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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
八章
192/208

青い鳥は鳥籠の中に 【6】

※この話は暴力流血表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。


「あんたの母親が(アンセム)を殺したからよ」


 ジゼルの瞳にあるのは憎しみ。暗く燃え盛る怨毒。

 目の前にいるのは子供の悪夢そのものと言える継母。大人になったクロエは酷い現実と対峙する。


「……なに、それ……」


 アンセムは列車に跳ねられて死んだのだ。状態が酷くて、遺体は焼かれて帰ってきた。ジゼルも灰の小箱を見たはずだ。


「嘘、言わないで! お父さんは事故に遭ったんです。お母さんだってずっと行方が分からなくて……」

「死ぬ少し前にね、ダイアナが戻ってきたって言ってたの。夜に出て帰ってこない日だってあった。アンセム、飲みに行ってたでしょ……あんたは床でゲロ吐いてたっけね」


 クロエは施設から戻された直後からジゼルと上手くやれていなかった。

 寧ろ年を重ねただけ、幼少の頃よりも酷い言葉を向けられるようになっていた。アンセムは仲裁するでもジゼルの味方をするでもなく、二人を狭い家の中に置いて酒場へ出ていた。

 ジゼルと二人の空間は苦痛で、食事は嘔吐した。今だって怖くて仕方がない。

 クロエは一年前よりもヴィンセントと向き合えるようになって、ジゼルのことも乗り越えられるようになったかもしれないと、そんな淡い期待があった。ヴィンセントにジゼルを重ねなくても、あの頃の自分と今の自分はもう違うのだと――長い前髪を切って、一歩でも進んだはずだと思っていた。

 なんて甘い考えなのだろう。


「死んだはずのあんたが生きていると知った時は嬉しかったわ。あの女と一緒に地獄に送ってやれるんだから」

「そ、そんなこと……っ、じゃあメルシエさんは関係ないじゃないですか!」

「本当に状況が理解できてないのねえ。頭の中に蛆でもいるのかしら」


 この復讐にメルシエは無関係のはずだというクロエの訴えをジゼルは笑い飛ばす。


「あの女に関わった奴は一緒よ。あんたといた赤毛も黒服も全部一緒」

「……いやだ、そんな……」


 メルシエとルイスが巻き込まれているなんて嫌だ。

 口答えしていたクロエの顔がいよいよ絶望に染まったのを見て、ジゼルは片手に持っていたランプを掲げた。オイルの匂いが鼻をついて、眩しさに目が焼かれる。

 ジゼルはクロエが顔を背けることを許さないというように髪を力任せに引っ張った。


「――――っ」

「ここにいるのはあの女に肉親を殺された奴ばかり。無事でいられるなんて思わないことね」


 地下室にはジゼルの他に三人の男がいた。この口振りだと外にもまだいるのだ。

 ディアナに大切な存在を殺された人が何人もいる。

 クロエの髪を離したジゼルは男へ言った。


「逃げないように服脱がせてしまいなさいよ」


 ジゼルは冷笑を残して地下室から消えた。

 先ほどの怒声を上げた者とは別の男が近付いてきて、クロエの襟に手を掛けた。


「いや! 触らないで!」

「うるさい!」


 男の手を払おうとしたクロエはこめかみを僕たれていた。

 殴られた衝撃で怯んで抵抗ができなくなる。縛られていない手があるのに、動けない。塞がれていない口があるのに、声も出ない。

 ナイフが目の前に突き付けられている状況でクロエは無力だった。


「おい、あまり痛め付けるな。人質の価値がなくなる」

「こんなやつ殺さなけりゃ何しても良いんだよ」


 ナイフでブラウスとスカートを裂かれて肌が露わになった。

 そこにあるのは【傷】だった。

 太腿と二の腕から肩にかけての火傷、擦りきれて染みになった痣、裂かれて繋がった切り傷。体中を這う傷にナイフを持つ男の顔が歪んだ。一歩引いた者さえいた。


「気味悪い身体しやがって……」


 腕の傷は日常的につけられ様々なものが混じっている。だが、太腿は違う。

 蜂の巣のようだと笑いながら弄び、規則的に煙草を押し付けられた忌々しい痕。誰にも見られたくない恥ずかしい傷。

 恥ずかしかった。

 親に虐待を受けるような出来損ないの子供だったことも、そんな暴力に屈した情けなさも、こうして他人に見られるということも恥ずかしく、苦痛だった。

 男が拒絶するほどの傷、傷、傷。

 結果的にそれによって守られたクロエであったが、吐き気も恐怖も悲しみも胸を押し潰しそうだ。


(……やだ……いやだ……)


