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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
三章
30/208

猫かぶりの灰かぶり 【5】


「大丈夫。血は出ているけどどちらも軽傷だよ」


 刺し傷ではなく切り傷なので、どちらも命には別状ないということだった。

 傷は縫合した。数日中に日常生活に戻っても差し支えないというファウストの言葉を聞いて、クロエはやっと落ち着いた。

 治療を受けた二人はそれぞれの部屋で寝かされている。エルフェは流れた血の量の割に傷は浅い――もう塞がり始めている――らしく、今もしっかりと意識があるのでレヴェリーが話し相手になっていた。


「そんな顔をするな」

「で、でも」

「却って傷が痛くなる」


 麻酔として投与された薬の影響なのか、エルフェはいつもよりも柔らかな口調でそう言った。そして、鬱ぎきったクロエの様子が泣きそうな子供にでも映ったのか、慰めるように頭に手を置いた。

 宥めるように何度も頭を叩かれる。実の親にもろくに頭を撫でられたことがないクロエはどうして良いか分からず、されるがままになるしかなかった。

 それからエルフェの看病をレヴェリーの任せたクロエは二階の角部屋にきている。

 部屋の主は治療後、糸が切れたように眠っている。

 あんなに冷ややかな顔をしていたのが嘘のようだ。つい先刻の出来事が夢の中のことのように思えるクロエだったが、弾かれた手の鈍い痛みは今でも鮮明に思い出すことができた。


 ――レセモワ・スル・ケルク・ザンスタン。


 シューリス語は知らないから、ルイスが何を言ったのかは分からない。ただ見当は付けられる。クロエは溜め息をつく。


「溜め息なんてついてどうしたんだい?」

「済みません。何でもないです」

「患者の容態も気になるけど、目の前の乙女の溜め息も私にとっては重要だよ」


 顔にはふざけているような微笑みがある。きっと緊張を解す為の冗談なのだろう。

 ファウストは顎が尖っているのでシャープな印象を受けるが、目鼻立ちは柔和だ。背丈の割に撫で肩なので、全体のシャープさを良い具合にマイルドにしている。物腰もおっとりしているので、医者に適した柔らかさと包容力を持ち合わせているように思えた。


「さっきも食欲がなかったね。疲れてしまったかな?」


 治療が終わった後、クロエとレヴェリーとファウストは夕食を取った。

 クロエは食事が喉を通らなかった。レヴェリーもスープを半分以上残してしまい、肉料理(トマトファルシ)に至っては見たくもないという様子だった。そんな重い空気に包まれた晩餐の唯一の救いは、ファウストが美味しそうに食べてくれていたことか。


「色々あって吃驚してしまって」

「うん、そうだろうね。普通の女の子なら即倒まではいかなくとも、頭が真っ白になって動けなくなっても仕方がない状況だから。……こういう時、男の子は役に立たないね。レヴェリーは特に血液に耐性がないようだし、貴女がいてくれて助かったよ」

「……いえ、私は何もできませんでしたから」


 女性の方がいざという時に度胸があると言われるものだが、クロエも思考が停止してしまっていた。

 血の臭いに当てられたのもある。酷い拒絶を受けたのもある。その中でトラウマが蘇ったのもある。

 血の色も酷い拒絶も、クロエにとっては思い出したくない過去に通じるものだ。


「まあ、あまり自分を責めないでね。さて、こんな状況で申し訳ないけど、何があったか聞いているかな」


 医者として、そして【上】の人間として、ファウストはクロエに今回の出来事について訊ねた。


「レイフェルに訊いても良いけど、薬と熱でテンション可笑しいからちょっとね」

「……あ……その、ここでは……」

「さっきの薬に睡眠薬も入ってるから朝まで起きないよ。大声で悪口言っても大丈夫だから」


 ルイスの前では話し辛いと渋るクロエに、ファウストはおどけた口調で言って先を促した。


「上層部から中層部に入ってから敵に囲まれて、斬られて、一人逃がしたって……」

「一人逃がした。なら、他の奴等は?」

「仕留めた、と」

「ルイスは【捕獲した】ではなく、【始末した】と言ったのかい?」


 クロエは頷く。直接手を下した訳でもないのに、口に出すと身体の奥から寒気がやってくる。

 ファウストは思案顔で机をじっと睨み、はあ、と深い溜め息をついた。


「そうか……殺したのか。初めてだな……」


 クロエは目を見開く。ファウストの言葉は聞き取ることができても意味が呑み込めなかった。

 目の前に座ったファウストはそんなクロエの様子を見て宵闇色の目を瞬かせる。


「ん、もしかして誤解されているのかな? 毎日人殺ししているとか思っているからさっきから怯えてる?」

「え……え……? あの……?」

「この子は私の部下に当たるけど、今まで仕事で殺しをしてきたことはないよ」


 ルイスは【殺し】ではなく【捕獲】が専門だと、そしてエルフェも平和的解決をする穏健派だという言葉をクロエは不思議な心地で聞く。


「あの傷だ。銃手(ルイス)一人ならまだしも、近接戦闘で役に立たない狙撃手(レイフェル)もいた訳だし、防衛としての殺しをしても仕方なかったと思うけど……。まあ、本人はそう簡単には納得できないか」


