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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
三章
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閑話 Croquer la Pomme 【1】

Croquer la Pomme / 誘惑に負ける


「はい、作り直して」


 カスタードパウダー、シナモン、ミルクなどを入れて作ったフルーツスープを示してヴィンセントは言った。

 嫣然とした笑顔が向けられてクロエは胃が縮むのを感じる。

 食事の時の席位置でクロエはヴィンセントの正面に当たる。色々な意味で気が休まらない食事時だ。


「申し訳ありませんが、できません」

「どうして? 主の命令だよ。歯向かうの?」

「世界は貴方を中心に回っているんじゃありません。それに大人なら妥協とか寛容さを身に付けて下さい」

「へえ、家政婦の分際で随分と生意気な口を利くね。格上げしなきゃ良かったかなあ」


 アンジェリカの件でヴィンセントにこれ以上ないほどに失望したクロエは容赦ない……というよりは、エルフェに「食事は甘やかすな」と言われてしまったので引く訳にはいかないのだ。

 椅子を引くほどに怯えながらもクロエは懸命に主張した。


「これでもレモンジュースを入れたり、柑橘系の果物を使って甘みを抑えたりしているんです。クリームスープだからって見ただけで作り直せと言わないで、せめて一口だけでも飲んでから言って下さい」

「あのさ、僕がクリームスープ嫌いって分かってるなら、まず作らないのが普通なんじゃない?」

「だ、だ、だから全ての料理をローゼンハインさんに合わせて作っているんじゃないんです!」


 肉を使ったメインディッシュはヴィンセントとエルフェの為に、ジャムを挟んだパンはレヴェリーの為に、果物を使ったスープはルイスの為に。

 これは栄養のバランスと、皆の好みを反映して考えた献立なのだ。ヴィンセントの我が儘を通すことはできない。


「お前そんなんじゃ一生結婚できないんじゃね?」

「何で?」

「女って料理にケチ付けられるのって面白く思わねえと思うけど」

「じゃあ、僕だけじゃなく、エルフェさんも一生独身貴族だね。人の作ったものにうるさいし」

「俺のことはどうでも良いだろう。大人しく食べろ」


 生涯独身かもしれない残念な大人の枠組みに混ぜられたエルフェは眉を寄せた。

 エルフェに叱られたヴィンセントはわざとらしく「はーい」と間延びした返事をして、スプーンでスープを掬った。


「うん、ここにきた頃よりは少しはマシになったかな。最近は皿をひっくり返したくもならないし」

「ローゼンハインさん……」

「まあ、家畜の餌から囚人食に変わったくらいだけどね。皿をひっくり返したくないのは家が汚れるのが嫌なだけだし、僕も大人らしい妥協とか寛容さを持っているということだね」


 ヴィンセントはにっこりと笑った。並外れた美貌を存分に駆使した笑顔だったが、笑うタイミングが腹黒い。

 褒められたと思って胸がじわりと暖かくなった途端、しっかりと釘を刺された。

 そんなこんなで和やかさと無駄にぴりぴりした空気の漂ういつも通りの食事が進んでいった。

 一番初めに席を立ったのはクロエの隣に座るルイスだ。


「……ご馳走様でした」

「ちょ、ちょっと待って下さい。残しすぎです」


 苦手だという肉料理は勿論、パンにも手が付けられていない。スープも果実が多少拾われた程度だった。

 怪我で臥せっていた所為で一週間殆ど食べていないというのに、これでは身体を壊してしまう。クロエはルイスを呼び止めた。


「残して申し訳ないとは思うけど、食べられないんだ。勘弁して欲しい」

「それでは痩せてしまいます」

「これくらいで痩せない」

「私より軽いんじゃないですか?」

「残念ながら、キミより軽いつもりはない」

「そんなことで誤魔化されません」

「誤魔化してなんかない。大体、キミより軽かったら鳥の羽根だ」

「じゃあ、スープだけでも全部飲んで下さい」

「オレは食べられないと言った」


 食べたくても食べられないと言われると心苦しくなるのだが、クロエは心を鬼にする。


「だったら無理して下さい。無理して食べて下さい」

「……キミには病人を甚振る趣味でもあるのか?」

「こ、こんな時だけ病人の振りしたって駄目です!」

「お前たち、いい加減にしろ」


 互いに一歩も譲らない珍妙な言い争いにエルフェは呆れる。

 久々に全員で食卓を囲めたかと思えば、ゆっくりと落ち着いて食事をする雰囲気でもない。


「ルイス、メイフィールドの言う通りだ。せめてそれだけでも残すな」

「レイフェルさんはこの人の味方をするんですか……」

「傷が治らなくても良いのか?」


 体力を付けなくては怪我も治らないと言われてしまっては、ルイスも大人しく従うしかなかった。

 渋々ともう一度席に着き、律儀に「頂きます」と言ってから食事を再開する姿を見てクロエもほっとする。

 クロエの右隣に座るレヴェリーはルイスに話し掛けた。


「てか、オレで五十五だからお前もっと軽いだろ? どんくらい?」

「身長と同じで答える義理はない。序でに食事中に喋るのは下品だ。レヴィはマナーを学んだ方が良い」

「おま……っ、兄ちゃん莫迦にすんな!」


 会話は不要だと、ルイスはそれ以降レヴェリーを無視した。

 双子の間に文字通り板挟みになったクロエは、気まずく思うよりも衝撃に戦慄(わなな)いていた。


(レヴィくんってそんなに軽かったの……!?)