 助けて、なんて言葉が口から出ることはなかった。






 冷水を頭の上から何度も掛けられる。

 時折、水を張った水槽に顔を沈められた。昔の記憶が蘇ったクロエは何度も吐いた。

 吐くのは恥ずかしい。

 臭くて、汚くて、気持ち悪い。罵られる。汚した床を自分で片付けているといつも惨めで泣きたくなった。

 人質の虐待を余興のように横目で見ながら彼等は何事かを話す。


「何故、男を連れてこなかったのですか?」

「行った奴は帰ってきてねぇ。そもそも男拐って何になるんだ。女二人で充分だろ?」

「子爵が紫眼に興味をもっておられると伝えたはずですが」

「何とかいう伯爵様もそうだったけど、黄金の血を煮詰めれば不老長寿の薬になるとかいう話を本気で信じてるの?」

「魔女が年を取っていないということはあながち迷信でもないのかもしれない」

「貴族ってやつはこれだから……」


 苦しくて、何のことか分からない。

 ただ嫌な話だけが頭を揺さぶる。


「こいつを殺すんじゃないぞ」


 嫌な、とても嫌な笑みを浮かべた男女はクロエという汚物を消毒するような感覚でまた冷水を浴びせた。

 虐待を加えていた男女が地下室から去る。今この場を見張っているのは目許を隠す仮面をつけた女二人だ。

 濡れた服の冷たさで凍えながらも息を整える。クロエは床に手をついて起き上がった。


「あなたたち、前にお母さんといた……。お母さんの味方なのにどうしてこんなことするの……?」


 迷いの森で逃げるクロエを捕らえた二人――セレーネとユピテルと呼ばれていた――だった。

 恐らく仲間関係にあると思われる二人が何故ディアナに恨みを持つ集団の中にいるのか分からず、クロエは問う。


「牙のない戦士など生かす価値がありますか」

「我が身可愛さに私たちを売るかもしれません」


 ディアナの身を置いていた世界のなんと無情なことか。彼女等は【赤頭巾】を切り捨てた。

 クロエは黒い仮面の下の顔を見たいとも思わない。彼女等がどういう価値観で生きているか分かったこともあるが、紫眼を捜しているような相手と話したくなかった。

 紫眼に黄金の血、不老長寿の薬を求める貴族。子細は分からずとも双子を不幸にするということだけは理解できる。


(メルシエさんもルイスくんも私と一緒にいたから巻き込まれた……。私が一人でお母さんに会いに行けばこんなことにならなかった。お父さんも……?)


 クロエが自分の母親が関わった者が不幸になる現実に打ち拉がれていると、床に何かが投げ置かれた。

 床に溜まった水がばしゃりと跳ねる。

 トレイに乗っていたのはパンだ。小麦粉にジャガイモ粉を(カルトッフェル)混ぜたパン(ブロート)は【ベルティエ】では安価に入手できる主食である。ジャガイモパンも、水で薄めたミルクや蜂蜜湯も施設で出た食事だ。幼い弟妹たちには苦痛だったようだが、空腹で目が回るよりはましだとクロエは感じた。