 ガンナーとスナイパーでは互いの短所を補えない。それ以前にヴァレンタインとレイヴンズクロフトの人間が仲良くお出掛けというのが問題だと、険しいというよりは複雑そうな面持ちでファウストは目を閉じた。


「……人を殺した後って、何かしら感情をぶつけないとやっていられないんだ」


 それに使われるのは主に女や酒というものだ。

 ヴィンセントやエルフェはそういうことに慣れているから、殺しをしても不安定になることはない。だが、慣れるまでがきつい。何十と殺して少しずつ慣れていくその過程で、心が可笑しくなってしまう者も多くいる。

 勿論、慣れていても多少反動はくる。

 例えば、エルフェは他人とコミュニケーションを取ることで【普通】の感覚を取り戻そうとする。エルフェがこういう時に限って饒舌になるのは何も薬の所為だけではない。


「感情をぶつける……」


 クロエがエルフェやルイスから感じた違和感と、その得体の知れない恐怖をファウストは解き明かす。


「慣れていないと、どうやって自分の心に折り合いをつけたら良いのかも分からないだろうからね。もしかしたら、貴女は酷く当たられたんじゃないかな」


(……ちがう)


 あれは違う。当たられたというよりは、寧ろ気遣われたような気がする。

 エルフェは大人の対応をした。人を殺すことにも怪我をすることにも慣れているから冷静だった。

 ルイスもどうして良いか分からないくらいに傷付き、辛かったはずなのに、そんな苦しさごと己を卑下してクロエを遠ざけた。人殺しに関わらせないように突き放した。エルフェの手当てを先にしろとか、人殺しに触れるなとか、ルイスは結局他人のことしか考えていない。

 クロエは怒りよりも悲しさを感じた。


「私、何もできないどころか酷いこと……。それに……あの傷……」

「傷なら治療したから大丈夫だよ」


 クロエは首を振る。


「……ルイスくんの……首……」


 治療する為に寛げたワイシャツ。そこから覗く肌の至るところにある傷をクロエは見てしまった。

 男なら生傷の一つや二つはあっても可笑しくないのかもしれない。実際、エルフェの応急処置をする時にもクロエはそういう傷を見ている。しかし、ルイスの傷はエルフェのものとは類が異なる。

 腕、鎖骨、首根。執拗に刻まれたように並ぶ傷は故意に付けられたものだ。そして、頸動脈付近の一太刀は明らかに命を絶つ目的で付けられた傷だった。

 頑なに手当てを拒んだ理由には人殺し云々だけでなく、これも含まれているだろうと思わせる惨い姿をルイスはしていた。

 クロエは寒さを感じる。嫌なものが胸の奥からじわじわと滲み出してくる。


「あれはね……私も全部は聞いてないんだ。ただあの傷は彼が自分でやったものではないし、負いたくて負った傷でもないから、貴女もそこだけは理解してあげてくれるかな」

「それくらい、分かります」


 存在意義を求めて自傷をした訳ではないと、ファウストは疑惑を否定しようとする。

 自分で付けられないようなところにも傷はあるのだからクロエもそれくらいは分かる。


「もしかして、十年前ですか?」

「それは……」

「十年前なんですか?」

「そうだよ。クラインシュミット惨殺事件の後、【何か】があってルイスはあんな傷を負い、人を殺した。ヴァレンタイン夫妻から正当防衛だったと聞いているけど、確かに人を殺している」


 一度口を噤んだファウストもクロエの様子に引けないものを感じたのか口を割った。


「自分の両親を奪った奴と同じ行為をしたのに裁かれなかったその自責があるからこそ、この子は自分を追い込むようになったのだろうね」

「そう、ですか……」


 普段は勘も殆ど当たらない。それなのにこういう勘だけは当たる。

 ファウストの言うその【何か】はクロエも無関係ではなかった。


『何だったかなあ、十年前のことだから流石に記憶が曖昧だ。ああ……そうだ、その子に使ったんだった。今、君が庇っている女の子の延命治療に莫大な金が必要でね、君を売った金はそれに使わせて貰った』


 あの時、聞いた言葉は鉛のように胸の奥に沈んでいる。

 自分だけが不幸になったのならクロエは我慢ができた。従僕生活にも耐え、自分の人生は所詮こんなものかと諦めて莫迦みたいに笑うこともできる。

 けれど、クロエの所為で不幸になった人がいる。ヴィンセントは笑いながらそのことを話した。

 レヴェリーは何も言わない。当事者のルイスも勿論何も言わない。二人はどちらかといえばクロエに好意的な方だ。それでもクロエは時折怖くて仕方がなくなる。

 だってそうだろう。

 加害者と被害者が共に暮らしているのだ。

 ヴィンセントにとってのクロエは被害者であり、ルイスにとってのクロエは間接的な加害者である。

 そう、クロエは被害者でも加害者でもある。元を辿れば全てヴィンセントが悪いのだが、クロエはそういう考え方をできるほど賢くはない。


「私が話したことで貴女が思い詰める必要はないんだよ? 貴女の死がなかったとしてもクラインシュミット惨殺事件は起こっただろうし、ヴィンセントが真犯人を隠している事実は変わらないのだから」


(真犯人?)


