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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
三章
35/208

猫かぶりの灰かぶり 【10】


「オレとルイに睡眠薬盛った? ふざけんなよ! あいつ薬でアレルギー出ることあるんだからな!?」


 非日常が過ぎ去った晴れやかな朝。リビングでは口論が繰り広げられていた。


「まだ出てないみたいだし良いじゃない。まだ何ともないんだからね、まだ」

「まだって三回言ったな!? 三回も言ったよな!?」


 レヴェリーは自分が強制的に外野に入れられたことも不満だったようだが、また寝込んでしまったルイスの代わりにヴィンセントに挑んでいた。


「ちょっと、お前たち近所迷惑だよ。声のトーンを下げなさい……というか喧嘩はやめなさい」


 今回ばかりはレヴェリーも本気のようで、クロエの仲裁も聞き入れようとしない。

 そうしておろおろするしかないクロエと、喚くレヴェリーと、焚き付けるヴィンセントを見かねたファウストは窘めるが止まる様子はない。


「お前、何かとあいつに当たるよな。あいつに当たればオレもおちょくれるし一石二鳥とか考えてんのか!?」

「あれ、レヴィくん珍しく冴えてるね。凄いや。これは午後から吹雪かなあ」

「珍しくは余計だッ!!」

「大体ね、私は争いが嫌いなんだ。そっちがその気ならこちらにも覚悟があるよ」

「うっせえ変態貴族」

「黙りなよ藪医者」


 ファウストの言葉を聞いていないようで実はしっかり聞いている二人は、冷たい声で吐き捨てる。


「今日という今日は我慢なんねえ! ヴィンス、庭に出ろ!!」

「へえ、久し振りに殴り合いでもする? ストレス溜まってるからぼこぼこにしちゃうけど良い?」


 エルフェが出掛けている今、この家に彼等を止められる常識人はいない。

 このままでは大雪の前に血の雨が降るだろう。


「ぜってー泣かす! ショコラトルデーにチョコ貰えねえ顔にする!」

「君の方が一個も貰えない顔になると思うけどなァ」

「今年はぜってーお前よりも貰う!!」


 言ってることは低俗だが、どちらも目が本気だ。

 クロエは、ばきばきと指の関節を鳴らす二人が大怪我をしないように祈るしかない。



「争うなつってんだろうが!!」


 喧嘩が始まると思われたその時、二人に拳骨を落とした人物がいる。

 不意打ちの強烈な一撃にレヴェリーは床に伸び、ヴィンセントも身を折る。


「争うなって言ったよな……? 怪我するのは勝手だが治療するのはこっちだから迷惑掛けんなっていつもいつも言ってるよな。大体、金払わねえし医者は慈善活動じゃねえんだぞ。おい、何勝手に寝てるんだ。人の話シカトとは手前どういう了見だ!?」

「しかとっていうかレヴィくん気絶してるんだけど……」

「せ、先生……」


 物凄く怖い。ヴィンセントよりも怖い。ファウストは明らかに堅気ではない。今にも懐からメスを抜いて、腹から内臓を取っていきそうな雰囲気がある。


「これだからレイヴンズクロフトは嫌なんだ……」


 口内を切ったようで、血が零れる口許を手で押さえたヴィンセントはよろよろとリビングを出ていった。

 レイヴンズクロフトは怒ると人格が変わる一族らしく、ヴィンセント曰わく、上にいけばいくほど何かが可笑しい十二人姉弟とのことだ。

 末のエルフェとその次に若いファウストは姉弟の中で一、二を争うまともな二人らしい。あれでまともなのかとクロエは胸が冷たくなる。


「争い嫌いなら何でこっちの世界にいるんだって思うよ」

「仕方ないじゃないか、家の決まりなんだから」

「決まりですか?」


 どうにか休戦状態まで持ち直した二人に、クロエは紅茶を出しながら訊ねる。


「長男は家を継いで次男は聖職者になる。あとは裏の世界で家を助けるっていうね。こんな決まりの所為で私は医師免許を取れないし、レイフェルだってパティシエの道を諦めた。人生滅茶苦茶だよ。ああ、もう本当に腹立つね」


