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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
八章
189/208

青い鳥は鳥籠の中に 【3】

 クロエがディアナとの面会を許されたのは、知らせを受けてから数日後のことだ。

 ベッドの上に患者衣を身につけたディアナが座っている。診察の邪魔になったらしく、肩につかないほどに髪が短く切られていた。

 痩せ細った肩の線がはっきりと浮かび上がっている。


「お母さん、私のこと分かる?」


 ディアナはクロエに何の関心も示さない空虚な目をしている。

 目が見えていないのか、耳が聞こえていないのか。クロエは更に近付いて呼び掛けた。


「お母さん」


 ベッドの横に立ったクロエに漸く気が付いたというようにディアナは顔を上げた。

 ぼんやりした態度も、何処か空疎な眼差しも、クロエの知る母のものではなくて、不安を払うように再度呼び掛ける。


「ねえ、お母さん」

「おかあさん……お母さん……? あたしのエリカちゃんまたとるの?」


 意味のある言葉がやっと口から出る。だが、その内容はクロエには理解できないものだ。


「あたしがお義父さんとったからお母さんはエリカちゃんをとったの!?」

「待って! 何のことか――」

「またあたしの前に出てくるの!?」


 クロエは自分に(エリカ)がいたことなど知らなかった。その姉は何処にいってしまったというのか。

 乱暴に掴み掛かってくるディアナから逃れ、クロエは後ずさる。


「あいつ! あいつよ。ヴィンスくんエルフェくん。あいつ殺してよ! エリカちゃんとりにきた。早く、早く殺して!」


 言うが早いかディアナは近くにあった花瓶をクロエ目掛けて投げた。


「あ……」


 床に叩き付けられた花瓶は割れ、花と水が飛び散った。

 エルフェに咄嗟に庇われた。クロエは膝をついてしまう。


「エルフェくんなんで……っ! なんでそいつ庇うの!?」

「少し落ち着かないか、ディアナ」

「わたし、冷静だよ。(てき)がそこにいるから殺ろうって言ってるだけ」

【赤頭巾】(シャプロン・ルージュ)

「そう呼ぶなら協力して。邪魔するなら殺すよ」


 歪んだ毒が唇からこぼれる。

 部屋の隅に立つヴィンセントは腕を組んだまま動こうとしない。エルフェはクロエを庇うように立っている。ディアナは先ほどまでのはっきりとしない態度が嘘だったかのように、鋭い敵意をエルフェとクロエに向ける。