 自分の身長体重をレヴェリーと比べてクロエは冷や汗を掻く。

 クロエとレヴェリーの身長差は約十センチで、ルイスとは更に四、五センチ加算される。それでレヴェリーが五十五キロで、ルイスがそれよりも軽いとなると……。十数センチ違うのにこの近差は何なのだろう。双子が小食だということを忘れているクロエは真っ青になる。


「ご、ご馳走様でした……」

「あれ、小食だねメイフィールドさん。そんなんじゃ痩せちゃうし、ちんまりしてるの治らないよ?」

「先生みたいなこと言わないで下さい!」


 何がちんまりだ。身長のことか、それとも別のことか。

 訊くと恥を掻きそうだったのでクロエはその疑問を押し込めた。その代わりに金髪の男を睨む。

 クロエの視線の先でヴィンセントは人畜無害そうに笑んでいる。えぐみがないだけに、余計に酷い。


(それは確かに女らしくはないけど……)


 十年間眠っていた所為でやはり身体に不調はあるのだ。体力も体重も恐ろしいほど落ちていて、この半年でやっと戻ってきたところだ。

 そこまで考えてクロエは、はっとする。


(もう少しで半年になるんだ)


 九月に目が覚めて、今は二月の上旬だ。クロエが三人の男と過ごした期間はもう五ヶ月になる。

 レヴェリーとエルフェは接していて安心できるが、半年近く共に過ごしてもヴィンセントは理解できないし、二ヶ月弱の付き合いのルイスはもっと分からなかった。

 今までクロエは他人に踏み込まず、踏み込ませずだった。

 クロエは他人の心に触れるのが怖い。触れて拒絶されるのが怖い。それでも日常生活を共にしている者たちのことを何も知らないのは恐ろしいし、寂しく感じる。

 過去に引き摺られていては駄目だとクロエは思う。ファウストが言うように「どの道で生きるかよりも、今いる道でどう生きるか」が大切だ。

 そう考えたら食事制限をするのも愚かしく思えて、クロエはもう一つパンを食べることにした。






 働かざるもの食うべからずと言う家主がいるここでは洗い物は当番制だ。

 といっても、ヴィンセントとレヴェリーは決まりを守らないことが多いので、クロエはほぼ毎日洗い物をする。今日の当番はルイスなのでさぼられることはなかったが、腕の怪我をしている彼に洗剤や汚れ物を触らせる訳にもいかない。

 結局クロエはいつも通り皿を洗い、ルイスには皿拭きを任せた。


「腕の傷は平気なのか?」

「掠り傷ですから大丈夫です」


 本当に掠り傷だ。皮が剥がれただけで痛みもない。ただ変に切ってしまったから血が止まらないだけ。

 肘の内側にある傷なので、洗い物をする時にも不自由はない。一週間もすれば塞がるだろうから暫しの我慢だとクロエは耐えている。


「念の為もう一度、先生に診てもらった方が良い」

「そうやって心配して下さるならちゃんとご飯食べて下さいね。そうだ、何か好きなものとかないんですか?」

「何でも良い。オレは食事にあれこれ注文は付けないよ」


 クロエからすると、そのルイスの投げ遣りな答えはヴィンセントと同じくらいに酷い。暗に「口に合わない」と言われているようで、ない自信が更に喪失する。

 ヴィンセントとエルフェの好みは一般的なジャイルズ料理。味付けはなるべく濃く、スパイシーにした方が受けが良い。ヴィンセントは甘いものが苦手で、エルフェは鶏肉の脂身が苦手。レヴェリーの好みはファルネーゼ料理。チーズやクリーム系のものが好きで、野菜と苦いものが苦手。

