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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
八章
198/208

青い鳥は鳥籠の中に 【10】

 クロエは退院前の診察を受けていた。


「先生、後ろから指図するなら自分でやって下さいよ」

「謹慎中なんだよ。それに彼女だって同性の君のほうが気が楽だろう」


 そんなことを言ってファウストは女看護師に任せきっている。


「膝に引っ掛かるような感じは?」

「ちゃんと動きます」


 靱帯にも骨にも異常はない。膝裏の傷は縫わずにテーピングで治すことになり、クロエは注射を受ける。

 膝に針を直角に刺して麻酔を入れられたのでかなり痛い。思わず苦悶の表情を浮かべるクロエの腕を看護師は宥めるようにさすった。


「注射したばかりだから今日は安静に過ごして下さいね。入浴は七時間は控えるように」


 看護師は十年間眠るクロエのメンテナンスをしていた者の一人らしく、手慣れていた。一週間後に家まで診察に来てくれるというので、礼を言って別れる。

 クロエは椅子からゆっくりと立ち上がり、ファウストに頭を下げた。


「あの……今回はお世話になりました。ありがとうございます」

「礼には及びません。恨まれることしかしていませんので」


 感謝することは復讐者たちを殺めたことを肯定するようでクロエの心は軋んだ。

 死にたいとは言わない。復讐の対象として嬲られ続けるのも嫌だ。

 けれど、自分が助かったことと引き換えに命を落とした者がいる。何か別の解決方法はなかったのかと幾度も考えたが、ディアナが彼等の仇である以上答えは見つからないままだ。


「私のことも親のことも憎むと良い。背負わされた重荷だと思わず、踏み台にして先に進みなさい」


 実の母親も、父親も、継母も、罪の十字架としてではなく踏み台にしろ、と。そう言うファウストの声には労りがある。

 こうしてディアナたちを許すなと繰り返すほどにファウストはクロエの身を案じてくれていた。


「先生は怒っていますよね……?」

「大人の都合で不幸になる子供がいることはあってはならないのです。そういう意味ではね」


 恐らく大人にはファウスト自身も含まれているとクロエはこの時、感じた。


「それじゃあね、クロエ嬢。気を付けて帰りなさい。レヴェリーも彼女のこと頼んだよ」


 部屋の入り口の外に隠れていたらしいレヴェリーにファウストはしっかり送り届けるように言い付ける。

 ファウストがクロエとレヴェリーに向ける声色に差はなく、普段の優しい調子だった。その瞳にはやはり哀れみの色があった。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 列車がテーシェルに着く頃には日は随分と傾いていた。

 午前中に退院になったメルシエを送り届けてきたエルフェは先に帰宅しており、数日閉めていた店の清掃をしていた。レヴェリーがキッチンで調理を始め、後からエルフェも加わる。クロエは座っているように言われたのでソファでうさぎを撫でていた。


「何にするつもりだ?」

「貯蔵庫見てもパン・ペルデュしか思いつかね」

「この数日どうしていたんだ」

「食欲ねぇし……」


 レヴェリーはクロエがいない間――エルフェとルイスも留守だった――ろくな買い物をしていなかったようだった。貯蔵庫の中の余り物でどうするかという会話が聞こえてきた。

 出来上がった夕食はフレンチトースト(パン・ペルデュ)と、野菜とベーコンのスープだ。

 クロエは手を合わせ、スプーンでスープを掬った。スープは熱く、塩味がする。温かい食事は数日ぶりだ。クロエは感極まってしまう。


「クロエ!? どうしたんだ!?」

「ご飯が美味しくって……」

「あそこの病人メシ、クソ不味そうだもんな……。オレも引いたわ」


 食事に文句を言うのはいけないことだと己を戒めようとしても、あの診療所の食事は酷かったと思ってしまう。冷たい食事(カルテスエッセン)というのは仕方がない。だが、何でもかんでも食材を液状にしてライスにかけるというのは創意工夫がない。入院患者の健康な精神を保つ為には、温かい食事も大切だとクロエは感じた。