 徹夜四日目になるファウストは覚醒剤(アンフェタミン)のカプセルを飲んでいたが、明らかに短気になっており、そろそろ疲労蓄積の限界が窺える。

 クロエは「数日間、有難う御座いました」と感謝を込めて、秘蔵のクッキーを茶請けに出す。


「ああ、【ヴァレンタイン社】のホワイトクッキーだね」

「お嫌いでしたか?」

「甘いものは心を安らかにしてくれるから好きだよ。でも、普段飽きるほど食べさせられているからね……」


 ファウストはそう言いながらもクッキーを一枚取った。

 甘味嫌い故に茶請けには手を付けられないヴィンセントは、ファウストに意地悪な目を向ける。


「レイヴンズクロフトの現当主って双子だよね。そうなると、ファウストくんが次男扱いで教会に入れられた訳か。去勢でもして二度と娑婆に出てこなければ良かったのに」


 ヴィンセントは穏やかではないことを語った。

 ファウストは咽せ、慌てて紅茶を飲む。口を挟めないクロエははらはらと見守るしかない。


「恐ろしい冗談は止めてくれ。女性と触れ合えない人生なんて生きている意味がないじゃないか」

「そうかなあ。僕は人斬ってる方が楽しいけどね」

「価値観の相違だね。私はお前と一生分かり合えそうにない」

「仕事も不真面目な挙げ句、下半身も不真面目な藪医者と分かり合えなくて清々するよ」

「人を汚らわしい生き物みたいに言わないでくれるかな。私は男として健全なの。人斬りのお前とは違うの!」

「はいはい、じゃあ診療所の患者と連れ込みレストランでも行ってくれば? 二度と帰ってこなくて良いから」


 【連れ込みレストラン】とは何だと訊き掛けたが、危険を感じたクロエはその疑問を封じ込める。


「あ……あの、お二人とも、昼間なんですからあまりそういう話は……」

「確かにそうだね。子供の教育にも悪いし夜に話すことしよう」

「夜でもやめて下さい、先生!?」

「あはははは、そういえばメイフィールドさんって女の子だったね。忘れてたよ」

「ローゼンハインさん……」


 ああ、やっぱり。薄々そんな気はしていた。

 どれだけ危ないことを言っていてもヴィンセントは何処か本気ではない。そんなに自分は女らしくないのかと悲しさを覚えずにはいられない。


(それは今更、女扱いされるよりは良いけど……)


 同居する彼等があまり男臭くないのでつい忘れてしまうが、クロエは狼に囲まれた子羊なのだ。

 男所帯で暮らしながらもクロエが不安を覚えないのは、女扱いをされないからだ。

 ヴィンセントはクロエを女以前に人間扱いをせず、エルフェは子供扱いをする。レヴェリーは姉扱いで、ルイスに至っては関心もなさそうだ。そして彼等は興味の話になるとヴィンセントは人斬り、エルフェは仕事、レヴェリーは菓子、ルイスは復讐だ。

 本当にどうしようもない。ここにはろくでもない男しかいない。

 だからこそ、ある意味安全な生活を送れているクロエは生暖かい気持ちになるしかない。






 午後の紅茶の時間、クロエは自室として使っている離れで手当てを受けていた。


「全く、無茶したね」

「ローゼンハインさんに常識が通じないのが良く分かりました……」


 血の止まらない傷を見てクロエもファウストも溜め息をつくしかない。

 傷は不思議と痛いとは感じない。ただ、腕を動かすと突っ張ったような感覚がある。

 クロエにそんな傷を刻んだアンジェリカは現在処分待ちで、【上】の施設で隔離されている。

 朝まで様子を看てきたファウスト曰わく「監獄飯も残さず食べているし、転んでもただは起きない」とのことだ。消沈しきっている彼女の姿を見ているクロエは、元気な様子を聞いて少しだけほっとする。

 クロエの中で外法アンジェリカは、灰被りのアッシェンなのだ。

 言いたいことははっきり言う癖に小心者で、すぐクロエの後ろに隠れしまう。あの時もアッシェンは怯えていた。拘束する腕も、脅迫する声も震え、銃弾に当たるから暴れるなとうっかり口走ってしまうような心根の優しい女の子。クロエを傷付けた時のアッシェンの表情は、泣きそうな子供のようだった。

 だからクロエはアッシェンを怖いとは思えないし、どんな形でも生きていて欲しいと願う。


「はい、終わり」

「有難う御座います」

「今後の手当ては基本はあの子のと同じで良いけど、貴女は血が出ているから包帯を使いなさい」

「分かりました」


 お大事に、と医者らしく言うファウストにクロエに改めて礼を言い、服の袖を下ろした。


「貴女は本当に無理をする子だね。問題児たちを殴ったとも聞くし吃驚したよ」

「あはは……、カルシウム足りていなかったのかもしれません」


 あれからヴィンセントからはちくちくと嫌味を言われている。クロエも破れかぶれだったので、そのことを話に出されると痛くて仕様がなかった。


「私は月側の人間には関わるなと言ったのに、あまり真剣に受け取られていなかったのかな」


(……あれ?)


