猫かぶりの灰かぶり 【8】
※この話は暴力表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。
「酷い顔をしているな」
気遣いの含まれた、けれど硬い声。
自分のことについて何かを喋ると卑屈になってしまいそうだったので、クロエは相手のことを訊ねた。
「エルフェさん、もう具合は良いんですか?」
「ああ、もう動けるはずだ」
「先生がいないからって動いちゃ駄目ですよ。先生は明日まで動くなと言っていたんですから」
「あの人が心配性なだけだ」
「お兄さんが弟を心配するのは当たり前ですよ」
「どうだかな」
エルフェは肩を竦めた。その拍子に青み掛かった銀髪が肩を滑る。エルフェの髪の色は朝日の下の雪のようで、ファウストのそれより少しだけ明るい色彩なのだとクロエは気付いた。
「そういえば、ジルベール先生……ヴァレンタインのお医者さんですけど、あの人も大家族みたいですよ」
「あの胡散臭い男か」
「胡散臭い?」
クロエは床のモップ掛けの手を止め、訊ね返す。
「厄介者の匂いがする。オーギュスト様が何故あのような輩を傍に置いているのか分からん」
オーギュストとは、ヴァレンタイン侯爵のことだ。
製菓会社の社長という顔を持つ侯爵の姿は、クロエも雑誌で見たことがある。金髪碧眼の貴公子然とした甘い顔立ちの男なので、メディアが取り上げたくなるのも分かる。
「……ヴァレンタイン一族の腹の底が見えないのは今に始まったことではないがな」
遣り難い、と呟いたエルフェは声は冷たかった。
クロエは周囲の話を聞いていて感じるのだが、レイヴンズクロフト家とヴァレンタイン家は仲が悪いようだ。
「メイフィールド、休んだらどうだ」
「はい……?」
「顔色が悪い」
「そ、そんなことないですよ」
酷い顔色をしているのだろうか、とクロエは内心首を捻る。
ヴィンセントには何も言われなかったので――みっともない顔をしていたら殺すと脅されている――クロエは自分が普段通りだと思っていた。
「何があった? 話くらいなら聞いてやる」
中立として傍観者と在るエルフェが口を挟むのは余程のことだ。クロエは申し訳ない気持ちになった。
「ヴィンスかルイス辺りか?」
「ローゼンハインさんに近付くと火傷をします」
「ああ」
「ルイスくんに近付くと凍傷を負いそうです」
「そうか」
クロエの抽象的な例えを聞いて、エルフェは苦虫を噛み潰したように眉を寄せた。
この五日間で双方に心を抉られてクロエは憔悴しきっていた。
クロエがこの家の住民で話していて心穏やかにいられるのは、エルフェとレヴェリーだけだ。ヴィンセントとルイスへは近付けば近付くほど辛くなる気がする。
ヴィンセントへ近付けば業火で焼かれ、ルイスへ近付けば凍り付かされる。これは冗談などではなく、本当にクロエが感じたことだ。
「お世話になっているのに、こんなこと言って済みません」
「いや、ヴィンスは俺から見ても遣り過ぎだ。あとできつく言い聞かせよう」
「……いえ、良いです。自分のことは自分で何とかしますから」
あんな扱いを受けてもクロエはまだヴィンセントを嫌い切れていないし、ルイスのことも放っておけない。
まだ泣いていないから自分は平気だとクロエは唇を噛み締めた。
そしてその日の午後、また事件が起きる。
昼休憩を挟んでクロエが洗い物を片付けていると、レヴェリーが血相を変えて飛んできた。
「クロエ! ファウスト先生は!?」
「まだ帰ってきてないよ。どうしたの?」
「怪我人なんだ!」
傷だらけの少女が店に駆け込んできてそのまま昏倒したらしい。
クロエが駆け付けると、ヴィンセントがその少女を見捨てようとしているところだった。
「ここ、駆け込み所じゃないんだけどなあ」
「何言ってるんですか。手当てしなきゃ駄目です!」
今にも捨てに行きそうな様子にクロエは胸を冷やしながらも、どうにかヴィンセントを説得して少女の手当てをした。
