青い鳥は鳥籠の中に 【9】
傷口から細菌が入って熱が出た。
診療所で目が覚めた翌日はベッドに横になったまま点滴を受けていた。その次の日から少しずつ起きるようにして食事を摂った。
クロエの胃はがたがただった。捕らわれの間まともに食事をしていなかった上にストレスで灼けていた。流動食から固形物へ戻ったのが今朝だ。
昼食に出てきたのは茹ですぎのシュペッツェレが浮かんだパプリカスープと、ぱさぱさのライス。診療所にドレヴェス人の看護師がいるからか病人食がそちらの料理だ。熱の下がった身体にカーディガンを羽織ったクロエは、プレートの中の液体をスプーンで掬って口に入れた。
「酷い顔だなあ。僕だってここまでお前の顔に傷入れなかったよ」
クロエの目尻や口の端には痣ができていた。
ヴィンセントとのことは思い出したくないのでクロエは黙殺する。その途端、ヴィンセントはじろりと睨んでくる。
「折角、様子を看にきてやったのに随分な態度だね」
「……お母さんの傍にいなくて良いんですか?」
「お前がぼろ雑巾になったって聞かせてもケロッとしてるよ。恐ろしいよね」
かつてヴィンセントを刺してまでクロエを取り戻そうとしたディアナが今ではそうなのだ。
壊れてしまった彼女の傍に付いていたくないとはヴィンセントは言わない。けれど、クロエの身に起きたことをディアナに聞かせるのもこちらに報告するのも意地が悪く、当て付けじみていた。
喋ると口の中の傷が痛んだがクロエは訊ねた。
「ヴィンセントさんは、私の継母と会っていたんですね」
「そりゃお前のこと殺したのは僕だからね。後処理はさせられたよ」
「あの人は貴方がお母さんと仲間だったことも知っていましたよ。それってきちんと私の死の偽装ができていなかったということですよね……? お母さんが巻き込まれそうになったんですよ。何かあったらどうしてくれるんですか」
「上の金持ちに裏切り者がいてああいう莫迦を招き入れたんだよ。僕の落ち度じゃない」
クロエとメルシエが浚われたのと同時刻にディアナのいる施設が襲撃を受けたということを聞いた。
中層部【ロートレック】ならまだしも上層部【フェレール】に侵入されるというのは問題だった。お陰でエルフェとルイスは連日寝ずの警備になり、今は別室で休んでいる。
「もう少し落ち込んでいるかと思ったんだけどな。そうやって人を非難する元気はあるんだ?」
「泣き喚いて良いならそうしますけど、したってどうにもならないですから」
「可愛げがないなあ」
声も表情も冷えた。
幾日経とうとも状況が良くなることはない。ディアナが人殺しということも、アンセムとジゼルが不幸になったことも。クロエが生まれなければ良かったと言われるような存在であることも変わらない。
何故、自分はこれほどに苦しいのか。
考えても考えても納得できるような答えはない。
諦めるしかない。空模様と同じだ。雨が降ったら受け入れるしかない。これもそういうものとして受け止めようとしてクロエにはそれができなかった。
胃がしくしくと痛んだ。もはや食事を続ける気分ではない。
クロエの様子を見て、ヴィンセントの薄い唇が意地悪く吊り上がった。
「助けられたこと喜んでいないような奴が自己憐憫なんてするかな」
「なにを――」
「愛想笑いはどうしたの? 前はもう少し上手かっただろう」
「できません」
震える喉で息をしながらクロエは俯く。
無理だ。笑えない。
からかいの言葉に継母の姿がよみがえった。やはりヴィンセントと継母はだぶってしまう。嫌いだと――気持ちが悪いとこちらの存在を否定する青緑の目が重なって見える。
出来損ないの烙印のように火傷が増えていった。降りかかる言葉は雨のように身体を打ち、心身を冷やしていく。他人を踏みつけて踊るような人間がいるなんて認めたくなかった。
「どうせ生きる意味も帰りたい場所もないんだ。何を傷付くことがあるんだよ」
悲しみすら不要だというヴィンセントの言葉をクロエが肯定しかけた時、廊下から慌ただしい足音が近付いてきて部屋の前で止まった。
「またおまえは……! 見舞いにきてまでごちゃごちゃとうるせぇのです」
室内に入ると同時にアンジェリカは声を張る。広々とした部屋の奥までやってきてヴィンセントの澄ました横顔を睨んだ後、続けた。
「無抵抗の女を殴るような奴がまだいたらファウストじゃなくたってアンジーが切り刻んでやります」
「いいの、アンジーちゃん。こうされた理由も分かるの。私、怪我は慣れてるから何も思わないし……」
「わたくしも言いたいことはありますわ」
真っ直ぐに見つめてくるアンジェリカの目をクロエは見つめ返す。
