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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
三章
31/208

猫かぶりの灰かぶり 【6】

 怪我からくる熱ですぐにぬるくなってしまうタオルを氷水で濯ぎ、きつく絞る。

 ルイスは一度も目も冷まさない。本人に意識はないので苦痛はないのだろう。ファウストは熱は身体の免疫機能がしっかり働いている証だからそのままで良いと言う。


「さて、そろそろ朝ご飯を作ろうか」


 エルフェとルイスの部屋を行ったりきたりしていたファウストが頃合いだというように言った。


「え……? 食べるんですか?」


 クロエは思わず頓狂な声を上げる。

 時刻は午前五時を回ったところ。夕食という名の夜食はさっき食べたばかりだ。この状況で朝食を作って食べるのかと、クロエは信じられない気持ちでファウストを見返す。


「勿論。看病は体力勝負だからね。しっかり食べないと身体が持たないよ」


 体力より精神の方がきついと感じてクロエは溜め息をつく。


「女の子はタンパク質を取らないと駄目だよ。特に貴女はちんまりというか、ぺったんこだから尚更だ」

「はあ!?」


 思い切り叫んで慌てて口を押さえる。

 クロエは内心「煩くしてごめんね」とルイスに謝った。


「栄養付けていないと丈夫な子は産めないし、平らだと授乳する時に苦労する。勿論、旦那さんにお手入れして貰うってのもあるけど、あんまりなくて女性的魅力に乏しいとその旦那さん自体が見付からないというかね。――ということで食事はしっかり取りなさい」


 朝っぱらから何を言っているのだこの医者は。今まで受けた中で最上級のセクハラだ。鬱々とした気分が悪い意味で一気に吹き飛ばされた。


(お医者さんなんだから……!)


 クロエはきっと緊張を解す為の冗談だと必死に自分に言い聞かせたが、ヴィンセントすら御するエルフェを制すファウストが普通の人間である訳はなかった。

 朝食の準備をした後、それはエルフェの部屋に運ばれた。

 麻酔が切れたらしいエルフェは普段通りの彼に戻っていた。傷の痛みで不機嫌な様子でもあった。


「それ、凄いですね」


 食後の紅茶を飲みながらクロエが視線を注ぐのは、テーブルに置かれたファウストの携帯電話だ。

 一言で言えば凄い。何が凄いかといえばその飾り付けだ。これはデコレーションというやつだろうか。クロエがじいっと見入っていると、ファウストは得意気に笑った。


「ふふん、レイフェルと同じ趣味だよ」

「俺は菓子の装飾に興味があるだけで、兄さんのように私物を飾り付ける趣味はない」

「えっ、私はお前の趣味に触発されてデコるの好きになったんだよ?」

「良い年した男がそういうことを言わないでくれ……」


 エルフェは理解不能な兄を持ったことを嘆くように頭を抱えた。


「私、ローゼンハインさんより凄い大人の男の人がいるなんて思わなかった」

「クロエ、これは凄いっつーか可笑しいって言うんじゃね……?」


 温度差のある兄弟のとばっちりを食いたくないと、離れて座るレヴェリーは弱々しく突っ込む。


「可笑しい? 可愛いものが好きで何か悪い?」

「男でデコレーション趣味とか気色悪いだろ!」

「私のこの趣味はレイフェルに触発されたのもあるけど、純真無垢な女の子を私好みに飾り付けたいというか、寧ろ私の趣味に染め上げたいという欲望の表れなんだ。女装とかそういう趣味ならまだしも、気色悪いもののように言われるのは心外だな」


 真面目な顔と口調だが、ファウストが言っていることは何かが可笑しい。

 クロエは冷や汗を掻きながら話題を変えた。


「あ……あの、先生、昼食どうします?」

「昼食は昨日のトマトファルシを片付けようか。炒めてパンに乗せよう」

「おい、クロエ聞き流したぞ。それで良いのかあんた」


 噛み合っているような噛み合っていないような三人の会話を聞いているエルフェの顔は益々渋くなる。

 こういう時、真っ先に嫌味や皮肉を飛ばす二人がいない。それは即ち戦闘員がいないということでもある。

 クロエとレヴェリーは精神的に参っていて、エルフェとルイスは怪我で動けない。ヴィンセントは仕事で家を空けている。こんな状況で敵に報復にこられれば一溜まりもなかった。


「俺はいつ復帰できる?」

「そうだね、輸血するなら明日にでも動いて良いけど、お前の場合それは難しいからね。明明後日かな」

「そうか……」

「レイフェルが体力バカだとは知っているけど、バカだって無限に体力が続く訳じゃないだろう? 今日は大人しく寝ていなさい。子供たちの面倒は私が責任持って看るから安心して良いよ」