それから時計の針が二周した頃、目覚めた少女は唇を開いた。
「ここは何処? わたくしはだあれ?」
まるで何かの芝居のような驚愕の台詞を小首を傾げながら言ったのだ。
「僕は博愛主義者じゃない」
「そんなこと言わないで、ここに置いてあげて下さい。この子、困っているじゃないですか!」
リビングのソファに座った少女は言い争う両者をじっと窺い、クロエの胸に縋り付いた。
少女の髪を撫でてやりながらクロエはヴィンセントに批難の視線を向ける。
正直言えば、昨日の今日でヴィンセントと向き合うのは怖い。だがクロエがここで引けば、少女は放り出されることになるだろう。
常から路頭に迷う危険を抱いているクロエは少女の不安が分かる。それに記憶喪失の恐怖も知っている。クロエが記憶をなくして怖い思いをしたのはまだ過去のことではない。
「ずっとと言ってるんじゃありません。この子が落ち着くまで置いてあげて下さい」
せめて傷が癒えて落ち着くまでは。
すると、クロエの腕の中で少女はふるふると首を振った。
「い……いいのです。わたくしもこんな陰険なろくでなし野郎に助けられたくないのです……!」
「へえ、君って記憶ない割には喧嘩売る元気はあるんだ?」
「ヴィンセント様!」
「良いね、面白い。面白い人間は好みだ」
ヴィンセントから出たのは好意的な言葉だ。彼の【面白い】は最上級の褒め言葉と取っても良い。
「この子、置いてあげて良いんですか?」
「期限は二日間。その間の生活費は全部君から出して貰うよ、メイフィールドさん」
「分かりました」
きょとんとした様子の少女に「大丈夫だからね」と微笑み掛けて、クロエはヴィンセントに応えた。
「さて、二日間の付き合いとはいえ名前がないと呼び辛いね。どうしようか」
新しい玩具を見付けた子供のような楽しそうな目が少女に向けられる。
「ピンク頭だし、ペシェで良いんじゃね?」
「レヴィくん、犬猫じゃないんだよ。君ってネーミングセンス最悪だね」
仮の名前といっても難しい。クロエは改めて少女を見た。
髪の色はコーラルピンクで、瞳はブラウン。ピンクブロンドの髪はドレヴェス人に多いがそれにしては肌が白く、体格も小柄だ。粗末な身形をし、独特のイントネーションで話す少女から読み取れることはとても少なかった。
「灰被りみたいに見窄らしい子供。灰被り娘……サンドリヨン、ゾールシカ、アセプースター、ホェイグーニアン、アッシェンプッテル……」
「アッシェンちゃんなんて可愛いんじゃないでしょうか?」
様々な言語で【灰被り娘】という言葉を挙げたヴィンセントに、クロエは提案する。
「何でそう面白みのない名前を選ぶかな」
「あの、名前なんですから普通のものを選びましょうよ……!」
「オレもアッシェンプッテルで良いと思うぜ」
「ほら、レヴィくんもこう言っていますし」
「じゃあ、アッシェンプッテル。何か文句があっても聞かないから、精々二日間縮こまって生活しなよ」
そう言い残し、店の掃除をすべくリビングを出ていくヴィンセントを見送った後、レヴェリーは腕を擦る。
「なんかヴィンスきついなー」
「いつも通りじゃない?」
「いや、あいつ初対面の相手には猫被るから。店でも胡散臭いじゃん」
「そ、そうなんだ……」
以前【優しいお兄さん】の演技に騙されたクロエは内心冷や汗を掻く。
「ぴりぴりしてんのは今日に始まったことじゃねーか。んじゃ、オレもあっちの片付けしてくるわ」
クロエよりもずっとヴィンセントとの付き合いが長いレヴェリーは暫く唸っていたが、彼の後を追った。
静かになったリビングでクロエは改めてアッシェンに向き直る。
転んでしまったのか膝は擦り剥け、腕や頬にも小さな切り傷がある。きっと怖い思いをしたに違いない。
「ここにいて良いのです?」
「うん、落ち着くまでここにいて良いよ、アッシェンちゃん」
少女の頼りない手を握ったクロエは驚く。子供の体温は高いはずなのに彼女の掌は冷たかった。