 クロエは首を傾げる。

 人間を太陽と月に分ける話は最近聞いている。だが、その話はファウストからではない。


「あの、先生ってジルベール先生ですよね……?」


 ファウストのルイスに対する態度は上司というよりは年の離れた兄のようだった。よくよく考えてみれば、十二人姉弟の下から二番目が何人もいる訳がない。

 話していて思うところはあった。ただ、エルフェとヴィンセントが気付いていない様子なので、半信半疑だったのだ。


「もしかして、私のことを【ファウスト先生】ではなく【先生】と呼んでいたのは疑っていたから?」

「えと、ちょっとだけ……」


 クロエがじっと見つめているとファウストは複雑な面持ちで、深い、本当に深い溜め息をついた。


「はあ……。三味線弾いていたのは謝りますよ。私はこちらが本性ですからね」


 姿は同じなのに声がまるで違う。

 ファウストの声は爽やかな夏の陽射しのようだったが、ジルベールを本性だと語る彼の声は春の草花を優しく撫でる風のようだ。


「この家の面々は知りませんから、このことは内密にお願いします」

「ルイスくんは知ってるんですよね?」

「ええ、一ヶ月くらい前に見事にバレましたよ」


 二年間騙せたのにとファウストは残念そうだったが、性格が悪い。職場と自宅でロールプレイをされていたルイスも堪ったものではないだろう。


「それにしても、どういうことなんですか?」


 一体どういう仕組みなのかをクロエは訊ねる。すると、ファウストは機嫌の良い狐のように笑んだ。


「これは私の特技なんです」

「……う、わあ……」


 今度は女性の声だ。この高度な裏声は役者のようだ。


「格好はメイクってやつですよ。私は見た目が派手だから、多少の違和感はそのインパクトで誤魔化せます」


 エキセントリックさでイメージの押し切りをしていると語ったファウストは、クロエに正体がばれたことが何故かとても嬉しそうだった。その悪意も善意もない表情を見ながら、クロエは疲れた気持ちになる。


「……というか先生、色々凄いこと言いましたよね。あれもインパクトというものなんですか」

「凄いこと? 貴女に対して爆弾発言をした覚えはありませんが、例えばどのようなことですか?」

「タンパク質を取らないと、とか」

「ああ、あれですか。あれは貴女を怒らせてみようと思ったのですよ」


 欲望や下心がオープンな変態医師、もしくは好色貴族という姿は本性なのか偽りなのか。

 そのことを訊ねると、意外な答えが返ってきた。


「人は怒らせると本性が見えるものですから、私は良く人をおちょくります」

「は、はあ……」

「その結果、貴女が自己価値の低い人間で人生にさして展望を抱いていないということが分かりました」

「な、何ですかそれ!?」

「普通の女性ならあんなことを言われたら怒ります。怒らなくとも私から距離を置くでしょう。それなのに、貴女は見事に【なかったこと】として流しましたね。そういう過剰適応の反応は、自身の価値を低いところに置いている傾向がある人間に多いのです」


 今までの言動から精神分析をされていたのかと思うとぞっとする。

 無免許医の診断だとファウストは自嘲気味だったが、思うところがあったクロエは笑えなかった。


(そんなこと、分かってる)


 もっと人生に夢を持ち、自分を大切にした方が良いということは施設の教師から何度も言われていた。

 クロエは自分に自信もなければ、人生に希望も期待もない。こんな自分だからせめて平凡に生きたいと願ってきた。クロエが林檎の花に憧れるのはきっと自分が持ち得ず、絶対に届かない清らかさがあるからだ。

