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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
八章
196/208

青い鳥は鳥籠の中に 【8】

 暗くて冷たい場所だった。

 残更(ざんこう)も曖昧な、カーテンを閉め切った部屋の床に伏したクロエは光に触れたくて手を伸ばす。

 隙間から微かに漏れる光に晒されたその手が真っ赤なことにクロエは愕然とした。

 何かが背中に纏わりつくような感覚に、ゆっくりと振り返る。

 女の生首がこちらを見ていた。

 継母だけでなく眼帯の男もいる。復讐者たちが呪うような目を向けている。そして、中央には四肢を赤く染めたアンセムがいた。


「お父さん……、私はお父さんを傷付けたかったんじゃないの……」


 クロエは父に愛して貰いたかった。昔のように――林檎の木漏れ日の下で向けてくれた微笑みがまた見たかった。


「私は出来損ないのグズだから、お父さんの言うようにあの人と上手くできなかった」


 好かれようとするほどに継母に嫌われていった。どれだけ耐えても痣も火傷も増えるだけだった。

 父は無念だっただろう。実の娘につけたかった名をつけた子供が別の男の種から芽吹いた徒花(エリカ)だったのだから。

 継母は無念だっただろう。復讐を果たせずに父と再会することになったのだから。

 母は心が壊れてしまう前に自ら過去を消して夢を見ることにしたのだろう。現実を正しく捉える能力を失った【ダイアナ】は幸福だった。

 狂った世界に取り残されたクロエは一人で罰を受ける。

 復讐を望む者たちが彼方此方からクロエを掴む。手足を引っ張られて、床に押しつけられる。首も胸も押し潰されて呼吸が殺される。

 もう何処にも行けない。一人でこの場所から抜け出せない。

 母に置いて行かれた子供には身の置き場がない。


「おいてかないで……!」


 叫びながら飛び起きる。

 明るい、白い照明が眩しい部屋だった。


「クロエ、大丈夫か?」

「……う、ん……」


 ベッドに横になったクロエを覗き込んでいるのは赤紫の瞳だ。

 クロエは肘をついて半身を起こす。


「おい、急に起きんなよ」


 泥と血で汚れた手足は清められている。身体は鉛のように重い。見れば左腕には点滴バッグから伸びたチューブが二本繋がっていた。


「レヴィくん……ここ……」

「病院だから安心しろって」


 残党がいる可能性を考慮に入れ、念の為に【上】の管轄の診療所に運ばれたのだという。

 別室にいるメルシエの処置も終わり、エルフェが付いているということを知らされる。

 クロエの切り裂かれた足には包帯、打ち身には湿布があてがわれている。服も清潔な患者衣だ。


「先生は……ここにいるの?」

「色々後始末あるっぽくてファウスト先生なら外してる。でも、ちゃんと警護の人いるしエルフェさんも出られるから大丈夫だからな!」

「……うん。メルシエさんが助かったなら良いの」

「クロエが起きたってエルフェさんに言ってくる。寝てろよ」


 レヴェリーはクロエの額に触れた後、困ったような顔で病室から出た。

 袖が短い患者衣からは醜い肌が見えていた。傷痕だらけの身体から大抵の人間は目を逸らす。レヴェリーは優しいから何も言わずに見なかったことにしてくれた。


「……夜……」


 六床あるベッドはクロエ以外は使っておらず、室内には夜の静寂がある。

 カーテンの間からは夜空が見えた。月の位置は随分と高い。救出から半日くらいは経っているのだろうか。囚われの間の時間の流れは曖昧で、ここでもはっきりしない。

 そうしている間にも診療所のスタッフと共にエルフェがやってくる。

 女看護師はクロエの体調を確認し、てきぱきと動く。点滴を一つを外され処置が終わるとクロエはシーツを手繰り寄せた。

 火傷の痕はエルフェにも見られたくない。

 十年間、眠っていた自分が今更抵抗したところで彼等は傷を知っているのだろう。それでも見られたくなかったのだ。

 服用するように言われた抗菌薬を水で呑み込み、そのままグラスの水を飲み干す。

 水は大量に飲まされていたはずなのに喉が渇いていた。身体は洗浄されていたが、何処かまだあの血が残っているような気味の悪さがあった。


「メルシエもディアナも生きている。心配するな」


 栄養剤の点滴が続くクロエにエルフェはそう告げた。

 先に大事なことを教えてくれるエルフェは優しいと思う。クロエは自身の体調も問題ないことを伝え、頭を下げた。


「ごめんなさい。エルフェさんの言う通り、お母さんに関わるべきじゃなかったです」


 クロエはエルフェの大切な人を傷付けた。しかもディアナの因縁で彼等が傷付くのは二度目だ。

 エルフェは戦闘服の上着を脱いだだけのような格好をしていた。心も身体も疲れているはずだ。クロエの胸は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「私の所為でエルフェさんと先生にも迷惑を掛けて済みません。助けてくれてありがとうございます」

