眠りの森が見せた夢 【2】
「……う……ん…………?」
朝だろうか。目映いばかりの光が瞼を透かして飛び込んでくる。あまりの眩しさにクロエは目を覚ました。
朝日か、夕日か、それとも月か。そう思考する前に眩しさから逃れたくて瞼を開けた。
「う……眩し……」
まるで一筋の光もない闇の中から急に放り出されたようだ。窓から射し込む光が目に痛くて堪らない。
腕で光を遮るようにして何度か瞬きを繰り返す。けれど光に目が慣れても尚、クロエは自分の置かれている状況が理解できなかった。
ここは何処なのだろう。何故、自分はこんな場所にいるのだろう。
クロエが目を覚ましたのは見覚えのない寝台の上。掛けられていた毛布も、着ているシャツも己のものではない。クロエがいるのは小綺麗な部屋。稀に見る木造住宅で、あたたかみのある家具が揃えられているそこは見慣れない場所だ。
クロエはベッドから這い出して床に足を着く。だけど、何故か力が入らなくて膝から崩れ落ちる。
壁伝いにどうにか窓辺まで行き、外を見ると中庭が広がっていた。
小さな噴水がある、芝生の敷き詰められた庭。管理が行き届いているかと思えば花壇に植えられた花々は萎れていて、向こう側に見える壁には蔓や木の根がびっしりと張り付いている。空の色は橙色で、巣に帰るのだろう鳥が横切った。
「……わたし……」
この異常事態の原因を知りたいと思うのに思考はままならず、身体は悲鳴を上げている。
腕一つ動かしただけで肩や背が軋んだ。ベッドに戻ろうと動かす足にも強烈な痺れがある。クロエは耐えきれず、その場に座り込んだ。
「……私……どうしたんだろ……」
苦しい溜め息をついた、その時。
三度のノックの後、ゆっくりとドアが押し開けられて、バーテンダーのような格好をした男性が顔を出した。
「目が覚めたようだね」
うなじの辺りで軽く結われた金髪に、青み掛かった緑の瞳。不揃いの髪に輪郭をなぞられたその面立ちはくっきりとした瞳が印象的だ。二十歳ほどに見える男は、クロエの背に手を添えて立ち上がるのを助けてくれる。
冷たい掌が額に触れた。冷たくて心地良い。その優しい手付きに少しだけ気分が楽になるのを感じる。
ベッドに腰掛けたクロエは改めてその人物を見た。
見れば見るほどに端正な横顔をしている。目鼻がこれほどバランス良く配置された生身の顔なんて絵でしか見たことがない。何処か彫像染みた顔に嵌め込まれた瞳は、見る角度によって青や緑、そして黒へと色を変える様が万華鏡のようで、見ていると吸い込まれてしまいそうだ。
「……あの、お訊ねしたいのですが、ここはどちらでしょうか?」
このまま黙って見つめているだけでは何も解決しないし、変な人だと思われてしまうかもしれない。
クロエは思いきって訊ねてみた。
「ここは【クレベル】だよ。【アルケイディア】の第五層と言えば分かるかな」
「【クレベル】って【ベルティエ】の上ですよね?」
その疑問に彼は満足そうに頷いた。
クロエが暮らす世界の名前は【アルケイディア】という。
理想郷という名前を持つそこは、天に向かって建てられた塔に寄り添うようにして築かれた国だ。
遠い昔、争いによって大地は焼け爛れ、環境汚染から人類は地上で暮らすことができなくなった。生き延びた人々は地下へと逃れたが、結局大地は滅んでしまったという。
滅亡に瀕した人々が一類の望みを懸けて築いたのが、この希望の塔【アルケイディア】。こうして、平和で安全な天空の楽園で人々は今も生きている。
【クレベル】や【ベルティエ】というのは階層の名前だ。
塔という構造上、上階と下階が存在する。地上に近く、万が一の場合に被害を受けかねない下層には平民が暮らし、金持ちや貴族は安全な上層で暮らしている。
【クレベル】は上から数えて五番目の階層で、比較的裕福な層が住まう場所。
【ベルティエ】は六番目の階層で、平民たちの暮らす下町のような所だ。
そこまで考えて、クロエは「あれ」と首を傾げる。
一般常識や社会的なエピソードは覚えている。だけど、それ以外が分からない。何処で生まれて、どうやって育って、何をしていたのか。己に関することが全く思い出せなかったのだ。
「……あの……済みません。私、何が何だか分からなくて……」
己の存在が分からないというのはとても恐ろしいもので、自分が生きているのか死んでいるのかも分からなくなったクロエは自分の手を見た。
