青い鳥は鳥籠の中に 【5】
※この話は流血表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。
クロエが来られなかった間にディアナの部屋は移動していた。
新しい部屋の壁はオレンジ色でカーテンやシーツもイエロー、ピンクといった鮮やかな色が使われている。まるで子供部屋のような楽しげな空間である。狭い部屋に患者衣で押し込まれていたことを思えば待遇は良くなっている。
だが、監視はしっかりとある。天井にはカメラがあり、壁に嵌め込まれた鏡は隣の部屋から様子が覗けるような仕掛けになっていた。
今日はメルシエも見舞いにきていて、クロエの傍らにいる。
施設の職員からディアナと直接の面会を禁じられ、こうして見張りまでいるのだ。信用されていないのは自分と母のどちらなのだろう。
クロエは薄暗い部屋から、明るい部屋の様子を見守る。
「レイフェルさんからの差し入れです」
「へえ……、エルフェさんか。随分と女趣味な包装だ。いよいよファウストくんに毒されたのかなぁ?」
「それは分かりませんが、数日おいてからの方が美味しいそうです」
クロエがルイスに頼んだのは、エルフェにアドバイスを貰いながら作ったシュトーレンを届けること。
ラム酒に漬けたナッツとドライアップルを練り込んだ生地をしっかりと焼き上げているシュトーレンは日持ちする食べ物だ。
「すぐに食べられないもの寄越すなんて気が利かないね」
「少しずつ食べられるようにとの配慮だと思いますが」
「バゲットを丸噛りする女が少しずつ食べるのかな」
ヴィンセントは受け取った菓子をテーブルに置く。
堂々と悪口を言われているディアナは半目を伏せる。
「ヴィンスくんが男の子とフツーに喋ってるの、気持ち悪いんだけど」
「はあ?」
「君がそういう猫撫で声で喋るのって女の子だけじゃん。女の子みたいな顔ならオッケーってこと?」
「何か文句あるわけ、ディアナ」
「わたし、ブッシュドノエルは一本丸噛りしたけど、バゲットは噛ってないよ。変なこと言わないでよ」
「余計に酷いだろう」
頭の痛くなるような会話を交わすディアナとヴィンセントの関係はどうなっているのだろう。メルシエが懐かしいなどと言うので、昔からこうなのだと察したクロエは悩む。
ミラーガラス越しに部屋を覗くのは悪い気がしたものの、自分の知らないディアナの姿は興味深くもある。【他人】として関わるなら、母でない彼女のことを知らなければならない。
ディアナは軽やかにベッドから立ち上がると革張りのソファに移動した。
「ねえ、君。何処かで会ったかな? ごめん、名前出てこなくって」
「初対面です」
「そっか……うーん……。わたしのこと許さないって目、見覚えあるんだけどな」
世間話でもするようにルイスに向かいの席を勧めるディアナの唇は弧を描いている。
「今まで何回か恨み買っちゃったかなってことはあるけど仕方ないよね。こっちも生きる為にお仕事してるだけだし、わたし、エリカちゃんとアンセムさん養わないといけないからさ」
歪みが滲み出して、蝕んでいく。クロエは寒気がした。
不穏な気配を感じ取ったメルシエが立ち上がる。
「恨んでいる人間を覚えているなら、貴方を一番想っている娘のことはどうして覚えていないんだ?」
聞き取りづらいほどに押し殺された声。嫌悪の感情も殺し、ただ淡々とした調子でルイスは疑問を投げ掛ける。その瞬間、ヴィンセントは拳を振り下ろしていた。
「あんたは殴るしかしないんだな……」
「どういうつもりだよ」
左腕でヴィンセントの拳を遮ったルイスはそのまま振り払う。
「自分の行いを客観視したことがあるのか?」
「客観視? 客観視だって? 誰かさんを思うなら君のこの振る舞いは傷を抉っているようなものだよなぁ。掻き乱すなよ」
「小康状態を保つ為に都合の悪いものから遠ざけて何か変わったのか」
「【この世界】では誰も不幸じゃない」
「冗談だろ、笑わせるな」
ルイスがヴィンセントに向ける声には冷ややかな軽蔑があった。
