猫かぶりの灰かぶり 【7】
その日の午後、クロエは二階の角部屋でファウストの指導を受けていた。
「まず水洗い。消毒は表皮形成作用を弱めるから絶対駄目。軟膏をたっぷり塗ったらフィルムで患部を保護してテープで止める。これを一日二回してやりなさい」
「ラップで良いんですか? こういう時ってガーゼとか包帯じゃないんです?」
「うん。ガーゼだと確かに血や膿は吸ってくれるけど、傷口にくっついちゃうからね。洗う時に痛がらせたいならそうしても良いけど、貴女にそういうサディスティックな趣味はないだろう?」
「……分かりました」
変なことを言い出さないで欲しい。クロエは内心激しく抗議しながらも表面上は黙っていた。
失礼します、と断ってから腕を取る。改めて良く見ると肉が露出していて痛そうだ。
意識が遠退きそうになるのをどうにか堪えつつ、クロエはゴム手袋をした手で薬の入ったケースを取り、ヘラを使って軟膏を掬い取ると患部へと乗せた。その瞬間、びくりと腕が硬直するのが分かった。
「せ、先生……どうして、彼女に……」
「あはは、染みる? 思いっきり染みる軟膏だからね。君は少し痛い思いした方が良いと思って用意したんだ」
さも悪意がなさそうに爽やかに言うファウストだが、目が笑っていないのでとても怖い。
「そうではなく、何故この人にやらせるのかということを訊いているんです」
「私みたいなむさ苦しいおっさんより、可愛い女の子に手当てされた方が君だって嬉しいだろう? もしかしてグロリアみたいな女の子がタイプだった? 年上ならどんなのでも良いと思ってたんだけど、私の判断ミスかな。ということでグロリア呼ぼうか? ああ、でもあの子だと手当てより寧ろ塩とか塗り込んでくれそうだね。君に被虐趣味があるなら呼んであげるけどどうしようか?」
「……反省しますから、勘弁して下さい」
聞いているクロエもルイスが哀れになってきた。
ここではヴィンセントにいびられて、職場ではファウストにおちょくられて、自宅ではジルベールに揶揄されて。これでは心が休まる暇がない。
「君が平気でも、見ていて平気じゃない人はいるんだからね。傍にいる人たちの気持ちを考えなさい」
熱の所為で明らかに怠いという顔をしたルイスの頭にファウストは手を置く。先刻クロエとレヴェリーにそうしたように、「分かったね」と数度頭を叩いた。
大人しくされるがままになっているかに思えた。だが、ルイスはレヴェリーほど単純ではない。
「嫌な思いをするなら近付かなきゃ良いじゃないか」
それはファウストに向けた言葉というよりはクロエに向けられた言葉だった。
冷たい一言に、クロエは思わず手当てをする手を止めてしまう。
気まずい空気が立ち込める。その刹那、ファウストは切れた。
「だから君はどうして紳士的になれないかな!? 女の子には優しくしなさいと私は口を酸っぱくして言っているのに、それなのに君ときたらいつもいつも……! 大体ね、そういうフェミニズムを抜きにしたって君のそれは寒い中、寝ずに看病してくれた子に対する態度じゃないよ。今すぐ土下座して謝りなさい」
「あの……先生、ドゲザって何ですか。何処の言葉か理解しかねます」
「デ・シーカ流の本気の詫びというものです。さあ、地面に両膝と両手を着けて頭を下げなさい」
「手本を見せて貰わないとどうするのか分かりません」
「はあ!? 何で私が土下座しなきゃならないの? 君ね、私のことおちょくってるんじゃないだろうね」
クールもといドライなルイスと、ホットなファウスト。ルイスは純粋に知識欲から疑問点を訊ねようとしただけなのだろうが、その冷静さは今のファウストに火に油を注いでいるようなものだ。
「私がやりたくてやっていたことですから!」
このままでは本当にファウストは怪我人のルイスに土下座というものをさせそうだ。
危険を感じたクロエはファウストを引き離すべく、腕を掴む。軟膏がたっぷりと付着したその掌で。
「触らないでよ!? これ怪我してなくても染みるんだから!」
「すみません……!」
染みるからこそゴム手袋をしていたのだが、クロエはそんなことはすっかり忘れていた。
悲鳴を上げたファウストは「洗ってくる」と一目散に部屋を出て、階段を下りていった。それを見送ったルイスは不本意と不満を混ぜた顔をしていた。
手当てに戻る為に席についたクロエは先ほど以上の気まずさを味わう。
会話がない。
何か文句でも恨み言でも言ってくれたなら救われた。ルイスは何も言わないどころか抵抗もしない。
(痛くないの……?)