 殺さぬ為ならば憎い相手に食事も出すのかと皮肉な気持ちで顔を上げ、クロエははっとする。眼帯を着けた男の顔に覚えがあった。


「あの時の……」

「こんなとこで会いたくなかったよな」


 ディアナの面会へ行った帰り、列車で乗り合わせた男だった。

 偶然の筈がない。つまりクロエはずっと見張られていた。

 背筋に冷たいものが流れるような感覚がした。


「食べろ」

「……吐いたばかりで……無理です」

「食べろよ」

「無理なんです!」


 半分は本当だ。もう半分には人質として良いように使われてなるものかという反抗心があった。


「おまえのこと被害者だって思ってたけどやっぱり違うんだな……」

「被害者って何のことです?」

「クソ親の被害者で自分が悪くないと思っているなら謝るか反論したりするだろ? おまえの態度は罪を認めて開き直った奴のそれだ」

「ちが――――っ」


 違う。そんなことはない。

 けれど、自分の言葉に意味がないことをクロエは知っている。ディアナの娘であるのは事実なのだから。


「殺したりしない。俺たちの怒りを忘れて安穏と暮らしていた魔女に裁きを下すのにおまえは必要だからな」

「私に人質の価値なんてないです」

「そうやって母親を庇うんだな!」


 仮面の女も眼帯の男もディアナの敵だった。クロエの言葉は彼等に火を点けるだけだった。

 その後、食事を兼ねた小休止ということなのかクロエは地下室に放置されていた。見張りも交替している。

 監禁場所となっている地下室には大きな水槽の他に洗い場がある。床が汚れても洗い流せ、水槽で死体を溶かすこともできるという訳だ。


(このままここに居たらいけない)


 ジゼルの命令で服は切り裂かれて下着も露わだ。逃亡できないと思われていたようで足枷はない。

 昔のクロエを知るジゼルだからこそ、仲間に誤った情報を伝えるのだ。

 クロエは生理的欲求を訴えて地下室を出た。生きていてこその人質で、吐瀉物以外で床を汚されたくない女がいたのが幸いだった。


(造りは【ベルティエ】の家に似てる……?)


 一階のバスルームの窓は狭く、出られそうにない。窓から見える景色も高い塀で覆われていて外がどうなっているのか分からない。

 この場で悲鳴を上げたところで通行人に助けを呼んでもらえる可能性は低く、バスルームの外には見張りの女が立っている。

 ドアは内開き――侵入者対策をされた一般的な建築――だ。

 考えを巡らせたクロエは洗面台にあった空の花瓶を床に落とす。


「ちょっと何してるの」


 バスルームに入った女はクロエの姿がないことに数瞬、戸惑う。

 ドアの陰になるように隠れていたクロエはそのまま体重を掛けてドア押して女にぶつけた。

 女が怯んだ隙をついて廊下に出る。

 地下室とは反対側に向かって走る。

 一刻も早く脱出しなくてはならない。ここを抜け出して、母を守らなくては。これ以上他人に迷惑を掛けてはいけない。

 だが、現実は甘くはなかった。

 裂かれたスカートが足に絡まったクロエはうつ伏せに組伏せられた。そして、鋭いものが右膝の裏側を削ぐ。


「あ……っ、ううう……」


 奥歯を噛み締めて痛みに耐える。

 女が上から身体を退かし、解放された時には膝の裏が切り裂かれて立ち上がれなくなっていた。

 鼻血を流しながら追ってきた女は、クロエを裂いたナイフを見せながら恐ろしい言葉を吐く。


「お前が逃げたら赤毛の女を殺すからな!」

「ごめん……なさい……」


 銃弾を受けたメルシエが監禁されている。それだけでクロエは逆らえなくなった。

 女はクロエの傷のことなど知った風でもなく地下室に引き摺っていく。階段を転げ落ちて、頭上で扉が閉じた。

 地下室は真っ暗になる。

 床に横たわったまま、痛みが落ち着くのを待つ。打撲はあるが手足は折れていない。クロエはペチコートを裂いて、膝の止血をする。こんな不衛生な場所で傷を剥き出しにしていたら汚染される。

 痛みで脂汗が出る。涙も落ちた。

 汚れた手で目を拭うこともできずに泣く羽目になる。


(痛い)


