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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
三章
26/208

猫かぶりの灰かぶり 【1】


(ね、寝坊したっ!)


 不味い。この状況は非常に不味い。朝から甚振(いたぶ)られることが決定したに等しい。

 中庭を挟んだ離れの一階、バスルームの鏡には情けない泣き顔のクロエが映っている。

 前髪が癖毛で左側に跳ねてしまっている。クロエは必死に直そうと格闘する。雨の日も悲惨なことになるが、今日の寝癖もかなり酷い。ブラシとドライヤーで頑張ってみるもののさっぱり直らない。取り敢えず、身嗜みを整えるのは後回しだ。

 早く主屋に行かなければと焦るクロエは、シュシュで髪を束ねると胸にエプロンを掛けて離れを出た。

 従僕という名の家政婦の朝は早い。

 誰よりも早く起きて、冷暖房で家を快適にして、軽く掃除をした後に朝食の準備をしなければならない。

 しかし、今朝クロエは寝坊をした。あたたかい布団の中で「あと十分だけ」とうとうとしている内に二度寝をしていたようで、気付けば四十分も経っていた。結果として三十分の寝坊をしたクロエは、朝から【ご主人様】にいびられることが決定した訳だ。


(自業自得なんだから……)


 靴底に付いた雪をマットで落として主屋に入る。

 この廊下の右は店へと繋がっており、左はダイニングキッチン、リビング、バスルームに繋がっている。


「お早う御座います……」

「ああ」


 クロエが恐る恐るキッチンのドアを開けると、短い返事が返ってきた。

 程良く暖められた部屋に、焼き立てパンの甘酸っぱい香りとコーヒーの芳ばしい香りがほんわりと漂う。見ると、淹れたばかりのコーヒーを立ったまま飲んでいるエルフェの姿があった。

 店では丁寧にコーヒーを淹れているエルフェは、家ではインスタントで済ませてしまう。彼は店に出すものには手を抜かないが、自分が摂取するものには無頓着で、レギュラーコーヒーを淹れる時間が無駄だという合理主義な面があるのだ。


「す、済みません!」


 ドアの前に立ったままクロエは頭を下げた。

 朝食の準備する前にパンを買いに行くのがクロエの日課だ。だが、今日は既にテーブルの上にはパンの入った紙袋が置いてあり、エルフェが買いに行ってしまったことを知らせている。


「あんたがくる前は俺がやっていたことだ」


 それは「気にするな」ということだった。

 大人の寛容さにクロエは恐縮するばかり。


「ヴィンスなら暫く家を空ける。あいつの分の食事は作らなくて良い」


 びくびくと怯えるクロエに、エルフェはヴィンセントがいないことを伝え、コーヒーカップをテーブルに置いた。

 朝食の準備を手伝わなければと、クロエは急いで手を洗う。クロエはまな板の上にあった野菜類を水洗いして、サラダの用意をするエルフェに渡した。


(お仕事なんだ……)


 先日、あることで揉めてしまってからクロエはヴィンセントとの関係が拗れている。

 客観的に見ればそれは明らかにヴィンセントが悪く、クロエに非はないのだが、この家では彼の言うことが正義だ。クロエを含む居候の運命は、彼の匙加減によって決まると言っても過言ではない。

 付き合いが長いレヴェリーや、ヴィンセントを敬う気がないルイスはあまり気にしないが、クロエは彼の機嫌の良い時と悪い時の態度の落差に畏縮するしかない。

 そんな恐怖の対象が家を空けることはクロエにとっては救いだ。

 けれど、不在を手放しで喜ぶほどかの人物を嫌っている訳でもないクロエは複雑さを感じてしまった。


「料理は母親に習ったのか?」

「ん……どうなんでしょうね」

「どうなんでしょう、とは」

「恥ずかしながら、私のお母さんは料理がからきしだったので……」


 子供がそのまま大きくなったような人。一言で言えばそういう人だった。

 蜜柑色の巻き毛に、くっきりとした二重瞼の双眸はクロエよりも少しだけ青みの強い碧眼。誰からも美人と言われるほどの容姿ではなかったが、それでも雰囲気が華やかな人だった。