「ルイスも莫迦真面目というかね。一度の人生なんだから、復讐なんて止めて楽しめば良いのに」


 犯人はもう死んでしまっているはずなのに、ファウストはまるで現在も生きているかのように語った。

 そんなことはない、とクロエは己に言う。

 ヴィンセントは犯人を殺したと言った。だからこそルイスは復讐という目標を失い、不安定になっているのだ。きっとファウストは何かを聞き間違えているのだろう。


「先生は……ルイスくんのこと良く知っているんですね」

「そりゃ九年間看てきたからね」


 それは即ち、九年掛けても【傷】を治せなかったということだ。


「レヴェリーのことも何だかんだで看てきたけど、それぞれ色々あるんだ。……本当に、歯痒いよ。破れた傷は縫って治してやれるけど、心の傷だけは医者にも治せないから」


 ファウストは先刻のことを回想するように、じっと眼差しを伏せた――――。






『縫った方が早く治るけど、スティッチマークが残るよ』

『縫わなくても傷は残るんですよね?』

『そりゃあこれだけざっくりいっていれば残るよ。軽く見ても一センチはいってるし、これは普通のナイフで斬られた傷じゃないね。どんな得物だったのか興味深いな』


 缶詰めの蓋で切ったような傷と言って、ファウストは唸った。

 医者としての意識よりも知的好奇心が勝っている様子に不安を覚えたが、外で立ち聞きをしていたクロエは諫めることはできなかった。


『縫って下さい。傷が開いたままでは日常生活にも支障が出ます』

『どうしてそう簡単に決めるかな。効率問題じゃないんだよ。大体、ご両親が心配するんじゃないかな』

『うちの義両親は心が広いので、傷が一つ二つ増えたところで何とも思いませんよ』

『ルイス……君ね、そんなに自分に無頓着だといつか野垂れ死にするよ』

『ご忠告有難う御座います。義両親の為にも早死にしないように気を付けます』


 それは本心なのだろうが、きつい皮肉や壮絶な嫌味よりも聞く者の心を抉る言葉だった。


『……じゃあ縫うけど、麻酔は痛いから覚悟するように。あと、腕は目立つからそのまま我慢しなさい』

『済みません……』

『全く、小侯爵に傷を残したと旦那様に知られたら何を言われるか分かったもんじゃない。……【先生の仕事なくなったらごめんなさい】とか前に貴方は言いましたけど、私は【仕事】を失いたくはありませんからね』


 不遜な口調でそう言うと、ファウストは治療を始めた。

 冬の冷たい空気に満ちた廊下に(うずくま)ってクロエはずっと待っていた。


『おや……。怖いなら、何もそんな所で待っていなくても良かったのに』


 全てを終えて部屋から出てきたファウストはそんなクロエを見て哀れむような顔をした。






 レヴェリーにルイスを任せて、エルフェにクロエが付いているという手もあった。

 だが実の兄に弟のあんな傷を見せて良いのものかと悩み、クロエは気まずさを呑み込んでここにいる。

 クロエは自分の心の奥に仕舞い込む。忘れる努力をする。

 他人の心に入れないことなど珍しくない。そして、どれだけ頑張っても無理なことはある。

 踏み込むのも踏み込まれるのも怖い。もう傷付きたくないから踏み込まないし、踏み込ませない。

 そうして流されて曖昧に生きているクロエは、ヴィンセントの言うように【つまらない人間】だ。


(本当に辛いのは皆なんだから)


 固く目を閉じ、息を潜めてもまだ胸は痛い。

 鉛でも埋まったように胸の奥がきりきりと痛む。クロエは胸の前で手を握り締めた。


「他人の為に心を痛められるなんて貴女は優しい娘だね。人は不幸の分だけ優しくなれる。だから、貴女はいずれ【あの男】と【あの女】を許すのかな」


 ぴり、と空気が震える。

 クロエが目を開けるとそこにはファウストがいる。彼の顔に柔和は微笑はなく、無表情だ。

 悪意もないが、善意もない。そういった様子だ。

 これに似た表情をつい最近見ているはずなのにクロエは思い出せない。そうして不躾なまでに睨み付けていると、ファウストは機嫌の良い狐のように笑うのだった。

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