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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
三章
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閑話 Croquer la Pomme 【3】

 灰色の空から薄日が射す。

 重たげに落ちてくる霙雪がじっとりと地面に積もり、泥濘を作る。

 二月らしい曇り空の広がる寒い日の午後。そんな空模様にも関わらずクロエの周りが明るいのは、差している傘が空色をしているからだ。

 クロエは水色が好きだ。晴れた空のような水色が一番好きな色だった。そんな好みが服装にそのまま表れたような白いコートに水色のマフラーをふわりと掛けたクロエが歩いているのは、ディヤマン通り西の住宅街だ。

 向かうのは、骨董品店 【Waldhaus】(ヴァルドハウス)

 喫茶店【Jardin Secret】の食器や調度品は全てをここで揃えているというほどに懇意にしている骨董品店は、エルフェの友人が開いている店で、貴族御用達の高級ショップだ。


「いらっしゃい」

「こんにちは」

「何かお探しかい?」


 傘立てに傘を置き、入口のマットで靴底の雪を落としていると、すぐに店主から声が掛けられた。


「エルフェさんに普段使いのカップを頼まれたんです」


 何度かこの店を訪れているクロエは、店主のメルシエとも顔見知りだ。


「普段使いってことはまた居候が増えたの?」

「多分、私も含めてでしょうけど一人増えましたね」

「男? 女?」

「男の人です」

「へえ、レイにレヴィにヴィンセントにあんたにもう一人か。ここまでくると軽く家族だね」


 他人が五人も揃って共同生活をしているのは不思議な絵柄だ。

 家族というものにクロエはあまり馴染みがないので、メルシエに曖昧に微笑み返すしかできなかった。


「さて、普段使いだったね。予算はどれくらいだい?」

「えと……4,700ミラくらいです」


 花を買うとなると少なくとも300ミラは必要になるので、クロエは予算をそれを差し引いた額にした。


「いつも買うカップの一客分くらいの予算か。じゃあ、この棚を見ると良いよ」


 メルシエの示した棚にはシンプルながらも華のある、品の良いカップが並んでいた。

 ティーカップは飲み口が若干外に広がっており、コーヒーカップは中身が冷めないように飲み口が狭く高さがある。エルフェはどちらのカップでも良いと言っていたので、クロエは形が優雅なティーカップを見た。


「ええと……」


 普段使いなら何度も洗ったりすることになるので分厚く丈夫な方が良い。あとは、ハンドルにも装飾がないものの方が持ち易いだろう。


(エルフェさんは花と果実が好きなんだっけ)


 高級カップの絵柄といえば鳥、花、果実などが主流で、絵付けに手が込んでいるものの価値が高くなる。エルフェが集めているのは、陶器の最高峰ブランドと呼ばれる【ロセッティーナ】の花と果実シリーズだ。

 カップ一客が5,000ミラというのは当たり前で、先日購入した黄金の装飾皿は20,000ミラもしていた。庶民の数ヶ月分の生活費が一瞬で消える度にクロエは目眩を感じ、割らずに持ち帰るのに緊張感を味わっていた。


「そういえば、あれが近いけどあいつ等また醜い争いやってるの?」

「? あれで醜い争い?」


 ドレヴェス人のメルシエは言葉をぼかして喋る癖がある――ジャイルズ語のボキャブラリーが少ない――ので、クロエは聞き返さなければ分からないことが多々ある。

 キャスター付きの椅子に座ったまま傍にやってきたメルシエは、【あれ】と再び言った。


「ほら、あれだよ。チョコレートの獲得数を競って、一番の奴が他の奴に命令するとかいうやつ」

「そ、そんなことやってるんですか……!?」

「大人げなく大人の方が本気になってやってるよ」


 メルシエの口振りだとエルフェもその争いに加わっているようだ。その勝負は自由に外出できないレヴェリーが明らかに不利ではないだろうか。


「全く、馬鹿馬鹿しくて変な笑いが出てくるよ。あいつ等も黙ってさえいれば色男なんだけどね……」


 メルシエはヴィンセントとエルフェを【自己中男】と称した。


「いえ、黙っていなくても素敵なところはありますよ」


 クロエはヴィンセントを貶す意味で【黙ってさえいれば】と言った訳ではない。あんなに恵まれた容姿をしているのに、どうして汚れ仕事をしているのかということを言いたかったのだ。

 ヴィンセントやエルフェほどの美貌を持っていれば、人殺しより良い仕事があるはずだ。彼等はもっと輝かしい人生を謳歌できるはずなのだ。

 順風満帆な人生を送っていそうな彼等が裏社会で生きていると聞くと、クロエはどうしてと思わずにはいられなかった。


(でも、余計なお世話かな……)


