番外編 あなたは美しいが冷淡だ ~side Vincent~
※この話は暴力表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。
二月はどんよりとした鉛色の空から雪が落ちてくるばかりで、滅多に青空を拝むことはできない。
珍しく晴れた今日、レヴェリーとルイス、そしてエルフェはヴァレンタイン侯爵令嬢エリーシャ・ローゼの招待で茶会に行った。
誰もが外出をしたくなるような、からりと晴れた青空が広がる午後。長椅子に座ったヴィンセントの眉根はきつく寄っている。
【上】に提出しなければならない書類を纏めているヴィンセントは、蒸留酒を垂らした濃い紅茶を啜りながら、ここ数ヶ月を振り返る。
この半年は特に忙しい。誰が殺された誰の敵討ちだとそんな話が頻繁に入ってきて応援に呼ばれる。
(そろそろ考え方を変えるべきじゃないのかな)
【上】は外法――つまり【下】の者を武力で押さえ付けているのが現状だが、それもいつまで持つだろうか。
何故自分たちがこのような扱いを受けねばならないのかと嘆き、恨み言を吐きながら死んでいく外法たち。彼等の息の根を止めるのは、ヴィンセントも属する【上】の狩人――ハンターや騎士とも言う――だ。
【上】は現場の仕事を狩人に任せきりで、本当の意味で現状を知りはしない。
ろくな食物が育ちもしない【下】で暮らす者たちは略奪をしながら生きている。日々気が狂うような飢えに苛まれながら、時に同族を食らって生きている。
赤い目の民。新人類。
人間は己と違うものを排斥する。己と違うものを作り出したのも人間だというのに、理不尽に使って不要となれば塵よりも酷く捨てた。
捨てられたなら捨てられた者同士、協力していけば良い。けれど、化け者の中でも差別というものがある。
やはり【上】が【下】を理解するなど無理な話だろうか。纏めていた報告書の一部を消去し、ヴィンセントは長椅子の背凭れに背を預けた。そんな時、視界の端で金糸が揺れる。
(可哀想な置いてきぼりさん)
金糸の正体は、茶会へ連れて行って貰えなかったクロエだった。
天敵と二人きりになったクロエは面白いくらいに怯えていて、ヴィンセントは嗜虐心がそそられて困る。
クロエはヴィンセントと絶対に目を合わせようとしないし、なるべく視界に入らないところで行動するような涙ぐましい努力が何とも健気だが、滑稽でもある。
距離を置かれている事実をヴィンセントは理解している。だからこそ苛めてやりたくなるのだ。
「さっきから下手な鼻歌口ずさんだりして何なの? 僕の作業妨害とか?」
「え……っ、違います!」
何かを胸に抱えてリビングとキッチンを行ったり来たりしていたクロエは必死に否定した。
クロエはこれまでの経験からヴィンセントに話し掛けられると条件反射でびくりと肩を揺らす。
そうして自分の気持ちを押し隠すこともできないから、からかい甲斐もあるし、苛めたくなるんだよと心の中で言いながらヴィンセントは手招きした。
「何ですか」
「それ何か見せて」
鉢植えなので中身は花だろうことは想像できたが、あまり視力が良くないヴィンセントは遠目からではそれが何か判断できなかった。
ここに置くようにと広げていた書類を退ける。クロエはそこへ鉢植えを置いた。
「へえ、冬紫陽花か。珍しいけどどうしたの?」
「ルイスくんが妹さんにあげるそうで、序でに貰ったんです」
クリーム色に近い、極々淡い青色をした紫陽花。
品種改良されたもので、ぽってりとした大きな花弁が特徴の冬紫陽花は一月から三月が盛りだという。
「青みの強いものをマダム・イヴェール。赤みが強いものをスプリング・エンジェルっていうそうです」
「ふうん、そうなんだ」
「でも、どうして言語が違うんでしょうね。イヴェールってシューリス語で冬ですよね?」
「さあ? シューリスとジャイルズの共同制作なんじゃない」
「はあ……」
しゅんと落ち込むクロエは、一体どのような答えを期待していたというのだろう。
「だって花なんて食べても美味しくないし、興味ないからさあ」
別に食に執着がある訳ではない。ただ、この世のありとあらゆるものの価値をヴィンセントは食物(もしくは金)で計る。それは食物が生に直結したものであるからだ。
「美味しいお花もありますよ」
「例えば、どんなの?」
「薔薇や菫の砂糖漬けとかアイスクリームです。見た目も綺麗ですし、二度美味しいです」
