青い鳥は鳥籠の中に 【11】
ここから連れ出すとルイスは言った。
クロエはルイスに言わなければならないことがあった。
「私のお母さん……母のことです。私は……母がした行いは仕事だとしても悪いことだと思っています。許されることだとも思いません」
「無理に話さなくて良い。キミが母親を大切にしているのは知っている。でも、オレがその人に懐く感情も察して欲しい」
「絨毯の下に埃を隠すということですか?」
「見ない振りをしようとは言ってないよ。キミの怪我が治って、危険な奴等がいなくなるまで。……それからキミの気持ちが落ち着くまで話さなくて良い」
「それはあまりに私に都合が良いんじゃないですか。私だって当事者なのに」
クロエは裏家業のことなど分からなかった。けれど、自分に関係ないと言って良いとも思えなかった。
「キミは何もしてないし、メルカダンテさんも責めていない」
「申し訳なく思わないというのは無理です」
「オレが今まで言ってきたことでキミを苦しめている……。それは悪いと思っているんだ」
「そんなことないです。ルイスくんが声を掛けてくれたから――」
彼はやはり復讐者なのだろう。クロエを例外にしようとしても、親を殺めた存在と似たディアナを許しはしない。
それでも、傍にいてくれる。そのことにクロエがどれだけ救われたか分かるだろうか。
「ルイスくんがいるから、私、生きていたいんです」
こうして目の高さを合わせ、手を握っていてくれる。その慈悲の重みでどうにか生きている。
生きるには縁が必要だった。
何を縁に生きれば良いのか分からないままなら、クロエはきっと自暴自棄になっていた。また罰当たりなことを考えて、今度こそ実行に移していたかもしれない。
そうしてクロエは日常に戻る。
支えてくれる家族と共に平穏な日々を送る努力をする。
自分の部屋で朝目覚めたクロエは机の日捲りカレンダーを一枚進める。
(スクラップもいっぱいになってきたな)
カレンダーの花のカードが綺麗で写真の部分を切り取ってスクラップしていた。
今日の花はサンダーソニアだ。オレンジ色のランプシェードのような花は見ていると心が和む。かつてクロエのいた花屋でも人気があった。
花といえば音楽会に着ていく服はどうしようか。そんなことを考えながら朝の支度をした。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
喫茶店【Jardin Secret】では恐ろしいことが起きている。
カウンター席にはなんとヴィンセントがいる。
営業中の店内――客の前でエルフェは露骨に邪険にはしないが、愛想笑いを向けるはずもない。
メルシエからは縁切りのようなことを告げられ、それを先に言うべきだったなどと語ったエルフェだ。ヴィンセントとエルフェが顔を突き合わせているという状況がクロエは恐ろしい。
(ヴィンセントさん、わざとだよね)
きっとヴィンセントは店ならエルフェが拳を振り上げないと計算付くで来ている。
「マスター! レモンジュースくださーい。氷もお願いします」
「多めのエスプレッソを一杯頼むよ」
「畏まりました」
にこやかに返事をして、エルフェはカウンター奥のエスプレッソマシンを操作する。
店のコーヒーはランク付けされていて、全てがハンドドリップという訳ではない。エスプレッソは半自動のマシンを使い、公爵令嬢が注文していたような特上コーヒーは布のフィルターで抽出し特別なカップで出す。
レモネードと氷のグラスをテラス席へ、そしてエスプレッソを店内席に届け、クロエは観葉植物の隣に佇む。
「この家から出ていけって言うならすぐに出ていくけど?」
「お前はクロエのことも全て俺に押し付ける気か」
「養子にしたんだから責任持ちなよ、お父さん」
(それはヴィンセントさんが言って良いことじゃないんじゃないかな……)
エルフェはレヴェリーとクロエに自由を与える為に家族になってくれたのだ。
責任を取ったエルフェと、無責任に押し付けたヴィンセント。ただでさえ二人の関係は緊張状態にあるというのに喧嘩を売りに来たのかとクロエは戦慄くしかない。
「そこの給仕さんも盗み聞きしてるくらいならこっちにおいで。折角だから盾になってよ」
「何が折角なのか分からないです……」
退席を求められた訳ではないのでクロエはカウンターの近くへ行った。ヴィンセントの盾になるつもりはないのでしっかり距離は取る。
