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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
八章
195/208

番外編 ヴェクサシオン ~side Vincent & Louis~


「ディアナの意識が戻ったそうだ」


 母親の目覚めを知らされた時、クロエがどのような顔をしていたのかをルイスは知らない。

 窓辺で交わしていた会話を打ち切られるような形でエルフェが二階にやってきた。夜の静寂の中で声はやけに響き、聞くつもりがなくとも事情を知ったルイスは不快感に眉を寄せた。


(夜が明けてから言えば良いじゃないか)


 早く知らせようという善意だとしても、それを聞いたクロエが眠れると思うのだろうか。

 周囲が思う以上にクロエにとって親という存在は大きい。

 ルイスは暗い路地裏で銃を向けた日を覚えている。自分を捨てた両親を殺したいくらい憎んだ、と打ち明けられているのだから。

 月が明るい夜だった。分厚い前髪の奥の瞳は凶器を向けられた恐怖よりも、深い孤独を映していた。

 あの言葉を聞いてクロエが母親と関わることができるとはルイスは思えなかった。

 窓を開けたままカーテンを閉める。月の眩しさが不快だった。何より今夜はもうまともな会話は望めそうにない。

 エルフェが立ち去った後、クロエはルイスの部屋の前で言った。


「お母さんの意識が戻ったみたいなんです」

「……そうなんだ」


 嘘でも、目が覚めて良かったと言えない自分の冷たさを嫌悪する。


「面会できるようになったらエルフェさんと行ってきますね」


 エルフェがいるから付いてこなくて良い、と遠回しで告げられる。

 家族の時間を邪魔するつもりはない。どんな状態だとしても、クロエが大切に思っている母親との時間を止めることはできない。

 だが、その判断は間違いだった。

 行くべきではないという言葉を呑み込んだことをルイスは後悔することになる。

 母親に会いに行ったクロエは、真っ赤な目をして帰ってきた。


「お袋さん大丈夫だったのか?」

「今日はちょっと調子悪かったのかな。起きたばかりなんだし仕方ないよ」


 クロエは何もなかったと言うように普段通りに家事をしてやけに早く寝てしまった。

 けれど、泣き声が聞こえてくるのだ。しゃくりあげて、声を殺して、息を殺して、殺して殺して咳き込んで、終いには廊下に出ていった。


(オレに何ができる……?)


 取り繕うことも弱音を吐くことも苦手な彼女に掛ける言葉が見付からない。

 今、傍に行けば彼女の自尊心を傷付けかねない。棘を持つ花だと、クロエがそういう女性なのだと知っている。強引に手を伸ばして傷付くのは自分の腕だけでは済まない。

 そうして一晩中考えたというのに、次の日にはクロエは【いつも通り】だ。


(……莫迦だった)


 葉を毟られても、花を啄まれても、恵みの雨が降らず、例え陽が当たらずとも咲いている。

 ルイスは自分が愚かだったと断じる。

 話さないこと、耐えること、諦めること。そんなことを繰り返してこうなった。そんなものはもううんざりだ。

 気休めの慰めをするくらいならクロエに詰られてでも言いたいことは言う。

 クロエの代わりに母親に会うという、自分でもどうかと思う提案でルイスはその場に立った。


「こんにちは? ピアノの鍵盤みたいだね」


 ベッドの上に腰掛けた女は良く分からない例えをしてくる。

 噂では聞いている、クロエの母親。

 ディアナと呼ばれる女は何処を見ているのか分からない目でこちらを観察していた。

 クロエとあまり似ていない、というのがルイスが抱いた感想だ。ディアナが口を開くとその印象は更に強まった。


(容姿も声も表情も何もかも違うじゃないか)