肉の削げた青白い手があった。
透けてはいないので幽霊ではない。死んではいないらしい。これが自分の手なのだろうか。身体の芯の方からすうっと寒気がやってきてクロエは震えた。
「……ごめん、なさい……わたし…………わたしは……」
「大丈夫、分かっているよ。きっと事故のショックで記憶が混乱しているんだろうね」
震えるクロエの掌を包み込むように握ると、彼は幼子を宥めるような口調で説明してくれた。
何処からか転落したのか、はたまた暴漢に襲われたのか、クロエは街外れで倒れていたのだという。その場に偶然居合わせた彼は病院へ連れて行き、身元不明のクロエを引き取ったのだと語った。
そうだったのか、と妙に納得してしまう。
身体のあちこちが痛むのも、記憶が喪失しているのもきっと【事故】の所為だ。
記憶はなく、自分のことは分からない。それでも自分の置かれている状況は理解できて、少しだけ安心できた。そうほっとすると同時に感謝の念が込み上げてきてクロエは頭を下げる。
「助けていただいて有難う御座います。ええと……」
「ああ、自己紹介が遅れたね。僕はヴィンセント・ローゼンハインといいます。宜しくね?」
「ご、ご丁寧にどうも。私は――クロエ・メイフィールドです」
唇が動きを覚えていたように名乗ってから、自分の名前は【クロエ】というのかと首を傾げてしまう。
クロエが顔を上げると、ヴィンセントは目を細めて少し笑った。
「うん、名前が思い出せたならきっと他もすぐに思い出せるよ」
知り合ったのも何かの縁だし、具合が良くなるまでここにいると良いとヴィンセントは言った。
(どうしよう)
自分は今、物凄い厚意を受けている気がする。クロエがそうしてどぎまぎとしているとヴィンセントはくすりと笑い、緊張を解すように頭を撫でてくれた。
その行動に益々狼狽したクロエは、気になっていることを訊ねた。
「ここは、【クレベル】にあるローゼンハインさんのお宅なんでしょうか?」
「ううん。ここは僕が務めている喫茶店JardinSecretだよ」
「お店、ですか?」
「そう。従業員の宿舎ありの世界に優しいお店」
「は、はあ……」
ヴィンセントはこちらを和ませる為に冗談めかして言っているのだろうか。
クロエが内心困惑しながらそれでも愛想笑いを頬に張り付けていると、扉を蹴破らんというばかりに乱暴に開けて部屋に入ってきた少年がいた。
「ヴィンス、ここにいたのかよ……って、その女!!」
「レヴィくん、クロエさんは目覚めたばかりだから騒がしくしないでくれるかな」
ココナッツの実のような焦茶色のふわふわとした短髪。猫のような吊り目は赤っぽい紫色。好奇を含んだ視線を注いでくるのは、クロエと同年代ほどの少年だ。
「お前、目が覚めたんだな!」
良かったと言うように頷いてこちらを覗き込んでくる少年は不躾だが、良い人そうだ。
「オレ、レヴェリー・クラインシュミット。宜しくな、クロエ!」
「宜しくお願いします、クラインシュミットさん」
「名前で良いって! 皆もレヴィって呼んでるし」
「なら、レヴィ……くん」
クロエが恐る恐る愛称で呼ぶと、レヴェリーは満足げに頷いた。
異性を、それも初対面の相手を名前呼びするなど失礼に当たりそうなものなのに、レヴェリーは気にしない気さくな性格をしているようだった。緊張するクロエの前でヴィンセントはくすくすと笑いながら同意した。
「そうそう、レヴィくんなんか畏まって呼んだり敬称付ける必要も価値もないし」
「そうそう。オレなんかに畏まったり敬称付ける必要も価値もなし――って価値もって何だよ!」
「あれ、今のって芸か何か? レヴィくんがコメディアンを目指していたなんて初めて知ったよ」
「芸じゃねーよ。お前がどさくさに紛れて変なこと言うから流されちまったんだろ」
「ふうん、そう。まあ、僕は君がコメディアンを目指そうが野垂れ死のうが構わないけどね」
飄々とした口振りでヴィンセントはのらりくらりとかわしてしまう。レヴェリーは尚も食い掛かろうとしたが、ヴィンセントは子供をあしらうように適当に聞き流していた。
良くは分からないけれど、二人は良い人そうだ。
事故か事件に遭って生きているというだけで奇跡だというのに、こんな良い人たちに助けて貰いもしたなんて、自分は一生分の幸運を使ってしまったのではないか。クロエはそんなことを考え、曖昧に笑った。