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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
三章
29/208

猫かぶりの灰かぶり 【4】

※この話は流血表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。

 血の跡が点々と続いている。

 空気に触れたからか赤みよりも黒みが強い血が床にずっと続いている。

 返り血を大量に浴びていたのはクロエも見ている。しかし、滴り落ちるほどの量ではないはずだ。

 血濡れの姿が痛ましくて、怖くて、クロエはあの時、ルイスに声を掛けられなかった。普段レヴェリーとつまらない言い争いをしたり、冷めたところがありながらも結局は優しいルイスと、目の前にいる血塗れの青年が一致させることができなくて余計に怖かった。


「私だけど、入って良い?」


 扉をノックして声を掛ける。返事はない。

 意図的に返事をしない可能性があったが、倒れている可能性もあった。


「入るよ」


 意を決して扉を開けると、雪風よりも冷たい眼差しが突き刺さった。


「……入って良いと言っていないはずだけど」


 声が今はただひたすら低い。

 机の上には返り血を拭ったのだろう赤く汚れたタオルがある。そして止血にシーツを使ったのかそちらも酷いことになっていた。


「血……いっぱい出てる……」


 窓が閉まっているので声が響く。クロエはその自分の声の震えにびくりとした。

 椅子に腰掛けたルイスは服の上から傷口を押さえていたので傷自体は見えなかったが、脇腹と、右腕の肘から手首付近までが他の箇所より濃く染まっている。白いカッターシャツは赤く汚れ、吸い切れなくなった血がぼたぼたと床に落ちて血溜まりを作っていた。

 近付くと血の臭いが濃くなり、クロエはまた目眩を感じる。


「廊下を汚してごめん。あとで掃除はするから」

「そ……そ、そういう問題じゃなくて!」


 ならばどういう問題だ、と言いたげな視線が寄越される。


「怪我しているならそんな風に起きてちゃ駄目だよ。血も出てるし、辛いでしょ……?」

「そんなことで騒がないでくれるかな」


 面倒臭げな声と共に浴びせられたその一言に、クロエは殴られたような気持ちになる。


「そんなことって……大丈夫じゃないよ……」

「大丈夫だよ」

「平気じゃないよ」


 大丈夫でも平気じゃない。ルイスは以前そう言ってクロエを助けたことがある。

 しかし、クロエが言おうとしたことを察したのかルイスの声色が一気に冷たくなった。


「じゃあ……平気でなくともキミには関係ない」


 眉一つ動かさず淡々とルイスは言い放つ。クロエは息を詰まらせる。反論の余地もなかった。

 ルイスが弱味を見せる性格ではないと分かってはいたが、ここまで突き放されるとは思わなかった。拒絶をぶつけられたクロエはたじろいでしまう。

 だが、このまま何もしない訳にもいかず、クロエはエルフェに聞けなかったことを訊ねた。


「一体何があったの?」

「…………」

「どうして二人はそんな怪我をしたの……?」

「【レミュザ】を出て【ロートレック】に降りてから敵に囲まれた。オレもレイフェルさんも近距離戦には適していないから斬られた。一応始末はしたけど一人逃がした」


 共に生活する者が怪我をした理由を知らなくてはクロエも恐ろしいだろう。ルイスもそれは分かっているのか最低限の情報を伝えたが、その内容はクロエの不安を消す材料にはならなかった。


「……始末って……」


 背筋がざわりと騒いだ。自分でも分かるほど、全身から血の気が引いた。

 【始末】とは即ち殺したということ。【逃がした】とはつまり殺し損ねたということ。

 ヴィンセント等と共に暮らして、クロエも彼等の言うことの意味が嫌でも分かるようになっている。


「キミは暫く外に出ない方が良いかもしれない」


 逃がした敵が報復しにくる可能性があるから出歩くなと、憎しみが弱い存在に向かうことを知っているルイスは事実に基づく警告をする。

 そういう細やかな気遣いは普段のルイスと変わりない。一昨日の晩――クロエがヴィンセントと揉めた日――離れの扉に鍵を掛けられて廊下でうなだれていた時、朝まで話し相手になってくれた彼らしい優しさだと思う。

 けれど、今のクロエはその気遣いが苦しい。

 ルイスは他人のことばかりだ。これでは自分の負った傷を何とも感じていないようではないか。

 視線は確かにこちらに向けられているはずなのに、クロエはルイスの焦点が何処に合わせられているのか分からない。


(どうして……?)