 クロエをディアナの代わりにしようとしたヴィンセントは、カカシ(エプヴォンタイユ)にでも話し掛けていれば良いのではないかと思う。

 焼き菓子をエルフェからのものだと偽り、クロエの名は一切出さない。

 悪趣味な芝居をヴィンセントと続けている間もディアナから不躾な視線は注がれていた。

 ディアナはベッドから立ち上がって、部屋の中央のソファへ移動する。

 立ち上がると随分と背が高い。クロエとは一回りも体格差がある。

 動いた時に頭が上下に揺れない内重心が掛かった歩き方、血管の浮いた腕。ファウストと同類だ。半年間で衰えたとはいえ、プロの戦闘屋だった。ヴィンセントのような肉体の頑丈さに任せている者とは違う。

 近付いてはいけない、と本能が警鐘を鳴らす。


「ねえ、君。何処かで会ったかな? ごめん、名前出てこなくって」

「初対面です」

「わたしのこと許さないって目、見覚えあるんだけどな」


 敵意を読み取られたのか、ディアナは不穏な言葉を口ずさむ。

 どれだけ繕おうとも嫌悪は隠せるものでもない。元より隠すつもりもなかった。


「今まで何回か恨み買っちゃったかなってことはあるけど仕方ないよね。こっちも生きる為にお仕事してるだけだし――」


 その口が吐く暴慢な一言一言が。

 弱者を見下す傲岸な眼差しが。

 殺人を罪とも思わぬ人間性が。

 全てが受け入れ難く、嫌悪を催す。ディアナの声と心は不協和音のように狂っているとルイスは感じた。


「恨んでいる人間を覚えているなら、貴方を一番想っている娘のことはどうして覚えていないんだ?」


 クロエが泣いているのに、母親は平然と笑っている。

 許せなかった。

 クロエの人生に――生きて幸福になりたいという気持ちを傷付ける大人たちが許せない。

 彼女がどんどん毟られていく。それを見ていることはできなかった。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 気分が悪かった。

 あの子供(ルイス)の言ったことがまるで爪の間に棘が潜り込んだように不快感を発している。


「綺麗な花。あの子のあたま、そっくり」


 メルシエからという名目の見舞いの花(ガーベラ)、エルフェからという手製の菓子(シュトーレン)。そうやって皆がディアナを守っているのにあの子供は易々と亀裂を入れる。

 ディアナはまともではないのに、そのまともではない人間に、まともなことを何故言うのだ。

 本人は言いたいことを言えて満足だろうが、ミラーガラスから様子を見ていた娘はどうだろうか。さぞや酷い顔をしているに違いない。


(エゴイストは自分のことだろう)


 見下していた背丈まで自分と同じ高さになっていて、殴っても倒れなかった。黙らせることができなかった。

 軽蔑と憎悪で掠れた声がヴィンセントとディアナを批難した。


(……笑えるだって?)


 どの口がほざくのか。

 ディアナの世界を守ることが笑えるというのなら、傷の舐め合いをしているルイスとクロエの方が余程滑稽だと言い返してやりたかった。

 生き損ないの子供同士が。傷んで腐った果実が。

 互いのことが分かるとでも言うように寄り添っている姿が気持ちが悪い。

 メルシエが邪魔さえしなければ、切り裂いてやれたのに。そう考えたところでヴィンセントは冷や水を浴びせられた心地になる。

 昔の自分の傍にもそういうものがあったはずだった。女の手を振り払ったのは自分の癖に、子供たちを呪うのか。これではただの嫉妬だ。

 部屋の中央では女が鼻歌混じりに花を愛でている。

 夜の熱も朝の冷たさも、別れの日の焼けるような感情もディアナは忘れてしまった。

 破局も現状も全て自ら招いたこと。因果が巡ったという言葉にうんざりする。誰かの責任にしなければやっていられない。そう、だから、丁度良いところに責任を感じているクロエがいるから押し付けた。

 頭をぶつけたことなんて切っ掛けでしかない。何せディアナは身体の調整を受けてから三十年以上経っているのだ。肉体か精神にガタがくる。罪人として人体実験じみた処置をされたディアナにまともな終わりなどない。