 目を伏せてしまうクロエにファウストは語り掛ける。


「人の人生にとやかく言うつもりはありませんが、最近は不幸な子供が多いので少し失礼しますよ」


 面倒だったら年寄りの戯言として聞き流せ、と前置きしてからファウストは言った。


「自分の価値が分からなくて不安なら恋愛でもしてみたらどうですか?」

「……はい……?」

「自分に自信がないからそこまで辿り着くにはとても辛いし、難しいとも思います。でも他人に何かを与えることで自分の存在価値を見い出し、精神的に落ち着く人もいるのですよ」


 そうなのだろうか、とクロエは考え込む。

 こんな自分が他人に何かを与えられるとは思わないし、却って迷惑を掛けてしまうように感じる。

 そうして深刻に考えるクロエの様子を見て、ファウストは気持ちを解すように冗談めかして言った。


「幸いここなら選り取り見取りですね。鬼畜から天然、莫迦に素直。普通っぽい男がいないのが微妙ですが、折角同棲してるんだし……ねえ?」

「先生、そういうのハラスメントですよ」

「はははっ、間取って私にしますか?」

「遠慮します」


 性的錯誤を感じるので遠慮するときっぱり断るとファウストはいっそう笑った。

 クロエにとってファウストが圏外であるように、ファウストにとってもクロエはただの子供であるようだった。


「兎に角、人間の価値なんて誰かに決められるものではないということですよ。そして、どの道で生きるかよりも、選んだ道でどう生きるかが大切です。世知辛い世の中ですが、貴女は若いのだからもっとじっくり生きても大丈夫なんですからね」

「先生にも、そういうことあるんですか? 不安に思ったりとか……迷ったりとか……」

「大人に野暮な質問ですねえ。そういうのを含めて色々あったからこそ、私は医者なのです」


 宵闇色の双眸に言い知れない深みを感じるのはそれだけ様々なことを見てきた証なのか。

 自分が子供であることを痛感すると共に、この男には適わないと思わせられたクロエだった。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



「あの、頭大丈夫ですか?」


 上層部へ戻るというファウストを買い物序でに送ってきたクロエは、帰宅するとまず初めに訊ねた。


「顔見るなり頭大丈夫ですかって何それ。君、喧嘩売ってるの?」

「違います。さっき先生に叩かれていたから何処か痛めていないかという意味です」


 心配するクロエに、ヴィンセントは一瞬だけ面食らったような顔を見せたが、すぐに常の人を小馬鹿にするような性質の悪い笑みを張り付けた。


「君は自分に不自由を強いるような相手を心配するの? 変な娘だね」

「というか、最近お疲れなのかな……と」


 ここ一週間のヴィンセントはらしくないように感じる。

 いつもはもっと余裕のある振る舞いをしているのに、今は余裕が感じられない。ルイスに一杯食わされたのもそうだ。ヴィンセントが疲れているように見えて、クロエは心配に思う。


「君なんかに心配して貰わなくても大丈夫だよ。それに、ファウストくんだって手加減してたしね」

「そうなんですか?」

「あの状況で本気で殴ったら舌を噛み切る心配もあるし、後が面倒だろう。切れていても芯は冷静な人だよ」

「先生のこと良く知っているんですね。もっと仲良くされたらどうです?」

「僕ね、殴られるのも嫌だけど、騙されるのって嫌いなんだ。特に猫被ってるのが嫌い」


 殴られるのはヴィンセントが人道に背いた行動をしているからで、ファウストのあれは正義の鉄槌だ。それに本性を隠しているのはヴィンセントもだ。しかし、クロエは命が惜しいのでそのことは突っ込まない。


「猫被りの灰被りなんて何処かの溝鼠みたいだ。忌々しいなあ」

「……はい?」

「ファウストくんの異名の一つが、灰被り猫(チェネレントラ)なんだよ」


 全体が灰のベールに包まれているような掴み所のない男に、【灰被り猫】という異名は合っているように感じた。


「ローゼンハインさんが常識的に振る舞われれば、先生も乱暴な真似はしないと思いますよ」

「常識なんかに囚われていたら生きていけないんだよ」


 その一言はやけに冷たい響きを持っていた。

 クロエはあの時、聞いている。ルイスはヴィンセントを外法と言った。【上】に忠義を誓った【下】の民であるようなことを言った。アンジェリカと同じ、外法と呼ばれる異形の存在――赤い眼をした者たちだと。

