閑話 Cendres de Reve 【1】
Cendres de Reve / 夢の灰
西側に窓があるリビングルームには午後になると陽光が射し込む。
中庭に降り積もった雪の照り返しによって窓辺はとても明るい。
クロエが洗い物を片付け終えたところで時計を見ると、午後二時を回ったところだった。
最近の【Jardin Secret】での仕事はクロエは裏方で、エルフェはオールタイム、残りの三人は交代勤務となっている。今日の当番はレヴェリーがオールタイムで、ヴィンセントとルイスが午前と午後の担当だった。
今エルフェは【上】の仕事で出掛けている。
ヴィンセントもそうだが、彼等は二週間に一度の頻度で三、四日ほど家を空ける。
仕事という名の人殺しで、そんなに頻繁に家を空けねばならないものだろうかとクロエは疑問に感じる。【上】の仕事に積極的ではないルイスに訊ねると、彼は【殺し】ではなく【巡回】だと答えた。
彼等のしていることの意味が分からないクロエは巡回と聞いてもしっくりこない。ただ、毎度人殺しをして帰ってきている訳ではないと知って少しだけほっとした。
殺人をしてきた者を待つのと、見回りをしてきた者を待つのでは、その心境は違うものだ。
彼等が何をしてきているのかは分からない。それでも従僕のクロエは二人の帰りを待つしかないのだ。
「エルフェさん、明日には帰ってきますよね?」
「んー、どうだろう。微妙だけど、帰ってきて貰わないと店の閑古鳥が鳴いたままだね」
ヴィンセントが言うように、エルフェがいないと客の入りが悪い。【Jardin Secret】は喫茶店ではあるが、飲食を楽しみにきている客よりもエルフェと話す為にきている客が多い気がした。
その時、店の方から食器の割れる派手な音が聞こえた。
「レヴィくんとルイスくん、大丈夫でしょうか?」
一つや二つ食器が割れただけではない大きな音だ。
嫌な予感がして様子を確かめに行こうとするクロエに、ヴィンセントは「放っておけ」と言った。
「客がいる前で揉めるほど莫迦じゃないよ」
「お客さんがいるとかいないの問題ではなくて、喧嘩はいけません!」
「男の兄弟ってあんなものだよ。殴ったり蹴ったり刺したり」
「ヴィンセント様……」
共に暮らし始めて三週間が過ぎようとしているが、双子には溝がある。血を分けた兄弟といっても、十年も離れて暮らしていたのだから互いに色々とあるのだろう。
レヴェリーは溝を埋める為に積極的に弟を構おうとしているのだが、ルイスはそれを拒む。ルイスは心の中に踏み込まれるのを拒むように辛辣な言葉を吐き、線引きをする。
ルイスはまるで氷の棘が刺さって心が凍り付いてしまっているようだ。そうした冷たさに触れる度、彼にとってこの生活が不本意であることが感じられてクロエは悲しくなる。
(私が単純なのかな)
いつ殺されるとも知れない環境で送る日々は心休まらないものであるが、その中でほんの僅かにではあるが【平穏】をクロエは感じてしまっている。
癖の強い男たちとの生活は賑やかで、今まで生きていて漠然と感じていた寂しさや、疎外感を忘れさせてくれた。
クロエが感じたぬくもりをルイスも何か感じないのだろうか。クロエは内心溜め息をつく。
「君が口を挟まなくても大丈夫だよ」
「気になっていたんですけど、あの二人って仲が悪いんですか?」
「どうだろうね。レヴィくんは最近うざったいから、ルイスくんは鬱陶しがっているようだけど」
ルイスはレヴェリーが【兄】という立場を強調する度に、嫌な顔をする。まるで兄ではないと言うように。
「お兄さんが弟を心配するのは当たり前なのに……」
「あのねえ、メイフィールドさん。あれはルイスくんを守ろうとしているんじゃなくて、自分を守っているんだよ。レヴィくんは守る存在があってこそ自分を保てる性質だからね。そういう甘ったれたところがルイスくんは気に食わないんじゃないかな」
「それでも、私はレヴィくんの気持ちが分かる気がします」
「へえ、どんな気持ちが?」
「弟や妹を守っている時、自分は必要とされてるんだって居場所を感じられるんです。打算的ですけど……」
母親に捨てられ、父親と継母に疎まれて施設に預けられたクロエは自分の価値を低いものとしている。
施設にいる子供の殆どがそうだ。本当は親が悪いはずなのに、自分が悪いのだと責めてしまう。
