猫かぶりの灰かぶり 【9】
※この話は流血表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。
ここで眠ってなるものか。
一度沈み、浮上した意識は再び沈もうとするが手放す訳にはいかない。
睡眠導入剤ではなく安定剤の類だったのか、クロエは一時間ほどで覚醒することができた。
状況把握に時間を要し、隣に寝ていたアッシェンの姿が消えていることに気付いたクロエは慌てて飛び起きたが、強弱はあれど薬を盛られた事実には変わりはなく、身体が思うように動かない。
(寝るな、私)
クロエは腕を抓った。加減をしていないのでその痛みには涙が出そうになる。
だが、目は覚めた。
クロエはナイトウェアの上にカーディガンを引っ掛けると階段を下り、中庭への扉を開ける。
「……アッシェン、ちゃん……」
しんしんと降る雪の中、変わり果てたアッシェンの姿を発見した。
地面を転がったのか、線を描いたように雪は赤く染まっている。
死んでしまっているのだろうか。クロエは信じられない気持ちで歩み寄る。
「近付かない方が良いよ」
真正面から突き刺さる声にクロエは歩みを止める。視線を向けると、変わらない微笑を浮かべたヴィンセントがいた。着衣に乱れはなく、返り血を浴びている様子もない。しかし、これはどう見ても彼の仕業だ。
「どうして……!? アッシェンちゃんを傷付けないって言ったじゃないですか!」
「傷付けないとは言ったけど、殺さないとは言ってないよ」
呆けるように言うヴィンセントをクロエは火を吹く勢いで睨み返す。
「最低です……!」
「あははは、褒め言葉だね」
宗教画の天使のような微笑みが悪意にまみれたものに変わる瞬間をクロエは見た。
ヴィンセントを信じた自分が莫迦だった。
最初から可笑しかった。ヴィンセントは嫌がらせでルイスに人殺しをさせようとするような輩だ。そんな悪党がクロエの話を聞くはずがなかったのだ。
あの時、弱ったような声を聞いてクロエは絆されてしまった。ヴィンセントにも人間らしい心があるのではないかと期待してしまった。そんなものはあるはずないと嫌というほど身に染みて理解していたというのに、信じてしまった。これを莫迦と言わずに何と言うのか。
「でも庇う必要ないと思うよ? 見てみなよ。爪も化け物みたいに長くて、おまけにあんな傷を負ってもまだ死んでない。君が知ってるアッシェンプッテルなんて何処にもいないんだよ」
「死んで、ない……?」
クロエは視線を下げた。
雪の上に倒れた身体は小刻みに震えている。アッシェンは笑っていた。二つの瞳を赤く爛々と輝かせ、口の端を吊り上げて笑っていた。
少女が浮かべるには邪悪すぎる笑みに、クロエの背筋に冷たいものが奔る。
「アッシェン……ちゃん……?」
「あんな喋り方する奴が現実にいる訳ないでしょう。もしいたら、わたくしが殴り飛ばしてやりますわ」
のろのろと起き上がったアッシェンは小馬鹿にするように吐き捨てると、血で汚れた口許を袖で拭った。
その袖から伸びる指先の爪の鋭さにクロエは戦慄する。下手な刃物よりも鋭く、人を害することも可能な長さだった。
「ローゼンハイン家の出来損ない」
言いながら凶器の手を伸ばす。次の瞬間、強く手を引かれたクロエはアッシェンの腕の中にいた。
「こ、この人に危害を加えられたくないならわたくしに従ってもらいます!」
「な…………」
何処かで似た体験をしたクロエはショックで意識が遠退きそうになる。
呆れた様子のヴィンセントは大仰に溜め息をついた。
「はあ、メイフィールドさんって人質向きなのかな……。そういうことはこちらが飛び道具持っていないことを確認してから言う台詞だね」
「だ……だから下手に動こうものならこの人を傷付けると言っていますわ」
「僕はその娘がどうなろうと知ったことじゃない。切り刻みたいならご自由にどうぞ。僕は君をゆっくり甚振り殺すだけだから」
「外道……!」
「それ褒め言葉だって」
何故、味方のはずのヴィンセントの方が恐ろしく感じるのかクロエは分からない。敵に外道と言われて喜んでいるヴィンセントがさっぱり分からない。
人知を超えた悪党の存在に敵も人質も戦慄する前で、ヴィンセントは言う。
「抵抗する気がなくなったならその娘を解放してくれるかな。大人しく従ってくれるなら、外さないようにゼロ距離で射殺してあげよう」
誰がそんな取り引きに従うのだと、クロエは唖然とする。
ヴィンセントの頭の中には敵を殺すことしかない。捕獲という平和的解決が存在していない。
「誰が従うものですか!」
「そう、じゃあ射殺するよ。多分一撃で殺せないと思うから覚悟して」
ヴィンセントは銃の撃鉄を上げ、引き金に手を掛ける。
このままではアッシェンが撃たれてしまう――!