 それは、皆の緊張を解す為にわざと下らない話をしていたという様子で。

 ファウストは兄でも医者でもない【上】の人間の顔をして、エルフェの不安は分かっていると頷いた。






「さて、落ち着いたところで君たちの診察だ。軽いものだから緊張しなくて良いよ」


 エルフェの部屋を後にしたクロエとレヴェリーは、ファウストにリビングのソファに座わるように言われた。

 どうやらファウストが朝食を提案したのは二人の様子を見る為らしかった。


「はい、じゃあまずは気分が鬱いだりは?」

「それなりに」

「そうですね……」

「あんなことがあれば落ち込んで当然だね。目眩や手足の痺れとかはないかな?」

「それはないな」

「私もないです」


 自律神経の乱れを確かめているのだろうとクロエは察した。

 施設では精神的な傷を受けてやってくる子供もいたので、カウンセラーがやってきていたのだ。


「現実感なくてふわふわするとかいうことは?」

「あー、ちょっと……」


 これにはクロエも頷く。


「そうか。多分それは二、三日続くと思う。少しずつ良くなっていくから安心しなさい」


 大量の血液を見ていれば少しくらい気分が悪くなっても当然だと、ファウストは二人を宥めた。


「眠れないとか強い不安感があるなら薬を出しても良いけど、君たちはまだ若いからな……。まあ、今夜は徹夜明けで疲れているから嫌でも眠れると思うよ。もし落ち着かないならこれを枕元に垂らしてみて」


 ファウストから受け取った小瓶のキャップを空けると、柑橘系の果実の香りがふわりと漂った。


「食いもん……じゃねーよな?」

「これ何ですか?」

「マンダリンオレンジのアロマオイル。中枢神経の調整作用があるから、心が落ち着くよ」


 ヴァレンタインの屋敷で世話になった時に感じた香りだとクロエは思い出す。

 あの時は枕元で涼やかな香りがして良く眠れた。鼻腔を擽る甘酸っぱい香りに、心が鎮まってゆくのを感じながらクロエはキャップを閉じた。


「ああ、レヴェリー。食べ物じゃないから紅茶に入れようとしたら駄目だよ」

「そこまで食い意地張ってねーし。あんた、オレのこと何だと思ってるんだよ」

「デリカシーなくて弟にも身長抜かれた可哀想な子供かな」

「人のこと無駄に貶すな!」


 噛み付いてくるレヴェリーを適当にあしらったファウストはけたけたと笑う。

 しょうもない遣り取りだが、いつもの雰囲気にクロエもやっと少しだけ笑うことができた。


「そうそう、女の子は笑っていなさい。いつの世も子供は笑っていなきゃいけないんだから」

「先生……」

「ろくでもない大人の為に子供が不幸になるなんてあっちゃいけないんだ」


 そう言うとファウストは両手を伸ばし、クロエとレヴェリーの頭をくしゃりと撫でた。

 幼子をあやすような様に二人はぽかんとする。十八歳の、見方によっては大人に対する振る舞いではない。


(不思議な人だな)


 クロエにとってファウストは初対面の相手だったが、その宵闇色の瞳には押し隠したい気持ちを見透かされているようで少し怖かった。

 それから気分が楽になるというハーブティーを飲み、形だけでもいつもの調子を取り戻してきた頃、中庭に通じる戸口からリビングに入ってくる人物がいた。


「ただいま……」


 疲れを感じさせる覇気の乏しい声。見るからに不機嫌だという顔をして帰ってきたヴィンセント。

 彼はリビングにいる面々を一瞥し、背を向けた。

 逃げた。

 思い切り逃げた。

 ヴィンセントを逃がすまいと、ファウストは医者とは思えぬ敏捷な動きで捕獲しに掛かる。


「ちょっと何で逃げるかな」

「襟掴まないでくれない? 服が伸びるじゃない」


 ざくざくと雪を踏み締めながら戻ってくる二人は何事か言い争っている。


「私はね、お前のことが嫌いだけど、お前が私を嫌うのはどうにも腹が立つんだ! 人の顔を見て背を向けるとか失礼だと思わないのかい!?」

「無茶苦茶な理屈言わないでくれる? 僕はファウストくんと関わりたくないんだ。というか、ごちゃごちゃうるさいよ。僕は徹夜明けで疲れてるんだから、大声で喋るの止めてくれるかな」

「私だってお前みたいな陰険男と関わりたくないよ! できることなら一生顔を見ずに過ごしたい。寧ろ見なくて良いように切り刻みたくなるよ。しかしだね、私の大切な弟と可愛い部下がお前なんかの所にいるから関わるざるを得ないんだ! ホント、迷惑だよ!!」