 凶器になるようなものはこの部屋にはなかった。だが、花瓶の破片でも人は傷付けられるのだ。このままでは間違いなく血が流れる。


「はいはい、フロックハートさん落ち着きましょうね」


 そこに騒ぎを聞き付けてやってきた施設の職員は宥めるように話し掛けた。


「ここには何もいませんよ。フロックハートさんは怖い夢を見たんですね」

「エリカちゃんあいつにとられた……また殺されちゃう! どうしよう……どうしよう……大変、アンセムさんは? アンセムさんはどこ?」

「エリカちゃんとアンセムさんは一緒にいるから大丈夫ですよ」

「……あ……? そう、だっけ……」


 糸が切れた人形のように固まり、再び動き出した時にはディアナの目から敵意が消えていた。

 クロエは床に座り込んだまま呆然と見る。

 目が合っているはずなのに視線が交わらない。ディアナはクロエを見ていない。水がぶちまけられた床には花が散らばっている。


「ね、ヴィンスくん。アンセムさん呼んできて? 今日のご飯、何にするか聞かなくちゃ」


 そしてそのままクロエはエルフェに支えられて部屋を出る。廊下にまでディアナの声は聞こえてきた。

 廊下の離れた場所にある椅子に座らせられる。


「怪我はないか?」

「はい。私のせいで水かぶっちゃって済みません」

「問題ない」


 エルフェは問題ないという顔ではなかった。その顔をさせているのはこちらだ。

 クロエは鞄からハンカチを取り出しながら言葉を考える。


「えっと、済みません……。分かってはいたんですけど混乱して」


 ディアナがまともではないことは事前に知らされていたのだ。

 実際に顔を合わせれば違うかもしれない。娘である自分が声を掛けたら何かが変わるかもしれない。そう期待してクロエはディアナと対面した。

 けれど腕に突き立てられた爪の痛さも、水を浴びた爪先の冷たさも現実だった。


「……私が、お母さんの敵だって……何を……。私はもっと話を聞くべきだったんでしょうか」

「お前はディアナと正面から向かいすぎだ。ああいうのは……心を踏み潰す。直視するものではない」

「私にとってはたった一人の家族です」

「家族だろうと、踏み付けて良いことにはならん」


 エルフェは慎重に言葉を選んでいた。

 クロエは深呼吸する。唇が震えて、吐き出す息が途切れ途切れになる。俯くと目から溢れたものが鼻や顎を伝って膝を濡らした。


「産んで、くれた……。もう二度と会えないと思っていたのにまた会えて。意識も戻って……そのことに感謝こそすれ何かを思うなんて、親不孝者です」


 堕胎せずに産んでくれたこと、再会できたこと、昏睡状態から回復したこと――幸運に恵まれた数々のこと。ディアナがどのような状態だとしても目覚めなければ良かったということはない。忘れたことを呪うなんてあってはならない。

 こうして泣いている自分はきっと冷たい娘なのだ。


「私が泣いたこと、誰にも言わないでください」


 クロエの唇を引き裂いて出たのは戒めの言葉だ。






 日が傾き始める頃、施設を出たクロエはヴィンセントの後ろを歩いていた。

 風の冷たさは目に突き刺さるようでクロエは俯きがちになる。


「あーあ、ルイスくんがいないから僕がお守りすることになるのか」

「一人で大丈夫ですよ」

「エルフェさんに殴られたくないし、特別に駅まで送ってあげるよ。ディアナも寝てるしさ」


 あの後、ディアナはまた撹乱状態に陥り、鎮静剤を投与されて眠ることになった。

 施設の職員にディアナの意識が戻ってから今日までの様子を聞いたところ、記憶に混乱こそ見られるものの落ち着いていたという。


「お前との賭けもこれじゃどうなるか分からないね」

「ヴィンセントさんとエルフェさんのことは覚えているじゃないですか。出会った頃まで記憶が戻ってしまったのなら、またやり直していくことだってできるはずです」

あの革命家(アンセム)の名前が出てくるような状態で何をやり直すというのかな」

「それは……」

「口を開けばアンセムさん、エリカちゃん、アンセムさん。何処をどう打ったらああまでイカレるんだよ」


 ヴィンセント、エルフェ、メルシエのことは覚えている。アンセムのことも覚えているがクロエやアンジェリカのことは分からない。


「エルフェさんとメルシエさんがいて、お父さんもいて、ヴィンセントさんもいる。きっとお母さんの記憶は一番楽しかった頃に戻っているんです」


 だからヴィンセントと喧嘩別れをして、クロエを産んでからのことは覚えていない。クロエの母親であるダイアナの記憶は消え去っている。

 【エリカ】はディアナが子供に付けたかった名だというのは昔聞いたことがあった。つまりそういうことなのだ。


「そういう単純なものなら良いんだけどね」


 あれはもう戻らないものではないかという諦めにも似た響き。

 記憶が過去に戻っただけなら居もしない子供の名なんて飛び出すことはないし、そもそも憎からず想っているヴィンセントに夫アンセムのことを語らないのではないか。ディアナの中で致命的に何かが歪んでいる。