アッシェンの指先の爪は尖り、血がこびり付いている。そして、震えている。
血に恐怖するよりも、寒さと恐怖に震えている姿が痛ましく思えてクロエはその掌を包み込んだ。
「……お姉さん……?」
「あたたかい飲み物、持ってくるからちょっと待っててね」
身体が冷えていたのか、空腹を覚えていたのか、アッシェンはやっとそこで微笑んだ。きらきらと輝く目を見返しながらクロエも微笑んだ。
クロエが子供好きということが分かるのか、アッシェンはすぐにクロエに懐き、親鳥を追う雛のように付いて回った。
「お代わりなのです!」
夕食の席で、アッシェンは豆入りのミネストローネスープを三杯もお代わりした。
見事な食いっぷりは見ていて気持ちが良いほどだ。料理を美味しく食べてもらえるのはクロエも嬉しく、皿にたっぷり具をよそった。
「どうもなのですぅ」
「沢山食べてね」
男所帯で女が微笑み合う姿は貴重だ。空気も自然と明るくなる。
幾らか和んだ様子で食事を取るレヴェリーの横で、しかしヴィンセントは不機嫌な様子だった。
「何でこんなにイラっとくるかなあ……」
「ヴ、ヴィンセント様、落ち着いて下さい」
「この世にメイフィールドさん以上に腹立つ女の子なんていないと思っていたんだけどね」
舌足らずで独特のイントネーションで喋るアッシェンに対して、ヴィンセントは今にも殺意を向けそうだ。
子供相手に大人げない。あたたかい気持ちと冷たい気持ちを味わいながら、クロエは自分の食事に殆ど手を付けず、皆を見守っていた。
クロエが残したものは全てアッシェンが食べた。それを見たヴィンセントは意地汚いと蔑んだが、アッシェンは何処か貴族然とした雰囲気があった。テーブルマナーはきちんとしているし、言葉も単語のアクセント自体は正確なのだ。
(良家のお嬢さんなのかな)
就寝時間になり、自分で着替えのできないアッシェンの世話をしてやりながらクロエは考える。
どうして少女があんな怪我をして、逃げるように飛び込んできたのか。
本人に訊ねても答えは返ってこないのでクロエは考えを巡らせる。
「お姉さん、どうかしたのです?」
「あ……ううん、何でもないよ」
長い髪をブラシで梳き、肩口で緩くお下げに結ってやる。ピンクブロンドの髪は月光を浴びると銀色の輝きを帯び、光のヴェールを被ったようにも見えた。
きらきらして綺麗だ。灰被りと称すのはあんまりだ。
そんなクロエの考えは顔にも出ていたのか、アッシェンは小首を傾げてこんなことを訊ねた。
「アッシェンの名前はシンデレラって意味なのです?」
「うん、そうだよ。あの人も悪気があって付けたんじゃないから気にしないでね」
「アッシェン、シンデレラ好きなのです。シンデレラは下克上の話なのです」
「下克上……。アッシェンちゃんは難しい言葉を知っているんだね」
意地悪な継母や姉たちに囲まれて育った娘はある時、城で開かれる舞踏会に参加して王子に見初められる。それから紆余曲折ありながらも、最終的には母や姉たちも許して、皆で幸せに城で暮らすというのがシンデレラのストーリーだ。
「意地悪な男どもに扱き使われるお姉さんはシンデレラなのです。いつか下克上を勝ち取ってやりぃなのです」
くすくすと笑いながらベッドに潜ったアッシェンは、すぐに眠りに落ちてしまった。
自分の寝支度も済ませ、そっとベッドに入ったクロエはアッシェンの安らかな寝顔を見ながら考える。
(シンデレラ、か)
初版の物語もクロエは知っているが、ハッピーエンドに書き換えられた今の方が好きだ。
ガラスの靴を履く為に踵を切ったり、鳥に母姉の目を突かせたり。あれでは子供の寝物語には相応しくない。
お伽話は夢があった方が良い。これから夢を持つだろう子供たちの為にも、そして現実を忘れて物語の世界に浸る大人の為にもお伽話はロマンチックな方が良い。
けれども。
