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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
二章
21/208

閑話 Cendres de Reve 【3】


「ご馳走様でした」


 ノンアルコールの食後酒を飲み干すと喉の辺りがすっきりとした。

 皆も丁度、飲み終えたところだった。クロエは膝に敷いていたナプキンをテーブルに戻す。


「メイフィールドさん、お腹一杯になった?」

「はい、なりました。とても美味しかったです」

「そう、良かった。じゃあ会計宜しくね」


 半リットルのワインを飲んだヴィンセントは恐らく酔っている。普段以上に絡み癖が酷く、食事を終えるまで猫撫で声で何かを言われる度にクロエは喉を詰まらせた。しかし、食事後までも息を止めさせられることになるとは思いもしなかった。


「あの……お会計って?」

「主人と同じ席で食べさせてやっているんだ。下僕が払うのは当然だよね」

「え……っ!」

「もしかして、持ち合わせがない? だったらここで下働きでもして払わなきゃならないよね。頑張ってね」


 ヴィンセントの目は本気だった。

 こんな言葉の通じない店に置き去りにされるのかとクロエは絶望する。

 この金髪の男の外見と中身が一致しないことは今までの経験から分かっていたが、持ち上げてから突き落とすなんて酷い。悪魔……とクロエは睨むものの、ヴィンセントは悪辣とした笑みでそれをかわしてしまった。


「ほらメイフィールドさん、早く勘定をしなよ」


 給仕を呼んで、伝票を渡して、払う金がないと告白する。それだけの行動なのに気が重い。

 腹黒、悪党、陰険、ろくでなし、人でなし、変態、悪魔。可能な限りの罵倒を頭に思い浮かべてみる。

 だが根が善良なクロエだ。罵倒言葉のボキャブラリーが少なく、ルイスのような捻りのある嫌味は思い付かない。


「う……」


 情けないが、ここは従うしかない。恥を掻くことを承知で給仕を呼ぶ。そして伝票に手を伸ばした時、寸前でそれは奪われる。


済みません(スクーズィ)勘定をお(イルコント・)願いします(ペルファヴォーレ)


 流暢なファルネーゼの言葉と共にカードを添えた人物がいた。

 ヴィンセントは当てにならなければ、レヴェリーも同じ軟禁の身なので纏まった金がない。だからといってルイスが助けてくれると思いもしなかったクロエは驚く。


「あれ、奢ってくれるの? 太っ腹だね、やっぱり金持ちの息子は違うなあ」


 ヴィンセントは嫌らしく笑う。それは紛れもない嫌味だ。


「金なんてオレには必要ありませんから。幼気な女子を甚振る先輩にはうんざりしました」

「その女の子に銃突き付けて拉致ったのは何処の誰だっけ?」

「先輩の分は差し引いて後で請求させて貰います」

「金は必要ないって言わなかった? 一言を翻すなんて男としてどうなのかなあ、女顔の小侯爵」

「先輩の為に金を使うなら、犬にケーキでも買ってやりますよ」


 噛み合っているような噛み合っていないような会話に、穏健派のクロエとレヴェリーは青くなる。


(ど、どうしよ……)


 ここは助けてくれたルイスの肩を持つべきなのだろうが、クロエはヴィンセントが怖い。歯向かえば真横に座るこの悪魔に何をされるか分からない。クロエはだらだらと冷や汗を流すしかない。


「そ、そういや、ヴァレンタインの別宅に十三匹もいるんだよな! ティラミスとマロンクリームとヴァニーユとカスタードはでかいから、餌代大変だろっ?」


 クロエが板挟みで動けないと知ったレヴェリーは、苦し紛れにルイスの意識を逸らそうとする。


「ヴァニーユはお前にめっちゃ懐いてたよな。毛並みも良いし、賢いし、枕にしたら丁度良さそう……じゃなくて! まあ……その何だ、今度兄ちゃんと散歩に行こう!」


(レヴィくん、それ地雷だと思う!)


 レヴェリーはその事実に未だに気付いていないようだが、クロエは知っている。

 兄を自称することは地雷だ。その言葉はルイスに凶器を向けて喧嘩を売るようなものだ。

 夜空のような色の双眸が、似て異なる色を持つ目を見返す。レヴェリーは息を呑む。

 こういう時に頼りになる大人(エルフェ)はここにはいない。ここにいる大人(ヴィンセント)は背ばかりが高いだけで、反面教師にしかならない悪党だ。クロエは改めて自分がろくでなしたちに囲まれている事実に気付く。

 給仕が戻ってくる頃には死人が出ているかもしれない。そうして真っ青になっていたクロエだったが、その絶望を察したのか、はたまた気紛れか、ルイスはヴィンセントへの敵意を引っ込めてレヴェリーの話題へ乗った。