自分の価値が感じられなくて、居場所が見付けられなくて、何かを守ることで存在意義を見付けようとする。弟妹を守る間は自分の存在は許さるのだと安心する。そんな傷の舐め合いをしている。
クロエの答えを聞いたヴィンセントは冷たいような優しいような目をしていた。そして淡々と言う。
「念の為に言っておくけど、仕事をしているからここにいることを許されているなんて考えているなら思い違いだからね? 君がすることは当たり前のことであって、評価はしない。どれだけ頑張っても待遇が良くなったり、僕たちから信用されることもない。君は必要とされている訳でもないし、ここが居場所という訳でもない。僕たちが君を従僕以上の存在と見ることはないんだ」
ヴィンセントは容赦がない。下手な慰めの言葉を持たない彼は意地悪というよりは厳しい。
何かと常識を無視した人物ではあるけれど、このような時の彼はそれなりにまともだ。クロエは傷付きはするが、ヴィンセントの言っていることは正しいので理不尽さは感じなかった。
「分かっています。それにそんなつもりで仕事をしていた訳じゃありません」
「じゃあ、どういうつもり? そういえば僕が命じる前から君は進んで雑用をこなしていたよね?」
「じっとしていると色々考えちゃいますから……」
ここは十年後の世界で、死んだことになっているクロエを知る人物は何処にもいない。
もしもヴィンセントたちに捨てられたらクロエに生きる術はない。クロエは自分がとても危うい場所に生きている自覚がある。だからこそ、そういう悪いことを考えたくなくて身体を動かしている。
嫌味ではなく、自然と自嘲の笑みがこぼれた。
これ以上話していると弱音を吐いてしまいそうだ。それは望むことではないので、一礼して踵を返す。そうして立ち去ろうとするクロエの腕をヴィンセントは掴んだ。
突然掴まれ、足を止める。思いの外、強い力で引かれたクロエはよろめく。
倒れると覚悟する。だが、そのまま倒れてしまわないのは掴まれていたからだ。傍らで白檀の仄甘い香りがした。
(この人はこんなのだったっけ……)
レヴェリーは菓子の甘い香り、ルイスはシトラスの涼しいフレグランスの香り。
傍にいることが多い双子については自然と知っていたが、この金髪の男の傍はこんな雰囲気なのだと今になって知り、クロエは今更ながらにその距離感に吃驚した。
別にヴィンセントを避けている訳ではない。ただ、今以上に疎まれることが怖くて距離を置いている。
二ヶ月前のあの日からクロエはヴィンセントが怖い。クロエにとって家族の話は必死で塞いできた傷口を開かれ、塩を塗り込まれたようなものだった。
俯き、目を合わせようともせずに唇を噛んでしまったクロエの様子に、ヴィンセントは複雑な顔をする。
「ねえ、メイフィールドさん。今から僕に付き合ってくれない?」
笑むこともなく、ヴィンセントは無表情に言い放つ。
冷徹とも傲慢とも取れるその態度にクロエは困惑するしかなかった。
何処にでも名所というものがある。
例を挙げると【ベルティエ】の林檎の森。あそこは下町の住民は滅多に立ち入らないものの、上からの観光客が良く訪れる。もう一つ挙げれば【ロートレック】のディヤマン通り。流行の発信源であり、国で最も美しい通りとされる大通りは庶民の憧れだ。
では、この【クレベル】の名所は何処だろう。それは恐らくセントラルタワーだ。
【アルケイディア】の支柱であるシャンバラの塔に寄り添うように建てられたセントラルタワーは、【クレベル】から【ロートレック】を繋ぐエレベーター役を担ってもいる。
エレベーターといってもセントラルタワー内のそれは利用料を取られる上に、【ロートレック】の貴族専用だ。普段、検問所を通っているクロエにとって、セントラルタワーはあまり馴染みのない場所であった。
そんな場所の展望エレベーター内でクロエはぼそりとこぼした。
「お仕事なら、エルフェさんやルイスくんとこられた方が捗るんじゃないですか?」
「こういう場所に男同士でくるほど悪趣味じゃないよ」
「私を同伴でくるのも悪趣味です」
様々な店の入ったセントラルタワーは人気のデートスポットでもある。ブティック、カフェ、レストラン、演劇ホールなど。セントラルタワーは高級店揃いのハイクラスなタワーなのだ。
そんな場所にヴィンセントはクロエを連れてきた。その理由はクロエを気分転換をさせようという訳ではなく、ただの気紛れだ。しかも仕事の序でとくる。