所詮はシンデレラも【一目惚れ】の話だ。やはり美女と野獣が好きだと思いながらクロエは目を閉じた。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
翌日、エルフェに動いて良いという許可が出たことで【Jardin Secret】は日常を取り戻す。
午後になり、アッシェンのお守りをファウストに任せたクロエは、日課となりつつある手当てをする為に二階の角部屋を訪れ、そこで思いもしない人物と遭遇した。
店に出ていない時のヴィンセントはリビングでニュースペーパーを捲っているか、自室で音楽を聴いているかだ。そんな彼がルイスといるというのは珍しい。
険悪かつ物騒な遣り取りをしてばかりの二人に、談笑するような話題があるのだろうか。クロエはそんな二人がとても怖い。
二人の邪魔をしないようにそうっと近付くと、ルイスはもう諦めているのか無言で腕を差し出した。
(そういえば、あれから口利いてない……)
人形のように完璧に整った冷たい横顔を努めて見ないようにしながら、クロエは手当てを始めた。
シャワーを浴びてきたのか血も薬も綺麗に洗い流されていたが、傷口に触れるとやはり鉄錆の香が強く、クロエは目眩を感じた。
「ふうん、あまり良くなっていないみたいだね。こっちも縫った方が良かったんじゃない?」
「こんなところで油を売っているのなら、下でコーヒーの淹れ方でも学ばれたらどうですか」
「あの藪医者と子供と同じ空間にいたくない。蕁麻疹が出そうだよ」
ファウストとアッシェンが苦手らしいヴィンセントはリビングにいたくないとぼやく。
「子供ほど無害なものはないと思います」
「ああ、君って犬とか子供とか無害そうなの好きだよね。僕はさっぱりその神経が理解できないんだけど、自分に自信がないから自分より格下の相手の方が落ち着くってやつかな?」
「そう取りたいのならどうぞご自由に」
一々挑発に乗っていては身が持たないと考えているのか、ルイスは皮肉を聞き流した。
クロエが胃痛を感じる中、ヴィンセントは足を組み直す。
「僕がここにいるのは二人の顔を見たくないというのもあるけど、どうにもドブ臭いんだよね、あの子供」
「どういうことですか?」
「最下層の汚泥にまみれた外法者の臭いがする」
「ヴィンセント様、そんな風に疑ったりしたら可哀想です」
アッシェンを疑う発言を聞いてはクロエも黙ってはいられなかった。
「部外者は黙っていてくれるかな、メイフィールドさん」
一昨日は人殺しの仲間と言い、今日は部外者とくる。
だが、部外者という事実はクロエも日頃から感じていることなので、そう言われると黙るしかなくなる。
「本当に記憶喪失ならあんなにへらへらして、ご飯もお代わりできる訳がないよ。もっと深刻な顔して怯えているはずだ。まあ、メイフィールドさんみたいに呑気な記憶喪失もいるにはいたけどね」
何も知らずにヴィンセントを慕っていた時のことを話題に出されるとクロエは胸が痛い。ここまでくると最早、悲しみよりも悔しさが強かった。
「あるとすれば報復、若しくは首の奪還ですね」
「向こう見ずなのか自信家なのかは知らないけど、その勇気には感服するよ」
ちっとも感服していない小馬鹿にした口調で言って、ヴィンセントは腕を組んだ。
「ルイスくん、ちょっと囮やってくれない? 君の命を有効的に使ってあげる」
ルイスは驚いた様子もなく、ゆっくりと瞬くと訊き返した。
「具体的にどうすれば良いんですか」
「外法を貶めて、自分が仇だということを奴等に知らせる。そういう演技は得意だろう?」
「もしそいつがそんなあからさまな挑発に乗るような奴だったとして、その先は?」
「君が殺してよ。まさか今更不殺を謳うつもりはないだろうし、女の子に殺られるほど耄碌してないよね? それにもし報復だとしたら奴等の敵は君だ。君が返り討ちにするべきじゃないかな」
ヴィンセントはベストの内側に仕舞っていた小型の銃をルイスに押し付けた。
「君は腕を怪我しているから銃は貸してあげる」