エルフェは大人の男だ。仕事中に私情で雷を落としたりはしないとクロエは信じている。だが、ヴィンセントの言動は目に余る。
「メルシエも言っただろう。感情面から言えば俺はお前と関わりたくないが、クロエがここにいてディアナとの関係が続く限りお前との腐れ縁も切れそうにない。大体、借金の精算もされていないんだ。ファウスト兄さんに借りた金も返していないだろう」
「貴族様がケチくさいこと言わないでよ。珈琲の味が悪くなる」
「話をすり替えようとするな」
「はいはい、借金返すまでは現状維持って訳ね」
借金の理由であるクロエは以前なら居心地悪く思ったところだが、ここまで開き直った悪党の前で縮こまっても仕方がない。
「意地張らないで謝れば良かったんですよ」
クロエは胸の前で抱えたままだったトレイをカウンターへ置き、会話に加わった。
「ヴィンセントさんが反省しているならエルフェさんだってお話ししてくれるはずです」
「何もなくなるくらいなら恨まれる方がマシだよ」
「またそれですか」
恨みで繋がるという言葉にかつてクロエは震えた。
今はヴィンセントが何故そのようなことを言うのかを少しだけ想像することができる。
「好きな人の家族を見守ろうっていう優しい気持ちがあるのに、どうしてそんな悲しいこと言うんですか」
「ほら、そうやって利いた風な顔して同情してくるんだ。言わなきゃ良かったよ。エルフェさんもそう思わない? 小生意気なこいつにだけには同情されたくないってさあ」
「いい加減にしろ。この件にクロエは関係なければ、例えお前が後悔しようと俺がお前を許すこともない」
庇ったようでいて先ほどのクロエの言葉を否定するエルフェはやはり少し怒っているようだった。
「それはメルシエさんがヴィンセントさんを恨まないからですか?」
「あいつはずっとヴィンスを恐れていたというのに、俺はレヴィを理由にして無理に関わらせていた。俺がこいつを許すと言うことはあいつの心を蔑ろにするということだ」
「……あの女も可哀想だね。真実を明かさなければ自分の為に独り身を貫いていると夢見ることもできたのに」
寿命の違いから身を引こうとする男と、生まれた時より血の未来がない男。
もう十日前になる診療所でのやり取りを二人の男はどのように咀嚼したのか。
喫茶店という開かれた空間でなくても致命的なことは起きないと思えるほどに、表面上二人の態度は凪いでいた。
「出ていけとは言わん。消えろともな」
テラス席の客から追加注文が入り、エルフェはエスプレッソマシンに向かう。ミルで挽いた粉をフィルターに詰め、抽出用のレバーを操作するエルフェの表情はクロエの位置からは見ることができたが、カウンター席のヴィンセントは窺うことはできない。
縁の厚いカップに注がれるコーヒーにはきめ細やかなクレマが作られる。飲む時にどれだけクレマが残るかを計算されたカップだ。
クロエはコーヒーを運ぶ。その間にヴィンセントは席を立った。グレーのトレンチコートを羽織り、店を出ていく。
回収してきた空のカップをカウンターに下げたクロエはエルフェに言う。
「済みません。ちょっと追い掛けてきます」
「待て、クロエ。まだ外には――」
「十分で戻りますので!」
ヴィンセントとエルフェの関係はクレマがないエスプレッソのようだとクロエは考えてしまう。
【Jardin Secret】を出たクロエは、湖へ続く道を下っていくヴィンセントを追った。
「待ってください」
ヴィンセントは声が聞こえていないように足を止めない。聞こえていても立ち止まるような男ではないが今のクロエには辛い。
「ヴィンセントさん……、待って……」
クロエは数日ぶりに家の外に出た。
ぐらりと目が回るような感覚に陥る。心臓を掴んでいるのは恐怖だ。
風が強い日だった。向こう風の冷たさに足が痛んで歩みが止まる。
靴底がザリ、と地面を擦る。
「置いていかないでください……!」
このままではヴィンセントが何処かへ行ってしまう。恥を捨てて叫ぶと、遠ざかるばかりだった背が止まった。
「お前、莫迦なの? 何でその足で追ってくるのかな。僕は一人で風に当たりに行くんだよ」
「話をしたくて……」
「本当にうざったいな。お前なんか嫌いだよ」
「知ってます」
「普通の女は襲われた後に一人で外を歩くなんてできないんだ。あとでエルフェさんに怒られるだろうね」
「ヴィンセントさんがいるので一人じゃないです」
ヴィンセントは盛大に溜め息をついた。