 クロエは【外法】とは何なのかと、先刻ファウストに疑問をぶつけた。


『言葉通りの意味だから、分からないなら辞書でも引いてみなさい』


 辞書を引くと、外法とは宗教用語で【異教徒】を指す言葉ということが分かった。

 余計に分からなくなったクロエは深入りしない方が良いと考え、疑問を心の奥に仕舞い込んだ。


「そういえばメイフィールドさんに頼みがあるんだけど、良い?」

「わ、私に頼みですか?」


 何をさせるつもりだ、この悪党は。

 ヴィンセントへの軽蔑も底辺に辿り着いたクロエは怯え、困惑する。するとヴィンセントはそんな幼気な少女の緊張を和らげるように、優しげな微笑みを浮かべながら言った。


「僕のこと、もう一回殴ってよ」


 あまりの発言にクロエは後ずさる。そして悪いと思いながらも近くにいたレヴェリーの後ろに隠れる。

 今の爆弾発言を聞いていたレヴェリーもぎょっとして固まっていた。

 もしやファウストに殴られた際に頭の大事な螺子が更に緩んでしまったのだろうか。今にも増して更生不可能な奇人になってしまったのだろうか。


「うっわ……オレ、ヴィンスって痛いことされるより痛くする方が好きかと思ってた」

「基本的にはそっちが好きだけど、メイフィールドさんになら甚振られるのも悪くないと思ってね」

「気持ち悪いこと言わないで下さい……!」


 冗談だとは分かる。これはクロエに撲たれたことを根に持つヴィンセントの嫌がらせだ。

 それにしても本当に楽しそうだ。実は喜んでいるのかと疑いたくなってしまう。撲って喜ばれていたのでは意味がない。逆効果だ。そうして真っ青になる少女と少年を見て嗜虐心も満たされたのか、ヴィンセントは喉を鳴らして笑った。


「冗談はさて置き、面白い君を従僕から家政婦に格上げしてあげようと思う」

「え……ええ……!?」

「これからはご主人様に少しくらいは意見を言っても良いよ?」


 どうせ意見したところで聞いてくれないのだろう。クロエはもうその辺りのことを理解している。

 けれど、彼なりに譲歩をしてくれているのだろうか。ファーストネームで呼ぶことを止めたクロエを、ヴィンセントは咎めはしなかった。


(信用はしないけど……)


 信用して突き落とされるのはもう御免だとクロエは警戒するが、やはりこの男を憎めない自分がいることに気付いた。

 どれだけ最低だと思っても嫌い切れない。それは、どれだけ疎まれても最後まで嫌いになれなかった父親に対する感情と似ていてクロエは困惑する。


「うーん、従僕だからこそ【ご主人様】だったんだから、家政婦なら【旦那様】かな」

「私に何をさせたいんですか、ローゼンハインさん……」


 嫌な予感がするクロエは更に後ずさる。レヴェリーという壁を挟んで更に距離を取る。


「呼んでみない?」

「絶っ対お断りです!」

「旦那さんみたいな響きで面白いと思うんだけどなあ」

「寒気がすることを言うのはやめて下さい。私はローゼンハインさんのことが嫌いなんです」


 そう言ってしまってからとんでもないことを口走った事実に震えたが、もうどうしようもない。


「じ、じゃあ、私は用がありますので失礼します……!」


 これから爆発炎上するのは目に見えているので、クロエは逃げるようにリビングを後にした。


「ヴィンス、嫌われて良かったな! おめでとさん!」


 残されたレヴェリーは暫くは笑いを堪えていたものの、とうとう我慢ならないと吹き出した。


「あれ……、嫌われて凄く嬉しいはずなのに凄くムカつく。家政婦の分際で生意気じゃない?」

「あんだけ苛めといて好かれようなんて無理じゃねーの」

「そう? 嫌よ嫌よも好きのうちとか言わない?」

「そういう歪んだの好きなのかよ……」

「だって普通なんてつまらないじゃない」


 異常は嫌だ、とレヴェリーは引いている。そんな反応を受けながらもヴィンセントは愉快そうだ。唇を笑みの形に歪め、喉を鳴らして笑っていた。






 リビングから退避したクロエが向かったのは二階の角部屋だ。

 朝の手当てはファウストがしていたので、クロエが彼と顔を合わせるのは半日振りになる。気まずさで緊張しながら扉を開けると、視線が合う。

 仕立ての良い上着の裾が翻る。

 起きていて平気なのかと心配する間もなく、腕を引かれてクロエは吃驚した。存外、力が強い。


「どうかしたの?」

「怪我、酷いって聞いたから……」

「それなら掠り傷だから大丈夫」

「傷が残ったらどうするんだ」


 ルイスは自分の痛みには鈍感な癖に、他人の痛みには敏感だ。昨晩のことを含め、ルイスはもっと自分を大切にした方が良いと感じるクロエは複雑だったが、気遣い自体は嬉しかったので笑みを返した。


