青い鳥は鳥籠の中に 【7】
※この話は暴力流血表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。
『ねえ、お母さん。クロエのお名前ってどんな意味?』
夕飯の支度をする母のエプロンにしがみついて訊ねたことに特に意味はなかったような気がする。
何でも気になっていた時期だったのかもしれないし、近所の子供が名前の話をしていたのかもしれない。
それは子供の小さな疑問で、それがたまたまクロエの記憶に残ったというだけ。
『何だろねえ。お父さん、絶対クロエちゃんにするって頑張ったんだよ』
ダイアナはエリカとつけたかったのに、父が譲らなかったのだと苦笑した。
父がつけてくれた名前。
どんな意味なのか父が仕事から帰ってきたら訊ねてみようと思って、けれど幼いクロエにとってそれは小さな興味でしかなくて、結局訊かずに終わった。
その頃は幸せだったのだろう。辛かったこととして記憶されていないということは幸せだったのだ。
クロエが五歳になる頃にはもう家庭は機能していなかったけれど、そこまでは確かに幸せはあったはずだ。
家族三人で林檎の森に遊びに行ったのだ。
幸せがあったはずだった。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
ここにきて何日だろう。暗い部屋にいたから時間の経過が分からない。
分かっているのは、逃げられないということ。
膝の裏を刃物で傷付けられたせいで走ることができない。想像以上に血が出て焦ったのか、今では丁寧に包帯を巻かれている。低体温にさせない為か破れた服の上からタオルまで掛けられた。人質を殺さないというのは確からしい。
熱が出て、飲まず食わずのクロエは地上の部屋に移動させられていた。
カーテンの締め切られた、恐らく北向きの部屋。外には音が聞こえない作りになっている。
埃っぽい絨毯でも石の床よりは良い。身体が幾分か楽だ。
(私は、人質だから……)
ルイスは己に傷を作ることでアンジェリカを脅したという。クロエに危害を加える者がいる以上、効果は薄いようにも思える。このまま自分を追い込んで状況が変わるかは分からないが、少なくとも地下室から出されて暴行は収まっている。
他人に迷惑を掛けるのは嫌だ。
アンセムはいつもジゼルの手を煩わせるなとクロエに言い聞かせた。
非力で無能なクロエは己を人質にして身を守ることしかできない。
「復讐は気持ち良いよな」
眼帯の男は、床に横たわったクロエに軽薄な口調で言う。
「魔女の娘が苦しんでるってだけでこうも良い気分になる。人生観が変わるようだよ」
幼少に【赤頭巾】に両親を殺されて、自分だけが何故か見逃された男は片目を自ら抉ったという。男は自分が生き残ったことを責め、復讐の使徒となった。
クロエは彼等から注がれる眼差しの故も良く分かる。
憎しみを殉教者のように受け入れるしかないということも。
(お母さんは仕事だって言ってた)
仕事で殺しをしたというなら命じた存在もいるはずだ。金の為だけに人殺しをする人間と、金の力だけで人を殺す人間のどちらが悪なのだろうか。
「やせ我慢してないで食えよ」
「食べたらメルシエさんを解放してくれますか?」
地下室からの付き合いになるジャガイモパンも傷み始めていた。
餓死されたくないというなら、求めるのはメルシエの解放だ。開き直っていると取られても良い。
その態度に苛立った男に無理矢理、水を飲ませられる。吐き出してやろうかと思ったが弱った身体では咽せるだけだった。
「飢え死にしたいのか」
「無理よ、キッド。そいつの頭おかしいから」
開け放った扉から入ってきたジゼルは、チラと目を寄越す。
「もう三日も食べてない。このままだと死ぬぞ」
「そうねえ……。上に行った奴等はどうなってるのかしらね。役に立たないったら」
事が上手く運んでいないのだろうか。二人の会話で自分が連れてこられて三日ということが分かった。
男はクロエの髪を離した。
「外を見てくる。パッチワークを逃がすなよ」
このような身では逃げ出すことは難しい。何よりメルシエがいるのにクロエが逃げるはずがなかった。
クロエら壁に背中を預けて息を整える。水差しから零れた水でまた服が濡れた。
手足は冷えていた。四肢は重く、吐息は熱い。
「あいつ等があんたのこと何て言ってるか知ってる? パッチワークですって」
そういう身体にした女がこうも平然と話し掛けてくる。
クロエの火傷を見た男たちはぎょっと目を剥いたが、それを作ったのはこのジゼルだ。彼等は知っているのだろうか。いや、復讐という崇高な目的の前でそれは大したことではないのかもしれない。
