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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
三章
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閑話 Croquer la Pomme 【2】


「今日は何をしよう」


 あまりに暇で、つい声に出てしまう。

 クロエは、何かすることがないかと探す。掃除、洗濯、雪掻き、菓子作り、買い物……と考えて、家事しかすることのない事実にげんなりする。

 最近、喫茶店はエルフェとレヴェリーで切り盛りしているので、クロエは暇を持て余していた。

 ここでの生活にも慣れ、気持ちにも余裕ができてきたからか、クロエは外に働きに出たり習い事をしてみたいとほんのり思いもするが、死人ができるはずもなかった。

 時計を見ると、昼食の準備をするのにはまだ早い。こうなれば菓子を作ろうか。

 レヴェリーが言っていた意外と役立つというシリーズの雑誌で菓子の研究してみよう。そう決めてクロエがリビングへ足を踏み入れると、そこで珍しい格好をしたヴィンセントと鉢合わせた。


「ローゼンハインさん、その格好どうされたんです? どなたかとお出掛けですか?」


 ダブルボタンのグレーのフロックコートに、同色のモーニングカットスラックス。合わせるのはコートより淡いシルバーグレーのウエストコート。グレーはぼやけた曖昧な雰囲気を持つ色だが、彼はゴールドブラウンの髪が鈍い輝きを持っているので、その礼服姿はとても似合っていた。


「デートで一々こんな格好しないよ」


 ヴィンセントは上層部へ行くから正装したのだと語る。


「あ……タイが曲がってますよ。ちょっと失礼します」


 アスコットタイは結び方にコツがあるのだ。気付けばクロエは手を伸ばしていた。


「なんだか慣れてるけど、男を着せ替えたりする趣味でもあるの?」

「お父さんが良く正装をしていたので、タイの着け方を知っているだけです」


 革命家気取りで、身形ばかり整えていた滑稽な父親。そんな男の世話をしていた癖で、相手がヴィンセントだということを忘れてつい構ってしまった。


「ふうん……? エルフェさんが血塗れで苦しみ喘いでいるのに君が服を無理矢理脱がせたって聞いて、そういう面白い趣味でも持っていると思ったんだけどなあ」

「変な言い方しないでくれますか」

「大丈夫。僕もエルフェさんも君のことなんて女と思っていないから」


 その程度の揶揄でへこむ心は最早ないクロエは黙殺した。


「やっぱりメイフィールドさん性格悪くなったよね」

「ローゼンハインさんの下で働いて性格が歪まない人間はいないと思います」

「あははは、面白いねそれ! 僕の教育の賜物かな」


 反面教師にしかならない男から【教育の賜物】という言葉が出ると、胡散臭くて仕方がない。

 そんな思いが顔に表れて仏頂面になるクロエの前で、ヴィンセントは愉快そうだった。

 しかし、反応のないクロエをからかうのも飽きたのか、ヴィンセントは別の人物に話を振った。


「小侯爵もひっぱたかれた仲間として思わない? メイフィールドさん図太くなってるよね」


 クロエが驚いて振り向くと、奥のソファで雑誌を捲っているルイスの姿があった。ルイスは洋間に溶け込むような黒装束をしているのでクロエはその存在に気が付かなかったのだ。


「やっぱり下等動物には身の程を教え込まなきゃ駄目だと思うんだよね。ねえ、お仕置きに付き合わない?」

「ローゼンハインさん!?」

「君も腕の調子を確かめる為に、銃の【試し撃ち】をした方が良いと思うんだよね」

「試し撃ちなら射撃場でします。……それよりも、人に着替えの世話してもらえるなんて良い身分ですね」


 【試し撃ち】という有らん限りの悪意が込められた言葉をさらりと流しながら、ルイスは切り返す。


「この前の仕返しのつもり? 羨ましい? 羨ましいとか言うの?」

「いいえ、良い年した男が一人で着替えもできないなんて恥ずかしくないのかと思ったんです」

「僕はね、君みたいにいつもお洒落している訳じゃないんだ。仕事で仕方なく礼服を着てるんだから、文句言われる筋合いないよ。大体、こんな娘に世話して貰って何が楽しいと思うの? 女というか子供じゃない。こんなお子様に手伝われるなんて屈辱的だよ。人生最大の屈辱だ」

「……あの、動かないで下さい。首が締まります」


 饒舌な性質なのは分かっているが一つのことに対してしつこい。序でに人のことを貶さないで欲しい。

 ヴィンセントは大人げない。大人としての自制心が足りていない。黙ってさえいれば完璧な美青年なのに、どうしてこうなってしまったのだろう。綺麗な花には棘があるという言葉では済ませられないほどに、ヴィンセントは棘まみれだった。


