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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
八章
204/208

番外編 隣人によるインテルメッツォ ~side Angelica~

青い鳥は鳥籠の中に【10】後の話になります。

 アンジェリカは見習い騎士という立場だ。

 目付役がついて漸く手足の枷は外れたが、組織の教官の元で学ぶことが求められた。

 改宗は苦痛ではない。最下層部にも上から宣教師たちがやってきて、英霊を取り入れるといった考え方を改めるように説いていた。

 教理を広めにきた司祭を殺めてしまうような村もあったようだが、アンジェリカのいたカールトン村ではそういう血生臭いことはなかった。ディアナを匿っていたから大人しくしていたというのもある。

 カールトンで育ったアンジェリカは、上からの支援物資を受け取ってそこそこまともな暮らしができていたし、こちらの宗教とやらにも馴染みがあったのだ。

 だから仲間を失った後、人間へ恭順を示すことができた。


「痛い目に遭いたくなければじっとしてるですよ」


 今日は看護師の女の付き添いで【ロートレック】のテーシェルまでやってきた。

 看護師はここの家主の淹れるコーヒーのファンらしく、喫茶店に寄りたいという。時間ができたアンジェリカはクロエの部屋にいた。


「わ……」

「動くなと言ってるです」


 別にクロエを脅迫している訳ではない。クロエの爪にポリッシュを塗っているのだ。動かれるとはみ出したり斑になる。


「私がネイルしてもすぐに剥がれちゃうよ」

「雑事は男にさせれば良いのです」

「お医者さんも快くなってきてるって言ってたし、そろそろ動いても……」

「おまえが一ヶ月サボったって罰は当たらないですよ」


 アンジェリカは【クレベル】にいた頃のクロエの生活を知っている。寒い離れに一人置かれている様は灰かぶりのようだと思った。

 半年前と比べたら現在はまともな生活を送れているように見えた。


「洗い物はネイルの大敵ですからね。長風呂もいけないのです」

「うーん……、やっぱり普段するのは難しいかな」

「手袋を使えば良いのです」


 カフェオレとカシスとピーチの三色を使った塗りかけネイルは中指と薬指だけにラメを入れて、トップコートでつやつやに仕上げる。ベルシュタインの流行りに合わせてストーンなどは置かない。


「ふふん、どうです? 人にやるのは初めてですけど我ながら良い出来なのですぅ」

「凄く綺麗! こういう塗り方もあるんだね」


 クロエの感嘆の声を聞いてアンジェリカは満足する。

 このデザインなら少しくらい剥がしてしまっても誤魔化しが効く。飽くまでもクロエが動けない数日の間、気晴らしになれば良いのだから。


「私、絵は水彩を重ねてぼかしていく時が一番好きなんだ」

「ネイルも同じですよ。やってみれば良いのです」

「ポリッシュ集めるのも楽しそう」

「アンジーはいつもそっくりな色を買ってしまうのです」

「分かるな。私も同じような色の口紅持ってるのに新作出ると買っちゃうから」


 化粧品業界は敢えて似たような色を展開することで複数買いを狙っているという話もあるがどうなのやら。

 クロエは窓から射し込む光に手を晒して眺めている。

 クロエは肌が白くて髪もブロンドだから色々なカラーが合う。ファッションを楽しむのにこれほど恵まれている容姿もないだろうと、かつてアンジェリカはディアナを見ていて思ったのだ。

