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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
三章
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閑話 Croquer la Pomme 【4】

 ショコラトルデー前日。

 クロエはセントラルシティのトワイライト・ショッピングモールへやってきた。

 天井には空模様が描かれ、時間によってその色合いは昼から夕へ移り変わる。その下に引かれた運河には水が張られ、ゴンドラが行き来している。オールで漕がれることによってゆっくりと水路を進むゴンドラで人が運ばれ、ゴンドリエーレの陽気な歌声が響いている。

 【クレベル】の人気のデートスポットでもあるこの場所。かつて下界にあったという水路の町を模したのが、トワイライト・ショッピングモールだった。

 徒歩で進むクロエが目的とする場所は花屋だ。


(どうしようかな)


 橋の上を歩きながら考えているのは、皆に何の花を贈るかということ。

 まず、皆に似合う色を考えてみる。

 ヴィンセントは奇抜さとピーコックアイが特徴であるので、青緑か金。

 エルフェは薄氷のような尖った印象なので、白か銀。

 若草のように元気で明るいレヴェリーは、赤か黄。

 夜露にうなだれた花のようなルイスは、紺か青。


(そんな花ないよね……)


 花屋を見て回りながらクロエはついつい目移りしてしまう。

 クロエの育った下町とは比べ物にならないくらいの花の種類がある。名も知らないような花もあり、迷ってしまう。せめて皆の好きな色を訊いていれば選び易かったかもしれない。

 そもそも男性は花を貰って喜ぶのだろうか。女性の一大イベントと言われるショコラトルデーなのに、クロエには浮かれる気持ちなどさっぱりない。

 考えている内に不安になったクロエは直感で買うことにした。

 購入したのは、赤のダリア、白のカーネーション、黄のチューリップ、紫のローズだった。

 どれが誰のイメージとは敢えて言うまい。直感的に選んでしまったのだ。ラッピングされた花を大切に受け取ると、クロエはショッピングモールを後にした。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



「クロエ、味見してくんない?」


 夕飯の食材を揃えて家へ帰ると、キッチンでレヴェリーが菓子作りをしていた。

 丁度焼き上がったところのようでクロエは試食を頼まれた。


「じゃあ、いただきます」


 クロエはスポンジケーキを口へ運ぶ。

 ほろりと崩れ、優しい甘さが口へ広がるかに思えたが――――。


「……うん、スポンジケーキ……だね」


 スポンジケーキの食感はしているが、味が非常に複雑でクロエはどのような感想を言おうか悩んだ。

 レヴェリーは今必死で勉強しているのだ。ここで傷付けるようなことを言えば繊細な彼は落ち込んでしまうかもしれない。

 クロエの微妙な反応を見たレヴェリーも一口食べる。


「うわ……何これっ!!」


 口の中に言い表せぬ粉っぽさが広がったのか、レヴェリーはコップに水を汲むと一気に飲み干した。


「この通りに作ったのに何でこんなに不味くなんの……?」

「レヴィくん、ちゃんと掻き混ぜた? お砂糖入れた?」

「多分。砂糖は自信ねえけど……」


 レヴェリーのノートをこっそりと覗くと、砂糖の文字がなかった。これで粉そのものの味だ。


「これ、捨てないで残しておいてくれる? プディングに入れてみようと思うの」

「何とかなんのか?」

「プディングの甘さとカラメルソースでどうにかなるんじゃないかな」


 クロエは頷く。貧乏生活をしてきたのでアレンジは得意だ。

 するとレヴェリーは幾許か安心した様子で息をつき、再び袖を捲った。


「よし、もう一回やってみるか!」

「うん、頑張って!」


 クロエはレヴェリー邪魔しないように調理器具を離れの一間に運び込む。

 持ち込んだ調理器具を水洗いしたクロエはテーブルの前の材料を眺めた。

 まず【ヴァレンタイン社】のカカオチョコレート。それからマシュマロ、シリアル、カシス、マーマレイド、キャラメル、アーモンド、ブランデーなどなど。クロエの好みよるチョイスで、チョコレートに入れたら美味しそうなものを揃えてみた。

 そう、チョコレートのレシピなど知らない。クロエは気合いでどうにかするつもりだ。


(何とかなるはず)