ヴィンセントが己ではなく他人の為に拳を振るったことは事実だ。けれど、ルイスにとっては関係ないことなのだ。
見かねたメルシエがルイスを部屋から引っ張り出した。
男二人の争いなど空吹く風と聞き流すディアナは首を捻り、指に短い髪を絡めた。
「アンセムさんの友達かな。殺した奴の家族だっけ。雇い主ではないし……男なんて皆同じに見えてくる」
「……人間が動物の顔に区別がつかないのは分かるけど、お前のはただお前の頭がいかれてるからだよ」
何が可笑しいのかディアナは声を立てて笑った。ヴィンセントの口許にも歪な笑みがある。
ここには正常な者がいない。壊れたものだけの歪んだ世界だった。
息苦しくなったクロエはふらつきながら部屋を出る。廊下ではメルシエがルイスを咎めている。施設の職員がディアナの部屋を再び施錠し、戻っていく。
取り繕ってもこれが現実だ。
目眩がして、足がもたついたところを腕を持って支えられる。クロエはルイスを掴み返していた。
「どうして……」
「耐えられなかった」
クロエは首を横に振る。何度も首を振った。
彼はこちらの代わりに言ってくれただけだ。クロエはみっともない弱音を吐いて、彼にあのようなことをさせた。
ディアナは今話したこともすぐに忘れるだろう。だが、ルイスの傷は消えない。殴打された痛みも、向けられた言葉の毒も彼を蝕む。クロエに関わったが為に、クロエの大事なものが傷付く。
ディアナの夢を守る為に皆が嘘をついて。幸福なのは夢の世界にいる彼女だけだ。
この辺りは旧市街地と呼ばれる場所だ。大通りを外れると驚くほど静かな路地があるのが【ロートレック】の特徴でもある。
クロエたちと途中まで共に帰るというメルシエは、やはりエルフェに頼まれた目付け役なのだろう。
エルフェの危惧した通り、ろくなことにならなかった。メルシエも骨折り損だ。本当に自分の都合に他人を巻き込んでばかりだ。
人気のない十字路でメルシエがふと足を止める。
「小侯爵……いや、ルイス。年寄りの小言に付き合って貰っても良いかい」
「何ですか」
説教の続きはうんざりだという顔をしているものの、ルイスに話を聞く姿勢はある。
クロエは話の邪魔にならないよう路地の窓に飾られた花を眺めることにする。
「クラインシュミット事件について何処まで調べてるの?」
「犯人は複数人、少なくとも二人。内一人は女。父と面識があるかもしれない」
「続けて」
「当時、父は【上】との関わりを断とうとしていたようです」
「あんたたちに仕事を継がせない為かな」
「中立のクラインシュミットは【上】との繋がりがあったからこそ守られていました。それがなくなれば政府にとっても教会にとっても目障りな存在でしかない」
「そこまで分かっているなら……仇討ちを諦めて生きるって道はないの?」
「続くのが綺麗事なら聞きませんよ」
「あんたが憎くて言ってるんじゃないよ。レヴィやこの子の気持ちを汲むことはできないのかって言いたいの」
クロエは突然二人の会話の中に投げ込まれて戸惑った。
「自分を知っている人がいない土地で暮らしてみるってのはどう? 一人で出ていけって話じゃないよ。この子も連れていって、レヴィとだって連絡取りたければそうすれば良い」
「ちょ、ちょっとメルシエさん! 変なこと言わないで――」
「あたしは真面目だよ。ディアナがあんな風になったから言ってるんだ」
メルシエの目には苦悩があった。クロエは彼女を見上げたまま、言葉を失ってしまう。
大人たちはディアナの現状を、自由に伴う責任だと受け入れている。けれど全く悲しんでいない訳ではないのだ。
「はっきり言うけどあれは戻らないよ。待ったって良くなることなんてない。今はヴィンセントも大人しくしてるけど、じきに文句言い始めるよ」
クロエが逃げなければディアナは転落しなかった。
ディアナが壊れたことを責められる日々。夢の中のディアナだけが幸せ。幸福な赤頭巾は無邪気に毒を振り撒く。その未来を想像してクロエは胸が苦しくなった。