 ネイル道具を見せながら雑談を交わしていると、廊下から足音が近付いてきた。


「レイフェルさんからの差し入れを持ってきた」


 ノックの後にそんな言葉が続いた。

 クロエが物凄い勢いで立ち上がるのでアンジェリカはぎくりとする。


「また足痛くするですよっ!?」

「大丈夫!」

「……本当に?」


 案の定、廊下に立つルイスも不安そうな顔をしていた。

 お仕着せ姿のルイスが運んできたのはベリーのタルトとコーヒーだ。

 男を淑女の部屋に入れるのはどうかと思ったし、何よりクロエに重いものを持たせられないのでアンジェリカは立ち上がってルイスからトレイを受け取った。


「ルイスくん、見て下さい。アンジーちゃんに綺麗に(マニキュア)してもらいました」

「男は爪なんかーって言いやがるですから見せても無駄ですよ」


 ヴィンセントとレヴェリーは「爪なんか」と言ったのだ。

 メイクやドレスはうるさいほどに見る癖にネイルとなると関心が薄くなる。そういう男には断固として反抗するとアンジェリカは決めていた。

 席に戻ったアンジェリカをルイスは一瞥し、それからクロエの指先に目をやる。


「爪を整えるのは良いことだと思うけど」

「爪をただ切って磨くことと、ネイルをすることは全く違うです!」

「指先は自分の目にも入るところだ。そこを好きな色に塗ったら楽しい気分になりそうだというのは分かるよ」

「ううう……。弟の癖に分かったような口利きやがって生意気なのですぅ!」


 この男は無表情で無愛想な癖に、レイヴンズクロフト教場の女性に人気があった。

 見せて、なんて言ってちゃっかりクロエの手を取っているルイス。

 クロエに嫌がる素振りはなく、相手の手に自らの手を預けていた。


「茶が冷める前に食べるですよ」


 見続けていたら胸焼けしかねないので、アンジェリカは手を合わせてからタルトにフォークを入れる。

 赤いフルーツは酸っぱく、タルト生地はしっとりと甘かった。ふたつの間をさっぱりとした甘さのカスタードクリームが繋いでいる。


(幸せいっぱい。本当にそうなら良いのでしょうけど)


 普通に暮らしている人間が事件に巻き込まれて心に傷も負わないでいられるものか。

 心配は愛する者のすることだからアンジェリカはクロエの傷には触れない。

 ただ、ディアナの(かんけいしゃ)というのなら自分もだと考えていた。


『恋とはどういうものですか?』


 数年前、アンジェリカはディアナに訊ねたことがある。


『そわそわして、落ち着かなくなるものかな』

ディアナ(ダイ)みたいですね』


 暖炉の前の椅子に彼女はいた。

 アンジェリカはカーペットの上に座り、ディアナの膝に頭を乗せる。


『アンジーちゃんは甘えんぼね』


 髪を梳く指の感触が心地良くて、アンジェリカは頬がゆるむ。

 毒の身体を持つ実母は子を授かるまでに四人の男を吐息で殺したという。

 アンジェリカは汚いものに触れないように屋敷から出さずに育てられた。母乳も毒になるからと、人間の女を雇って育てさせた。アンジェリカは実母のことを良く知らない。

 乳をくれたのも、服を替えてくれたのも、髪を結ってくれたのも、子守唄を聞かせてくれたのもこの女だった。

 人間の女の膝から感じるのはずっとそばにいる母親の匂いだ。


『恋をしたいの?』

『上に暮らすニンゲンは恋愛感情でつがいを決めると聞きましたわ』

『庶民はそうかな。貴族の子は家同士の付き合いで相手を決められるって嘆いていたっけ』

『わたくしたちと同じなのですね』

『君たちは【完璧】なんだから、家族なんて要らないでしょ。男が家にいたって何の役にも立たないし、どうしても子供が欲しくなったら一発やろうって声掛ければ良いんじゃない?』

『し、淑女がはしたないこと言わないでください』

『女だからお淑やかにしなきゃいけないとか、女から男に迫っちゃいけないとか、そんなの誰が決めたの? あたしたち、男の為に生きてるわけじゃないのよ。男に縋らないと生きられないなんて冗談じゃない』