「傷なんて残っても平気だよ」

「そういう自分はどうでも良いみたいな言い方は止めて欲しい」

「その台詞、丸々貴方に返すよ」


 クロエは臆さなかった。

 冷たく言えばクロエが従うとでも思っていたのか、ルイスは切り返されて不愉快そうだ。

 最早会話は不用と判断したルイスはクロエの袖のボタンを外してゆく。


「…………っ」


 素肌を撫でるひんやりとした指先の感触にクロエはぞくりとする。

 その冷たさを怖いとは思わない。ただ、あまりにも熱がなくて――凍て付いているようで悲しくなる。

 袖が肘まで捲られ、毛玉を解くように包帯が落ちてゆく。現れた腕を見たルイスは瞬きを止めた。


「……今更増えても……大丈夫だから……」


 クロエには継母に刻まれた傷がある。

 ヴィンセントが調べた通り、クロエと継母の仲は最悪だった。見かねた近所の住民から児童相談所に連絡がいって、クロエは一人暮らしをすることになった。

 これと同じものが肩や足にもある。火傷の痕はいつまでも消えなかった。

 煙草を押し当てられると、熱さよりもまず突き刺すような痛みを感じる。肉が焦げた匂いがして、炭化して、破れた皮膚が灰色になって、少し経つと焼けた部分が結晶化したように赤くなって、その瘡蓋(かさぶた)が取れると茶色の痕が残るのだ。


「……勝手に触れてごめん」


 傷痕に触れ、そして生傷を作る前に止めに入れなくて済まなかったとルイスは詫びた。

 包帯を巻き直しながら、クロエは首を横に振る。

 昨晩の出来事について謝り、礼を言わなければならないのはこちらだ。あの時、ルイスがヴィンセントを止めてくれなかったらアンジェリカは射殺され、クロエも流れ弾に当たっていたかもしれない。


「この薬すっごく染みるって分かったよ」

「それを毎日塗り込まれるオレの身にもなって欲しい」

「無理して動くから傷開いちゃうんだよ」


 ばつが悪そうなルイスをベッドに座らせ、クロエはいつものように手当てを始める。

 怪我をして帰ってきてからまだ四日だ。腕の傷は塞がっていないどころか、余計に裂けていた。

 銃の早撃ちは腕への負担が大きいのだとエルフェは語った。華奢ながらにルイスの肩がしっかりしているのはそれだけの訓練を積んだということなのだが、やはり傷だらけの腕は痛々しかった。