「レヴィ、キミはヴァニーユとエクレールを間違えていると思う」

「ん……? ヴァニーユってちっこいのだったか? つーか、全部菓子の名前付いてたら覚えらんねーし」

「オレは覚えられるよ」

「そりゃお前の犬だもんな」


 レヴェリーとルイスの間で普通の会話が交わされている。

 そういえば、子犬の飼い主を探した時も動物好きの片鱗が見えていたなとクロエは思い出す。黙って双子を見守るクロエは、横から舌打ちが聞こえて胸が冷たくさせられた。


「あーあ、折角メイフィールドさんに世間の厳しさを教えようと思ったのに残念だなあ」

「ヴィンセント様のお蔭で、世知辛さなら充分味わってます……」

「それにルイスくんも酷いよね。人様を下等動物以下に扱うなんて失礼にも程があるよ」

「差別は駄目です。犬は私たちに近い存在じゃないですか」

「僕はね、犬猫が大嫌いなんだ。優しくしても見返りもないし、焼いても不味いし、何の足しにもならない」


 犬猫好きのクロエはショックを受ける。

 スラム街では皮を剥いだ犬を吊して売っていると何かで聞いたが、冗談だと思っていた。魚にしてもそうだ。自分たちが普段何気なく口にしている食材も、正体を知れば実はとんでもないものかもしれないのだ。

 色々な意味で疲れた気持ちになりながら、クロエは給仕がくるのを待つのだった。






「ああ、寒い。こんな塔(アルケイディア)を造る技術があるなら、空もドームで覆えば良かったのに」


 落ちてくる雪を忌々しげに睨むヴィンセントは本当に寒さに弱いらしい。

 一緒に出掛けることがなく、殆ど家の中だけの付き合いだったクロエは、ヴィンセントがそこまで苦手にするものがあるのかと新鮮に感じてしまう。


「そんなに寒いですか?」

「僕はね、生意気な子供と犬猫と冬が嫌いなんだよ……」


 寒さの所為かヴィンセントに覇気がない。店での絡み癖が嘘のように大人しくなっていた。

 進んでゆくのは見慣れたようで見慣れぬ、夜の【クレベル】の街。

 窓から漏れる明かりがぼんやりと照らす、雪化粧が施された赤レンガの街並み。思わず溜め息がこぼれるほどに美しい光景に、クロエは不思議な気分になる。


「夢みたい」

「夢?」

「こんな綺麗な景色の中にいるのが不思議なの。消えてしまいそうで怖いかも……」


 クロエの言葉を聞いたレヴェリーは笑った。

 呆れを滲ませた笑みに、クロエは恥ずかしい気持ちになる。だが、漠然としたその違和感のような不安は消えなかった。そんな様子を見てルイスがふと口ずさむ。


「夢の灰」

「ゆめのはい?」

「【ロートレック】で人気の芝居だ」


 人間の人生は儚いからこそ美しいという内容だよ、とヴィンセントは説明してくれた。

 不幸があるから幸福があり、幸福を知るからこそ不幸を感じる。人間の人生はそんなものだ。


「ねえ、メイフィールドさん。君にとって今は不幸なのかな。それとも――」


 問い掛けがされようというその時、クロエの背後でばさりと何かが翻る重たい音がした。

 恐怖に弾かれるように反射的に振り返る。瞬間的に飛び込んできたのは、いつか見た【赤】。

 血のように真っ赤な瞳と唇。真っ黒な髪が映える真っ白な肌。エキゾチックな顔立ちをした娘が立っていた。


「誰かな?」


 ヴィンセントは問うた。娘は彼を一瞥することもなく、隣を見る。


「こんな外法紛いと連んで何をしている?」

「……済まない」

「私に謝るな。謀反を疑われ、狩られる側になるのはお前自身だ」


 黒髪の娘は銀器のように鋭く冴えた目でルイスを捉えていた。

 人間を見る目つきではないとクロエは思った。彼女の眼差しは人間をまるで無機物のように見ている。裏社会に属する者ならそれを、人間を効率的に解体する為の式を解く者――殺人鬼と言われる存在――の目だと理解することができただろう。