訊いてもきっと答えてくれないだろうからクロエは胸の中で訊ねる。
以前、ルイスはものの美しさが分からないと言った。何気ない一言だったが、その事も無げな様が余計に悲壮感を感じさせて、クロエは胸が痛くなったのを覚えている。
美しさが分からず、痛みすら知らないというのか。
いや、知らない訳でも感じていない訳でもないだろう。ルイスはそういった感情を表に出しても無意味だと諦めている。もう嘆く気力もないのだ。
「やあ、小侯爵。ご機嫌如何?」
そんな時、まるでファウストがいない今を見計らったかのように、ヴィンセントがやってきた。
「うわー、痛そうだね。良い様だ」
「ヴィンセント様……」
忌々しくなるほどに完璧な美貌に完璧な微笑を張り付け、嬉しそうに語るヴィンセントをクロエはやんわりと諫める。
「下僕とはいえ、女の子に手当てして貰えるなんて本当に良い身分。羨ましいくらいだよ」
「羨ましいのなら、貴方にも怪我をさせてあげましょうか」
「あはははは、腕を怪我してる癖に何言ってるの? それじゃあ銃の反動にも耐えられないだろう」
役立たずだと暗に言って、ヴィンセントは悪辣とした笑みを深めた。
「あ、あの、何か御用ですか?」
「ううん、君じゃなくてルイスくんに用があるんだ。死体確認をして貰おうと思ってね」
ヴィンセントは微笑んでいる。彼は空模様でも語るように言うが、その笑みがどす黒くてクロエは恐怖する。
「ヴィンセント様、怪我人に可笑しなものを見せないで下さい……」
「大丈夫だよ、メイフィールドさん。写真にしてあげるから」
「大して変わりないんじゃないでしょうか、ヴィンセント・ローゼンハイン先輩」
「これでも僕なりに譲歩しているんだよ、ルイシス・イレール・ヴァレンタインくん」
フルネームで呼ばれたヴィンセントは対抗するかの如く、長い名を呼び返す。
このような時まで嫌味の応酬を楽しむつもりか……というよりも、クロエはルイスの本名を初めて聞いた。
ミドルネームならまだしも、ファーストネームも初めて知った。つまり、昨日今日に始まったことではなく、最初から距離を置かれていたということか。
ルイスからしたら、友達などと言って一生懸命になっていたクロエはさぞや滑稽だったろう。もしかすると、クロエは【加害者】とすら思われていないのかもしれない。
虚しい気持ちで黙々と後片付けをするクロエの横で、二人は物騒な会話を続けている。
「敵は討ってあげたから安心して寝ていて良いよ」
「そうですか」
「全く、こんな怪我して……君って本当に使えない子供だね。どうせまた不殺とか生温いことやってたんだろう? 自業自得ってやつだよ。でもさ、その自業自得にエルフェさんを巻き込むのは止めて欲しいな。君の命は価値なしだから良いけど、エルフェさんはそうじゃないんだから」
あの人は君みたいに替えの利く存在じゃないんだ。
揶揄めいた微笑すら消してヴィンセントは言い切る。ルイスはそうですね、と短く返した。
「お大事にね」
ヴィンセントはルイスの答えに満足したように微笑むと、部屋を出ていった。
「ヴィンセント様……」
クロエはヴィンセントの後を追った。
ヴィンセントは自室へは戻らず、一階へ下りてゆく。
「待って下さい、ヴィンセント様」
背に声を掛けども、彼は止まらない。
声は聞こえているはずなのに、まるで虫の羽音を聞き流すように無視する。
「待って!」
クロエは服を掴む。シャツの袖を引っ張られたヴィンセントはやっと歩みを止めた。
ゆっくりと振り返る。クロエはピーコックグリーンの目に見下される。
「何かな、メイフィールドさん。僕は血生臭い君と喋りたくないんだけどな」