「アッシェンちゃん、離して!」
クロエが逃れることができたらヴィンセントはすぐに撃つことはない。ならば、逃れた上でヴィンセントがアッシェンを傷付けないように懇願――場合によっては平手打ち――するまでだ。クロエはごめんねと内心詫びながらアッシェンの足の甲に攻撃を加える。しかし、アッシェンは攻撃に耐えた。
「そ、そちらこそ暴れないで下さい! 貴方に当たってしまいますわ!」
「お願い、離して!」
腕を振り払う、その刹那。
ざくり、と鋭いものが皮膚を破り、肉に潜り込んだ感触がクロエを襲った。
「……い、た…………っ」
白い雪の上に、ぱたりと鮮血が散った。
見るとナイトウェアの袖が大きく裂け、そこから覗く肌に裂傷が走っていた。
傷を見たアッシェンは壊れそうな表情をする。だがそれは一瞬のことで、けたたましい笑い声を上げた。
「あは……あはははは! 傷……傷を負いましたわね! 様ァ見ろですわ!!」
まるで死刑宣告でもするように血塗れた指先を突き付けてアッシェンは笑う。
その悲しい笑い声に、冷たい声が重なるのをクロエは聞く。
「いい加減、耳障りだよ」
「や、やめて下さい――!」
夜闇の静寂を切り裂き、悲鳴を掻き消す銃声。連続して三発の銃声が轟いた。
「……ローゼンハインさん……」
あんまりだ。酷い。
クロエは悲嘆の眼差しを送るが、その先では驚愕に目を見開くヴィンセントがいる。
彼の手にあったはずの拳銃は大破し、その残骸が雪の上に落ちていた。銃声はヴィンセントの銃から発せられたものではない。
「何のつもり……?」
ヴィンセントは押し殺した低い声で問う。そこには下手な反論をすれば殺すという殺意が込められていた。
「無闇な殺生はやめて貰えますか」
高過ぎもせず低過ぎもせず、秋風のような声は良く響く。特別張り上げている訳でもないのに、離れたクロエからもその声は聞き取れた。
何処から聞こえてくるのだろう。視線を巡らすと、二階の窓から拳銃を構えるルイスの姿を見付けた。
「どうして止めるのかな。君は銃を受け取ったじゃない」
「敵を殺すとは一言も言っていません」
「屁理屈……というか詐欺だ」
攻撃を受けた角度で何処から狙われたかが分かるヴィンセントはそちらを見ず、忌々しげに吐き捨てる。
「そうですね。でも、オレは何も言っていないのだから嘘は吐いてませんよ」
そう、ルイスはあの時、承諾の返事をした訳ではない。ヴィンセントが一方的に押し付けただけなのだ。
ヴィンセントが己とエルフェ以外の人間を信用するのも珍しい。ヴィンセント自身にもそんな思いがあったのか、半ば己を呪うように裏切ったルイスに怒りを露わにした。
「ルイスくん、邪魔するなら撃つよ……?」
「貴方の腕でこちらが狙えますか? その者を殺すと言うなら、それよりも先にオレが貴方を撃ちます」
本人も言うようにヴィンセントは射撃の腕があまり良くない。序でに目も悪い。ヴィンセントはこの暗闇で、かつ距離のある二階を正確に狙うことはできない。
脅しを掛けたルイスは傲っている訳でも侮っている訳でもなく、ただ事実を言ったまでだ。
「この銃は改造銃で威力がないようなので殺して差し上げることはできませんが、それで良いなら撃ってみて下さい。――オレはあんたで【試し撃ち】をすることにする」