「終わりました」

「一応、有難う」


 明らかに嫌々感謝を言っているといった嫌味たらしい口調のヴィンセントは、ルイスの前に立つと彼の手から雑誌を奪い取り、床に投げ捨てた。挙げ句、足蹴にして傲然と笑う。

 支配階級の証である手袋を着けた礼服姿のヴィンセントの横暴さは、貴族そのものだ。


「僕の格好ってどう? 成り上がりの偽物貴族の君なんかよりよっぽど本物っぽいと思わない? やっぱりこういうのって生まれ持った品格とかがないと駄目だと思うんだよね。どれだけ着飾っても容姿には内面が表れるし、心根の貧しさは隠しきれないというかさ」


 対照的な美貌といえばヴィンセントとエルフェだ。彼等は太陽と月のような対照性があり、どちらも眩くて目を合わせるのも気後れするほど。整いすぎていて人間味が感じられない、そんな硬質な容姿だ。

 だが、伏せ目がちなルイスは夜露にうなだれた花のようで、二人のような目映さはない。頬から首筋へと流れる輪郭の線が美しく、紫の瞳にある憂いが艶を帯びて人を惹き付ける。それは人間的な美だ。ただルイス本人はまるで美醜に興味がないので、ヴィンセントの挑発にも何の意味があるのかという様子だった。


「馬子にも衣装ですね」

「マゴニモイショウ……?」


 耳慣れない言葉にクロエは首を傾げた。


「ろくでもない人でも着飾ればそれなりに立派に見えるということ」

「ああ、確かにそうですね。ローゼンハインさんは黙ってさえいれば貴族の方みたいで素敵です」

「先輩、極力黙っていた方が良いですよ。心根の卑しさが隠れて先方の信頼も得られると思います」


 クロエはつい流されてしまったが、ここにレヴェリーがいれば真っ青になっている。


「君さ、何言ってるわけ? 誰が馬子にも衣装……?」


 何処からともなく現れたのはカード状の極薄い刃。その鋭利な切っ先はクロエに向けられた。


「な、な、なん……なんで怒るんですか……? 私はただ素敵と言っただけですよ……!?」


 何故、礼服から凶器が出てくるのだろう。クロエは心の底から恐怖する。


「【黙ってさえいれば】とかちゃっかり暴言で装飾してたじゃない。何処でそんないけないボキャブラリーを増やしてきたか、お兄さんに教えてくれる?」

「ご、ご自分の心に訊かれてはいかがですか?」

「そうか、ファウストくんとルイスくんの所為か。従僕が生意気になった責任、どう取ってくれるわけ? 君、貴族様の癖にやたら口汚い時あるけど何で? やっぱり心が卑しいからかな?」

「済みません。【目には歯を】がうちの決まりなので」


 反撃が苛烈なのはヴァレンタイン家の特質なのかとクロエは納得するが、感心している場合でもない。

 本日の怒りの矛先はルイスよりも寧ろクロエに向いている。こうなれば謝るしかなかった。


「す、済みません……」

「謝って済むならこの世で殺人なんてものは起きないんじゃないかな」

「あの、本当に言葉の過ちなんです。別に本音を言ってしまった訳では……」

「本音? 【黙ってさえいれば】っていうのが君の本音なんだ?」

「大人なら失言の一つや二つ聞き流してくれたって良いじゃないですか! ローゼンハインさんはしつこいです!」

「なんで開き直るのさ」


 怖い。もう駄目だ。意識が持たない。

 このままでは精神的に殺される。クロエが恐怖したその時、現れた人物は実に冷たく吐き捨てた。


「ヴィンスは顔だけの存在だろう。本当のことを言われて一々騒ぐな。見苦しいぞ」


 ここでまず言いたいが、エルフェが一番酷い。

 ナイフを横から奪い取られたヴィンセントも流石に不快な顔をした。


「ちょっと待ってよ。誰が顔だけだって? 幾らエルフェさんでも失礼にも程があるよ」

「気付いていない時点でそうだろう。馬鹿馬鹿しい」

「馬鹿馬鹿しい?」

「ヴィンス、用意ができたのなら行け。胡散臭い格好をした男が家内に存在しては目障りだ」


 もう一度言うが、エルフェが一番酷い。

 悪意がない暴言とはかくも人の心を抉るものなのか。悪意も善意もない某闇医者とエルフェは似ている。

 見事に切って捨てられたヴィンセントは返す言葉もない様子で、ばつが悪そうに肩を竦めた。


「……はいはい、じゃあ行ってきます。四日で戻るからこっちは宜しく」


 エルフェだけは遣り辛いらしいヴィンセントは肩に外套を引っ掛けると廊下へ出た。

 嵐が去ったように静まるリビング。そこに響く震える息から、エルフェの機嫌が悪いことをクロエは知る。

 エルフェの視線の先にはヴィンセントに足蹴にされた雑誌があった。


「申し訳ありません」

「お前の所為ではないだろう」


 弁償しますか、と訊ねるルイスにエルフェはゆるゆると首を振った。

 その二人の姿は何処となく苦労人を思わせ、哀れになる。クロエは雑誌を拾うと泥を払い落とした。


「ところで、貴方も出掛けるんですか?」


 クロエの視線の先にいるルイスは濃紺の背広姿だ。彼は普段から着崩したりはしないが、私服としてこれは堅過ぎる。何処かに出掛けるのだろうかと訊ねると、ルイスはクロエと目も合わせずに席を立った。