目眩がして、クロエは頭も壁に預けようとした。そこで硬いものがぶつかる。
もうぐしゃぐしゃに乱れていたけれど、辛うじて残っていた三つ編みがほどける。ぼとり、と床に髪留めが落ちてクロエはすぐに掴んだ。
「――――!」
このバレッタを着けていることを今の今まで忘れていた。
ジゼルは昔からクロエが物を持つことを許さない。見付かったら取り上げられる。
クロエが何かを守ろうとしたことが傍目にも分かったのか、ジゼルが近付いてきた。
「ねえ、あんた色気付いた格好して何の勘違いしてるの?」
今のことを言っているのか、以前のことを言っているのか。熱で頭が重くて思考が鈍る。
「あの女が捕まったって聞いてからあんたのことずっと見ていたわよ。私たちが見ていることも知らないで、よくも笑っていられたものね」
ジゼルはクロエの頬を撲ち、手に隠したものを奪った。
「返して」
「玩具ね」
「返して、ください」
クロエは膝立ちになってジゼルの服にしがみついた。しかし、腕が震えて力が入らない。
震える手と立たない足では何にも届かない。
力任せに振り払われてクロエは崩れ落ちる。そして、その狭い視界の中でそれはバキリと嫌な音を立てて踏み潰された。
金具が弾けて、ビーズとパールがころころと床を転がった。
「……ひどい……どうして…………」
もう殴られようと叫ばないほどに心は擦り切れたけれど、こんなのはあんまりだ。
「一緒にいた男のこと好きなの?」
本心を見せてはいけない。傷付けられるだけだ。
愛想笑いを覚えたあの頃のように無表情で顔を固め、クロエは切れた口の端もそのままにジゼルを見上げた。
「ただの同居人です」
「ただの同居人がわざわざ親の見舞いに付いてきてくれて、一緒に遊びに行ったりするの?」
「皆さん優しくしてくれます」
喋ると口の中の傷が痛む。
だけど、己の命運が定まろうとも彼は巻き込まない。
「優しくって、一緒に暮らしてる男全員とヤったわけ? 淫乱の母親みたいに誰にでも股開くのかしら」
「あの家の人たちは私を家族にしてくれたんです。私をどう言っても構いませんが、あの人たちを悪く言うのは許しませんから……!」
「家族ねえ」
「何ですか」
「愛されたこともないあんたがそんなの持って良い訳がないでしょう。家族を作るのも男を好きになるのも、出来損ないがして良いことじゃないのよ。身の程知らずのグズ!」
暗い部屋に否定の言葉が響く。
ああ……とクロエは思う。これは同じだ。
父が亡くなった後、カーテンを閉め切った昼下がりの部屋で継母と二人でいたあの頃と同じだ。
「あんたと一緒にいたから女は撃たれて、男も死んでるかもしれない。全部全部あんたのせい。あんたなんか生まれてきたのが間違いなのよ」
「まち、がい……」
「アンセムを傷付けて、あの人がどんな気持ちだったか考えたこともないんでしょ……。あんたはいっつも良い子面で、あの人が死んでからは自分は被害者だっていう顔して! 私が周りにどれだけ嫌なこと言われたと思ってるの? あんたとダイアナが元凶なのに何で私がこんな思いしなきゃならないの!?」
生まれてこなければ良かった。
本当に、そうかもしれない。
悲しいことしかない。否定されることばかりで上手く笑えない。
目を閉じると、眼裏の闇に雪が舞う。
幻滅しないと言ってくれた彼が拠り所だった。
いつだったか、彼は美しさが分からないと硝子玉のような目で雪の降る街を眺めていた。
何故か悲しいと思った。
私よりも綺麗な人がどうしてそんなことを言うのか分からない。
こんなに空は広くて、花も雪も美しいのに。人間よりも余程優しく、あたたかいのに。
彼が苦しんでいたから助けになりたくて、追いかけている内に愚かにも恋をした。自分などが想いを伝えて気持ち悪がられないかとずっと怖くて、正直伝えた後も不安ばかりで――毎夜眠れなくなる。
虐待でひしゃげた醜い女が滑稽なことだ。
彼も【復讐者】なのに。
ここにいる復讐の使徒と彼は同じものなのに。
クロエは気付いていたはずだ。彼が母を嫌っていることを、知っていたはずだ。
「あんたは罪人として十字路で晒されるの」
目を逸らしてきた卑怯者は何処の誰だ。母から逃げようとした親不孝者はどいつだ。ここに居るではないか。籠の中で這いつくばっている女がここに居るではないか。
カビ臭い空気の中でぐるぐると言葉が反響して、気持ちが悪い。クロエは口許を押さえた。
「醜い身体を世間に晒して、石を受けたら良いのよ」
自分の父母の上に災いを呼び求める者は石打ちだと聖なる書物には書かれている。ジゼルはそう言いたいのだろうか。
