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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
一章
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眠りの森が見せた夢 【1】


「それではお先に失礼します」

「お疲れ様、メイフィールドさん」


 色とりどりの花が並ぶ店内に小さな声と、それとは対照的な陽気な声が響く。

 前者の声は怯えたものにも聞こえるが、今週のシフトを済ませ、これから休日をどうやって過ごそうかと考えるクロエ・メイフィールドの声はこれでも揚々と弾んでいる。

 クロエは店の主である男の前で一礼して、そのまま出て行こうとする。そこで横から呼び止めるように話し掛けられた。


「そうだ、メイフィールドさん。手をこうやって握ってみてくれるかな」

「手、ですか?」


 クロエは疑問に思いつつ、言われたように拳を作ってみせる。

 すると、親指は握り込まないなどと注文を付けられて、良いように形を変えられる。彼がプライベートなことから世間話まで兎に角、話をすることが好きな人だとは知っている。悪気なく人の心の中に踏みいってくることも嫌ほど知っている。

 今日は一体何をしたいのだろうと困惑するクロエの前で店長は楽しそうに目を輝かせた。


「やっぱり、メイフィールドさんは真面目なタイプだねえ」


 己の掌を撫で回すように触れられて良い気分はしなかった。

 しかし、十八歳のレディともなれば、嫌悪の気持ちをそのまま顔に出したりはしない。そうすることは下品だと恥じらう前にクロエはこの通り内向的な性格で、自分の言いたいことを言えない。

 きっと他意などないはず。そう自分の心に言い聞かせて愛想笑いを頬に張り付けた。


「ええと……それじゃあ、失礼しますね」

「ああ、また来週ね」


 真面目そのものというように頭を下げると、今度こそクロエはその場を後にした。






 晴れた空の下、林檎の白い花弁がはらりと落ちてきた。

 頭の上に落ちた花弁をクロエは摘み、風に任せるまま放してやる。ひらひらと自由に舞って、やがて花弁は地面へ落ちた。

 涼やかな風に頬の横で淡い金色の髪が揺れた。クロエは両耳の横から一節摘むようにして後ろで結んだ髪を留めるリボンを外した。

 風に髪が乱れる。淑やかな髪型は花屋の主が望んでいるだけで、クロエは気取り過ぎていて好きではなかった。

 けれど、他人(ひと)が望んでいるのだから仕方がない。

 天を仰ぐように顔を上げると、薄桃色の可愛らしい花が目に入って少しだけ慰められた。

 薔薇月の名がある五月の中旬、林檎の花(アップルブロッサム)が綻ぶ頃は一年の内で最も気持ちの良い季節だ。

 天気は良く、青く晴れ渡った空には鳥も飛んでいる。陽の光に照らされて、草花も気持ち良さそうだ。麗らかな陽気に誘われて、危うく零れそうになった欠伸をクロエは噛み殺した。そんなクロエをからかうようにまた一つ花弁が落ちてくる。

 林檎の花はじっくりと咲く。秋の実りを確実なものにするように時間を掛けて花を咲かせる。大体、一房に五、六個の花が咲くのだが、美味しい林檎を作る為に中心の咲いている花を残して周りの蕾と花は摘み取られてしまう。

 クロエは林檎の花が好きだ。自分も林檎のようにゆっくりと花を咲かせ、実を結ぶことができたらと思う。


(ゆっくりなんてしていられないんだよね)


 この【黄昏の世界】でゆっくりしていたら、きっと実を結ぶ前に腐ってしまうだろう。クロエは瞼を伏せた。

 夢なんて見ていられない。

 世界的に景気が悪いこの時代に、並外れた美貌を持ち合わせている訳でも、特別才能がある訳でもない、極平凡な娘であるクロエにできる仕事はとても少ない。

 安定した雇用など夢のまた夢。今の花屋での仕事は、恐らくこの髪と瞳の色があったから得られたのだと思う。例え造形が冴えないとしても金髪碧眼は美人の証とされ、そこにあるだけで華やかだ。

 クロエはその金髪碧眼のことに触れられる度に気持ちが鬱いでしまう。

 誰もが羨む金髪碧眼を持っているのに、平々凡々とした容姿をしていることを揶揄されたことのあるクロエは、いつからか自分の色を隠すようになった。

 前髪を重たく伸ばして青い眼を隠しているのは笑われるのが嫌だから。そのことによって悪目立ちをしてしまうこともあるけれど、常に笑われるよりはマシだった。

 目立たず、他人に不快感を与えるようなこともせずに、慎ましく静かに生きたい。

 例えば、それは摘まれてしまう林檎の花のように。

 クロエは贅沢がしたい訳ではない。ただ、平凡に平和に暮らせれば良い。

 平穏に堅実に生きていくのが一番良い。こうして趣味の絵を描きながら、日々の生活ができる程度に最低限働いて、年をとったら林檎の木を植えた家で静かに暮らす。それがクロエのささやかで大きく切実な望みだ。

 そんな夢を聞いて、十八歳の(わかい)癖に枯れているね、と施設の先生は笑った。

 先生はもっと大きな夢を見ても良いのではないかと言う。だけど、その平凡な人生こそがクロエが最も望む未来なのだ。つい力説するように語ると、先生は何処か寂しそうに微笑んだ。