つい先刻、下僕だと強調した上で「お前の居場所はない」ときっぱり言われてしまった。そんな人物と出掛けるなどクロエにしたら拷問でしかなかった。
クロエはヴィンセントにばれないように溜め息をつく。
「メイフィールドさんは僕の同伴は嫌なんだ?」
「はい、不本意です。ヴィンセント様の傍にいると、私は寿命が縮みそうです」
何を言われるかとはらはらとして心臓が騒ぎ、言われれば言われたで胃が縮み、彼の奇矯な言動には頭が痛む。クロエにとってヴィンセントの傍にいることは有害無益でしかない。
「君さ、最近僕たちに馴染んだ所為か性格悪くなったよね」
怯えている癖に時にずばりと物言うクロエを性格が悪くなったとヴィンセントは評した。
エキセントリックかつバイオレンスな性格をしている男に性格を貶されたくない。クロエは即座に否定する。
「そんなことありません!」
「いや、あるよ。ちょっと図太くなった。あ、悪い意味じゃないよ。寧ろ良い意味で言ってる。その調子で精進しなよ。君にはもっと逞しくなって貰わないと僕のストレス発散にならないからね」
「私でストレス発散しているんですね」
胸を冷たくしながら展望エレベーターを降りる。すると、視界が真っ暗になった。
明所から暗所という突然の変化に目が対応できていなかった。
「ほら、ぼさっとしない。邪魔になるよ」
十年間も眠っていて身体に何の異常がないはずもなかった。適応力や免疫力が落ちているから無理はするなとエルフェに言われていた。
ヴィンセントは犬猫を捕まえるように首根を掴み、クロエを邪魔にならない位置まで運ぶ。
「ちょ……あの、苦しいんですけど……っ!」
「何さ、ご主人様に楯突こうっていうの?」
「いえ、そういうことじゃなくて、もう大丈夫ですから!」
首がぎゅむりと絞められ、別の意味で視界が暗転し掛けた。
目が眩んでしまっただけで体調には問題はない。少しずつ戻ってくる視力を確認するように瞬き、クロエはゆっくりと辺りを見回した。
通路は細く、足元の薄明かりによって照らされているだけ。それでも暗いと感じないのは光源が壁にあるからだ。壁一面がガラスのようなもので出来ていて、その内側には水が張ってある。水中を何かが泳いでいた。
クロエはぽかんとする。ある事実に吃驚した。
「魚って……本当に水の中で生きてるん……ですか……」
食卓に並ぶ魚が動いている。泳いでいる。
クロエは水槽に張り付き、信じられないものを見るように魚を観察する。そのあまりに真剣な様子にヴィンセントも面食らった。
「え……うわ……本気で知らなかったの?」
「だってお店では棚に並んでますし」
「というか、水じゃなかったら何処で生きているのさ」
もう魚は食べられないかもしれないと、クロエはカルチャーショックに震える。
「自分たちが何を食べているかも知らないんじゃ、養殖された挙げ句に殺される魚も堪ったもんじゃないよね」
【アルケイディア】の街々を支える地盤は円盤状の鉄筋だ。
ピザとも称されるその大地に、遥か昔の人々はコンクリートや土を敷き、国を築いた。
本当の大地を知らず、自然がとても少ない【アルケイディア】で暮らす住民の中ではクロエのような者は珍しい訳でもない。寧ろクロエの反応が普通なのだ。
人間以外の生き物は犬猫といった愛玩動物を辛うじて知るほどで、下手をすれば肉の正体すら知らない。聖典にある、楽園の無知な男女のような者たちが【アルケイディア】の住民だった。
「はぐれないでよ」
仕事の用事がこの先にあるということで、クロエはヴィンセントの後を追いながら通路を進んでゆく。
人気のデートスポットというのも分かるような気がした。
水の動きによってゆらゆらと揺らめく薄明かりや、色とりどりの魚たちが行き交う光景は幻想的だ。こんな場所を恋人と歩いたらロマンチックな気分になるのかもしれない。
「こんなに沢山の生き物がいるなんて下界は不思議な所だったんですね」
「そうだね」
今でこそ支配者のように振る舞っているが、世界は人間だけのものではなかった。海には沢山の魚がいて、陸には沢山の獣がいた。そうした生き物たちと人間は共存していたのだという。
「天災で生き物たちは死んでしまったんですよね……」
遠い昔、天災によって大地が滅びたから人間たちは希望の塔を作ったのだと伝えられている。