十字路での処刑も石打ちも時代錯誤だが、時代遅れと言われた革命家の父が選んだ妻が彼女だった。ジゼルがどういう思想を持ち、どういう顔しているのかクロエは知らなかった。
夫のことを愛し、夫に報いる為に復讐する美しい愛の物語。彼女は童話の中の意地悪な継母ではなく、貞淑な未亡人だ。
正当性があるのはジゼルを含めた復讐者たちで、道理に外れたのはディアナとクロエだった。
けれど、その流れは変わる。
部屋の扉が開いたかと思えば、何かが投げ入れられた。
ごとりと重い音を立てて転がったもの、それは男性の頭部だった。
「……う……っ……」
ジゼルの足元に転がる子山羊の頭。悪趣味なオブジェのように穴という穴から血が吹き出している。
眼帯をつけていない側の目も潰れている。
総毛立ち、身体が動かせない。クロエは目を逸らすこともできない。
「私には我慢ができないものがあります。冷めたビスマルク、武器を突き付けて脅す下郎、そして子供に暴力を振るう人でなしに、命を大切にしない不信者……。ここは不快ものばかりだ」
「いかれ野郎!!」
現れたのは、皮手袋をつけた手に刃物を持つ戦闘服の男だ。その姿を見るなりジゼルは腰に吊したナイフを抜いた。
宵闇の色をした目がクロエを物でも見るように一瞥する。
「人質がこの状態で何が交渉なのだか」
「うるさい。ダイアナが悪いのよ。あんた何したの? 他の奴等はどうしたっ!?」
「火の池に向かいましたよ。外法の二人もご協力願えないようでしたので同じ場所に」
ファウストは仕事用の口調で言い放ち、黒い仮面を二つ放り捨てる。
恐らく、この集団の中で最も力のあったのだろう女の命は消えた。ならばただの人間がどうして生きていようか。
「【上】が何故ダイアナ・フロックハートを生かしていると思っているのですか。まさか大切に保護をしているとでも? そこの娘は我々の人質なのですよ」
「何を……待って、どういうことなの?」
「貴女たちが動かずともあの女は罰せられたというのに、貴女たちは過ちを犯した。……事も有ろうに私の主人にも傷を付けた。もう生かす価値もない。その命は神に返しなさい」
声が出ない。
この女がいれば母が殺される。だが母は父を殺した。この女は被害者だ。ここに集った者たちも同じ。悪はディアナで、クロエはその血縁者で悪だ。
(いやだ……やめて、やめて……!)
ジゼルは己の死を悟り、クロエを道連れにすることを望む。
体力も精神も尽きていた。
ナイフをクロエに振り下ろそうとしたジゼルは何かを踏んだことで体勢を崩す。クロエの髪留めから飛び散った真珠だった。
崩れた姿勢を戻す暇はない。ジゼルの金の髪を掴んで持ち上げたファウストはナイフを奪い、いとも容易く首を斬った。
血飛沫が雨のように降り注ぐ。
血の泡を吐きながらのたうち回るジゼルが生き絶えるまでどれだけの時間を要したのか。即死などではない苦しみに、血濡れたジゼルの顔は歪んだまま固まっていた。
地獄では火が消えることも、蛆がいなくなることもない。
これだけの騒ぎなのに誰もこないということは、ここに生きている者はもういないのだ。鏖殺を終えた男は反り血も浴びていない。
「な……ん、な、なんで……なんでなんで! なにやって」
「何で殺したんですか、などと言いますか?」
「なんでっ、この人たち」
「だから私は以前言ったのですよ。貴女はあの男もあの女も許すのだろうと」
ヴィンセントとディアナの罪から目を逸らした結果がこれだと現実を突き付けられ、クロエは何も言い返せない。飛び散った血が服に染みていく。濡れた服はすぐに薄紅の色に染まった。
「これに懲りたら大人しくしていて下さい。……貴女は目的を果たすまでの慰みになれば良い」
貴女は籠の鳥であれば良い。
囁かれた言葉の意味を呑み込むことも拒絶することもできず、クロエは放心する。
頭が痛い。
胸が苦しい。
息が引きつり、視界が暗くなる。
「クロエちゃん……!」
不意に名を呼ばれる。
その声でクロエは我に返る。鈴のような声はずっと案じていた女性のものだ。
「痛み止めは打ちましたが動いて良い状態ではありませんよ、メルシエ嬢」
「うるさい! クロエちゃんもう大丈夫だからね……。助けられなくてごめんね。もう大丈夫だから」
敵は掃討しエルフェも外にいるからもう大丈夫だと、メルシエは何度も大丈夫だと繰り返した。
優しい手に肩を触られてクロエはしゃっくりのような息をする。
「……よかった……。私のせいで、メルシエさん…………」
極限に達した精神が緩んだことでクロエはそのまま倒れた。