「僕、甘いもの嫌いだって言わなかったっけ……?」
自分が甘いものを好むから他人もそうだと考えているらしいクロエは実に短絡的だ。
昨日の夕飯のフルーツスープは甘過ぎて砂糖を吐くかと思ったヴィンセントだ。
怯えて顔色を窺おうとする癖に、稀に嫌がらせかと思うような大胆なことをするクロエをヴィンセントは睨む。
「……で、でも、本当にお花は良いですよね。見ていて心が和みますもん」
日陰に置くべきだけれども、何処に置こう。
どうやらクロエが先ほどからリビングを彷徨いていたのは紫陽花を置く場所を探していたかららしい。強引に話を転換した彼女は軽やかな足取りで部屋をぐるりと回る。
「…………ふうん」
怯えて挙動不審になっているか、怒りや絶望で震えているか、自信なく伏せられているかの勿忘草色の瞳が今日の空の色のように明るくきらきらと輝いていた。
こういう顔もできるのか、とヴィンセントは意外に思う。
純粋に驚いた気持ちと、そして不快感。そう、驚き以上に不快感があった。
「女って単純だよね。優しくされるとすぐに騙される」
「は、はい?」
「君も花とか貰うと嬉しいの?」
「綺麗ですし、きっと皆さんの目の保養にもなります。嬉しいですよ」
異性に花を貰って喜んでいるなどはしたない。浅ましい。
「あの子もあの子だ。花の美しさなんて分からないはずなのに、恰も分かるように振る舞うんだもんね」
「……ヴィンセント様はどうしてそういうこと言うんですか」
「言ったよね、ああいうのを見ていると捻り潰してやりたくなるって」
自分の昔を見ているようで苛付く。家族の為に尽くしたって何もないのに、莫迦みたいだ。
彼の不安定な心は面白いと思う。情操がごっそりと削ぎ落とされているのに――ヴィンセントが加害者である――感情を持っているように振る舞う、本当に良くできた【人形】だ。
笑んでいる振り、怒っている振り、そして優しい振り。
嫌味の応酬に興じるのは本当にただの気紛れで、そこには何の意味も感情もない。
ルイスはヴィンセントと同じ出来損なった側の存在だ。ただ違うのは、まだ【誇り】を失っていないこと。
己がどうなろうと、家族という誇りを守りたいとルイスは言った。だが、ヴィンセントは違う。家族がどうなったとしても自分のことを優先とする。傷付くのは自分以外の誰かで、守るべきは自分だ。
「本当に、気に食わないなあ」
中途半端なくらいなら、いっそ堕ちて壊れてしまえば良いのに。
同族嫌悪とも言うに言えないどす黒い気持ちを処理すべく、対象を定める。そしてヴィンセントはテーブルの上の鉢植えを薙ぎ倒した。
重たい音を立てて落ちた鉢植えは床にぶつかった衝撃で見事に割れ、土も花もぐしゃぐしゃになった。
「な、何するんですかあっ!」
クロエは情けない声を上げて、駆け寄ってくる。
「何するって?」
「壊すなんてあんまりです」
それは非難をたっぷりと含んだ硬い声。
普段は借りてきた猫のように大人しい癖に、生意気だ。鉢植えの破片を拾おうと身を屈めるクロエの髪をヴィンセントは引っ張り上げた。
「い……いた……っ!」
三つ編みで結い目をぐるりと囲まれた、さっぱりとしながらも凝ったポニーテール。その金髪は地味なクロエの取り得でもあって、店の客からも「綺麗な髪だね」と褒められているのを見る。
大切な髪を引っ張り上げられてクロエは悲鳴を上げる。
「痛いです、離して下さい……!」
「良いの? 僕が手を離したら君は破片の上に倒れて傷だらけになっちゃうよ」
「――――ッ」
「君さあ、下僕なんだから大人しくしなよ」
危害を加えられたいのかと言わんばかりの言葉を聞いたクロエは大人しくなった。
そうして眉を寄せて耐えている少女の髪をヴィンセントは解いた。ばさりと広がる金色の髪はまるで黄金の滝のようだ。
「長ったらしく伸ばしてお化けみたいだね」
「だ……だったら……切りましょうか……」
「僕が命じたらそうするの? 例えばここで服を脱げと言ったら君は従うの? 君には自主性がないわけ?」
「……あ、あなたが…………」
「何、聞こえない。もっと大きな声で言って」
「……貴方が、従わなきゃ殺すと言うからじゃないですか…………」
勿忘草色の双眸が大きく揺れ、溢れた涙が頬を伝ってぼたぼたと落ちる。
季節外れの紫陽花に、涙の雫が染みてゆく。
(泣いて何かが変わるのか、愚かな子供?)