血生臭いものを家に持ち込んでいるのはどちらだと言いたい衝動を堪え、クロエはヴィンセントを見上げる。
「気が立ってらっしゃるのなら私が話を聞きますから……、だからああいうのは止めて下さい」
こうして庇ったところでルイスは喜ばない。そもそも彼はヴィンセントの言葉も聞き流したのかもしれない。だけど、先ほどのヴィンセントの発言はあんまりだ。
【価値なしの命】という言葉はクロエに向けられているようでもあり、胸を抉った。
「それ、彼にも言われたよ」
瞳を揺らしもせずじっと見上げるクロエの前で、ヴィンセントは盛大な溜め息をついた。
「僕が君を虐めた日、乱暴なことするなってね。……で、今度は君。僕はどちらを尊重すれば良いわけ?」
「わ、私を尊重して下さい」
クロエがヴィンセントと揉めた日といえば一昨々日だ。
そんな話、知らない。聞いていない。寝耳に水だ。
「君たち、結託してるんじゃないかってくらいたまにムカつくよね。……お前が【あいつ】にそっくりで、俺が彼に似ている所為か? 自分は良いからって全部他人に渡してそれで幸せなつもりでいて、結局良いことなんか一つもないのに。莫迦みたいだ」
「あの、ヴィンセント様……?」
「そういうことをしていると全て失うんだよ」
クロエが困惑を込めて名を呼ぶと、ヴィンセントはにっこりと微笑んだ。
その笑みはヴィンセントの言う【彼】とは方向性は違うが、良く似た非現実的な表情だった。【自分】を失うほどの【何か】を失くしてしまった者の顔なのだとクロエは知る。
「でも、人殺しの手当てをするなんて君って変だよね」
「……え……と……私も可笑しいと思ってますから言わないでくれませんか……?」
突然の話の転換に付いていけないクロエはふらりと足元をもつれさせ、机に手をついた。
流石に徹夜明けにヴィンセントの相手はきつい。クロエは昨日だけでなく、一昨々日も徹夜で、一昨日もあまり眠れていない。頭が上手く回らないのだ。
「まあ今更なのかな」
「今更……?」
「君は僕たちを食べさせているじゃない。勿論こっちが養ってやっている訳だけど、家事をして僕たちの生活の助けをしているのは事実だ。その時点で君はこっち側の人間だよ」
平凡じゃない娘だとヴィンセントは笑った。
クロエは手に力を入れて、どうにか崩れることだけは回避する。
「慰めになっていません」
「あはは、当たり前じゃない。僕は君が嫌いで、慰める気なんてないんだから」
嫌いという言葉が容赦なく胸を薙ぐ。
そんな予感はあった。口に出して言われなくとも、嫌われているくらいは分かっていた。だからクロエはヴィンセントをなるべく避けたし、近付いてくれば警戒し怯えた。
(な……泣くな……)
嫌いと面と向かって言われたのは三度目だ。
一度目は物心付いてすぐに実の父親に。二度目は同居を始めてから継母に。そして、今回が三度目。
ここで泣いたら立ち直れなくなる。何よりも惨めだ。
そうして必死に耐えるクロエの耳許でヴィンセントは残酷な一言を囁く。
「君もどうしようもなく残酷な人殺しだ」
「――――――ッ」
クロエは声にならない悲鳴を上げた。
精神的に殺されてもう何も言えないクロエは、手袋を着けた手で頭を荒く撫でられる。
「明日から店を開けるから、そのみっともない顔をどうにかしなよ?」
視界が塞がれるほどに髪を乱されたクロエは、そのままヴィンセントを見上げる。
彼の表情は天使のように清らかで、けれど口許には悪魔の笑みがあった。
「そんな顔、客に晒したら殺すから」
悪意と嫌悪と憎悪にまみれた低い響きにクロエは再び殺される。立ち去ってゆくヴィンセントの背が見えなくなっても震えは止まらない。
精も魂も尽き果てたクロエはその場にへたり込んだ。
もう涙も出なかった。