだけどさ。今はエルフェさんとかクロエがいるから全っ然寂しいとか思わねえよ」


 家族がいないことを含めて、それを【自分】だと胸を張って答えられるレヴェリーは強い。彼はエルフェとヴィンセントのことを、そしてクロエのことを家族のように思っていると語る。


(私も家族の一員になれるの?)


 どうして彼等はこんなにも優しくしてくれるのだろう。自分に対して自惚れられる箇所の見付けられないクロエは疑問でならなかった。

 秋風が二人の間を通り抜ける。その風に髪を躍らせるクロエはぼんやりと空を仰いだ。






 夢を見た。

 青く晴れ渡った空からは穏やかな日差しが降り注いできて、鳥の(さえず)りも聞こえる。

 空の色を映す水面を滑る小舟のように浮いているのは白い花弁。

 清楚で可憐な林檎の花。

 一年の内で最も気持ちが良く、美しい春の森。その光景を描こうと林檎の森(フォーレ・デュ・ポム)へと足を傾けた。

 爽やかな風が水辺から森へと吹き抜ける。風に乗った甘い花の香りで胸を一杯に満たして、鳥の囀りに耳を癒やされながら筆を動かした。

 穏やかな気持ちで絵を描いていたら、その景色よりも美しいものを見付けて心が躍った。

 緑の眼をした天使。もしかするとそれは霞む春の森が魅せた幻だったのかもしれない。

 だって、天使は悪魔だったのだ。


『つまらない人間だね』


 赤く汚れた口許に手を軽く添えて、くすくすと笑う。

 悪魔は形の整った唇に冷めた笑みを滲ませ、林檎色の眼をすうっと細めて(わら)った。

 林檎の花弁が狂い咲いたようにはらはらと舞って、真っ赤なものがさあ……っと飛び散った。

 最期に見た、眩しいばかりの光景だった。

 目覚めた時、夢の中の景色があまりに綺麗だった所為かクロエの目からは涙が零れていた。目から熱い涙が溢れ、頬を伝って枕を濡らす。

 何故、自分は泣いているのだろう。記憶がなくて不安ではあるが、助けてくれる優しい人がいる。それこそ天使のように美しく、優しい人だ。夢の内容に心を揺さぶられ、涙まで流してしまうなんて不安定すぎやしないか。

 こんなことではいけない。早く身体を治し、記憶を取り戻して、優しい人たちに恩返しをしなければ。

 もう一度眠りにつこうと瞼を下ろすと闇の中を白い花の骸が舞った。

 クロエは微睡み掛けた中でぼんやりと考える。

 夢の中は林檎の花が咲くような麗らかな春だった。それなのに、目覚めた今は草木が赤く色付く秋だ。

 夢と現実が食い違っていることは可笑しなことではないはずなのに何故か胸が騒ぐ。

 どうしてだろう。林檎の花の残り香を感じながら、クロエは眠りへと落ちた。

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