 初めて会った時、クロエはルイスを怖いと思った。

 ヴィンセントにあんな暴言を吐いていたのだ。おまけにクロエは突き飛ばされている。恐怖を感じて当然だ。

 あれから色々なことがあってルイスを怖いとは思わなくなったけれど、【あの日】からずっと違和感がある。そんなことはあるはずがないというのに、彼が演技をしているように感じてしまった。

 最初で最後の笑みを見た所為か、何かが脅迫じみた強さで訴えてくる。


(駄目だ、こんなんじゃ)


 一々他人の言動に呑み込まれてはいけない。呑み込まれれば傷付く。踏み込めば、絶対に拒絶される。傷付いて、また笑えなくなる。


「怪我したところ、見せて下さい」


 他人に踏み込んで節介を焼こうとする知らない自分と、踏み込むことを止める良く知った自分がいる。

 どうしようもなく臆病な自分。クロエは後者に身を委ねて、今すべきことをしようとした。

 クロエが差し出した手をルイスは振り払った。

 冷たい手に弾かれた手が、じんと熱く痛む。


「キミは人殺しの手当てをするのか?」


 軽蔑を含んだような咎めるような、それでいて哀れみ、嘆くような目が向けられる。

 視線だけで人を殺せる人間というものがこの世には存在するのかもしれない。クロエは胃が縮み、喉の奥が固く閉じるのを感じた。


「この傷が癒えれば、オレはまた人を殺すかもしれない。殺さなくとも人を傷付けるかもしれない。そうなればキミは間接的に人殺しの手助けをしたことになる。それでもキミは手当てをすると言えるのか」

「な……な、なんでそんなこと言うの……!?」

「事実だから」


 そんなことを言われてもクロエには分からない。

 ヴィンセントやエルフェ、そしてルイスと暮らしてきて彼等に情が移ってしまっている。例え、己に無体を強いるヴィンセントが怪我をしたとしてもクロエは手当てをするだろう。


放って(レセモワ・)おいて(スル・ケルク・)くれるかな(ザンスタン)


 冷めた表情ばかりだったルイスの容貌に初めて笑みが刻まれる。

 いつか見た、嘘のように綺麗で優しい笑み。

 それはクロエには今まで見たどの表情よりも冷たいものに映った。


「……ルイス、くん……」

誰にも(ジュ・ヌ・)会いたく(ヴ・ヴォワール・)ないんだ(ペルソンヌ)


 クロエは困惑を込めた相手を睨む。その視線を受け止める彼は、非現実的な冷めた微笑と共に紫の瞳を伏せた。

 情愛の赤と悲哀の青を混ぜた色は薄明かりの下では青みを増してとても冷たい。それが密な睫毛の奥に秘された様は、雪に埋もれているようで一層冷たく見える。

 氷のようだ。

 両親の死という氷の刃に突き刺され、冬に憑かれた彼は氷そのものようだ。

 美しい人は残酷だ。残酷だからこそ優しいのかもしれないと、クロエは改めて思い知る。

 クロエが何を言ってもルイスには通じない。そして、クロエは彼が何を言っているのかも分からなかった。


「……すぐお医者さんくるから、待ってて……」


 ごめんなさい、と心の中で呟いてクロエは部屋を出た。

 鈍く重い音が響く。その音が引き金になったようにクロエの中で嫌悪感が溢れた。


「…………っ」


 それはどうしても話が通じないルイスへ対するもどかしさと、己に対する悔しさの両方だ。

 クロエは自分自身を守った。下手に触れて傷付きたくなくて、ルイスの【闇】に目を瞑ろうとした。人を殺したという事実を【聞かなかったこと】にして、手当てをしようとした。その結果がこれだ。

 ボーダーラインがある。

 踏み込んで良い場所と、踏み込んではいけない場所が人間にはそれぞれある。

 ルイスは警戒心が強く、繊細だから、踏み込んで良い場所より踏み込んではいけない場所が多い。そのボーダーラインを越えようとするからヴィンセントやレヴェリーはいつも拒まれる。クロエは境界を本能的に察して踏み込まないからこそ優しくされる。

 考えてもみればクロエもルイスも上辺だけの冷めた付き合いだ。だが、それが心地良く思えるのは、根本的な人間性が似ているからだろう。

 嫌いな【自分】に触れられたくないのだ。

 強引に踏み込めば、互いに壊れてしまいそうな危うさがあった。だからこそクロエは見てみぬ振りをしようとしたのだが、その箇所がルイスの忌諱(きい)に触れた。


(分からないよ……)