 もしどうにもならなかったら笑ってもらうか、貶してもらうしかない。クロエは前向きさと後ろ向きさを抱いて調理を始めた。

 クロエは菓子作りが好きだ。

 施設で暮らす中で必要に迫られて料理を覚えたというのもあるが、菓子作りの趣味は母親の影響かもしれない。

 料理の腕がからきし駄目だった母ダイアナは、菓子作りが趣味だった。

 プディング、マドレーヌ、クラフティ、アップルクーヘン、タルト・タタン、オランジェット。失敗と成功の狭間で揺れる菓子をクロエと父は良く食べさせられた――――。






『可愛いお花。青空も綺麗。鳥さんも楽しそう。絶好のアフタヌーンティー日和だね』


 庭に運んだテーブルセットに朝から作った菓子を並べての茶会。それは母とクロエだけの時間だ。

 日除けのパラソルなんて洒落たものはないからと、母はお気に入りの赤い帽子を被っていた。


『そうやって笑っていて。クロエちゃんは笑うと可愛いんだから』


 帽子の陰で隠れてはいたが、母の顔には黒い痣がある。それでも母は明るく朗らかに笑った。


『クロエちゃんはわたしの宝物。わたしとあの人の娘だもん』


 日溜まりの中で母はまるで童話を読むように語る。

 クロエは父に似ていない。母はクロエが父に似ていないことをとても惜しんだ。


『わたしとあの人の娘なら美人になること間違いなしなんだから、前髪は上げなよね』


 クロエは幼い頃から前髪で額を隠していた。

 殴られてできた切り傷が額にあったというのもあるが、顔に自信がなかった。

 クロエは父に似ていない顔が嫌いだった。金髪碧眼なのに平凡な顔立ちということよりも、初めは父と似ていないということが嫌だったのだ。


『クロエは私に似ていない。さっぱり私に似てくれない……』

『何言ってるの。そのことは言わないって言ったじゃない。クロエちゃんはあなたの娘だよ』

『ああ、分かっているさ。クロエは私の娘だ。だが無性に不安になるんだ……』

『何が不安なの? あなたの傍にはわたしとクロエちゃんがいるじゃない』

『お前がいつかあの男に……』

『その先は言わないで。聞きたくないよ』


 ベッドの中で聞いていた。眠った振りをして母と父の会話を聞いていた。

 怖かった。その先を聞いた何かが崩れてしまうように感じた。クロエは布団を頭まで被ると両耳を手で覆った。そしてぎゅっと瞼を閉じた。

 似ていないから父に疎まれる。そう理解したクロエは益々自分の顔が嫌いになった。


『クロエちゃんが笑ってくれないと、わたし、駄目だから』


 表情を隠すクロエに母は「笑って」と言って、消え入りそうな笑みを浮かべた。


『おかあさん……?』

『ふふん、隙あり!』


 不安そうに首を傾げるクロエの隙を突いて、母は前髪を上げてしまった。


『や、やだ! おかあさん、やめてよ……っ』

『だーめ。お母さんにクロエちゃんの顔を良く見せて?』


 冗談めかした口調だが、母の目は真剣で有無を言わさない強烈な色がある。

 クロエはじっと母の碧眼を見つめた。


『うーん、実は睫毛が長い辺りはあの人に似ているのかな』


 顔の形を確かめるように手で触れられ、指先で頬を遊ばれる。

 からかわれているような気持ちになってクロエが頬を膨らませると、「林檎みたい」と母は笑った。


『――絶対迎えにくる。だから、待っててね』


 母はそれから数日後、夕焼け空に溶けるようにして家を出ていった。

 秋だった。

 冷たく暗い冬を前にした秋だった。

 色付いた葉の紅と、空の茜と、母の外套の赤が鮮やかで、クロエの記憶に鮮烈に刻まれた。






 母との別れからもう十二年――正確には二十二年――だ。

 赤い空に溶け込むように、落ち葉が舞う道をゆっくりと去った母の背中は未だに忘れられない。

 先日、幸せそうな親子の姿を見たからか、つい感傷的になってしまった。

 いけない、とクロエは気持ちを切り替える。

 感傷に浸ったところで過ぎ去った時間は戻らないし、失った人も帰ってこない。過去を反芻する必要はない。追憶など不要だ。そう思ってはみても、記憶の鎖に捕らわれたままのクロエは中々前に進めない。


「……お母さん……」


 生きているのなら元気であって欲しい。

 母は笑顔が似合う女性だ。鮮やかな笑顔が美しい人だった。そんな母に泣いている姿は似合わない。そして何より、母には血の赤よりも林檎の赤が似合うはずだ。

 クロエは母に幸せに暮らしていて欲しかった。


「あれ、固まってる……」


 チョコレートの中に入れる材料の下拵えが終わったところでボールを見たクロエは唖然とする。

 折角溶かしたチョコレートがボールの中で固まっていたのだ。ショコラトルデーのチョコレートなど作った経験のないクロエはぽかんとするしかない。


(私の作業が遅いの? それとも、ここが寒いのかな)


 外の気温は氷点下で、木造の離れは室内にも関わらず白い吐息が出た。

 普段からここで寝起きしているクロエは寒さに慣れていたが、デリケートなチョコレートにはこの環境は辛かったようだ。


(真面目に作らないと!)


 やはり考え事をしながら料理をするのは良くない。贈られた側だって気持ちの込められていないものを貰うのは嫌だろう。失敗をしたら金を恵んでくれたエルフェとメルシエにも申し訳が立たない。

 例え突き返されるとしても、悔いが残らないように精一杯作ったものを渡したい。

 もう一度湯煎で溶かそう。そう考えたクロエはケトルで湯を沸かし始めた。

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