「キミも問題児が二人も消えて清々するだろ」

「な……っ」


 あんまりな一言にクロエは絶句した。

 自分で問題児と理解している辺りが何とも言えない。それにわざわざ言うのは意地悪だ。

 冷たくあしらわれたクロエが戦慄(わなな)く前で颯爽と身を翻したルイスは、エルフェに挨拶をする。


「家の用事で恐縮なのですが、数日失礼します」

「時期が時期だからな。公務も大切だが無理はするな。周りに迷惑が掛かる」

「分かっています。抜糸が済むまでは大人しくします」


 ルイスがエルフェに従順な理由は、エルフェが某金髪の悪党と猫被り医師のように人の神経を逆撫でするような言動をしないことが大きいだろう。

 クロエが打ち震える横で、ルイスとエルフェは淡々と会話を交わしていた。


「余計な世話かもしれないが、黒のシャツに黒のタイは止めておけ。遊び心がない以前に喪服だ」

「……ご忠告感謝します。それでは失礼します」


 礼服以外では白いワイシャツを絶対に身に着けないルイスをエルフェは窘めたが、改める様子はなかった。

 ルイスは硬直したままのクロエの腕から雑誌を抜き取り、それを棚に戻すと廊下へ消えた。

 律儀で生真面目な様子にクロエは更にダメージを負う。

 レヴェリーがへこむ理由が分かった。本当に分かった。ゆっくりと息を吐いて気持ちを落ち着かせる。問題児たちに負けてなるものかと己を叱咤する。


「そういえば、時期って言いましたけど何かあるんですか?」

「二月十四日は製菓業界では一大イベントだろう」

「あ……、ショコラトルデーですね!」


 先週は色々あったのですっかり忘れていた。思い出したクロエはどきりとする。

 女性が想い人にチョコレートと共に愛を贈る日、もしくは男女共に日頃の感謝の気持ちを伝え合う日。四日後の二月十四日は、女性の一大イベントと言われるショコラトルデーだ。


(皆にあげた方が良いのかな)


 咄嗟に贈り物を考えて思い付くのはフラワーかチョコレート辺りだ。クロエはじっと考える。

 ヴィンセントは甘いものが苦手だから花、エルフェはチョコレート好きだが花でも良いような気がする。甘いもの好きのレヴェリーはチョコレート。ルイスはどちらにも興味がなさそうだ。


(どうしよう、決まらない)


 そもそも素直に受け取ってくれる者は何人いるだろうか。

 クロエは迷うが、やはり感謝の気持ちを伝えたいというのは変わらなかった。


「エルフェさん、お願いがあるんです」


 正午過ぎになって、店に客がいないことを確かめたクロエはカウンター内でカップを磨いているエルフェに頼み事をした。

 一瞥が返り、無言で続きを促される。


「あの、纏まったお金が必要で……来月と再来月の分の給料を前借りで頂けませんか……?」


 皆に贈り物をしようにも肝心の金がなかったのだ。

 花は高級品だ。花屋で働いていたクロエは、庶民にとって花が贅沢品だということを知っている。とてもじゃないが今持っている金でチョコレートと花の両方を揃えることは無理だった。


「従僕の身で生意気なことを言ってるのは承知しています。でも私欲の為に使おうという訳じゃないんです。いえ、確かに私欲といえば私欲なのかもしれませんが、邪な思いはないんです。私は皆さんに日頃の……じゃなくて、どうしても必要なものがあるんです! エルフェさん、何でもしますからお願いします……!」


 コーヒーの芳ばしい香りが漂う店内で神妙な顔の青年と少女が向き合っている。

 二人には身長差があるので、その姿は親子にも見える。レヴェリーにとってエルフェが兄のような父親のような存在であるように、クロエにとってのエルフェもまた保護者で父親のような存在だ。

 クロエは慕う気持ち半分、恐れる気持ち半分でエルフェを見ていた。


「あんたが何をしたいかは分からんが、言いたいことは分かった」


 エルフェは暫く何かを考えた後、レジから五枚の札を取ってクロエに渡した。


「え……いえ、こんなに要りません……!」


 これは一人暮らしをしていた時のひと月の生活費の半分だ。こんなに受け取れない。自分がいかに図々しいことを言っているのかを改めて理解したクロエは震える。


「これで普段使いの食器を揃えてこい。残った分は好きに使って良い」

「……は、はい……?」


 エルフェに何を言われたのか呑み込めず、クロエは瞬きを繰り返す。


「ただで恵んでやる訳ではないと言っている。これは仕事に対する報酬だ」


 つまりは気にせずに使え、ということだ。

 言われたことに漸く気付いたクロエは何度も大きく頷いた。


「わ、分かりました。エルフェさんのお眼鏡に適うよう精一杯選んできます!」

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