「痛くない?」

「キミに撲たれたところの方が痛い」


 ルイスは意地悪なことを言う。冷たさも優しさもない声で酷いことを言う。

 だけど何処か哀れみ、試すような色があるからクロエは憎めない。突き放されても却って引き寄せられてしまう。


「悪いことをしたら怒られて当然でしょう。そうじゃないと人の痛みが感じられなくなるもの」

「体罰を受けなくとも、人の痛みくらい分かる」

「――いいえ、分かっていません」


 ルイスは確かに他人の痛みに敏感なのだろう。だが、自分の言動によって負う他人の傷を知らない。

 クロエは一方的にだとしても彼を友人だと思っているのだ。そんな相手を蔑ろにされては悲しくなる。


「なら、何もしてないのに殴られるのはどうしてなんだ? 価値のない命だからか?」

「それは……」

「【悪い子供】だからか?」

「この世界にはどうしても分かり合えない人がいるんだって……仕方ないんだって、そう思うしかないです」


 クロエの答えを聞いてルイスは俯いた。そこにはこれまで見せたことのない何処か思い詰めた表情があった。


「考えても分からないんですから、そうやって諦めて、忘れて、切り替えないと……笑えなくなります」


 クロエは【そういう状況】に陥ったのは十五を越してからだ。自分で逃げることもできたし、大人に助けて貰えた。だから今もどうにか笑うことができる。

 では、ルイスはどうなのだろう。十年前、彼は救われたのだろうか。救ってくれた大人はいたのだろうか。

 そういう大人がいなかったから、こうして今も苦しんでいるのではないだろうか。


「キミは自分を理不尽に痛め付けた人間が怖いか?」

「怖くない訳がないです」

「だったらどうして手当てをする? オレは人を傷付け、殺している。怖いと思わないのか」


 ルイスはたまに驚くほど直球だ。クロエは【殺した】という言葉に怯える。


「オレは怖く思う。直接手を下していなくても、オレに関わった為に関係ない人が傷付いてしまうんじゃないかと怖い。いっそ死ぬなり、この腕が使い物にならなくなった方が良いと思うんだ」

「それでも私は知らない誰かより、目の前にいる人が傷付くのが嫌です」

「幻滅する答えだな」


 ヴィンセントに【嫌い】だと宣言されて、嫌われることにはもう諦めが付いたはずなのに、この人に言われるのは寂しい。辛いというより、悲しい。胸が痛い。

 その胸の隙間の空虚を薙ぐように、微かに開けられた窓から北風が入り込む。

 風に髪が撫でられ、彼の耳許で極淡い空色の宝石が揺れた。

 耳飾りをしているのだ……と、どうでも良い発見をしながら作業を続けるクロエ。気まずい沈黙が暫し続き、その後、ルイスは何かを諦めたように溜め息をついた。

 嘆息されるほどに嫌われたのかとクロエは挫けそうになる。だが、返ってきたのは嫌悪とは別の言葉だ。


「でも……、そういう半端というか矛盾しているところが奇特なキミらしさなのかな……」


 何処か面倒臭そうな、それでいて柔らかい声。彼らしい相反する感情が混ざり合った複雑な色だ。


「奇特さは貴方に適いません」

「オレは奇特じゃない」

「じゃあ、風変わりです」

「何も変わってないだろ」


 不機嫌と不本意を混ぜた声で吐き捨て、もう薬を塗り込むなとルイスは腕を引いた。それから挑戦的な眼差しが向けられるので、クロエはその勝負に乗ったとばかりに睨み返した。


「私は周りで人が傷付くのは嫌です。貴方やこの家の皆が怪我をして帰ってきたら辛いですし、手当てもします。でも、どんな理由があったとしても人を傷付けるのは認められません。やっぱり悪いことだと思います」


 クロエはルイスの不安定な心を刺激しないようにと、今まで極力反論しないように努めてきた。

 平穏を望むクロエはそれで良い。だが、妥協や停滞を許せないルイスはそれを望まない。殺人の罪を許さないと言うのは彼を苦しめることだ。

 いっそ許してやった方が救われるのかもしれない。

 けれど、彼自身が人を殺めた自分を憎んでいる。何よりも、その行為に慣れる自分自身を恐れている。

 だからクロエは許さない。ルイスが人を殺したことを許さない。絶対に許してやらない。


「許しませんから」

「……ごめん、有難う」


 許されたいのではなく、裁かれたい。痛ましいほどに潔白なルイスは謝罪の後、礼を言った。


(十年前、私は……)


 ルイスはかつて女を殺したという。どうしてそのようなことになってしまったのか、クロエは分からない。

 クロエの【死】から始まる不幸と、双子の家族を襲った悲劇。どちらも十年前の出来事。その二つに関連性はないはずなのに、クロエは何故か胸騒ぎを覚える。

 ヴィンセントが不穏な態度を見せるからクロエは不安になってしまう。いや、あのヴィンセントの言うことだ。きっとクロエを怯えさせるからかいのようなものだったのだろう。

 気持ちを切り換える為にふと望んだ空が綺麗で、クロエはルイスに話を振る。


「今日の空、綺麗ですね」

「そうかな。普通だと思うけど」

「そうですよ」


 ルイスは空など見て何が楽しいのだと言わんばかりの様子なので、クロエは苦笑いするしかなくなる。

 二月になって晴れたのは最初の日だけ。青空は六日振りだった。

 春はまだ遠い。

 暗く閉ざされた季節は今暫く続き、命の輝きに満ちた季節はまだまだ先だ。

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