溜め息とはあんまりではないだろうか。普通の女ではないように言ってくれるがクロエだって怖いのだ。何処に復讐者がいるかも分からない。そんな状況で外出などできなければ、まともな精神状態でもいられない。
足に力が入らないのは傷の痛みだけの問題ではない。
事件以来、クロエは良く眠れていない。気分も優れない。それでも日常に戻る努力をしていた。
「……眠っていた方が幸福だっただろう?」
それはディアナに対してのことか、それともこちらに対してのことか。ヴィンセントの表情からは読み取れない。
クロエはあれから考えていたことを口に出した。
「そんなことありません。私には目的も帰る場所もないでしたっけ? あの時、ヴィンセントさんは慰めてくれたんですよね」
「相変わらず頭の中に花畑が広がっているみたいだ」
幾度も胸で反芻する内に励ましに思えるようになった。ヴィンセントではないので本当のところはクロエには分からないのだけれども。
強い風が髪を結ったスカーフを煽った。
給仕姿もポニーテールの髪型もクロエがあの家で生活を始めたばかりの頃のもの。奇しくもヴィンセントもクロエがバーテンダーのようだと感じた装いだった。
「できるものならやり直しがしたいです」
「何処から?」
「林檎の森で会った時からですよ。逃げないで話を聞けば良かった」
「お前がディアナの関係者だと分かったら逃げなくても捕まえたよ」
「じゃあ、一年前に私が起きた時に事情を話してくれるというのはどうですか?」
「ディアナに復讐したい僕にお前が協力するの?」
「復讐の道具になるのは嫌です」
ヴィンセントはほら見ろ、というように目を眇めた。
見下し、突き放す眼差しは幾度となく向けられてきた。クロエは短く息をする。
「割れた器は戻らないと言うだろう。僕とお前たちにやり直せることなんて――」
「……っ私は! 私は……クロエ・メイフィールド・アルカンジュです。お母さんに置いて行かれてから、お父さんともお義母さんとも上手くいかなくなって施設で育ちました。今はエルフェさんの家にお世話になっています。貴方は? 貴方はどういうひとですか?」
かつて、記憶を失いながらも隠したアルカンジュを名乗る。
クロエは施設で育ったことも親に愛されなかったことも誰にも言いたくなかった。それを暴き、笑ったヴィンセントに言葉を取り下げて貰いたかった。
今更名乗りを上げるクロエの前でヴィンセントは呆れたように笑った。
「無理だって言ってるじゃない」
「ヴィンセントさんは意地を張っているだけですよ」
「本気でしつこいなあ」
「だってヴィンセントさん、未練がましいんですもん。可哀想というよりも格好悪いんです!」
「……喧嘩も売られてるし」
親友二人を結ばせ、産まれる子供を見守るという夢は美しいかもしれない。だがヴィンセントは生きる時間が違うからと好きな女を諦めたようで、諦めきれずに周囲に傷を残そうとする。
そもそもクロエが人生を奪われたものディアナへの復讐の一環だ。これを未練と言わず何と言おう。
「人間の心はどれほどの傷に耐えられるのかな」
ディアナへの復讐を考えるヴィンセントはどれくらいで心が壊れるのか知りたいと語ったことがある。脅しか冗談だと思っていたが、ここで改めて問うとは本気ということなのだろうか。
ヴィンセントは坂道に留まるクロエに重ねて問う。
「お前は何で立っていられるの?」
「私ですか……?」
「これまでの人生だけでなく、生まれた時点から――お前の存在は間違いだったと言われたようなものじゃない。その状態でどうして立てるわけ? 何回転げ落ちれば諦めるんだよ」
「エルフェさんとレヴィくんとメルシエさんは気遣ってくれてる。先生や診療所の人たちも助けてくれました。皆さん支えてくれるけど、ずっと寄りかかるというのは良くないです。だから……私は立たなきゃいけないんです」
自分を蔑ろにするのは、自分に手を尽くしてくれる相手に失礼だ。理由が後ろ向きなことは承知している。こういう自分が立つ姿はみっともなくて格好が悪い。
けれど、泣いているだけの子供時代は終わっている。
だから立つ。向かい風に負けないようにゆっくりと、例え途中で膝をついても。
「莫迦みたいな理由だ。因みにそこにルイスくんの名前がないのはわざとかな」
「……私はあの人の未来を台無しにしてしまうかもしれないから、【助けて貰えた】なんて言いたくないだけです」