 人を殺めたという罪。

 ルイスにとっての【人殺し】という行為の意味を知らないクロエは理解できる訳もない。

 詰ることも、許すこともできない。

 クロエは赤く汚れたブラウスの袖をきつく握り締め、震えながら俯いた。






 暫くの間、クロエは二階の廊下から動けなかった。

 唇を噛み締めて気持ちを落ち着けることで精一杯で、涙が零れないと思えるまでじっとしていた。どうにか心を落ち着けたクロエは一階に降り、ダイニングキッチンに入る。


「あ……そのままだったんだ」


 そういえば、エルフェとルイスが帰ってきたのは夕食の準備をしている時だった。

 焼き上がったトマトファルシはオーブンの中で冷たくなり、オニオンスープも冷製スープになった。クロエは用意した食器に埃が入らないように裏返す。

 クロエが今できることは、早く医者が到着することを願うしかない。


「……掃除しよう」


 誰に聞かせる訳でもなく、自分の心を奮い立たせる為に呟いてクロエは床の掃除をすることにした。

 リビング、ダイニングキッチン、廊下。至るところが二人の血で汚れてしまっているので、医者がきたら驚かせてしまうだろう。クロエはモップが置いてあるバスルームへ向かう。そして――――。


「あ、あなた、だれ――ッ!?」


 バスルームに入ろうとした瞬間、その中から現れたその人物はクロエの口を塞ぎ、羽交い締めにした。


「おっとお嬢さん、大きな声を上げないで貰えるかな。ご近所に迷惑だ」

「はなして!!」


 見知らぬ男がバスルームから出てきた時点で吃驚だが、そんな不審者に口を塞がれたことによってクロエは益々混乱した。精神的にナーバスになっていたクロエは暴れる。


「落ち着いて。取って食いやしないよ。……変に騒ぐなら眠り薬でも嗅がせるかもしれないけど」


 自分に害意はないと言いながら、眠り薬を嗅がせるというのは明らかに矛盾を孕んでいる。それは例えれば、平和主義者だけど殴り合いが趣味だと言っているようなものだ。

 もしやエルフェとルイスを斬った男だろうか。二人にトドメを刺しにきたのだろうか。

 人の家のバスルームに勝手に侵入している男だ。そうに違いない。

 ここでそんな男に良いようにされるのは我慢ならない。クロエは痴漢撃退とばかりに足を踏み付ける。


「い――ッ!!」


 男の腕を逃れたクロエは壁のモップを手に取り、構えた。


「貴方、何なんですか……!?」

「だ、大丈夫。私は怪しい者じゃないよ」

「信用できると思いますか……?」


 ホールドアップする男をクロエは油断なく見据える。

 男は白衣を思わせる丈の長い白コートに、ガウンのような前合わせのインナーを合わせている。

 他人の服装にケチを付けるつもりはないが正直、怪しい。爽やかな声で宥められてもちっとも安心できない。寧ろ、胡散臭さが増していく。目の前にいる男は兎に角爽やかで、清廉潔白を訴えるかのようなその清涼感が胡散臭くて仕方がない。

 廊下から足音が聞こえた。足音は近付いてきてバスルームの前で止まる。


「クロエ、何してんだ……って!? ファウスト先生、あんたこんな所で何やってんだよ」


 バスルームのドアを開けたレヴェリーは、睨み合うクロエと白服の男を見比べてげんなりした顔をした。


「おい、セクハラ医師。クロエに何かしたのか?」

「失礼だな。私はまだ何もしていない」


 ファウストと呼ばれた男はやたら真剣な低い声でそう言ったが、【まだ】とはどういうことだ。クロエは疑う。


「レヴィくん、この人は何?」

「エルフェさんの兄貴。医者だよ」


 とんでもない一言を聞いた気がしてクロエは頬を引き攣らせる。

 よくよく見てみれば、星が煌めくような銀灰色の髪はエルフェと同じだ。レヴェリーとルイスが双子と聞いた時よりも遥かに説得力が感じられる。

 クロエは背筋に冷たいものが走るの感じ、思い切り頭を下げた。


「ご、ごごめんなさい!!」


 怯えるクロエの前で、ファウスト・カヴァレーラ・ルウ・レイヴンズクロフトはやれやれと肩を竦める。


「いや、まあどうでも良いけどね。痴漢に間違われたことなんてどうでも良いよ、忘れるから。――ということで君たち、私を患者の元へ案内してくれるかな。ああ、レヴェリーはその道具を持ってきなさい。そっちの液を使って消毒して。勿論、手をきちんと消毒してからね」

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