「……改造銃ですね」
「エアガンだから一発の威力は低いけど六発くらい撃ち込めば殺せるんじゃないかな」
世間話感覚で交わされる人殺しの相談に益々気分が悪くなる。
息苦しさを覚え、胸を押さえるクロエを見てヴィンセントは信じられないことを言った。
「試し撃ちしたいなら、そこにいる従僕を使って良いよ」
「――――!」
これには当事者のクロエだけでなく、ルイスも息を呑んだ。
「先輩……、何を考えているんですか?」
「顔見知りは撃てないって? 甘いなあ。もし君の【敵】が身近にいる人だったらどうするの? 大体、外法は殺せて人間は殺せないってどうなのかな」
「一般人を巻き込まないのはオレたちの決まりです。無闇やたらに殺したら殺人鬼と同じじゃないですか」
「だからそれは君に当て嵌らないよ。君は十年前、女性をサーベルで刺し殺しているじゃない」
「…………」
「毒を食らわば皿までだよ。もう引けないんだから、こっちにおいで」
反論の言葉を封じられ、色のない顔をして押し黙るルイスに、ヴィンセントは優しい声で囁く。
悪魔の囁きだとクロエは思った。
「君は復讐する為にこっちの世界にいるんだろう? なら、殺しにも慣れなきゃ」
人間を破滅に導く甘美な悪魔の誘いを聞きながら、クロエは震える息をつく。
もう駄目かもしれない。
限界を感じたクロエはふらりと立ち上がる。ヴィンセントは鬱陶しげに顔を上げる。
「ローゼンハインさん」
「なに、メイフィールドさん。邪魔しないでくれ――」
冬の薄日が射す部屋に乾いた音が響いた。
クロエはヴィンセントの頬を勢い良く撲った。
「な……」
驚愕する男たちの前で、クロエはもう一度平手を浴びせる。
顔色をなくした頬に撲れたことによって赤みがさす。平手打ちを受けたルイスは、いつか見せた恐怖と戸惑いが入り混ざった目をしていた。
「何なんですか、貴方たち! 人の命を何だと思ってるんですか……!?」
喉がからからで、頭がちりちりとして、目の奥がじくじくと熱く痛む。
「ローゼンハインさんもローゼンハインさんですけど、ヴァレンタインさんもヴァレンタインさんです!!」
ヴィンセントは目的の為に平然と人を傷付けようとするし、ルイスは目的の為なら平気で傷付こうとする。
きっと、二人には何を話しても通じない。
クロエは部屋を飛び出した。
「ちょっと待ちなよ」
背中に掛かる声を無視して階段を駆け下りる。
だが、歩幅の違いからすぐに追い付かれ、腕を掴まれて納戸に連れ込まれる。
「離して下さい!!」
ヴィンセントの手を振り切るが、その振り切った両手がクロエを捕らえた。
そのまま抱き締められる。それは、拘束する為の抱擁。
ぬくもりを傍で感じ、心臓の音を聞いても、クロエは落ち着くどころか益々頭に血が上った。
「いやっ! 離して!!」
破れかぶれになりながら力任せにヴィンセントの頬を叩いたクロエは彼を睨んだ。
強く叫んだ所為で喉は血の味がする。抱き締められたってときめきすらない。感じるのは怒りと嫌悪だけだ。
腕を離したヴィンセントは、亡霊でも見たような目でクロエを射る。
「人間は貴方の玩具じゃないんですよ……」
そう訴えたところでクロエは両手首を掴み上げられ、今度こそ捕らえられてしまう。
「痛いです。離して下さい」
「もう抵抗は終わり?」
「離して……!」
ぎりぎりと力を込めて手首を握られ、骨が悲鳴を上げる。
こうなれば足を使うまでだと実行しようとしたものの、ヴィンセントはその抵抗を封じ、そのまま壁に押し付けてしまう。クロエは両手を一纏めにして掴まれ、足は膝で押さえ込まれている。
「一応言っといてあげるけど、男が本気を出したら女は適わない」
抵抗する術を奪われ、戦慄するクロエにヴィンセントはぞっとするほど冷たい声で事実を告げる。
無力だね、と言いたげなピーコックアイは少しだけ赤みを帯びている。