『縋りはしませんけど――』


 依存ではなく、幸福に生きる為に共生する道もあるのでは。

 けれど、暗い目に見下ろされたアンジェリカの唇は凍ってしまった。


『……そんな顔しないで? お家(ここ)にいる限り、アンジーちゃんも幸せにしてあげるから』


 アンジェリカにとってディアナは親だったが、ディアナにとっては金の為に面倒をみている他人だった。だからアンジェリカはディアナという人間の歪みも知っている。


(ココはダイの傍にいなかったから真っ当な人間なのでしょうか? 心根の清らかさは生まれより育ちによるということならわたくしは……)


 ディアナとクロエのそっくりで、遠い、青い瞳。

 眼は心の窓だという。

 クロエの淡い色のそれ。ルイスを見つめる彼女の目は瞳孔が開いてゆらゆらと揺れていた。彼女は恋をすることができたのだ。


(ローゼンハインが言うようにニュープラント(わたくし)にまともはない?)


 同胞を殺されてもアンジェリカには仇討ちはできなかった。

 もし自分がクロエと同じ状況に置かれたら、報復ならディアナだけにしろと復讐者に言う。そう思う時点でヴィンセントが嘲るように【人間】ではないのだろう。


(だから何だって言うのです)


 例えば、アンジェリカは豪華なケーキを見たら体温が上がる。

 メルシエがエルフェの作るケーキは芸術品だと力説する理由も分かる。

 そんなメルシエがエルフェのことになると黙る時がある。アンジェリカは彼等の関係を馬鹿みたいだと思ったが、ヴィンセントが彼等にしたことを聞けばメルシエが何も言えなくなった理由も分かった。

 これらは例え話だ。アンジェリカは他者に共感することができる。ならば、自分はディアナとヴィンセントが言う獣ではない。


「そろそろ戻る」

「引き止めてしまってごめんなさい」


 喫茶店の勤務に戻るというルイスの手をクロエは名残惜しそうに離した。

 ほんの数時間後には会えるのに、と思わないでもないがアンジェリカはそんなことを言うほど野暮でもないので黙ってコーヒーを飲む。


「アンジーちゃん、ありがと」

「何がです?」

「ルイスくんは手が綺麗なの。ピアノ弾くからだって言っているけど、私が恥ずかしくなるくらい指先も綺麗にしていて……」

「ふぅーん」


 組織の仕事をしている時ルイスは黒い皮の手袋をつけていたが、男の手に興味もないアンジェリカはまじまじと見たこともなかった。


「私もいつもこんな綺麗な手なら、自信持って手を繋ぎたいって言えるのにな」

「恋しい相手とは手を繋ぎたくなるのですか?」

「私は触れたいって思うし、手を握ってもらえると落ちつく」

「ドキドキするのではなく、です?」

「そ、そっちもあるけど……。ごめんね、上手く言えない」


 良い思い出でもあるのか、顔色の悪かったクロエの頬に赤みがさしていた。

 アンジェリカも好きな相手と手を繋ぐことを想像してみる。だが、そうしているところは思い浮かべることができなかった。

 あの者は毒爪を恐れてアンジェリカの手など触らない。

 こうして爪を美しく整えて、洒落たレースの手袋をつけてみたところで周囲からの目は変わらない。それにあの者も手袋をつけている。まるで他人に触れることなど気持ち悪いとでも言うように。

 そもそも自分の中にあるものは恋情と言えるものか。

 【自分の同胞を殺せるほどに強いから】というのはとてもではないが普通の理由ではない。その好意は獣じみていて、アンジェリカの嫌う生き方そのもののようだった。


「ココは恋ができて幸せですね」

「前に言っていたけど、アンジーちゃんは恋愛は必要ないって思うの?」

「今はというだけです。アンジーは模範にならなければならないので品行方正、謹厳実直に過ごすのです」


 アンジェリカはディアナの言葉に引き摺られる訳ではないし、クロエに水を差すつもりもない。

 今の自分は学んでいる最中だ。そちらを疎かにしてまで異性のことを考えようという気持ちにはなれない。

 ディアナを通して彼等と関わるただの隣人。それで良いのだ。

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