「いや、お前の所為ではないだろう」

「私、何もできませんでした……」

「顔を上げろ。責任に思うようなことはない。お前があの場で粘ったから俺たちは奴等の拠点を攻めることができたんだ」


 クロエの身体には十年前に発信機が埋め込まれていた。しかし、位置信号は地下に入ると途切れてしまう。クロエが地下室を出たことで、【上】は敵の位置を掴むことができた。


「クロエ、お前がいたからメルを助けられた」

「それは――」


 違う、と言いかけてクロエは口ごもる。

 結果論としてクロエの抵抗はメルシエを救った。けれど、そんなものは気休めだ。

 現状が全てを物語っている。クロエは報復を受けて傷を負った。ディアナはたまたま私刑を免れただけで過去も現実も何も変わりはしない。

 エルフェはヴィンセントとディアナに関わって人生をねじ曲げられた一人だ。その人がこんなに優しいことがクロエを泣きたい気持ちにさせる。

 慰めの言葉は突き刺すように痛くて、クロエはまた顔を伏せた。


「もう休め」


 クロエはベッドに座ったまま首を横に振る。

 眠ったらまたあの闇の中に沈むようで怖い。あと少し、鮮やかな痛みが落ち着くまでは眠らずにいたい。

 エルフェをここに引き止めるつもりはなかった。レヴェリーと共にメルシエの傍にいてあげて欲しい、とクロエが言おうとしたところで声が掛けられる。


「レイフェルさん。彼女はオレが看ています」


 薄暗い廊下から病室へ入ってきたのはルイスだった。

 あの日、十字路で別れて以来だった。ジゼルはルイスに危害を加えたことも仄めかしたが命は助かったのだ。

 ベッドの近くに立つエルフェにルイスは鍵を渡す。


「貴方はいい加減、着替えて下さい。火薬の匂いが酷い」

「今夜はこのままで良いだろう」

「それで彼女やメルカダンテさんの前に立たない方が良いかと。ここで狙撃はしないでしょう」

「ああ……気が回らなかった。済まないがクロエを頼む」


 レヴェリーの言うように、診療所に詰めるエルフェは内部の警護も兼ねているのだろう。ルイスも拳銃を持っているようだった。


(エルフェさんとルイスくんにも迷惑掛けてる)


