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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
八章
190/208

青い鳥は鳥籠の中に 【4】

 どんな時でも現実はついてまわる。

 どれだけ泣いても夜は明けるし、腹は空くのだ。あの冬の日、死のうと考えたことを思えば随分と図太くなったものだと己のことながら驚く。

 クロエの日々の暮らしは変わらない。

 喫茶店の手伝いに入っているクロエはトレイを抱えて、注文の品(オーダー)が出来上がるのを待つ。


「ご主人。今日はルイスくんはいないの?」

「ルイスは本日休みを取っております」


 カウンター席にいるのはマルシェ広場にあるパン屋の女将エインセルだ。

 パンを毎朝買いに行っていることもあり、クロエもエルフェも女将とは顔馴染みである。

 クロエとレヴェリーがエルフェの養い子で、ヴィンセントが厄介者ということを知っているパン屋の夫妻は、【Jardin Secret】の常連客でもある。特に旦那とは、同じ菓子作りの趣味もあってエルフェも楽しそうに話をしていた。


「お宅の子たちは働き者で羨ましいな。うちのチビはさっぱり手伝わないよ」

「子供は遊ぶことが仕事ですからね。少しくらい怠けてくれた方が安心できるものです」

「長年子育てしているみたいに言っちゃって、可笑しいったら」


 エルフェからそのような言葉が出たことに女将は笑う。

 よもやエルフェが十年もレヴェリーの面倒を看ているとは思わないだろう。だからこそ女将はこんなことを言った。


「ご主人も若いんだから恋人探せば良いのに」

「愚息が一人立ちするまではとても」

「私はこの家にお母さんがいたら良いなっていつも思っていますよ?」

「まあ!」


 クロエの言葉を聞いて、女将も笑顔になる。


「いい人いたりするの?」

「お母さんになってくれたらなっていう人はいるんですけど、お父さんの腰が重くて」

「ふふふ、可愛い娘がこう仰せだけど」

「クロエ、これを出したら上がって良い。女将さんもあまりからかわないで下さい」


 出来上がった品をトレイに乗せてクロエは運ぶ。

 テラス席にいるのは例の公爵令嬢である。何か厄介事を持ち込まれるのかとエルフェは警戒していたようだが、彼女からアクションを起こす様子はない。勿論、今のところはだけれど。


「お待たせしました。カフェクレームです」


 本日二杯目はスチームミルクを入れた甘いコーヒーだ。

 連日訪れる彼女はメニューの一番上から順に一つずつオーダーするということをしていた。


ありがと(ダンケ)!」

「ごゆっくりどうぞ」

「ちょっとまって。お喋りしましょ。私はユエよ。ね、良いでしょクロエさん」


 ユエと名乗った令嬢はぐいと迫ってくる。

 クロエが思わず振り返ってエルフェを見ると、従えと目が言っていた。

 レイヴンズクロフト家の養女として失礼がないようにしなければならない。クロエはトレイを抱えたまま召使いのように佇む。


「座らない? 貴方もうフリーでしょ」

「……はい、では失礼します」


 ぎこちない動作で着席するクロエ。ユエは首を傾げた。


「何だか物凄く緊張してない?」

「ご、ごめんなさい。貴族の方というものが良く分からなくて……」

「うーん、何なのかしらね?」


 カフェクレームを一口飲んだユエは頬を綻ばせる。所作の美しさよりも、美味しそうに飲む様子が印象的だった。


「まず貴族はざっくり分けると二種類いるわ。【アルケイディア】を築く時に技術を提供した人の子孫。もう一つは塔ができてから活躍した人、政治家ってやつもこっちね。うちは尊い御方の親戚というだけ。妃殿下の父親ってことで何だかイロイロ権限持たされて偉そうに見えるけれど、私はただの庶子だから何もないわよ」


 正室以外の子だとけろりと答えられる。

 ユエがロセッティーナ公爵の側室の子で妃殿下の妹などと頭が混乱するクロエ。貴族の世界のことは何も分からないが、やはり彼女はとても高貴な存在なのではないだろうか。


「うん、だから気なんて遣わないで。そっちの方が私も嬉しい」


 親しみやすい口調と明るい笑顔に呑まれてしまいそうになる。

 月の姫君――有名な食器のモデルだ――という名から浮き世離れした女性を想像していたが、現実の彼女は生命力に満ち溢れた娘だった。ともすると月よりも太陽が似合うのではとクロエは考える。


「今のお母さんは私にとっては継母なのよね。それで貴方のこと気になっちゃった」

「ユエさんは私のこと知っているんですか?」

「【赤頭巾】の娘といえば色々と。貴方は面白くないと思うけれどね」


 継母にしても実母にしても今のクロエにとっては愉快ではない。苦いものが胸に広がるが、家族のことで己の感情を取り繕うのは慣れていた。大丈夫ですよ、と笑顔で返すほどにはいつものこと。