「せめて三食違うものにするよう要望を出そう」

「あれじゃ三食違っても嬉しくねーよ。オレに何かあって入院する時はファルネーゼのメシ出るとこな」

「茹でた野菜と無味のパスタが出てくるだけだな。粉チーズもあったか」

「粉チーズかけてもひもじすぎるわ」


 何処の病人食も質素で、入院しないに越したことはないという結論が出る。

 余談だがドレヴェスではフレンチトーストを貧乏騎士(アルメリッター)と呼ぶ。硬くなったパンを蘇らせる為の食べ方だが、エルフェの手が加わるとクリームとフルーツのコンポートが添えられた金持ち騎士仕様だ。クロエは蜂蜜があるだけで満足だったので、胃がひっくり返ってしまわないか心配になった。

 メインが終わった後は飲み物とフロマージュを味わう。

 エルフェはいつものようにインスタントコーヒーを淹れ、クロエとレヴェリーはオレンジジュースを飲んだ。


「少し先になるがメルシエがテーシェルに越してくる」

「メルシエさんがこちらに……!? 急ですね」

「以前から話はしていた」


 診療所での一件の後、二人で話し合えたのだろうか。クロエがあの状況からエルフェは良くメルシエを説得できたものだと驚いていると、しっかり補足を入れられる。

 メルシエは今の土地に住んで十年なので引っ越す時期だったのだという。

 【上】の処置で加齢が止まってしまう人間は昔ほど多かったらしい。彼等は年をとらないから同じ場所には留まれない。今の世代は大分まともになったということだが、エルフェやファウストはルイスには絶対にその道に進むなと言い聞かせていた。


「新居はここから近いんですか?」


 テーシェルと一言で言っても【ロートレック】の四地区だ。それなりの広さはある。


「チョコレート屋の辺りだな」

「毎日遊びに行ける距離ですね!」


 エルフェが仕入れに行っているチョコレート店はマルシェ広場からは早足で十分ほどだろうか。


「スープが微妙に冷めそうな距離」

「何が言いたいんだ、レヴィ」


 レヴェリーは別に、とはぐらかしフライドポテト(ポム・フリット)を摘まんでいた。


「えっと、週末にご飯誘うのはどうでしょう? メルシエさんも仕事の後の家事は大変ですし、うちにきてくれるんじゃないですか」

「クロエは夢見すぎ。この人たちのタテマエって面倒くせぇから」

「あいつの前で言うと怒られるからな」

「あんたは怒らねぇのかよ」


 レヴェリーが突っかかりたくなる気持ちはクロエにも分かる。

 親代わりだったエルフェとメルシエが漸く関係を変えていこうとしているのだ。十年間近くにいたレヴェリーは容喙したくもなるだろう。

 あの病室で彼等の告白を聞いたクロエはレヴェリーのように軽口は叩けない。ただ、メルシエが自分の幸せを見つめるというようにエルフェも、そしてヴィンセントも良い方向へ進むことができたら良いと願うだけだ。






 二階の自分の部屋に帰り、明かりを点ける。部屋は数日前に出た時のままだった。

 家に帰ってきたのだ。皆と食事をしている時はそんなことはなかったのに、一人になると現実感がなくなる。全て夢の中の出来事であれば良かったのにとクロエは思う。

 服をクローゼットに仕舞ったり、ベッドのシーツを換えたり、窓辺の植物に水をやったり、普段通りのことをしながら答えが見付からない考え事をしていた。ぼうっとしていたから帰宅を知らせる階下の音を聞き逃してしまった。