「黒髪赤眼というと……【白雪姫(ビアンカ・ネーヴェ)】か。噂は聞いてるよ、過激派ハンターだってね。名前を訊いても良い?」

「外法紛いに教える名などない」

「うわ、嫌われたものだなあ」


 不機嫌さを隠さない相手にヴィンセントは飽くまでも愛想良く歩み寄ろうとするが、娘の表情に変化はない。

 湿り気を帯びた北風が、娘の黒髪をさらさらと撫でた。


「【アヴァロン】を越えた外法がこの【クレベル】にいる。これ以上の進行を許す訳にはいかない」

「分かった。ルイスくんと何より僕の潔白を証明する為に働かせて貰うよ」


 ヴィンセントはコートの内ポケットから家の鍵を取り出すと、それをレヴェリーに渡した。

 驚いたように鍵とヴィンセントを見比べるレヴェリー。そんな頼りない兄に、弟は念を押す。


「レヴィ、幾らキミでもクロエさんを送って行くくらいはできるよね」

「オレを莫迦にするのも大概にしろよな!」

「もし毛ほどでも彼女を傷付けたらキミと絶交するから」

「ぜ、絶交とか何だよ!? 少しは信用しろよ!?」

「……表通りまでは出てこないと思うけど、一応気を付けて」


 今にも掴み掛かってきそうなレヴェリーの肩をぐいりと後ろに押すと、ルイスは踵を返す。そして白雪姫と呼ばれた娘とヴィンセントと共に街の闇の中へ消えた。


「……クロエ」


 真剣な声色で名を呼ばれ、殺気に当てられて放心状態だったクロエは漸く感覚を取り戻す。


「頼むから絶対に転んだりしないでくれ! オレ、ルイに絶交されたら生きていく自信がない……」

「だ、大丈夫だよ! 怪我しないように気を付けるし、何よりそんな下らないことで絶交なんてしないから」

「いや、あいつ嘘嫌いだからマジだよ。ああ言ったからには実行する……」


 空元気と意地で頑張っていたレヴェリーであるが、いざ敵意を向けられると弱かった。

 今までの虚勢が消え去り、意気消沈した姿は痛々しくてクロエは何と声を掛けて良いか分からない。


「でもルイスくん、気を付けてって言ってくれたよね?」

「オレ、突き飛ばされたぞ?」

「あれは……しっかり帰れよ、みたいな感じじゃないかな」


 クロエにはルイスの最後の言動に、彼なりの兄への気遣いが込められているように感じた。

 街灯の光が濃い表通りを歩きながら二人は言葉を交わす。


「あんなやばそうな姉ちゃん出てきてるってことは相当いかれた奴が暴れてんのかな」

「やばそう?」

「ヴィンスと同類っつーか。明らかに堅気じゃねえだろ」


 獲物を狙う猛獣のような爛々(らんらん)と輝く赤眼には見覚えがある。それを見間違いだとクロエは思っていた。きっと光の加減だと自分に言い聞かせてきた。けれど、実物を見てしまった。

 人間は自分と違う存在に恐怖を覚え、排斥(はいせき)しようとする。

 クロエも赤眼は怖いと感じる。それは生理的嫌悪ではなく、本能的恐怖だ。

 そうして顔を青褪めさせているクロエに、レヴェリーは努めて明るく言い切る。


「妙な奴が出てきたらお前のことは守るからさ。んな顔してんなって!」

「あ、ありがとう」


 そんなに酷い顔をしていたのだろうか。クロエはレヴェリーに心配を掛けてしまったことが申し訳なく感じられた。


「私も何か持った方が良いのかな……」

「持つって武器か?」

「うん、エルフェさんが護身術くらいは覚えろって言ったの」


 ヴィンセントは恨みを買いやすい人物だという。

 ルイスとのいざこざを含め、ヴィンセントへの恨みは本人ではなく、周りにいる弱い存在に向かうという事実から、エルフェはクロエに護身術を学ぶことを勧めた。聞いた話だと、レヴェリーが懐にナイフを持っているのも護身用らしい。

 今まで普通に暮らしてきていたクロエにとって、その要求はあまりにも酷だ。本来ならクロエの身を預かる彼等が安全を確保せねばならないのだが、裏社会に【他人の為】などという観念はない。

 クロエは争いごとが嫌いだ。凶器など触りたくないし見たくもない。だが彼等と行動を共にする以上は、自分の身を守れなくてはいけないのかもしれない。次に何かあったら見捨てられるだろうとクロエは思っている。


「クロエが持たなくて良いんじゃねえの? 女って普通なら守られる側じゃん。無理して持つ必要ねえっつーか、寧ろ持たなきゃいけない状況が可笑しいだろ」

「レヴィくん……」

「まあ、これは弟にも莫迦にされるような奴の意見だけどな」


 頼りにならないかもしれないけれどオレはお前の味方だから。そう言ってレヴェリーは笑顔を見せた。

 有難うともう一度言って、クロエは笑みを返す。

 クロエの意思などお構いなしのヴィンセントに、中立的なエルフェ、意思を尊重しようとするレヴェリー。

 皆と暮らし始めてからそれなりの時が経ったが、やはり親身に味方になってくれるのはレヴェリーだった。


(あれ……お客さん?)


 いつも利用するパン屋を過ぎたところで、【Jardin Secret】の店前に立つ人影が目に入った。

 赤い外套を頭からすっぽりと被った人物が入り口をじっと見つめている。

 腰までもある波打つ金の髪が雪風に嬲られ、面妖な雰囲気を醸し出している。街灯の明かりの下、赤い外套の人物は諦めたように身を翻す。その拍子に白い横顔が露わになったが、遠目からでは表情までは分からなかった。

 用件を訊ねる間もなく、夜闇へ溶けていく姿をクロエは呆然と見送った。


「何だったんだろう、あの人……」


 店前で立ち止まり、かの人物が去った方を気にするクロエ。レヴェリーは訝るように首を傾げる。


「あの人って何だよ?」

「ここに金髪の人がいたじゃない」

「そんな奴いねーだろ。クロエ、まさかまた熱でもあるんじゃねえだろうな!?」


 熱を計ろうと手を伸ばすレヴェリーに大丈夫だと答えながら、ふと足元を見たクロエは戦慄した。


(……足跡が、ない)


 街灯の明かりの下にあるのは、まだ踏み荒らされていない真っ白な新雪だけ。

 しんしんと降る雪の中、クロエは閉じられたままの扉を見つめた。

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