「ディアナにもファウストにも拳を振り上げてきた奴にも、そこのクソ野郎にもです! おまえは人形じゃないのですよ。好き勝手に感情をぶつけて良いはずがないのです。もう傷があるから、もっと傷を入れても良いなんてことはないですから。そう考える奴なんて死んだら良い」
「……ごめん、ね」
消えない傷があるからどんな傷を受けても平気なんていう考えは良くない。そんな後ろ向きな考えは間違いだと分かっていたはずなのに、先ほど己の口から出た言葉はそのものだった。
クロエは膝の上で手を握り締め、深く反省した。
「これ、メルとクロエの着替えです。アンジーは仕事あるですから帰るですよ。弟は何処です?」
「事務室で休んでいるからできればそっとしておいて」
「仕事の話が終わったら寝かせてやるですよ」
スカートの裾を大きく翻し、アンジェリカは部屋を出た。
忙しなく去る姿を見送った後、クロエは遅れて驚いた。ココ――愛称呼びなど初めてだ。
心の中でもう一度謝りながらクロエは顔を上げた。思った通りヴィンセントの目は笑っていない。
「午後からメルシエさんに会って良いと言われています。ヴィンセントさんも顔見ていきますよね」
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
復讐の対象として扱われた日から幾日か経っている。
膝裏の傷には治療が施されている。メルシエがいる個室までの廊下は長く感じる。薬の効力は薄れていないはずなのに傷がじわりと疼いた。地下室から救い出されてもクロエの心は暗い場所に沈んだままだ。
「俺はもう足を洗おうと考えている」
扉越しに男の声が聞こえた。
「組織に勇退はないじゃないの? 逃げた奴の末路なんて悲惨だっていう噂ばかりだ」
「それは俺たちには当て嵌まらない。俺は、持つ者は果たす義務があるという言葉に従ってきた。父が望んだようにはならなかったが……国に人生の半分を捧げた」
お前もそうじゃないか、とエルフェはメルシエに問う。
恐らくエルフェは戦いの舞台から共に降りることをメルシエに望んでいる。
今は邪魔してはいけない時だ。クロエは扉から一歩下がり、引き返すことを考える。そこで遅れてやってきたヴィンセントに肩を押された。
「何やってんの?」
「ヴ、ヴィンセントさんっ」
声を小さくように身ぶり手振りで伝える。
「莫迦じゃないの」
ヴィンセントはクロエの制止を聞かず扉を開け放った。
室内ではメルシエが布団を膝にかけてベッドに座っている。メルシエは突如の乱入に何とも言えない顔をしていた。その近くの椅子に座るエルフェもだ。しかし、空気を読むヴィンセントではない。
「お前たちさあ、いつまで飯事やってんだよ」
「出ていけ、ヴィンセント」
「レイフェル。俺がその女を刺した理由を知らないとは言わないよな?」
本名を呼ばれたエルフェは立ち上がるとそのままヴィンセントの胸倉を掴んだ。
いつかの病室とは反対だった。乱暴に掴まれ、非難される側に回ったヴィンセントは手を振り解こうともしない。
「貴様が何を言う資格がある?」
「ないよ。その女の人生潰してでも俺は俺の望みを叶えたかっただけって話さ」
「またそれか。望みと言うが俺とディアナが共にいて何になるという?」
「俺とあいつは生きる時間が違うから、人間の男と一緒にいれば良かったんだよ。……お前とあいつが子供でも作ればそいつが死ぬまで見守ってやったのに」
絶句する。
クロエは何と声を掛けて良いか分からなくなった。
エルフェはヴィンセントから手を離す。それから吐息をつくように言った。
「俺は遺伝子異常で未来がないと十代の頃には言われていた」
「は?」
「レイヴンズクロフト家が何と言われているのか忘れたのか? まともに子を成せた姉兄はたった三人だ。お前の下らない夢は始めから潰えているんだ」
貴族たちは高貴な血と所領を守る為に血族結婚を繰り返した時代があった。その結果、障碍を持つ子供が生まれる事態が起きた。
政策が過ちと判断され、他の諸侯と婚姻を結ぶようになったが、遺伝子に刻まれたものは消えずに子孫へ受け継がれていくことになる。
表情を全く変えずにエルフェは答えた。しかし、子を成せない身体であるというのは他人に言いたくないことのはずだ。恐らくエルフェが周囲に黙ってきたことだろう。それをどのような気持ちでこの場で打ち明けたのか。
「あんたたち、ごちゃごちゃうるさい。こっちは頭痛いのにやめてよ……」
男二人の争いを止めたのはメルシエだった。
クロエはふらりとメルシエの傍に寄る。加害者と被害者の関係にある彼等だが、こんな話はあんまりだった。これでは誰も報われない。
「もう良いよ。ヴィンセントを殺したいと思ったこともあるけど、そうしたってあたしがすっきりするだけで得るものもないしさ」
「それでは清算されないままだ」