 クロエは必死に考えまいとしてきたことを突き付けられたようで唇を噛んだ。

 黙り込むクロエを見下ろしたヴィンセントは目をじっと細める。


「エルフェさんに口止めしたみたいだけど、僕は親切だから言ってあげるよ」

「何をです……?」

「鏡を見てごらん。まるで親を殺されたような顔だ」


 そうしてヴィンセントはクロエを駅まで届けると来た道を戻っていった。

 テーシェル行きの列車(トラン)に乗り込んでクロエはぼんやりと窓を見る。

 いつもの変わらないベルシュタインの景色。一人きりで見る、赤く色付いた葉。

 赤は嫌いだった。思い出したくもない別れの日の光景が鮮明によみがえる。


『お母さん……!』

『絶対迎えにくる。だから、待っててね』

『……置いていかないで……お母さん……』


 秋の夕方の別れ。しこりのように胸の中に残っている辛い記憶だ。

 忘れられたクロエはディアナにまた捨てられたようなものだ。目が熱くなって涙が落ちた。

 唇を引き結んで嗚咽を噛み殺しても、胸は震え、涙が溢れた。心の傷は薄れたように見えても何かの拍子で血を流す。

 クロエは永遠にこの傷を抱えていかなければならない。だからこそ一人を望んだ。

 誰にも迷惑の掛けない場所に行きたい。落ち着くまで膝を抱えている。一人になって、水底に沈むようにじっと息を殺す。そうすればいつか【平気】になる。

 世界の全てを、己を、諦める。


(……それは、だめ)


 クロエの悪い癖。ルイスに釘を刺されたことだ。

 寄り道はできない。部屋に(こも)ってしまうのも。

 エルフェに口止めをしたのにそうなっては意味がない。だからここで心を捩じ伏せる。

 クロエはハンカチを口許に当て、嗚咽を殺しながら涙が止まってくれるのを待つ。悲しくなくなるように他のことを考えようとする。

 楽しかったこと、幸せだったこと。そう、髪留め(バレッタ)を贈られた。とても嬉しかった。

 先日、ルイスと二人で家の近くの芝生公園にピクニックへ行ったのだ。

 早起きしてランチボックスに好きなものをつめて、エルフェとレヴェリーが作ってくれた菓子も大事に持っていった。芝生の上に麻の敷布を広げ、甘いジュースを傍らに穏やかな時間を過ごした。

 ルイスからレヴェリーの話を聞いて驚いたこともあった。沢山話して、いっぱい笑った。ピクニックは一日楽しかった。

 帰りに次はコスモスを見ようという話になって――――雨の日も彼と一緒にいたいと思った。

 クロエは雨の日は嫌いで、家から一歩も出たくないとさえ思っていたのに、だ。

 コンプレックスの髪色だったり、苦手な天気だったり、そのことへ対する感情の変化は少しだけ自分が変われたような気がした。

 その幸せを容易く壊す、呪縛。クロエは涙が止まらない。


(親を殺されたような顔?)


「大丈夫ですか?」


 唐突に横から肩を叩かれ、クロエはびくりとした。

 顔を上げた先に佇むのは、片目を眼帯で塞いだ男だ。


「す……すみません、何でもありません……」


 クロエは頭を下げる。

 通過したばかりの駅から乗車したと思しき男は通路を挟んだ席に座った。

 気まずい。一人で涙を止める努力をしているのにそれを見られ、側に座られるなんて酷い状況だ。クロエは涙を拭い小さく鼻を啜った。


「失恋ですか?」

「ちがっ、違います!」

「違うのか、残念だな。そんなに泣いているなら失恋だと思ったのに」

「……病気で……家族に忘れられたんです」

「へえ……」


 男は、分からないな、と他人事のように呟いた。

 そこでクロエの顔が強張ったのを見た男は形だけ取り繕うようにこう付け足す。


「うちはもう両親とも死んでいるから分からないって意味ですよ」


 軽薄で薄情な人だとクロエが内心で思っていることなど気にした様子もない。男は言葉を続けた。


「でも、自分のことを忘れて生きていたら何故なんだって腹が立つかも。悲しいよりも先に」


 梢を揺らす風のように低く乾いた声が響く。灰色の髪に隠れて表情は見えなかった。

 会話の途切れた車内に車輪の音が響く。やがて停車駅を知らせるアナウンスが流れ、列車はとまる。


「酒でも飲んで辛いことは忘れなよ」


 男はテーシェルの数個前の駅で降りた。くたびれたコートの背を無言で見送り、クロエは握り締めていた拳を睨む。

 悲しみよりも憎しみが先に立つ。そんなことはあってはならない。母は事情があって共に暮らせなかっただけで、忘れてしまったのだってクロエを庇い頭を打ったからなのだ。

 乗り合わせただけの男は触れてほしくないことに触れた。

 クロエは逃れるように目を閉じた。

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