 彼等が望むことはディアナと人質の交換だろう。しかも人質のクロエとメルシエは解放される保証はない。


「……怖い……」


 震えが止まらない。

 寒くて、痛い。

 泣くと立ち上がれなくなると知っていたはずなのに押し寄せてくる恐怖も苦痛もクロエの自制心を削った。

 暫くするとまた男と女がやってきた。加害者の家族なら痛め付けたいという考えを持つ者たちは、憎い敵の子を死なない程度に嬲った。

 その最中、足の傷口に塩水をかけられ、あまりの苦痛にクロエは気絶した。






 目を覚ますと地下室に明かりがあった。

 部屋の隅に誰かがいる。眩しくて良く見えない。クロエは腫れてぼんやりと霞む目を凝らす。ランプをテーブルに置いて座っているのはジゼルだ。


「ゲロまみれでずぶ濡れ。なんて醜いのかしら」

「…………」


 もう胃から吐き出すものはない。踏み付けられた身体が鈍く痛む。膝は熱っぽい。

 痛みをやり過ごそうにも吸い込む空気が悪い。

 カビ臭い床に伏して、喋ろうともしないクロエにジゼルは昔語りを始めた。


「あんたが森で死んだ後ね、男がきたのよ。死体が酷い有り様で遺族に引き渡すのも残酷だし、血縁関係もないなら灰も要らないだろって……。私は金貰って関わらないのを選んだけど、まさか生かされてるとはね」


 じめじめとした淀んだ空気の中に継母の声が響く。


「調べてみたらあれダイアナの恋人だったってわけ。傑作じゃない」


 クロエの死亡見舞金でジゼルはアンセムの死の真相を調べ、そして十年が経って最悪の巡り合わせで再会したというところか。

 ジゼルにしたら嵌められたようなものだろう。だからといって、して良いことと悪いことの分別(ふんべつ)も付かないのだろうか。


「こんなこと止めませんか」

「また綺麗事。その綺麗事でご飯が食べられた?」

「母は私を助けにこないです。メルシエさんを巻き込んだら黙ってない人だっています」

「だから何なの?」

「メルシエさんは生きてるんですよね?」

「我が身のことより他人の心配、ね。本当に良い子ちゃん。気持ち悪いのよ」


 くすり、とジゼルは笑う。

 仮面の女も復讐者たちも会話にならないが、この相手も似たようなものだとクロエは唇を噛み締める。


(今、自力で逃げるのは無理……。エルフェさんなら絶対メルシエさんを助けてくれる)


 クロエを助けようとする人間がいなくても、メルシエのことならエルフェがきっと助ける。ディアナに危険が迫っていると知ればヴィンセントも動くかもしれない。

 相手の調子に乗せられてはいけない。苛立ちがあろうとやり過ごすべきだった。


「ねえ、許してって言わないの? 私と姉妹のように仲良くしたいって言ってたじゃないの」

「……本当にそう思ってたわけじゃない!」


 ぷつりとクロエの中で糸が切れる。

 この瞬間、溜め込んできたものが理性を押し流した。


「誰が貴方なんか……! お父さんが連れてきた知らない女の人と仲良くしたいって思うの? 私はそう言うしかなかった。貴方たちがいつも私を苛めるから……っ」


 継母の暴力も父の無関心もクロエの心を潰した。

 世界はこの自分を愛していないのだと思うような、虐待の日々。

 拉げた心は戻ることはなく、いつも血を流す。どれだけ前を向こうと努力しても嫌な記憶は足を掴んで離さない。

 ここは籠の中、牢獄だ。


「貴方みたいな人、居なくなれば良いってずっと思ってた」


 殴られるとクロエは思った。だが、ジゼルは何もしなかった。

 椅子に腰掛けたままじっと、拒絶の言葉を吐くクロエを眺めていた。


「あんたが最初からそうならもっとまともに付き合えたかもね」

「今更です」

「そう、今更なのよ。あの女がしたことも私の怒りも収まらない。あんたたちを地獄に突き落とさないと私はアンセムに報いられない」


 口調こそ熱っぽいが、ジゼルの声色は醒めている。彼女は眼差しに有らん限りの憎悪を込めていた。

 ランプの照らす薄明かりの中でクロエは初めて継母の素顔を見た。

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