序でに、ここから外すほど耄碌もしていない。
ヴィンセントに並々ならぬ嫌悪を持つルイスが、臥せっているとはいえ黙ってやられているのも可笑しな話だったのだがこれは恐ろしい。
「僕、君ってもっと利口かと思っていたんだけどな……」
「利口になる相手とそうじゃない相手を差別しているだけだ」
「は……? 弁えろよ、人間」
「だったら自重しろ、外法」
ルイスは区別ではなく、差別と言った。鬱憤が溜まっていたのだな、とクロエは怪我による痛みと混乱で現実逃避気味に考える。
もう二人を仲裁する気力もない。足から力が抜けてクロエがその場に崩れると、アッシェンも精も魂も尽きた様子で倒れた。
「応急処置だけで済まないね。朝には戻るからそれまで我慢してくれるかな」
「いえ……私は大丈夫です」
騒ぎを聞き付けて周辺の住民が動かないかを見張っていたらしいファウストとエルフェは、ヴィンセントから渋々【捕獲】したとの連絡を受け、戻ってきた。
「お前が敵を殺さなかったのは褒めてやっても良いけど、無関係の女の子を巻き込むのは許せないな」
「無関係も何も、自分から飛び込んできたんだから自業自得じゃない」
「あとで殴るから覚悟して待ってろ」
医者とは思えないどすの利いた声で告げ、ファウストはアッシェンに目を向けた。
「さて、カールトン家のアンジェリカ・グラッツィア。詳しい話は【上】で聞こうか」
「……首、返して……」
「心配しなくて大丈夫。君もすぐお兄さんとお友達と同じ場所に逝けるよ」
「ヴィンセント、殴られるだけで満足できないなら借金は臓器で返済して貰うよ」
「はいはい、分かりました。大人しくすれば良いんだろう」
虚ろに呟くアッシェン――アンジェリカにヴィンセントは意地悪を言ったが、ファウストに再び釘を刺され、今度こそ大人しくなった。
凶器の手を縄と布で固定されたアンジェリカに抗う術はなかった。自暴自棄に諦めたように立ち上がる。そんな彼女を呼び止めたのはルイスだった。
「先生、その人と少し話をしても良いですか」
無理をした所為で明らかに体調が悪化したという蒼白な顔をしたルイスをファウストは気遣わしげに見たが、許可した。
「……あ、貴方……誰なんですか。関係ない人と話すようなことありませんわ……」
二人が顔を合わせるのは初めてになる。アンジェリカはルイスを訝るように見上げる。
「誤解があるようだから言うけど、キミの仲間を殺したのはその陰険男じゃなく、オレだ」
「な――――ッ」
アンジェリカは絶句した。彼女の頬は見るみるうちに白くなってゆく。
「キミの敵はオレだ。だから……恨んで良いよ」
ルイスの言葉にはその場にいる全員が怖い顔をした。
正気とは思えない発言だった。
「ひ、ひと……ごろし……人殺し…………!!」
「お嬢さん、暴れないでくれるかな。立場が悪くなるよ」
今にも飛び掛からんとするアンジェリカをファウストは拘束し、そのままルイスから引き離す。アンジェリカは尚も憎悪の叫びを上げていたが、やがてそれは慟哭へ変わった。
悲しい泣き声にクロエは胸が潰れそうになる。
「では、連れて行くから。レイフェル、こちらのことは宜しく頼むよ」
ファウストは数瞬ルイスの方を見やる。その眼差しには批難はなく、哀れみだけがあった。
静寂が戻った室内に風の音だけが響く。