(平凡が幸せ。うん、現状維持が一番)


 林檎の花の甘い香りで胸を満たしながらクロエは筆を動かす。

 描くのはフォーレ・デュ・ポムと呼ばれるこの晩春の森の景色。

 クロエの描く絵とは油絵のような本格的なものではなく、水彩色鉛筆を使ったものだ。

 大体の形と色を置いていって、自宅に帰ってからじっくりと書き込みをするのが常。今日は週末の前で気分が弾んでいることもあって、筆を持ち出してそこそこ真剣に絵を描いていた。

 そんなクロエの双眸に、自然に存在するものとは異なる影が過ぎる。


「うわあ、綺麗な人!」


 林檎の木の向こう――遠くの木の向こうへと消えていった人物の容姿に、思わず感嘆の溜め息を漏らす。

 自らのコンプレックスのこともあり人の美醜には関心を抱かないクロエだったが、今し方目にした男性は役者のように整った顔をし、遠巻きに感じる雰囲気も圧倒的な何かがあった。


(描いちゃっても良いかな)


 あの人ならば絵に加えても良いかもしれない。記憶力と想像力を働かせてクロエは今見た美丈夫の姿をスケッチブックの中の絵に描き加えてゆく。

 林檎の花のように白く鮮やかな肌に、目映いばかりの光を放つゴールドブラウンの髪。遠目なので定かではないが瞳の色は青かったような気がする。服装はホワイトシャツに、襟元を留めるクロスタイ。紺色のベストにパンツ。まるでバーテンダーのような格好だ。

 もしもあんなギャルソンのいるバーがあったならそれは繁盛するだろうなと、どうでも良いことを考えながらクロエは絵を仕上げるべく描き込んだ。

 薄桃色の花が咲き乱れる楽園に存在する金髪の天使。そんな物語のような絵が全貌を表し始めた時。


「ぎいゃあああああーー!!」


 森の奥、それほど遠くもない場所から絶叫が聞こえてきた。


「な、なに……!?」


 あまりの出来事に腕が強張る。色鉛筆の芯がぱきりと乾いた音を立てて折れた。

 その後、震えがやってきた。

 怖かった。

 何か普通ではないものが間近に存在している。その何かはきっと良くないもの。そんな現実を想像すると、身体の芯から底冷えするような感覚が込み上げてきて吐息が震えた。

 関わらず、詮索せず、この場から逃げ出すことが正しい選択だったのかもしれない。しかし、クロエはその恐怖の理由を知ろうとしてしまった。恐怖の正体を突き止めて安心したいと思ってしまった。

 画材を木の根元に預け、立ち上がる。足音を殺して進み、声のした方を覗き込む。

 そうして怯えを滲ませたクロエの目に映ったのは、林檎の実のように赤くに染まった大地と、倒れ込んだ人と、お伽話の中の登場人物が持つような細身の剣を持った美丈夫の姿だった。


「あ…………」


 クロエは反射的に口を両手で押さえる。それでも喉まで込み上げてきた悲鳴は声にならない叫びとなり、呼吸を乱す。


「さて、お前が最後だね」

「た、た助けて――」


 美丈夫の前で、男は潰れた林檎が転がる地面に尻餅をついたまま命乞いをしながら後退る。


「俺の手を煩わせるなんて本当に良い御身分」


 さっさと死んでくれないかな。

 信じられないような物騒な言葉を紡ぎ、美丈夫は何の躊躇いもなく剣を振るった。

 濡れた音を立てて【林檎】が潰れ、断末魔に空気が震えた。


(……う、そ……)


 目の前で人が殺されたという事実にクロエは瞬きすら忘れてその場に縫い止められた。


 嫌だ、怖い。逃げないと。


 そんな意識とは裏腹に身体はちっとも動いてくれない。恐怖という塗料に足が塗り固められてしまったように、地面から離れない。

 美丈夫は事切れた者たちを何度も何度も執拗に繰り返し斬った。刺して裂いてばらばらに割った。びしゃりと音を立てて鮮血が地面に広がってゆく。生臭い匂いがむわっと上がり、鼻腔を容赦なく刺した。


「……い、や…………」


 気付くと、吐息と共に声が漏れていた。

 美丈夫がゆっくりとこちらを振り返る。美貌が不愉快そうに歪められる。

 林檎の花弁を汚したものと良く似た真っ赤な瞳が、射殺すようにクロエに向けられた。


「――――っ!」


 この男は人間なのだろうか。人間とは思えない赤い眼をした存在。正体は分からないけれど一つだけ確かなことがある。

 それは、このままこうしていたら殺されるであろうということ。

 逃げないと。そう思うのに足がもつれて動かない。


「お前は何?」


 声がこの場の全ての雑音を掻き消したように、血の滴り落ちる音がやけに鮮明に耳に届いた。

 赤く汚れた刃を携えて美丈夫は一歩近付いてくる。

 殺される。クロエは理解した。


「何でここにいるわけ?」


 そこまでが限界だった。クロエは胸を突き破りそうなほどに込み上げた恐怖の闇に浚われ、意識を失った。

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