 窓の外は暗い。診療所の照明は眩しすぎてつらい。薄汚れた痣が光の下に晒されるのも苦痛だった。


「これじゃ休めもしないな」


 エルフェが去るとルイスは壁にあるスイッチで照明を切り替える。

 天井の昼白色の照明が消えて、間接照明が灯る。

 ルイスは使われていないベッドからブランケットを取り、クロエの肩に掛けた。


「羽織るものがあれば良かったんたけど。明日レヴィに頼むから」

「……ありがとう」


 先刻までレヴェリーが掛けていた席にルイスは行こうとする。クロエは咄嗟に袖を掴んでいた。

 何をやっているのだと自分でも思う。こんなことをされて彼は困るだけだ。

 だって、彼とは【お仕舞い】なのだから。

 ルイスは掴まれたままの袖を払わずベッドに浅く腰掛けた。


「何処かつらいところは?」

「こんな格好ですけど、大丈夫なんです。髪を引っ張られたり水飲まされるだけで、怪我もそんなに……」


 怖かったとか、痛かったなんて、間違えても言わない。ディアナと共に殺すからと目立つ傷は入れられなかったし、そもそも身体の傷はどうでも良かった。


「それは大丈夫ではないよ」

「私は平気ですから」


 ブラウスは靴底で踏みつけられて泥だらけで、スカートは血でおぞましく染まった。運び込まれたクロエの姿を見たなら勘違いしたかもしれない。

 それともこれ見よがしに浮かんだ痣がルイスを不快にさせているのだろうか。


「貴方の方こそ無事なんですか……? あの人たち変なこと言っていて、貴方も巻き込まれたんじゃないかって……」

「オレは巻き込まれていないから」

「怪我したんじゃないですか?」

「してないよ」


 それは、嘘だった。

 ルイスが傍にきてから薬品の匂いが強くなっていた。

 クロエは言わなければならないことがあった。


「ルイスくん。私がこれまで言ったことやしたこと……全てなかったことにして下さい」


 継母に胸の傷を裂かれた時は泣きたくなったのに今はもう痛くない。クロエは続ける。


「勘違いだったって分かりました。散々付き合わせて申し訳ないんですけど」

「どうでも良い。そんな状態で今する話じゃないだろ」

「今だから言ったんです」

「オレはそんな話をする為にここにいるんじゃない」

「私の話……聞いてよ……」


 ルイスの声色は出会ったばかりの頃のように冷然としたものだったが、目には怒りがあった。

 クロエはルイスの袖を掴んでいた手を離す。


「今回のこと何処まで聞きましたか?」

「全て先生から聞いている。キミの継母だった人を殺したことも……」


 ファウストにとってはその程度は隠すことでもないのだ。

 復讐者を半ば返り討ちのような形で殺めたことを、両親の敵討ちを望むルイスに聞かせる残酷さにクロエは吐き気がする。

 だが、事情が伝わっているなら話は早い。


「私はこういうことされて仕方ないんですよ。私は人殺しの娘なんですから」


 罰が当たった。

 卑怯にも母の罪から目を逸らし、安穏と生きて、幸せになりたいと望んだ罰だ。

 髪留めも壊れてしまった。白い真珠が血溜まりに溺れていた。


「お父さんも、誰かの大切な人も……お母さんが殺しちゃったんですもん。復讐されて当然なんです。私、なんて言えば良いんですか? 私は犯罪者の娘で……同じで、でも私、お母さんの代わりに死ぬなんてできませんでした。私を殺してお母さんを許してって言えば良いのに私……怖くて、自分は違うって……」


 眼帯の男(キッド)がお前は開き直っているようだ、と言っていた。

 クロエはメルシエを傷付けた相手に頭を下げることが嫌だった。けれど、それだけではないのだ。あの時のクロエはディアナの罪を受け入れられなかった。

 この復讐は終わりではない。これから生きている間ずっと、クロエは人殺しの娘と言われる。

 向かい風に耐えたってもう何もない。

 未来は決まっている。


「被害者の人から見たら私も仇なんです」


 目の前にいる彼は大切な家族を理不尽に殺された被害者だ。

 どうして自分のような加害者側の存在が傍にいられるのか。気が狂っているだろう。


「だから、もう……おしまいです」


 救いを求めた人生も、彼への想いも終わりだ。

 この身に流れる血のゆえに、この自分の死が望まれるというのならばもう何も望まない。

 滲んだ視界の中でルイスは傷付いた顔をしている。ファウストはこうなることが分かっていたから、クロエに彼を諦めるように言ったのだ。

 彼のこんな顔は見たくないと思っていたのに、結局傷付けたのは自分だった。

 人生は嫌なことばかりだ。こんなことになるならば希望などいらなかった。暗闇の中で見つけた星のような存在に縋ってはいけない。あの復讐者のようにいっそこの目を潰したらしあわせになれるのかと考え、それも逃げだという現実に絶望する。潔く散ることもできないクロエは何処までも卑怯で、醜悪だ。


「身勝手だ」

「…………っ」


 滲んで歪んだ世界で影が揺れる。

 クロエがぼんやりと視線を上げた刹那、右腕を掴んで強引に引き寄せられ、そのまま唇をふさがれた。

 声も吐息も奪われて、音が消える。時間さえも止まったように感じた。

 ルイスは少しだけ唇を離すと、クロエの頭の後ろに回していた手で肩を抱いた。

 視線が重なって、吐息が交わる。


「…………」

「…………」


 もう一度、唇を重ねられる。

 二度目のくちづけは長い一瞬だった。

 クロエは拳でドンと相手の胸を叩いた。そこでやっとルイスはクロエから離れた。


「……なんで……こんな、こと」


 頭が真っ白になってしまい、喚いていたことさえ忘れた。

 目を閉じることもできず、甘い余韻もない。ただ戸惑いだけが胸を支配する。気持ちを落ち着ける為に深呼吸をする。自分がずっと息苦しかったことに気付いた。

 心臓が痛いくらいに騒いでいる。

 クロエは胸の衣をかき寄せ、動揺の眼差しでルイスを射た。


「キミの言う通り、オレはキミを傷付けた奴等と同じ立場だ。仇は血縁者も同じだと思っている」


 星もない暗闇の中に響くのは冴え冴えとした声で聞き違い様がない。

 いっそう動けなくなったクロエは、真っ直ぐ見つめてくる紫の瞳をただ見つめ返す。


「でも……オレはキミが好きだ」


 ルイスはクロエを庇うことも罰することもできない。ただ事実を告げ、クロエを捕らえた。

 クロエは何も言えなかった。

 望んでいたはずのその言葉をこんな形で言わせ、彼の在り方まで歪めた。

 点滴のチューブが邪魔をして腕を伸ばせない。突き放すことも、縋ることも、できなかった。

 ルイスくん、とクロエは名前を呼ぶ。吐息めいたその声は相手に届かないかに思えたが、彼は傍らにいた。

 頬に触れられ、背中を包まれる。ふたつの腕の中に閉じこめられる。

 世界は真っ暗だ。

 けれど、嘘にしたくないものもある。

 彼が自分を求めてくれている。クロエにはそれだけが心の支えだった。

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