 陰気で酒浸りな父親とは不釣り合いとも思える、童女のように奔放な母親。親が社交的で気が強いと子供は内向的になるという話があるが、クロエと母親はまさにそんな感じだ。


「私の料理は施設でお姉さんに教えてもらったようなものですね」

「……そうか」


 クロエは切ったトマトをソースと和える為にボールに入れる。

 野菜にも魚介にも獣肉にも相性抜群の特製ソースはまだ作っている最中だ。サラダの仕上げをエルフェに任せることにし、クロエはフライパンに油を注いだ。


「そういえばレヴィくんとルイスくんは? お散歩じゃないですよね」

「まだ寝ている」

「珍しいですね」


 レヴェリーはたまに寝坊をするものの基本的には自分で起きてくる。ルイスもあの性格なので人を煩わせることはしない。そんな双子が揃って起きてこないのは珍しかった。


「メイフィールド、起こしてきてくれるか」

「私がですか?」


 フライパンを温め始めていたクロエはどうしようかと悩む。

 エルフェの頼みを断ることもできないが、仕事を途中で投げ出すのもどうかと思ったのだ。

 ただでさえ今日は寝坊をして、掃除と買い出しという作業をエルフェにさせてしまった。それなのに料理まで任せてしまったら従僕失格だ。


「俺が代わろう」

「え……あ、お願いします」

片面焼き(サニーサイドアップ)か、両面焼き(ターンオーバー)か」


 器に移した卵が一つということから目玉焼きを作るのだと察してくれたらしい――滑らかな目玉焼きを作る為には卵をフライパンに直接落としてはいけない――エルフェは、どちらが良いかと訊いてくる。


「片面焼きが良いです」

「分かった」


(エルフェさんの目玉焼き)


 想像すると、とても美味しそうなものに思えた。

 いつもならソースを掛けてしまうけれど今日は塩と胡椒で食べよう。そう決めてクロエはキッチンを出た。






「レヴィくん朝だよ、起きてる? 入るよ?」


 ノックをして声を掛けても返事がないので、クロエは部屋に足を踏み入れた。

 片付けることが苦手なのか――本人は勝手に物が散らかると主張する――雑然とした部屋。

 掃除好きなクロエは片付け甲斐がありそうだと良い方に考えながら、再度声を掛ける。


「レヴィくん、朝だよ!」

「キャラメルとストロベリーは喧嘩なんかしないんだよ!」

「え!?」


 一体何事だと様子を窺えば、レヴェリーはまだ寝ている。

 どうやら今のは寝言らしい。


「……えーと……」


 何の夢を見ているのか気になるところだが、起こさなければならない。折角の休日なのだから寝坊させてやりたいのは山々だ。しかし、このままではレヴェリーはエルフェに叱られることになる。


「キャラメルとストロベリーは仲良しだから取り敢えず起きよう? エルフェさんに怒られるよ」

「……あー……うん……?」


 エルフェに怒られるという言葉で飛び起きたレヴェリーは、気の抜けるような返事をして首を傾げる。その拍子にココナッツブラウンの髪が肩を滑る。寝起きでぴょこぴょこと跳ねている猫毛から、いつも以上に幼く見えてしまってクロエは眦を下げた。


「おはよう」

「……クロエか……って、オレ何か言ってなかった?」

「べ、別に何も聞いてないけど?」

「そっか、良かった……」


 レヴェリーのほっとした様子からするに、聞かれることが恥ずかしい夢だったらしい。

 クロエは、キャラメルとストロベリーが喧嘩していた夢でも見ていたのかと訊ねることは止めておいた。


「ルイスくんもまだ起きていないんだけど、二人で夜更かしでもしたの?」

「あいつ、ちまちましたの得意だからゲームも上手いかと思ってやらせてみようとしたんだけどさあ」

「みようとしたんだけど?」

「世界観が非論理的だとか抜かしやがって、途中から何やってんだか分からなくなった……」


 確かに言いそうだ、とクロエは苦笑するしかない。


「次はシューティングものだな。リアルで銃使ってんなら得意なはず」

「そういう問題でもないような……」


 レヴェリーの言うそれは、ゾンビやヴァンパイアといった架空のお化けを銃で倒していくゲームだ。クロエとしては、ルイスを刺激しないような平和的なゲームをさせて欲しいと思う。

 けれど、どんな形でもレヴェリーがルイスと交流を図ろうとしていることは嬉しかった。


「じゃあ、ご飯できるから早めに起きてね。私はルイスくん起こしに行くから」

「おう……って、待てクロエ! あいつは――」


 寝ぼけ眼を擦るレヴェリーははっとしたように声を張り上げる。

 だが、クロエはレヴェリーの言葉を聞く前に部屋を出て行ってしまっていた。






 中庭を一望できる二階の角部屋は、クロエが目覚めた当初使っていた部屋だ。

 こぢんまりとしながらも暮らすのに不便は感じない広さのある、西向きの部屋。


「さ、さむ……っ」


 朝陽は入らないのでひんやりと冷える。しかし、この寒さは尋常ではない。部屋に入った瞬間、首を竦めることになったクロエは窓が開いているのを発見して慌てて閉めた。

 一月下旬から三月までは兎に角冷える。今年は初雪こそ遅かったものの、冬の寒さが厳しい。


(どうしてこの人は自分を大切にしてくれないの)


 身体が丈夫でないのなら、人以上に気を付けなければ駄目ではないか。これでは身体を壊してしまう。


「朝だよ、ルイスくん……」


 あまりに静かに寝ているので、凍死しているのではないかと不安になる。

 起こす起こさないの前に生きているか不安で、手を伸ばして肩を叩く。その冷たさに驚いた。

 羨ましくなるほどに長い睫毛が小さく震える。息があることにクロエはほっと胸を撫で下ろした。

 寝息も小さく、横向きで自分を守るように少しだけ背を曲げて眠る姿は猫のようだ。レヴェリーは人間に飼われている犬が安心しきった様子で寝ている様を彷彿させるので正反対だ。