大切なものは隠さないと壊されるのだ。
クロエは胸の前に手を置く。
お守りのようにブラウスの中に隠したスズランのペンダントに触れ、深呼吸した。
「さあヴィンセントさん、家に帰りましょう。もう充分、風は浴びましたよね。因みにここを出るならアンジーちゃんがディアナさんの息の根を止めるそうです」
「は、何それ?」
「貴方がうだうだ言うならこう脅してやれってアンジーちゃんにアドバイスを貰いました」
昨晩、アンジェリカからヴィンセントがテーシェルへ帰ってくるという連絡があった。
実際に喫茶店で悠然とコーヒーを飲む姿には唖然としてしまったが、クロエには一晩考える時間があった。
「へえ、それで? お前は自分の母親が殺されるって聞いてそれを平然と伝えてくるんだ?」
「ディアナさんが言うには【親がろくでもないと子供は苦労する】そうです。なら、こちらも利用くらいします。面会禁止で行くところがないんだったらエルフェさんに許して貰えるように努力して下さい」
「お前たち三人、本当に怖いよ」
アンジェリカの脅しに予想以上に食い付いたのを見て、この男はディアナのことしか頭にないのだと改めて知る。
クロエの知る母親は、友人二人が喧嘩をしたままという状況を受け入れるような人間ではない。クロエはヴィンセントとエルフェをこのまま別れさせることだけはしていけないと思う。
そうしてクロエがヴィンセントと共に戻ると、エルフェは「本当に連れ帰ってきた」と呆れたような感心したような顔をしていた。
夜になり、クロエはヴィンセントの部屋のベッドメイクをしていた。
足を庇いながらでは時間が掛かるがヴィンセントが久々に帰ってきたこともあったし、何より【先ほどの問い】に答えてくれると言われては従わざるを得ない。
「六百年前の戦争の後に人は【人】を作り変えたんだよ。厳寒にも汚染された外気にも耐えられるように遺伝子を操作した」
毒に強くするということは人体に毒を取り込ませるということでもある。故にアンジェリカのような個体も生まれる。
失敗作と遺棄された者の末裔が【アヴァロン】で暮らす人々だと聞いて、クロエは外法――異教徒という蔑称は随分と真実を隠した名だと感じた。
「ヴィンセントさんは人間と変わらないように見えますよ」
「僕は臓器の位置が人間とは違うんだよ。ディアナに刺されても生きていただろう」
「ディアナさんが手加減したのかと思ってました……」
「あははは! あいつが加減なんて逆に怖いよ」
ここで笑うヴィンセントのことがやはりクロエは分からない。無意識でも躊躇ったことを期待するのがクロエの考える人間の感覚だった。
「あの、レヴィくんたちは何なんですか? 私が捕まった時に……、血がどうとか話している人たちがいたんです」
「あれは偶然できた成功例だよ。三十人くらいかな。【上】で大事に管理しているよ。単に輸血できる相手が多いってだけなのに、霊薬になるなんて本気で信じている奴もいるようだけどね」
「輸血……?」
「エルフェさんは少し珍しい血液型なんだけど、あの双子の血なら輸血できるんだよ」
クロエはエルフェが大怪我をした時に「輸血はできないから眠って回復するしかない」とファウストが言っていたことを思い出す。
「……ああ、そうか。今回の事件はお前たち親子を狙っただけじゃないのか。双子絡みならファウストも出張る訳だ」
【赤頭巾】に復讐したい者、金儲けを考える者、暗い欲望を持つ者。そんな者たちが集まって今回の襲撃と誘拐は起きた。
背中を壁に預けて立つヴィンセントは喉の奥で笑う。
「全てお前たち親子の所為じゃなくて良かったね」
「ディアナさんが人の命をお金にするような卑劣で最低な人たちと組んでいたなら同じですよ。貴方がルイスくんにしたことだってそうです」
「あの子供が何をしていたのか教えてあげようか?」
「私が施設育ちだって言いたくなかったように、あの人の過去はあの人のものですよ」
返ってくるのは、ひどく悪魔的な笑みだった。
ファウストの言うような大人たちを許すというのはクロエは正直分からない。
ヴィンセントがディアナに復讐しようとした所為でクロエは十年という時間を失い、ルイスは尊厳を汚される仕打ちを受けた。
だったらクロエは許せない。それだけは譲れない。
(お母さんとヴィンセントさんを許すとかじゃなくて、私は……)
きっと自分は大人たちをただ許したり恨んだりするのではなく、見返してやりたいのだ。