 クロエは生活する中で彼等の好みを覚え、悪い箇所は改善できるよう努力はしている。


「キドニーパイで良いんですか?」

「キミが作りたいなら作れば良いんじゃないか」


 ダイニングテーブルで紅茶を飲んでいるレヴェリーはとばっちりを食いたくないと、無視を決め込んでいる。

 クロエはそんなレヴェリーに話し掛けた。


「ねえ、レヴィくん。紅茶のお代わり淹れようか?」

「え……あー、いやー……」

「確かクッキーティー、まだ飲んでなかったよね? 昼間作ったプリンもあるの」

「いや、もう腹一杯だし!」


 巻き込まないでくれと言わんばかりの様子でレヴェリーは全力で首を横に振る。ルイスのものより赤みが強い紫眼には明らかな狼狽があった。


「レヴィ、折角その人が言っているんだから貰えば良いじゃないか」

「腹一杯っつってるだろ! 何で代わりみたいにオレに飲み食いさせようとするんだよ!?」

「キミはもう少し嵩増しした方が良い。身体を壊す」

「お前にだけは言われたくねーよ!」


 身代わりにされかけているレヴェリーは必死に切り返すが、ルイスはしれっとした顔で流す。


「湯はどうやって沸かせば良い?」

「そこのケトル使って」

「分かった」

「じゃあ、私はプリンの用意をするね」

「……悪魔だ……」


 何が何でも食べさせたい姉と、何が何でも食べたくない弟のとばっちりを食らったレヴェリーは「有り得ねえ」と半ば放心しながらぼやいた。






「レヴィくん、美味しい?」


 夜だというのに菓子を勧められ、複雑な顔をして紅茶で飲み込むレヴェリーにクロエは訊ねる。

 そこには悪意はなく、ただプディングの出来を知りたいという純粋な思いしかない。


「そりゃ美味いけど……」

「紅茶は? 不味いなら淹れ直すよ」

「ルイが淹れた割には薄くなくて熱さも丁度良いけど……」


 珍しく懐いている弟の紅茶も美味しく飲みたいと思うレヴェリー。だがしかし、やはり腹が苦しい。

 食べさせたい欲と、食べられない代わりに身内に食べさせたい欲を一身に受けたレヴェリーは哀れだ。


「うわ……なんか森の老婆に肥えさせられる兄妹の恐怖が分かった気がする……」


 それは童話のヘンゼルとグレーテルというものか。レヴェリーが捻った感想を言うのでクロエは感心した。

 もう無理だとギブアップ寸前の兄を見て、ルイスは相変わらずの無表情で言った。


「菓子の家はキミの夢だったんだから良いじゃないか」

「いやいやいや! 肥えさせられて食われるのは夢じゃねーんだけど!?」

「その人は魔女じゃないから大丈夫だろ。人を肥えさせる趣味があるかどうかは知らないけど」

「クロエ、ルイのこともう一発殴って良いぞ。今のは暴言だ」

「あはは、今度に取っとくよ」


 他人を太らせる趣味などない。このプディングは双子の為に作ったのだ。

 プディングはキャロットを混ぜて作ったものだ。ミルクを多めにしてシナモンで臭みを取り、カラメルソースをたっぷりと垂らしているので、キャロット嫌いのレヴェリーも気付いていない。ルイスも何だかんだで手を付けていた。

 今度はパウンドケーキを作ってみよう。クロエがそう考えている間にルイスは残り食器を洗い、片付けてしまう。


「あの、まだプリンあるんだけど食べませんか? 片付けてもらえると助かるんですけど……」

もう(ジュ・ム・スイ・)充分(デジャ・ラルジュ)頂いたよ(マン・セルヴィ)


 いつかと同じ、拒絶の姿勢。シューリスの言葉が分からないクロエは黙るしかなくなる。

 彼の言葉が分からないことが悔しい。

 手当てをして、その度に少しだけ話をして。その程度で打ち解けられたとはクロエだって感じていない。そもそもその程度で人間が分かり合えるのなら、クロエは継母と拗れてはいない。


「じゃあ、美味しかったか美味しくなかったかそれだけ教えて下さい。今後の参考にします」


 せめて負けないように強い意思を込めてクロエは真っ直ぐとルイスの目を見る。

 面倒臭げというよりは理解できないものを見るような一瞥が返る。そして、彼は一言残して部屋を出ていった。

 お前の料理は不味いからもう食べたくない、とでも言われたのだろうか。クロエは諦めてレヴェリーに訊くことにした。


「あの人、何て言ったか分かる?」

「セテ・デリスィユー・メルスィだから……【とても美味しかった。有難う】かな」


 そんなこと、わざわざ分からない言葉で言わなくても良いではないか。どんな対抗手段だ。

 意地悪だとクロエは思った。ルイスはヴィンセントとはタイプが違う意地悪だ。


「オレの気持ち、分かるだろ? 万年あれだぜ?」


 打ち震えるクロエに、ルイスから日常的に冷たくされているレヴェリーは同意を求めた。クロエは何度も頷く。今まで傍観者だったのでその辛さが分からなかったがここ数日で理解した。

 双子ながらに弟がさっぱり理解できないとレヴェリーはぼやき、やがて小さな声で呟いた。


「つーか、あいつ、オレ等のこと巻き込みたくねーのな」

「レヴィくん?」

「クロエ、プリンありがとな! 美味かった!」


 レヴェリーはクロエの疑問に答えることはせず、満面の笑みでそう言うとダイニングを出ていってしまった。


(……やっぱり部外者だ)


 けれど、それは今までクロエが望んだことの結果。踏み込まず、踏み込ませず流してきた結果なのだ。

 愛想笑いを張り付けて、傷付かないことだけを考えていた昔と何も変わっていない。


(ちゃんと前向かないと)


 ヴィンセントが憤る理由も、ルイスが突き放してくる理由も自分にあるように感じて、クロエは後ろ向きな自分を変えなければと思うのだった。

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