 ユエはそんなクロエの虚勢をどう受け取ったのか、本当はね、と笑った。


「ルイに言われたのよ。【クロエさんのいるところでオレに話しかけるな】って。貴方のことばっかり言うから、興味が湧かないはずがないじゃない?」

「お客さんになんて失礼なこと! 私、あとで叱っておきますね」

「いいのいいの。私が押しかけたのもあるし」

「協力を頼む立場でそれは失礼ですっ」


 ルイスはユエに何を話したのか。同居人の女が妬心を抱くから話しかけるなとでも言ったというのか。

 それではこちらの想いが筒抜けだ。初対面に等しい相手に知られるのはとても決まりが悪い。

 クロエが恥ずかしい気持ちを押し込め、非礼を詫びようとすると、ユエは首を横に振った。


「上部だけ綺麗に取り繕われても気持ち悪いし、はっきりしているのは良いことよ。それに、話したところで中身までは分からないもの」


 これは望ましい展開だと、ユエは悪戯っぽく言う。

 この女性は何歳だろうとクロエはふと疑問に思う。取引相手を見定めようとする冷静さは二十歳を過ぎているようにも見えるし、生彩に富んだ表情やぞんざいな口調はティーンエージャーのようでもある。

 淑女ふたりが思い思いのことを考えていると、砂糖菓子屋(コンフィズリー)からレヴェリーが出てきた。ユエは顔の横に手を添え、呼び掛けた。


「レヴィー! 仕事、頑張ってるわね」

「な、なんでオレの名前知ってんの!?」

「やっぱり忘れてるのね! ちっちゃい頃いっしょに遊んだわよ」

「まじで? 覚えてねぇ」


 会話もそこそこにレヴェリーはマルシェ広場の商店から荷を受け取るとすぐに砂糖菓子屋へ戻っていった。

 広場の店は持ちつ持たれつだ。喫茶店はパンの持ち込みを許可しているし、砂糖菓子屋にはレモネードシロップが置いてある。今のもそうしたやり取りだろう。


「エレンお姉様の息子の片方は私をすっかり忘れてるし、もう片方はあからさまに警戒。何なのよまったく!」


 渋面のユエは口直しをするようにコーヒーを飲む。

 ほわほわのクリームと砂糖がたっぷりのコーヒーは心を慰めたようで、穏やかな吐息がこぼれた。

 クロエはユエが大きな声を出したことよりも、エレンお姉様と親しげな呼び方をしていることに驚いていた。


「二人のお母様のこと、ご存知なんですね」

「ええ。憧れだったのよ」

「憧れですか?」

「聞いてくれる? 小さい頃、私のバースデーパーティーがあったの。私のといっても参席者はみーんなお父様と仲良くしたい奴等よ! 何だか除け者にされたみたいでイラついて隅っこで座っていたら、エレンお姉様がお菓子持ってきてくれたのよね」


 それだけのことなんだけれど、とユエは苦笑する。

 些細なことでも大切に思うことはあるというのをクロエは知っている。ユエにとってのそれが誕生日会での出来事なのかもしれない。

 クロエがぼんやり覚えているエレン・ルイーズは、薔薇のコサージュが似合っていたということくらいだ。彼女と話した内容も覚えていない。エレン・ルイーズの生前の様子を知るユエを羨ましいと思った。


「まあ……そんな感じで、クラインシュミットの坊っちゃんが立ち上がろうとするなら気になるわよね」


 エレン・ルイーズの息子としてのルイスには関心はあっても、それ抜きではまだということだろうか。協力するではなく、飽くまでも興味だとユエは語る。


「伝言頼まれてくれる? 継父と話せないなら継母と話しなさいって」

「伝えておきます」


 クロエはしっかり承ったと頷く。

 ユエはコーヒーのお代わりをするべくカウンターの店主を呼んだ。


「あ、そうだ。私、婚約者(フィアンセ)いるから安心してね!」

「え……っ」


 自分の役目は終わりかと力を抜いていたクロエは明るく元気にそのようなことを言われ、素っ頓狂な声を上げてしまった。






 ルイスが帰ってくるから迎え序でに夕飯の買い物をしてこいとエルフェに言われた。

 用事を急ぎで済ませたクロエは石造りの白い駅の入り口で待つ。

 この時間になると駅は観光客よりも学生が多い。鮮やかなグリーンのブレザー姿の男女がお喋りをしながら通り過ぎていく。待ち人の姿を見付けたクロエは手を振る。あちらも気付いたようだ。