 流されたとはいえ、失礼なことを言ってしまった自覚のあるクロエは反省している。ヴィンセントが仕事から帰ってきたらきちんと謝ろうと思った。


「例えばどんなところが素敵だと思うんだい?」

「ローゼンハインさんのあの振る舞いはとても前向きということですし、エルフェさんの物怖じしなさは自分に自信があるからなんですよね。ちょっと吃驚したり、困ったなと思う時もあるんですけど……どうしてか憎めないんです……」


 クロエは彼等を嫌いになれないし、憎むこともできない。酷くされてもまた近付いていってしまう。


「うんうん、問題がある男ほどどうしてか可愛く見えるね。欠点があればあるほど気になったりして」

「そう……なんでしょうかね……?」

「そうだよ。駄目な子ほど可愛いって言うじゃないか」

「確かにそんな言葉はありますね」

「ハイスペック過ぎるのなんて面白くないし面倒だよ。男は少しくらい駄目なところがあった方が良い」


 その駄目さにも限度というものはあるが、一先ずそこは置いておくことにした。


「今の内緒だよ? 駄目男とか言ってるの知られたらヴィンセントに殺されちまうから」


 チェシャ猫のように笑うメルシエに釣られてクロエもやっと笑えた。

 竹を割ったような性格で、独特の喋り方をするメルシエは上品な顔立ちの女性だ。薔薇色の髪も青い瞳も印象が強烈で、一度見たら忘れられない美人だった。

 エルフェとは友人ということだが、もしかすると二人は付き合っているのかもしれない。さばさばした彼女とどっしりと構えている彼は食器という趣味も合い、似合いの二人に見えた。


「あ……これ、素敵ですね……」


 メルシエの背後にある棚のティーセットにクロエは目を奪われた。

 淡い青をベースにシルバーで描かれたティアラが凛として美しい。高級感漂う品の良いティーセットだ。


「ミルククラウンだね」

「お幾らです?」

「ポットとデザートボール付き、カップ五客で4,900ミラだよ」

「そ……そんなにするんですか……!?」


 受け取った金で購入できないことはないが、花が買えなくなってしまう。

 カップのランクを下げるべきか、花のランクを下げるべきか。どちらにしてもエルフェの金ということには変わりがないのでクロエは弱ってしまう。

 自分で稼ぎたいと切に思う。何かある度にエルフェに金の無心をすることが嫌だ。


(髪を売れば花を買えるくらいになるかな……)


 そうだ、まだ身を売る方法がある。戸籍がなくても女は稼ぐ手段がある。

 勝手に髪を売ればヴィンセントは怒るかもしれないが、髪はまた伸びるのだ。そんなものよりも皆が使う食器を揃えることと、感謝を伝えることの方が大切だ。

 髪の買い取りは美容サロンで行っているはずだ。クロエは帰りに髪を切ってしまおうと決心して、ミルククラウンのティーセットを購入することにした。


「メルシエさん、これでお願いします」

「予算越してるけど大丈夫なのかい?」

「実は少し多めに持ってきたんです」


 元々売る為に伸ばした髪だ。切ることは痛くも痒くもない。それに心を変えるのなら、まずは外見から変えてみるのも良いかもしれない。

 何ともない。何も辛いことなどない。

 覚悟を決めて気持ちが楽になったクロエは笑顔で梱包を頼んだ。すると、メルシエは笑みを消した。


「良いよ。おまけで4,000ミラにしてやる」

「え……あの、そんな……困ります。値引きして下さらなくてもお金は大丈夫なんです」

「残りは小遣いなんだろ? あたしだって気紛れで恵んでやる訳じゃないよ。あんたは年頃の娘だってのに男所帯で扱き使われて、自由に外出もできないし、好きなものも買えない。お洒落だってできないし、友達も作れない。青春が台無しだ。ちょっと酷すぎるよ。同じ女として、あたしはあいつ等にかちんときてるんだ」

「メルシエさん……」

「だから、ろくでなし共の為に自分を犠牲にしようとしちゃ駄目だよ。髪は女の命じゃないの」


 髪を売ろうとしていたことが見抜かれていた事実にクロエはどきりとする。


「……あ、あの……どうして……」

「そんな深刻な顔で自分の髪を見ていたら分かるよ。……というかね、あたしもずっと昔になくしちゃったからね。そういう気持ち、なんか分かっちゃったんだよ」


 そう語ったメルシエの美しい髪は顎のラインで短く切り揃えられていた。

 メルシエは励ますようにクロエの肩を叩くと、神妙な顔をして唸った。


「うーん……。あんたのこと、うちで引き取ってあげられれば良いのにな……」


 ヴィンセントが許さない、とメルシエは眉を顰める。


「あの鬼畜変態ナルシス男を破滅に導けたら良いんだけど、無駄にしぶとくていらっしゃるからね」

「私、恵まれていると思っていますから大丈夫です。皆さんと過ごせて幸せなんです」


 どんな形でもクロエは今、孤独ではない。沢山の人に囲まれている。その中で感じるささやかな平穏とぬくもりは確かな幸せだ。

 変わろうと焦った所為か目が曇り、贅沢になっていたようだ。

 謙虚に堅実に生きなければならないとクロエは最近の自分の振る舞いを反省した。

 淡く微笑むクロエに釣られたようにメルシエも笑み、何を思ったか電話を手に取った。


「――あ、レイフェル? あたしだけど、あんたが使いに寄越した娘、わりと安い食器買ったから郵送で送るよ。割れたらこっちが持つからそこんとこ宜しく。んじゃ、さよなら」