「月は素敵。月はまるで小さな銀貨のよう。月はまるで小さな銀の花のよう。月は冷たく清らか……まるで…………そう、きっと処女に違いないわ」


 サンダルを脱ぎ捨てた女は歌うように呟き、ガーベラの花びらを千切って遊び始めた。

 ディアナは今、夢の中らしい。

 こうなってはもう駄目だ。ヴィンセントは部屋を出て溜め息をつく。

 狂った演技で逃げ出す機会を窺っているのかという僅かな期待もこの数日で消え失せた。

 体調が良ければ正常らしい会話もするのだ。それで満足すれば良いではないか。壊れたところに目を瞑り、彼女が目の届く場所にいることを喜べば良い。


(……騒がしいな。ディアナが今以上に可笑しくなったらどうしてくれるんだよ)


 外法――優良種(エリート・プラント)として聴力が優れているヴィンセントは防音の部屋でもその音は拾えた。

 下階へと通じる扉が閉鎖されていることを確認し、同じフロアにあるモニタールームに入る。そこでは職員が真っ青な顔をしている。

 モニターに映る一階のエントランスには血がぶちまけられていた。

 一階と二階が陥落。死体多数。数日前までディアナがいた部屋にも襲撃者は踏み込んでいる。これはどういうことか。


「【赤頭巾】を外に出すんじゃないよ」

「それがですね、ダイアナ・フロックハートを渡すことがあちらの要求のようでして」

「君の腸を引きずり出して壁に鋲で止めてやろうか」

「は!? あなたはこちらの味方でしょう」

「へえ、僕に味方なんているんだ? 初めて知ったよ」


 端末を操作しながら、血の気の引いた顔を赤くして職員は怒鳴る。


「あなた【アルカナ】の騎士なんでしょう!? 女の部屋に入り浸るだけの穀潰しじゃあるまいしきちんと働いて下さい」

「僕の受持ちは下なんだけどなあ。剣もないのに戦えなんて労働環境が酷すぎるよ」

「そんな旧時代的なものを置いているはずがないでしょう莫迦なんですか」

「やっぱり君をディアナの代わりに差し出そうかな」


 色々な意味で切れてしまっている職員だが、被害を最小限に留めるべく行動はしていた。防弾扉が下ろされ、昇降機への経路も閉鎖されている。三階より上にいた職員は上階へ集まっているようだ。

 襲撃者たちの手には少々厄介な銃があった。素人が持って良い武器ではない、とヴィンセントが呆れているとモニタールームへ入ってくる者がいる。


【名無し】(アノニマス)じゃん。初めて見た」

「知らない奴に名前知られてるって気分悪いな」

「いやいや、あんた有名人ですし。うちの教官にヤバイ奴認定されるって相当アレですよ」


 どこの教官が悪口を吹き込んでいるのだろう。男は携帯電話で写真まで勝手に撮るので、ふざけているのかと殴りたくなる。

 ヴィンセントの苛立ちを前に、ハニーブロンドの男はへらへらと笑った。


「レイヴンズクロフト教官のとこのジャコモ・ディーノです。用事で寄ってみたら大変なことなってるじゃないすか」

「ああ……ファウストくんのところか」


 あそこは人間と外法の混血が多いと聞く。二世というやつで、調整を受けるでもなく【上】に従わざるを得ない貧弱な連中だ。

 ディーノは鉤付きのワイヤーを弄びながら言う。


「生存者がいないならガス撒くってのはどうですかね。ここ、そういう設備あるでしょ?」

「生きてる奴がいた場合、僕と君は仲良く監獄(ヴァルハラ)送りだよ」

「あれ、俺らの武器ですよ。あんなのぶっ放したらミンチしか残ってない」


 襲撃者たちが持っているアサルトライフルは対外法用の武器だった。

 表の社会では警察部隊の持つ対人ライフルが最上位だ。不必要な苦痛を与える兵器は認めないというのが、戦争で滅んだ世界(アルケイディア)の決まりである。この時点で、敵の中に【上】の関係者がいるということが分かる。

 ぶち殺すのは賛成だ。

 しかし、武器がない。自動小銃の前にナイフ一本で立つのはディアナのような頭の捻子が外れた女だけだ。

 ディーノは耳に差したイヤホンで何事かを話している。


「――会敵した? そっちどうなってるんで?」


(【上】の奴ならいつでもディアナを殺せるだろう。まどろっこしいことをしなくても指先一本でさ)