「でも、あんな状態だからこそ私が離れるなんて……」
「世の中には逃げなきゃならない時だってあるんだよ」
そんなものは分かっている。自分とて児童養護施設に保護されなければ死んでいたかもしれないのだ。耐えて堪えて我慢して、平気な振りをして、笑えなくなるまで頑張ることの無意味さをかつてクロエは思い知った。
「分水嶺という言葉があるだろ。人生に分かれ目があるなら、正しい道を選ばないと流された後は戻れないんだ」
間違えた大人がここにいると言わんばかりの忠告だ。
メルシエはルイスに向き直る。
「あたしのこと嫌いだと思うけどさ。綺麗事で言っている訳じゃないのは分かって欲しい」
「助言は心に留めて置きます。それと……レヴィをずっと気に掛けてくれた人を嫌うことはしませんよ」
「そっか。あたしの話はここまでだから」
電話を見なよ、とメルシエは促す。ルイスの携帯電話に先ほどからずっと連絡が入っていたのだ。
用件を確認したルイスは、ファウストからの召集で【フェレール】へ戻らなければならないという。
「クロエさん、一緒に帰れなくてごめん」
「仕事ですよね。気を付けて」
ルイスが心配してくれるのと同じように、危険なことに関わる彼をクロエは案じている。
笑顔で送り出せたか自信がなかった。
(分水嶺なんて……)
雨の分かれ道。
秋の夕刻に――幼いクロエが我慢などせずに母に追い縋ればこうならなかったのか。
過去はもう戻らないのだから考えても仕様がない。ならば未来はどうか。この十字路の先も分からないというのに、人生の分岐点が訪れた時に選ぶことができるのか。
選ばない幸せを噛み締めているのは、ディアナを諦められないクロエとヴィンセントだけだとアンジェリカに以前こっぴどく叱られた。
曇る心を嘲笑うように九月の空は晴れている。
「さっきのは酷いと思います」
「仇討ちに口出したこと?」
「いいえ、私の問題をあの人に押し付けるのは」
「クロエちゃん、その考え方はちが――」
呼び掛けた声はぷつりと途切れる。
耳慣れない高い音が二発轟き、それと同時に隣にいるメルシエの体勢が崩れる。
「メルシエさん……!?」
受け身のない倒れ方をしたメルシエは身体を地面に強く打ちつけた。
クロエは膝を着く。メルシエの肩と胸に空いた穴からとろとろと赤いものが零れている。銃で撃たれたのだということにクロエは気が動転する。
石造りの壁に影が大きく映った。
背後に立った何者かに頭を強打され、クロエの意識は途切れた。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
冷たさが刺すように身体を苛む。
うっすらと目を開ける。
クロエは冷たい石の床に横たわっていた。
床に手をつくと埃混じりの泥がこびりつく。
壁も天井も石だ。窓がなく薄暗い。地下室と思しき場所。
じめじめとした空気が不快だ。何よりも気持ち悪いのは、自分を取り囲む人の視線だ。
後頭部の鈍い痛みに、何があったのかを思い出す。
つまり、ここにいる全てが敵だ。万が一にも自分と友好的に話したいという人間のはずがない。この者たちはメルシエを襲ったのだから冷酷非道な敵でしかない。
「貴方たち何なんですか?」
咄嗟に身構えたクロエは敵意も露な目で男たちを睨んだ。
「メルシエさんはどうしたんですか!?」
「口を利いて良いと誰が言った!」
裸のランプの明かりは目に突き刺さるように痛く、怒声を上げた男の表情が良く読めない。
クロエは眉を顰めた。
「【良い子ちゃん】だから状況が理解できていないのよね」
笑っているとも怒っているともつかない冷ややかな声が頭上から降ってきた。
階段を下りてくる人物に目をやったクロエは恐怖で血の気が引いた。
「相変わらず辛気臭くて忌々しい顔だこと」
「……お義母さん……? どうして……こんなところに……」
こちらの一切を否定する青緑色の目。忘れもしない継母ジゼルだった。
「あんたの母親が夫を殺したからよ」