「クロエさん」


 ノックと共に声を掛けられてやっとルイスが帰ってきたということを知った。

 クロエはベッドからすぐに立ち上がり、扉を開けた。


「お帰りなさい。先に寛いでいて済みません。今日のご飯、レヴィくんが作ってくれたんですけどもう食べましたか?」

「オレのことは良いから、戻って。座ってくれ」


 強い調子で言われ、クロエは戻って腰掛ける。

 ルイスはクロエの足が後遺症にならないか気にしているようだった。

 クロエの傷には縫合シートを貼られている。傷口から出る滲出液を利用して皮膚の再生を助けるらしく、入浴時も剥がさないように言われていた。


「キミが以前話していた音楽会、レイフェルさんが付いてきてくれるそうだよ」

「えっ、本当ですか? 私、外出は駄目だと言われるんじゃないかって思ってました」

「レイフェルさんも気晴らしは良いと言ってくれている」


 薔薇園の音楽会が開かれるのは月末だ。それまでに歩けるようにしなくてはという目標があることでクロエは少し前向きになるような気がする。

 いや、だからなのだろうか。こちらの為にエルフェは頷いてくれたのかもしれない。

 ルイスにもエルフェにも気を遣わせてしまった。クロエは少し口ごもり、廊下に立ったままのルイスを見た。


「あの、そんな廊下で話さなくても……。入って良いですよ」

「前も言ったけど、訳の分からない奴に部屋に入られたくないだろ」

「私って、その訳分からないとか言っている人にあんなことされたんですか?」

「…………」


 クロエが思わず言い返すとルイスは目を見張った。


「初めてなのに、二回も――」

「分かった。もう言わない」


 キスははじめてだった。それなのに二度もだ。自分は無害な男だと語るのは今更だ。

 部屋に入ったルイスは後ろ手に扉を閉める。クロエは逃げ道が塞がれたと莫迦みたいなことを考えた。

 診療所の病室では素知らぬ顔をして向き合っていたが、いざ二人きりになるとどういう顔をして良いのか分からない。


「傷、治るのか?」

「大丈夫ですよ。見えない場所ですし気にすることないですって」

「気にしないはずないだろ。キミが傷付いてオレが何も思わないとでも?」

「ごめんなさい……。貴方に心配を掛けたくないんです」


 思わないとは、思わない。

 虚勢を張ることはルイスを心配させ、かといって無理だと弱音を吐くことも負担になる。どうしようもなくてクロエは唇を噛む。

 監禁と入院で荒れてしまった唇は鉄の味がする。

 あの夜、ルイスは毒でも飲んだような心地だったのではないかとクロエは思うのだ。

 座ったまま俯くクロエの前でルイスは片膝を着き、見上げた。


「オレは本気だから」

「ルイスくん……」

「親を殺されて泣き寝入りはできない。でも、キミを好きなのも本心だ」


 好きだと言った気持ちに偽りはないのだと、彼は陰りのない瞳で真っ直ぐ見つめてくる。

 クロエは逃げない。ルイスも逃がそうとはしない。

 関係性に名前をつけることは相手を縛ることでもある。親しい友人と恋人では何もかもが違う。

 口づけも告白もあんな状況でなければ嬉しかった。いや、思い返せば喜びが胸の中にある。恐怖と罪悪感で潰れた心に湧いた、身勝手な感情。強い恋慕と執着。

 けれども。


『家族を作るのも男を好きになるのも、醜いあんたがして良いことじゃないのよ』


 それは、煙草の火と共に押し付けられていった感情。

 二の腕に、太腿に、肩に、火傷が増えていく毎にクロエの中に積もっていった。服で隠れる場所だから誰も気が付かなかったし、取り繕うこともできた。だが、心も体も醜い自分は一人でいなければけないとクロエは思った。

 クロエはルイスへの気持ちをはっきり自覚した後、好きになって申し訳ないという感情しか湧かなかった。それほどまでに強く刻まれた呪いだ。


「私は自分のことばかりの人間ですし、ダイアナ・フロックハートの……【赤頭巾】の娘です。私の近くにいると悪いことに巻き込まれるんですよ」

「林檎の森に行った時のことを覚えているか?」

「覚えています」

「オレは、オレに関わってキミが不幸になろうと知らないと言った。キミの御託も面倒事も関係ない。例えキミといることで何かあっても、自分が言ったことが返ってくるだけだ」