「クロエさん?」

「迎えにきちゃいました」

「ありがとう。荷物貸して」


 食材が入った紙袋を持っていかれ、手持ち無沙汰になる。これでは迎えの意味がないと内心焦るクロエに、ルイスは帰ろうと穏やかに言った。


「キミがいて驚いた」

「エルフェさんが教えてくれたんですよ」


 ルイスがエルフェにまめに連絡していることも意外だが、公爵令嬢と遭遇しない為らしい。

 心の準備もなく出くわすのはルイスも懲り懲りなのだろう。厄介事を持ち込まれたくないエルフェとも利害一致している訳だ。

 少し前まできちんと喫茶店にいましたと教えるとルイスは曖昧に頷く。

 エルフェが姉のメフィストから逃げるような態度だ。それほどユエが苦手なのかとクロエは意外に思う。


「最近良く呼び出されていますね」

「最下層部絡みの厄介事だよ」

「アンジーちゃんが暫くお母さんのところにこられないって言っていたのそれですか」


 ヴィンセントやエルフェとは別の管轄の仕事らしく、ファウストの部下は軒並み駆り出されているようだ。

 ディアナと面会した日の夜にクロエはアンジェリカと電話で話をしていた。


『人は自分の蒔いたものを刈り取ることになるのです』


 電話越しに言われた言葉ははっきりと思い出せる。

 ディアナの記憶が壊れていることに対するアンジェリカの答えは彼女らしいドライな考え方だった。

 自分の蒔いた種――身から出た錆。恐らくヴィンセント以外の大人たちがディアナへ思っているだろうこと。その考え方はディアナを恨んでも良いのだと言われるようでクロエには苦しい。


「そうだ。ユエさんから言伝がありまして、継父さんとお話が難しいなら継母さんと話してみたらどうかって」


 その言葉を聞いたルイスは何も言わなかった。

 聞こえていない訳でも無視されている訳でもない。緩やかな坂道を下りながらユエからの助言を咀嚼している。

 クロエは敢えて空気が読めないような声色で問う。


「ヴィオレーヌさんでしたっけ。話すのが難しいんです?」

「オレのことで苦しんで身体を壊した人に何が言える?」


 ルイスの義母であるヴィオレーヌという女性のことは少しだけ耳にしている。

 男子を産めないことを責められ、孤児を引き取ったことを偽善だと嘲笑され、心身を壊した。エリーゼが婿を取って家を継ぐとしても、一度引き取った養子を外に出せば世間体が良くない。そして、これには続きがある。


「その問題は貴方が家にいれば解決することですか?」

「いや……オレがヴァレンタインを継いでも下民に家が汚されたと言われるだろうし、賢しらなことを言う奴は消えない」

「ルイスくんは悪くないですよ。ヴァレンタインのご両親も悪くないです。何も知らないのに、勝手なことを言う人たちが悪いんです」

「ああ、分かっている」


 自分のせいで養家が恥を掻くのだと言いそうなルイスだったが、そこはもう割り切っているようだった。

 ならばクロエにできるのは背中を押すくらいだ。


「喧嘩するくらいの気持ちで話すのって難しいですね」


 親ときちんと話をできていないのはこちらも同じだった。

 クロエは少しだけ声が震えてしまって唇を噛む。悩んでいるルイスを元気付けるなら自分は無神経なくらいが良いと思ったのに、気を抜くとすぐに声色は沈んでしまう。


「次に母親のところに行くのはいつ?」

「週末です」


 あの様子では直接会うことは許されないだろう。けれど、行かないという選択肢はない。


「オレも話してみようか」

「え……!?」


 思わぬ提案にクロエは顔を上げる。ルイスは冗談を言っている目ではなかった。


「ルイスくんに迷惑が掛かるだけですよ」


 もしディアナがまともな状態だったのなら、クロエはルイスが会うと言ってくれたことに喜んだだろう。

 彼がヴィンセントとディアナに対して否定的であることは承知しているし、歩み寄って欲しいとも思わない。それでもディアナはクロエの実の親だ。

 茶の卓を囲んで談笑でなくても世間話だけで良い。

 弁えているつもりでも夢は見てしまう。いけないことだというのに。


「迷惑なんて思っていない。キミの親なんだから関係ないとは思わない」


 クロエが御託を並べる前にルイスははっきりと告げた。

 自分も大変なはずなのにこうして手を差し伸べてくれる彼は優しい。平気だと振る舞う為に心の底に沈めた気持ちが浮かんでくる。


「……お母さんに会うのが怖いです」


 吐露した気持ちをルイスは否定も肯定もせずに聞いてくれた。クロエは感情をこぼしてしまう。

 暗い場所でひとりで我慢して、耐えてきた。優しい言葉をかけられるのは同情されるようで棘が出た。そんな自分が他人に心をあかす。

 今、ひとりでないということが幸せで、怖い。

 赤い太陽が沈みゆく中、噴水広場までの長い坂道をひどくゆっくりと歩いて帰った。

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