 社交的で物怖じしない兄と、内向的で警戒心の強い弟。クロエはルイスを弟だとは思わないが、レヴェリーが兄面をしたくなる訳も分からないではない。ルイスは危なっかしくて放っておけないのだ。


「あれ……?」


 クロエは枕下に銃があるのを発見した。

 枕元にこんなものがあっては危ないだろう。サイドテーブルの方へ退けようと手を伸ばす、その瞬間。


「――触るなッ(トゥスュ・モワ・パ)!」


 銃ではなく、まるで自分に触れるなというように発せられたその声は空気を震わせる。

 銃口が眉間に向けられ、クロエは悲鳴さえ上げられずに目を見開く。拳銃を手にしたルイスも大きく目を剥いた。

 殺意と恐怖と戸惑いとがぐしゃぐしゃに入り混じった眼差しだった。それはクロエが今まで見た中で一番無防備で、一番人間らしい表情だったかもしれない。


「……ごめ……ん」


 ルイスは強張った腕に右手を添えて戻し、銃の安全装置(セイフティー)を戻すと、目眩が酷そうに枕に突っ伏した。


「だ、大丈夫?」


 まだ心臓が騒いでいるのを感じながらクロエは躊躇(ためら)いがちに訊ねる。

 施設で低血圧の弟がいたのだが、こんな感じだったのだ。

 目眩が酷くて起きられなくて、起き上がってもふらふらしていて、午前中は調子が具合が悪そうで。その弟はいつも早めに起きて体調を整えていたのをクロエは思い出す。


「ごめん、すぐ起きるから……。起こしてくれて有難う」


 ルイスは確かに捻れたところもあるが、礼や謝罪をしっかりするところから根の素直さが感じられる。

 銃を向けられて寿命が縮む思いをしたものの、勝手に部屋に入られて護身用の武器に触れられたら驚いて当然だ。心を落ち着けたクロエは、臥したままのルイスに話し掛けた。


「先に紅茶でも持ってこよっか?」

「……良いの……?」

「うん、待ってて」


 甘えて良いのかと困惑するような硬い声にクロエは大きく頷く。

 まずは何かを胃に入れて身体をあたためた方が良い。紅茶に添えるのはキャラメルとストロベリージャムにしよう。そう思った。






 朝食後、部屋の掃除を含めた後片付けも終わり、午前の紅茶(イレブンジィス)の用意を始めようかという頃、漸くルイスは顔を出した。


「おはよう。具合は良くなった?」

「……さっきはごめん」

「ううん、気にしないで」


 銃を向けてしまったこと、そしてアーリーモーニングティーを用意させたことをルイスは詫びた。

 普段通りの様子にクロエはほっとする。だが、レヴェリーは心配な顔をして片割れの顔を覗き込んだ。


「大丈夫か、ルイ。まだ寝ていた方が良いんじゃないか?」

「ヴィンセント・ローゼンハインがいないからここ最近では一番調子良いよ」

「お前なー」

「大体、キミに心配される筋合いはない」


 ルイスは鬱陶しいと言うようにレヴェリーの肩を押して突き放す。


「あー……まあ、水分は控えとけよ。辛くなんのはお前なんだから」

「……分かってるよ」


 ルイスのいつにも増して刺々しい態度は痩せ我慢だとレヴェリーは呆れるが、しつこく言い聞かせても逆効果にしかならないと分かっているようで、すぐに切り上げる。

 そうして遠ざかってゆく兄の背に、弟は複雑な感情を内包した眼差しを向けていた。


(大変だったんだろうな)


 児童養護施設【アルカンジュ】は小舎制の体制を取っており、十人程度の団体に分かれて生活をしている。

 小舎制の良いところは小集団である為に家族的な雰囲気の生活を営めることだ。

 だが、それ故の難点もある。

 それは、もし一つの舎の中に身体に不具合を抱える者がいれば、その舎の皆に日常的に迷惑を掛けることになるということ。施設の兄弟は家族のようでいて本当の家族ではない。先生も一人に掛かりきりになることはできない。

 恐らく、レヴェリーとルイスは苦労している。

 【アルカンジュ】で過ごす日々の中、レヴェリーはルイスを守ることに必死だったのだろうし、ルイスは皆に迷惑を掛けない為に【平気】でなくとも【大丈夫】だと振る舞わなければならなかった。

 そういう経験からレヴェリーは今でもルイスを守ろうとする。ルイスはそんなレヴェリーに負い目を感じているからこそ、突き放すような態度を取ってしまうようにクロエは感じた。


(私に何かできないかな)


 双子の間にある溝は、付き合いの短いクロエには到底理解できるものではない。それでも彼等が語る【十年前】に無関係という訳でもないクロエは――寧ろルイスにとっては加害者だ――自分に何かできないかと考えた。

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