 クロエに絡みつく茨は周りの全てを傷付け、血を流させる。その棘は毒となって愛する人を蝕む。

 だが、ルイスは毒など既に呑んでいると言わんばかりだ。


「どうしたら分かって貰える? オレが今までしたことを思えば頼りないと思われても仕方ないだろうけど……。信じて欲しい」


 膝の上に差し出された手に、クロエは躊躇いがちに触れる。


「信じてないわけじゃないんです」


 これまでもルイスが傍にいてくれることを同情かと何度も考えたけれど、彼はそういうことをしない人だった。

 そういう人だからクロエはあの時、終わらせようとした。

 彼と一緒にいたら罪悪感が積もっていく。人殺しの娘の自分が被害者遺族と一緒にいるなんて耐えられない。終わらせたくて一方的に喚き散らして、口封じをされた。文字通りだったけれど。

 言葉よりも態度のほうが気持ちが伝わった。

 ルイスは言葉では復讐者としての立ち位置は変えられないと語る。だが今もルイスはクロエの手を握っていてくれる。指先を包むぬくもりに安堵する。


「私は諦める方が楽です。あとで泣くくらいなら何も持たない方が良いって考えてしまうんです」

「……分かってる」

「だけど、やっぱり諦めるのは嫌です」


 平穏無事に毎日が過ぎたら良い。そんなことを願うだけの人生が奪われ、思いがけず幸運があって新しい家族ができた。そして、好きな人がいる。

 ここからまた暗い場所に突き落とされてしまうとしたら、クロエは抗いたい。


「私、身勝手なことを言って貴方に嫌な思いさせてしまいました……。あの夜のこと許してくれますか?」

「あの晩、キミは熱があっただろ。なら譫言くらい言う」

「これからも一緒にいてくれますか?」

「ああ。これからはもっと傍にいる」


 これまではただの友人だったのだから【これからは】だ。

 クロエは急に恥ずかしくなり視線を彷徨わせるが、ルイスはどうと言うことはない顔をしている。


「そうだ、クロエさん。誕生日に渡したものだけど……まだ持ってるか?」

「はい、持ってますよ」


 クロエは名残惜しく感じながら手をほどき、ジュエリーボックスからスズランの飾り(チャーム)を取り出す。

 誕生日に貰ったキーホルダーは家の鍵につけていたが、こちらは使わずに保管していた。

 貸して、というルイスに渡す。すると、ルイスはケースからチェーンを取り出してスズランの飾りを通した。


「髪留めの代わりが思い付かなかった」

「いいえ、そんな……」


 壊れた髪留めの代わりはなかった。

 贈られた嬉しさも、身に着けた時の幸せな気持ちも、壊された時の悲しみも一つだけだ。入院中にクロエは髪留めを無くしたことを謝った。だからルイスはこんな遅くまでこれを探していたのだろう。

 ペンダントになったそれはケースに仕舞われ、改めてクロエに渡される。

 よく見ると、スズランの花部分についている青い石は誕生石のエメラルドだった。

 スズランを贈ることは相手の幸せを願うことでもあった。そう、あの日――テーシェルに越してきた日がスズラン(ジュール・ドゥ)の日(・ミュゲ)で、レヴェリーはメルシエに花を渡していた。クロエは次の朝に体調を崩してしまって誕生日まで寝ていたのだ。

 エメラルドがついたスズランの飾り――生まれてきたことを祝福された証。

 もう五ヶ月も前になってしまった。すく傍にあったのに気が付かなかった。

 クロエは言葉が出てこない。少し泣きそうになる。


「キミの手を引けるようになる」


 ここからキミを連れ出すから。

 強い決意を込めたルイスの声にクロエは頷いた。

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