 二人共にボキャブラリーが豊富で饒舌な性質なので収集がつかない。また無駄に容姿が整っているだけに、その残念さも拍車が掛かっている。

 ヴィンセントとファウストの水と油ぶりは、ヴィンセントとルイスの比ではなかった。


「レヴィくん、あの二人って……」

「ヴィンスの天敵だよ、ファウスト先生は」


 子供たちは生温かい目を大人たちに向ける。

 あそこまで露骨に嫌な顔をするヴィンセントを初めて見たクロエだった。






 クロエはヴィンセントが怖い。

 彼は時折、恐ろしいほど優しくしてくれたりもするがその反動のように心を抉ることをする。

 それなのに、だ。己の生命を脅かし、精神の自由を奪う相手なのに、クロエはヴィンセントが帰ってきて安堵している。

 エルフェとルイスが怪我をして、クロエとレヴェリーには彼等を治すことも守ることもできない。ファウストは傷を治してはくれるが、怪我人二人を守る力はない。ヴィンセントはエルフェやレヴェリー、そしてルイスも守る。だからクロエは安心していた。


「ふうん……。で、ファウストくんが少なくともあと二日はここに滞在すると」

「そういうことになるね。二日もお前と顔突き合わせるなんてぞっとしないけど、私は大人だから我慢するとしよう」

「僕が我慢してあげるんだよ。君なんかエルフェさんの代わりにならないけど特別、ね」


 貴族は皮肉の応酬を楽しむものだというが、これは怖い。

 二人は本気だ。声が低く、目付きも悪人のそれだった。火花を散らしながら険悪な遣り取りをする二人に、クロエは昨日購入したマロンティーを出す。

 失礼しましたと一礼したクロエはレヴェリーの元へも紅茶を運んだ。


「なあ、ヴィンス。そのバケツみたいなの何だ? 流行りのバケツプリン?」

「レヴィくん、君って莫迦だね。莫迦というかお目出度いよ。これが何って、首桶に決まってるじゃない」


 その答えに、場の空気は一瞬にして凍り付いた。


「エルフェさんとルイスくんをやった奴を捕まえたんだ。こいつで合ってるか確かめて貰わないとね」


 エルフェに確認してもらう為に首を取ってきたのだとヴィンセントは恐ろしいことを語った。


「か、確認だったら生きたままでも良かっただろ!?」

「エルフェさんを傷付けた相手だよ? これは復讐だ。晒し首にしても良いくらいだよ」

「晒し首って……」

「別に珍しいことじゃないだろう? 五、六十年前は革命とか言って毎日街中の広場で斬った首を吊してたんだ。まだ時代錯誤と言われるほどじゃない」


 断頭台の刃に人が命を散らす、悪戯に血の流された時代がある。

 それは決して遠い昔のことではなく、半世紀前の出来事だ。

 政治の主導権を巡っての血を血で洗う争い。毎日のように誰かが処刑され、歓喜と悲鳴が轟いた。クロエが生まれた頃にはそんな恐怖の時代は終わっていたが、血に塗れた日々のことは知識として頭に入っている。

 何せクロエの父親は変革の時代を生きた男で、新しい時代が始まっても革命家としての生き方を捨てられず、その亡霊に取り憑かれて駄目になった男だったのだから。


「ヴィンセント、ここには子供たちもいる。そういう話は他で聞こう」


 物騒なことを嬉々として語るヴィンセントをファウストは諫める。しかし、それを聞くような男ではない。


「平和呆けした子供に歴史を伝えるのは僕たち大人の仕事じゃないかな。確かレヴィくんもメイフィールドさんも歴史のお勉強してないんだよね? 晒し首をどうやってするか目の前で実践してあげようか」

「ヴィンセント! お前の革命家嫌いは分かったから外に行こう」


 このままでは首桶の蓋を開けかねないと思ったのか、ファウストはヴィンセントの襟首と首桶を掴むと庭に出た。引き摺られるヴィンセントは怖い顔をしていた。


(初めて見た)


 あんなに怒っているヴィンセントを初めて見た。

 ヴィンセントがエルフェを特別視しているのは知っていた。あの自分本位な男が自分以外を尊重することも驚きだが、ヴィンセントにとってエルフェは復讐に駆り立てるまでに大事な友らしい。

 ヴィンセントにも人間らしい心があったのだと喜ぶべきなのかもしれない。けれど、ヴィンセントはルイスの復讐を大人げない行為だと笑うのだ。

 正直、クロエはその温度差が分からない。理不尽にすら思える。ヴィンセントは自分のことしか考えていないように感じた。


(ローゼンハインさんのこと、分からないよ)


 ヴィンセントには半径があって、その内側と外側では天使と悪魔ほどに違うとしか思えなかった。

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