それを破ったのは今し方、兄を見送ったエルフェの深い嘆息だった。
「ルイス、何故あのようなことを言った?」
エルフェは理解し難いというように眉を顰めた。ルイスは机に手を着き、睫を伏せたまま答える。
「復讐心は生きる支えになりますから……」
「だとしても残酷じゃないかな。【下】を出た彼女がこれからどんな処分を受けるか分かっているんだろう?」
「貴方のように【上】に忠義を誓えば、命は助けてもらえるんですよね……」
復讐相手を知れば、彼女は簡単に死を選ばないだろう。ルイスはアンジェリカに命を粗末に扱わせない為に、自身が敵であることを告げたようだった。
「生かす為に自ら復讐相手になる、か。凄い自己犠牲心だね。でも、そこまでして生きる意味ってあるのかなあ」
「人は生きていた方が良いはずです。死んだら復讐も償いもできません」
それは復讐と償いという目的があるからこそ、ルイスは生きているとも聞こえる言葉だ。
「オレは自分の復讐を果たした後はどうなろうと構いません。罵られようと、八つ裂きにされようと、敵だと誰かに刃を向けられようと、それが人の命を奪った者が持つべき覚悟と責任だと思っています」
「なら、今討たれても構わないというの?」
苛立ちが収まっていないヴィンセントは腕を組み、挑戦的な目を向ける。
「いいえ。真実を知るまで誰にも討たれるつもりはありません。オレは今も尚、アデルバート様とエレン様を冒涜するあんたを許さない」
決然とした言葉は静謐な響きを持っていたが、そこには生々しいばかりの感情が込められていた。
清らかなのに禍々しい。愚直なまでの潔さ。そのアンバランスさにクロエはぞくりとする。
ルイスは慇懃な様子で一礼すると、肩に掛けていた上着の裾を翻した。
「大人でも昏倒するくらい盛ったんだけどな」
これだけの騒ぎがあったにも関わらずレヴェリーは寝入っている。睡眠薬は確かに効いているはずだ。
ヴィンセントは胡散臭いものを見るような目で扉を睨む。それからゆうるりと眼差しを下げ、ルイスが今まで手を着いていた机を見た。そこには血が付着していた。
「意識が切れないように手を握り締めていたみたいだね」
それは、皮膚が破れ血が出るほどに。
「大した精神力だな」
エルフェは呆れ、ヴィンセントは苦笑いを浮かべた。
「本気で恨まれてるみたいだし苛め過ぎちゃったかなあ。いや、彼が執念深いのかな」
もう十年前のことなのに。そう言って肩を竦めるヴィンセントの表情は微かに引き攣っている。
「時が癒してくれる悲しみなどないと知っているだろう。あんたはそれだけのことをしたんだ。寝首を掻かれても文句は言うな」
「寝首を掻かれたら文句の言いようもないけどね」
大人二人は共有する過去から自嘲したが、クロエは二人のような反応はできない。
ルイスが自分が敵だと告げることが必要だったのかと思ってしまう。そして、ヴィンセントが何を隠しているのか恐ろしく思う。
「ローゼンハインさん、何を隠しているんですか……?」
未だに痛む傷を押さえ、クロエは訊ねる。するとピーコックアイの一瞥が返った。
その目を見て、答えを聞けないことをクロエは悟る。やはりヴィンセントはヴィンセントだ。クロエの言葉など聞く様子もない。そしてヴィンセントは悪魔のように笑みながら言ったのだ。
誰にも邪魔はさせない、と。