 一方的に言いたいことを言った様子でメルシエは矢継ぎ早に要件を伝え、通話を切った。電話を片手に渋面を作っているエルフェが想像できて、クロエは苦笑いしか出てこない。

 それから会計をする。釣りとして返ってきたコインは何故か三枚多かった。


「楽しい話をさせてもらったお礼。おばさんからの駄賃だよ。レイには内緒で頼むよ。こういうのうるさいから」

「す、済みません……」

「良いって。どうせ、あんたみたいな子はその金もあいつ等の為に使うんだろうからさ」


 クロエの表情変化からそれだけ多くのことを読み取れるのか、メルシエはお見通しといった風だった。


「有難う御座いました。さようなら」


 今度きた時はもっと沢山話をさせてもらおう。

 クロエはメルシエにぺこりと一礼すると、骨董店を出た。






 帰り道、ディヤマン通りでチョコレートの材料を買い揃えたクロエは人混みで珍しい人物と出会った。


「もしかしてクロエさん……?」

「あ、エリーゼちゃん」

「やっぱり! クロエさんっ!」


 駆け寄ってきた少女を受け止めると羽根のように軽く、ふわりと百合の香が鼻腔を擽った。

 手入れの行き届いたふわふわの朽ち薔薇色の髪を豪奢なレースのリボンで結い、ドレスもビスクドールのように可憐な紫陽花の姫君プリンセス・ド・オルタンシア。――ヴァレンタイン侯爵令嬢エリーゼは、クロエに抱き付いた。

 子供が好きなクロエはついつい頬を緩ませてしまう。


「エリーゼちゃんはお買い物?」

「お父様のお仕事のお手伝いをしにきたの」


 この通りには【ヴァレンタイン社】の系列店が何軒かあり、クロエがチョコレートを買ったのもそこだ。

 自社製品の紋章を見たエリーゼは「有難う御座います」と営業スマイルを浮かべた。


(可愛いなあ)


 苺がちょこんと乗ったチョコレートケーキのようだ。

 絵本の中のお姫様のようだと、同性ながらエリーゼに一目惚れしてしまっているクロエだった。


「エリーゼちゃん、一人なの?」

「お母様と一緒よ。あっちのお店にはお父様とお兄様がいるの」

「そうなの……?」

「連れてくる?」

「ううん、お仕事の邪魔になるから良いよ」


 午前中、拒絶を受けたクロエはルイスに会いたくない。それにヴァレンタイン小侯爵――クロエの知らない本名を持つ彼がどんな顔をしているのか怖い。

 本名を教えてもらえなかったのは、距離を置かれていたから。

 最初から嫌われていたのだと知ったクロエは彼を名前呼びをすることを止め、言葉遣いも改めた。


「エリー? エリーシャ、何処にいるのです?」


 震えるような声が人混みの向こうから聞こえてくる。エリーゼははっとしたように首を擡げた。


「お母様が探しているから、わたし戻ります」

「そうだね。心配されているみたいだから早く行ってあげて」

「春になったらお茶会開くから、クロエさんもきてね!」

「うん、有難う」


 再会の約束を交わして別れた少女は、ライラック色ドレスを纏う淑女の元へ駆け寄った。

 エリーゼと同じ髪と瞳の色をした淑女――ヴァレンタイン侯爵夫人ヴィオレーヌ・ブランシュ。紫陽花の君と尊称される彼女は、社交場で性別を問わず憧れの存在となっている女性だ。


「エリーシャ、勝手に行動してはいけないと言っているでしょう。何かあったらどうするのです」

「ごめんなさい、お母様。久しぶりにお外に出たから嬉しかったの」

「もう少し落ち着いて貰わなければ困りますよ」


 厳しい語調だが、その端に甘さが見え隠れしている。親にしたら一人娘は可愛くて仕方がないのだろう。

 手を繋いでマロニエの並木道を歩いてゆく母娘。幸せな家族の様子。そんな母娘の後にぴたりと付き従う黒衣の女性がいた。恐らく身辺警護だろう。

 母娘の姿が人混みの中に消えてもクロエはぼんやりとしていた。


「家族……」


 貴族と平民という区切りがなくとも、クロエからするとエリーゼや同居人たちは別世界の住民だ。

 家族というものを持っている彼等とクロエは違う。

 けれど、ずっと孤独だったからこそ、どんな形でも人と共に在れることは嬉しい。

 やはり今の生活は幸せだ。自分は恵まれている。堅実に生きようと改めて心に決めて、クロエは雪の降る街を歩き出した。

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