ヴィンセントは女の涙が嫌いだ。それは苦手という意味ではなく、厭わしいという意味でだ。
女の武器を軽々しく使うような存在には失望するしかない。エルフェはこれを苦手としているようだが、ヴィンセントには意味が分からない。女の涙などただただ不快でしかない。
「良いよ、切らなくて。売る時に髪は長い方が価値があるからね」
不快感に突き動かされるがままに、泣いたことも責めようと思った。だがそうすればクロエは益々泣きそうに感じられて、面倒になったヴィンセントは書き掛けの書類を掴むとリビングを出た。
乱暴にドアを閉じる。扉の向こう側から押し殺した嗚咽が聞こえてきた。
「金髪碧眼の癖に……」
『ちょっと! 女の子の髪を引っ張るなんてサイテーだよ、君!』
ヴィンセントは金髪碧眼という恵まれた容姿をしている人間が嫌いだ。それを見ると、否応無しに出来損なった瞳を持って生まれてきた自分と、ある人物のことが思い出してしまう。
金髪碧眼、涙という武器を使う女。そういう意味でクロエは最悪の存在だった。
「……ディアナじゃない癖に」
十年前のあの事件があったからクロエに辛く当たる訳ではなかった。
ヴィンセントの半径というものはとても狭い。ただ、一度その半径内へ入ったものには強く執着する。言ってしまえば、半径外の存在は全てどうでも良いのだ。そして半径外の中にも分別がある。男と女という性差だ。半径外の中でも特に女はどうでも良い。誤解がないように言っておくと、男が好きな訳でもない。
そんな男尊女卑のヴィンセントも一度だけ恋というものをしたことがある。もう何年も昔に、チームを組んでいたディアナという金髪碧眼の娘だ。
【赤頭巾】の名を持つ外法狩りの魔女。
女の癖にでしゃばって、金髪碧眼の恵まれた容姿の癖に着飾りもしないで、髪の毛もぐしゃぐしゃで。色々な意味で腹が立ったヴィンセントは彼女の髪を引っ張った。結果、蹴られた。迂闊にも惚れた。
蹴られて惚れるなんて不味いのではないかと思いもしたが、彼女のその鮮やかさに憧れたのだ。
『エルフェくんとヴィンスくんってできてる?』
『はあ? お前、何言ってんの? 頭腐ってる?』
『だって、わたしが入り込めないくらいに親密じゃない。二人して狡い』
男の友情に女の自分が入れないことをディアナはいつもむくれながら愚痴った。
男と女の友情が例えあったとしても対等にできる訳がない。何せ二人共にディアナに憧れていたのだから。
だが、ヴィンセントは光に触れたい訳ではない。輝きを奪うのではなく、見惚れていたかった。
【普通】ではない存在が人間の娘と一緒になれるはずがない。だから、譲ったのだ。
友人として好きなエルフェに、異性として好きなディアナを譲った。
大好きな二人が一緒になればそれ以上に嬉しいことはない。もしそんな大好きな二人の間に子供が産まれたらその子も好きになれる自信がある。歪んでいると言われようとも構わない。ヴィンセントの【愛】とはそういう形なのだ。
それなのに、ディアナは裏切った。
ディアナが選んだのはエルフェでもヴィンセントでもない、毎日酒場で飲んだくれているような男だった。
『わたし、お母さんになるの』
身篭ったという事実よりも組織を抜けるという話にぞっとした。
【上】の内情を知った者を組織は野放しにしておかない。きっと金を出して狩らせるだろう。
『子供を守りたいなら別に組織を抜けなくても良いだろう。寧ろ【上】にいるべきだ』
『わたし、もう嫌なの。戦いとか殺しとか、嫌なの』
『【赤頭巾】が戦いに臆しただって……?』
『外法狩りの魔女は死にました。わたしはそういう奴です』
『ディアナ……』
『美味しいもの食べて、花でも育てながらあの人とこの子と生きていくの。それが、わたしの夢』
夫と子供とささやかでも良いから人並みの生活をしたいと言って、ディアナは組織から姿を消した。
行方を眩ましたディアナを組織は血眼になって探したが、誰も彼女を見付けられなかった。
そうして二十年近くの年月が流れ、ヴィンセントはディアナの痕跡を偶然に拾う。
結論から言うと、ディアナは夢を叶えられなかった。
夫に暴力を振るわれて子供を置いて逃げてしまったとのことだった。
『だからあいつを選べば良かったのに』
ヴィンセントは自分の期待を裏切ったディアナを恨んでいるが、それ以上に彼女を狂わせた男とその子供に強い殺意を覚えた。男は何年か前に死んでしまったようだが、子供は今ものうのうと生きている。
『ねえ、ヴィンスくん。わたしと約束しよう?』
ディアナは美しいが、残酷だ。ヴィンセントは彼女の瞳は勿忘草色ではなく、紫陽花色だと思う。
あの澄み切った双眸は冷淡で移り気の花言葉を持つ、冷たい青色をした紫陽花だ。
『私だって精一杯生きているんです……!』
同じ淡い瞳でありながら冷たさは微塵もなく、ただ優しい勿忘草色。
あの日、その目が開いた瞬間から忌々しくて仕方がない。
「大嫌いだよ」
ヴィンセントはクロエのことが嫌いだ。
例えこれから何があろうと永劫に。
彼女が彼女である限り、ヴィンセントはクロエを許すことはできないだろう。