 ディアナの部屋が移されていなければ、今頃はヴィンセントも高速弾の雨に打たれていただろう。

 少なくとも数日前までのディアナを知ることができた者が彼等の協力者にいる。


「手足潰しとけよ。そこならアンジェリカ(マレーン)が行けるはずだ」

「外で何かあったの?」

「うちの若いのが【ロートレック】でトラブル巻き込まれたみたいで」


 イヤホンから微かに聞こえた男の声――そいつは先刻ここでトラブルを起こしていった。痛い目に遭ったのなら良い気味だ。


「君たち、下の奴等を追っているんだよね」

「ええ。ほら、おたくも知ってるんじゃないですか? 【赤頭巾】と組んでた黒い仮面の奴等。貴族家に出入りしていていよいよきな臭くなってきたんで、刈り取る時期だと話していたんです」


 それはディアナの懐中時計と引き換えにヴィンセントにセフィロトの林檎を食べさせた連中だった。

 貴族が外法を利用している。そして、ディアナを始末したい。随分と火が回っている。


「あいつ等は捨て駒(パシリ)でしょうよ。ここの人間殺して、生きて出られるはずもない。ただの突撃馬鹿なら謝りますけど」


 そう、【フェレール】の人間を殺して交渉などはない。【上】はテロリストとは取引はしない。

 勿論ヴィンセントもディアナを敵に渡すつもりはない。それにもし【上】がディアナを切り捨てるならヴィンセントはディアナを連れて逃げるだけだ。


「職員くん。ディーノくんが言ってたような装置ってあるわけ?」

「一応条約で禁止されている訳でしてね」

「条約違反なら下階にいるじゃない。お偉いさんの小言なら僕が聞いてあげるよ」

「【鐘】を使うのは二秒だけです。無力化はさせますが……あとはあなたたちの仕事ですよ」

「それで良いよ」


 その条約とやらは六百年前に争っていた国家同士で取り決めたという古いものだ。

 実のところこの確認は、敵の排除というよりも、ディアナをいつでも殺せるのかということが知りたかったからだ。責任回避をしながらも躊躇いない様子を見るに、ここは監獄と大差ないらしい。職員は無力化ガスで死者が出ないとは言っていない。


「なんか意外ですね。噂に聞く【名無し】は戦闘上等なサイコ野郎って感じなのに」

「状況くらい読むよ。それより君は良いのかな。君のところの上司はこういうの嫌うんじゃない?」

「脱落者も背信者も内通者も殺しますよ。俺は灰色は好きだけど、自分が黒になるのは嫌なんで秩序を乱す奴は消えて貰います。騎士なら当然のことじゃないすか」


 己のグレーはホワイトで他人のグレーはブラックだと、白々しく正義を語る男は退室すると他の職員たちが集まる部屋へ向かった。

 モニターには施設内の様子が細かに映し出されている。

 意識的に頭の隅に追いやっていたディアナのことが気になり目をやると、まだ花で遊んでいるようだった。

 それほど気に入ったのならガーベラくらい幾らでも買ってやろうとヴィンセントは思う。まともでない人間にまともなことを求めても仕様がない。

 壊れない為に忘れたのか、壊れたから忘れたのかの違いなどもうどうだって良い。

 生首のように茎から千切られ、ばらばらになった花を女は眺めている。


(柄じゃないだろう)


 先刻ディアナがそらんじていたのは戯曲(サロメ)の一節だった。

 銀の白い花、その身を一度も汚されていない乙女。よもや銀の鏡に映った白薔薇の影に己を投影している訳でもあるまい。

 あの劇は、月が雲に隠れた瞬間に女が殺されて幕を閉じる。


『……許さない……許さないわ……』


 男の首を抱いて泣いていた女がいた。

 ディアナが可笑しなことを歌うせいで、ヴィンセントは象牙のような白い床に広がる赤を思い出していた。

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