「さて、ご主人様に手を上げた罰はどうしようか。服を剥いて、身体を縛って二、三日外に転がして置くのも良いけど、その前に以前言ったような使い方をして欲しい?」
あの日、クロエをどん底に突き落とした一言――【使い方】とはつまり、女として使うということだ。
「そんな辱めを受けるくらいならここで舌を噛み切ります」
「ふうん……? 舌を噛み切るのって言うほど簡単じゃないよ。失血で死ぬんじゃなく、舌の根が喉に詰まって窒息するんだ。痛い上に苦しい、序でに見苦しい最悪の自害だ。それでもお前はやるの?」
「私は確かに従僕で女ですけど、道具じゃありません」
「お前に価値があるかないかはお前が決めることじゃない」
「それでも……少なくとも私はまだ自分を人間だと思っています。だから、道具に成り下がるくらいなら死んだ方がマシです……!」
クロエはそこまでして生きたいとは思わない。死ぬ理由がないから生きている。それだけなのだ。
けれど、もしヴィンセントがクロエを道具として扱うというなら死ぬ理由ができる。
『あんたって人形みたいね』
【人形】と言われて虚ろに生きてきたからこそ、正真正銘の道具になるのは嫌だった。
そうして瞳を揺らすこともせず、決然と眼差しを上げるクロエをヴィンセントは見下す。そして。
「……ディアナじゃない癖に、何でそうなんだか……」
その声は普段のヴィンセントからは考えられない、弱った響きだった。
あまりのことに【ディアナ】とは何かという疑問はクロエの中に浮かばない。
ヴィンセントは嘆息する。
「やめたやめた。こんな色気の欠片もない子供だとやる気も起きないよ」
拘束していた手を解放し、ヴィンセントはクロエから距離を置く。
侮られた、若しくは呆れられただけかもしれないが、クロエの声をヴィンセントが聞くことは珍しかった。
「ローゼンハインさん……」
「君はムカついているなら自分に当たれと言ったよね。だったら彼の代わりに君が働いてよ」
「何をすれば良いんですか?」
ルイスに物騒な真似をさせるくらいならこの自分がする。クロエはそういう思いを込めて訊ねる。
「凄く簡単。あの溝鼠の前で【首】の話をして」
殺さず捕獲する為の作戦だと聞いては引けなくなる。
クロエは外法と聞いてもその正体が分からない。正体が分からなければ、敵意の抱きようもない。共にいた時間が一日だろうと、クロエはアッシェンを傷付けたくなかった。
「……分かりました」
「邪魔されると面倒だし、ルイスくんとレヴィくんには睡眠薬を盛って眠らせとくことにしよう」
硬い表情で承諾の返事をするクロエに、ヴィンセントは逃げ道がないことを突き付けた。
「さっき話していた首って何なのです?」
その日の夜、寝支度を手伝っていると、アッシェンは世間知らずな子供のように小首を傾げて首のことをクロエに訊ねた。
正直、この話題には食い付いて欲しくなかった。
悲しい気持ちになりながらも、クロエは平和的解決の為にアッシェンに情報を与える。
「悪い人を捕まえるのがあの人たちのお仕事なんだけど、そういう時に出たものって貯蔵庫に仕舞ってあるから、食材を取りにいく時に怖くて……」
声が震えそうになる。髪を梳かす手も震える。
気持ちが顔に出易いクロエはなけなしの気力で笑顔を作った。
「ふうーん。やっぱりあの野郎はお姉さんを苛める最低最悪の鬼畜悪魔の腹黒ろくでなし野郎なのですぅ」
「あ、あはは……聞こえたら大変だよ……」
乾いた笑いを浮かべるクロエの様子など意に介した風でもなく、アッシェンは布団を被ってしまう。
クロエもそっとベッドに横になる。そうして暫くすると睡魔がやってきた。
(あれ……なんで……?)
これでも夜は強いはずだ。昔は家から閉め出されることがざらだったので、クロエは夜を寝ずに明かすことに慣れている。
そういえば、先ほど気持ちが落ち着くというハーブティーをファウストに飲まされた。
(……だめ、なのに……)
眠ってはいけないと思うのに抗い難い眠気に呑み込まれ、クロエは微睡みに落ちてしまった。