「今更償って貰おうとか取り立てようとか思わない……。けじめっていうならあたしが選ぶことだろ」
ディアナのことが片付いたらあたしはヴィンセントと会わないから、とメルシエははっきり告げた。
薄ら氷は割れた。
その割れ方があまりに呆気なく、その声にあまりに恨みがなかったから決別の言葉が冗談のように聞こえた。今まで理不尽を呑み込んできた彼女が選んだ答えは優しかった。
「その言葉は俺が先に言わなければならないことだった」
「それは本当にそうなんだけどね。今のレイはクロエちゃんの義親なんだから呑み込みな」
腹の底に秘めた想いを吐き出さずにいるエルフェは、ああ、と低く相槌を打つ。
夢を向けていた相手に前提から否定されたヴィンセントは凍り付いていた。それはこの男が初めて見せた絶望だった。
エルフェとディアナが結ばれることを望み、その為に愛するディアナを突き放したことも、メルシエを刺し、エルフェまで斬ったことも全て。エルフェに血の未来がないなら、ヴィンセントのしたことは全て意味のないものになる。滑稽な一人芝居で多くの人間が不幸になっただけだ。
夢を見続けて夢から最も遠いところまできてしまった。傍にあったはずの幸せを自ら踏み潰した――。ヴィンセントの感じる絶望はそのまま、過ちから生まれたクロエにも返ってきた。
「ああ……もう、クロエちゃん泣いちゃったじゃない。あんたは何も悪くないんだから泣かなくて良いんだよ」
「でも、これじゃ……」
「これは悪い大人たちの話。子供は巻き込まれちゃいけないこと。クロエちゃんは幸せになることだけ考えたら良い。あたしも自分の幸せ、考えるからさ」
クロエの言葉よりも先にメルシエは笑顔で言い切った。
メルシエが望むなら何を否定できるというのだろう。睫毛を濡らすものを拭いクロエはただ頷く。
「……そういうことだから、ヴィンセント。これはあたしが選んだ道だ。これ以上何か言うならこっちも本気であんたを倒すこと考えるよ」
壊された人生などないのだと、いっそ清々しいほどきっぱりとメルシエはヴィンセントを否定する。それが自分たちの為だと言うように。
その日の晩、食事はメルシエのいる部屋で取ることが許された。
夕飯は相変わらずぱさぱさのライスにブロッコリーのクリームソースのような冷たいものがかかっていた。
配膳係がいなくなった瞬間、メルシエが食欲が失せると呟いたのがクロエには衝撃的だった。不味いものを食わせて退院を促す作戦かなどと本気か冗談か分からないことを言いながらメルシエは食べる。彼女は始終顔を顰めていたが、クロエも同じような表情をしていた自信がある。デザートの野菜ゼリーは甘かったけれどクロエは半分しか食べられなかった。
クロエはルイスに差し入れで貰ったクッキー缶を持ち出す。
「あの子、食べ物なんて寄越すんだ? 花を持ってきそうなのに」
「病院は長くいるものじゃないからだそうです」
「なるほどね。味覚がやられる前にここを出ないと、か」
診療所の食事に不満しかないメルシエは早く退院したいとこぼす。
「メルシエさんの怪我は大丈夫なんですか?」
「あたしは治癒力高めるタイプの……まあ、そういう感じの身体になっているから銃創なら一週間ってところ。穴はもう塞がってるよ」
適切な処置がないまま監禁された所為で回復は遅れたが、メルシエが受けている調整とはそういうものらしい。
クロエはメルシエを巻き込んだことへの心苦しさが消えない。食欲は失せたままだが、クッキーを一口齧ると意外にも手が止まらずに食べていた。
そうだ、どれだけ死にたくても腹は減る。何かを食べなければ動くことも考えることもできない。
「メルシエさんも私もこんな目に遭って、お母さんがどれだけ酷いことをしてきたのかが分かりました。私は、何も分からないお母さんを責めるのは違うって思っていたけど……。だけど、それじゃ私は奪われるままです」
加害者の家族も加害者なのかとずっと考えている。答えは出そうにない。
メルシエは慰めを口にせず、クロエが決めることだと言った。
(何も言い返せなかった)
自分の使っている部屋に戻ったクロエはヴィンセントの言葉は痛かったな、と思い返す。
生きる意味も帰りたい場所もない――つまらない人間だと断じられるのは苦しい。
無気力な心のまま愛想笑いを張り付けて生きていた頃はそう言われても仕方がなかった。虐げられ、一人で流す涙は傷に染みるだけだった。だから強くなろうと決めた。いつかヴィンセントを見返したいと思った。
助けられたことを後ろめたく思ったのは本当だ。けれど、やはり今は死にたくない。
ルイスをあれほど追い詰めさせて、クロエだけ自暴自棄に沈んでいけるはずもない。
自分が罪人の子供だとしても彼が好きだ。諦めたことを諦められずに後悔するようなことはしたくない。