けれど、ヴィンセントは否定した。
「いや、天災なんかじゃない。人災だよ」
「人災?」
「戦争があったんだよ。生物兵器、生体兵器、核兵器、ありとあらゆるものを使って繰り広げられた百日に及ぶ戦争で、大地は人間が住めない場所になった。全て焼き尽くしてから人間は争いを止めた。そして神に助けを求めるべく、天に届く塔を建てたんだ」
おこがましいよね。そう言ってヴィンセントは昔の人間を小馬鹿にするような笑みを浮かべた。
冷めてはいる。だが、今日は比較的機嫌が良いらしい。ヴィンセントからこんな話が聞けると思っていなかったクロエは内心驚いていた。
(歴史が好きなのかな)
人類が大地を捨てたのが六百年前と言われている。生き残りはもう存在しておらず、資料もあまり残っていない。そうして事実と虚構が混ざり合い、いっそうに下界を謎のものにしていった。
下界の伝承を専門に研究する学者は少ないが存在する。ヴィンセントは物騒な武器など振り回さない、そういう職の方が向いているのではないかとクロエは思った。
「というかさ、メイフィールドさんって歴史のお勉強はしていないの?」
「その、学校を卒業していないもので……」
揶揄めいた彼の眼差しに背筋が寒くなりながら、クロエはもごもごと答えた。
施設に預けられたり引き取られたり。クロエは一般教育と言われているミドルスクールを卒業していない。
「学校生活を経験してないなんて可哀想な人生だね。だからそんなにつまらない顔をしているのかなあ」
「そういうヴィンセント様は、その素晴らしい学校生活とやらを経験されたんですか?」
「一応したよ。でも、何十年も前のことだからあんまり覚えてないなあ」
「あの、二十三歳だと言いましたよね?」
ヴィンセントが二十三歳ならば、それほど昔のことではないはずだ。
クロエが胡散臭い気持ちになって見上げると、ヴィンセントは微笑んだ。
「僕は永遠の二十代だけど?」
意味有りげな笑みにクロエは胸が冷たくなる。この男は思春期に患う病をずっと抱えているのではないだろうかと、思わず疑いたくなってしまう。
「まあ、たった六百年前のことを綺麗さっぱり忘れている人間と僕も同じってことだね」
ヴィンセントは悪戯に成功した子供のように笑う。彼のピーコックアイが光の関係か一瞬だけ赤色に見え、クロエはどきりとした。
「話を戻して、今回の目的はこれだよ」
水生生物を展示するフロアを抜けた先には博物館フロアが広がっていて、そこで一際目を引くのがヴィンセントが今日の目的だと語るクリスタルだった。
直径は約二十五センチ。月光を受けた水面のように輝くクリスタルがショーケースの中に収まっている。
ゆらゆらと揺らめくクリスタルは黄金のような、エメラルドのような、アクアマリンのような、はたまたサファイアのような何とも称し難い神秘的な色を湛えている。クロエは声も忘れて見入ってしまう。
「ムーンライトマリン。紀元前の遺産だって噂の水晶だよ」
角度によって冷たくも温かくも神々しくも見える不思議なクリスタルを眺めながら、クロエは感嘆の溜め息をこぼす。
「この水晶がお仕事に関係あるんですか?」
「何処ぞの不埒者が狙っているんだって。怪盗じゃあるまいし犯行予告なんてしてどうするんだかね」
つまらない。時化ている。
周囲の様子を確認し、手帳を開いて何かを書き込みながらヴィンセントは愚痴を言う。戦闘好きのヴィンセントにとって、警護という仕事はつまらないものなのだろう。
ぼやく彼に相槌を打ちながらもクロエは内心ほっとしていた。
ヴィンセントもエルフェもルイスも人殺しだ。きっと何等かの目的があっての行動なのだろうが、人殺しを正当化して良いとは思えないクロエだ。
彼等が仕事といって出掛ける度に、クロエは彼等が人殺しをしているのかと考えて憂鬱になる。
この【アルケイディア】は平和で安全な社会だと謳われている。
貧富の差こそあるものの、クロエもあの日までそう思っていた。しかし、実際はヴィンセントやエルフェのように凶器を持った者たちが闊歩している。しかも彼等が【上】と語ることからして、それは政府公認のようなのだ。
平和で平穏な人生を望むクロエは現在、最も平和な人生から程遠い場所にいる。
ろくでもない男たちと過ごす間に心が鍛え上げられ、感覚がずれてきたようにも思うが、それでも疑問に感じるのだ。政府が謳う平和とは一体何なのか、と。