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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
七章
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番外編 手のひらの宝石 ~side Ellen~ 【2】

 柄にもなくはしゃいでしまい、汗を掻いた。バスソルトを入れた湯にゆっくりと浸かり、寝間着に袖を通す頃には月も随分高い位置にあった。

 エレンは最近部屋を分けた息子たちの様子を見にいく。


「それでね、ルイと父さんよりもずっとずーっと早く五匹釣ったんだ!」

「まあ、凄い。レヴィは器用なのね」

「お面も一番カッコイイの選んだよ」

「モデルガンも格好良いわね」

「うん!」


 レヴェリーは祭りでの出来事を沢山話した。ベッドの縁に腰掛けたエレンは機嫌の良い息子にある提案をする。


「レヴィも母さんのお花植えるの手伝ってくれたら嬉しいんだけれどなー」

「やだよ。虫いっぱいいるし」

「変な虫さんがいても母さんが守ってあげる」

「やだってば」

「レヴィは虫さんが怖い?」


 エレンも虫が平気という訳ではないが、ガーデニングをする以上は我慢も必要になる。

 こういうものは男性の方が苦手なのだろうか。アデルバートも重度の虫嫌いだったので、レヴェリーもそうなのかと想像する。だが、幼いなりのプライドで【怖い】という言葉を言いたくないレヴェリーは布団から半分だけ顔を出してこう言った。


「嫌い。ルイと母さん、蜂に刺されたじゃん」

「あ……あれはタイミングが悪かったのよ」

「他にも刺しそうなのいるし」

「びっくりさせなければ襲ってこないわ」

「びっくりさせたから刺されたんじゃないの?」


 痛いところを突かれ、エレンは口ごもる。

 レヴェリーが感情ではなく理屈で逃げようとするのは誰の影響なのだろうか。理由があればやらなくても良いと理解している辺りが可愛らしくない。思わぬところで息子の成長を知ったエレンは引くことにする。


「母さんが悪かったわ。ごめんなさい、レヴィ」

「虫はやだけど、庭でおやつ食べるのは好きだよ」

「それじゃあ明日は外でお茶にしましょうね」

「おやつのリクエストしてもいい……?」


 甘え上手なところは相変わらずだった。


「コリンナにお願いしてみましょ。母さんも朝まで考えておくわ」

「ストロベリータルトにシュークリームも……かなぁ……」


 明日への楽しみを抱いて夢の中へ落ちていく愛し子の髪を撫で、エレンはそっと部屋を出た。

 隣の部屋の扉の隙間からは明かりが漏れている。

 ルイスはベッドの上に座って絵本を読んでいた。今日アデルバートに買ってもらった絵本のようで表紙はぴかぴかだった。


「ルイ、まだ横になっていなかったの?」

「眠くない」

「今日はいっぱい遊んだから身体がびっくりしてしまったのね」


 ご本は明日にしなさいと言い聞かせ、受け取った絵本をサイドテーブルに置く。そこに今日の戦利品である羊のぬいぐるみとお面が飾られているのを見て、この子も年相応なところがあるのだと安堵する。


「羊さん可愛いわね。母さんにくれない?」

「駄目」

「ふーん。じゃあ毎日見にくるわね」


 ルイスは敏いから【羊のぬいぐるみを見にくる】という口実に気付かれていそうだ。

 身体が丈夫でないことで色々と諦めなければならないこと、我慢しなければならないことが多いルイスがエレンは心配だった。

 双子なのにどうしてこれほど違うのかと苦しまないはずがないのだ。ベッドに横にならせ、布団を掛けても眠ろうとしないのは意地のようにも見えた。


「いつも母さんの耳についてるの、どうして片方だけなの?」

「耳飾りのこと?」

「うん。父さんは両方つけてる」

「あれはね、母さんが父さんに貰ったものなの。本当は両方あったのよ」


 エレンはサファイアの耳飾りの片方を紛失するというとんでもないことをやらかしていた。

 双子を施設から引き取ろうという頃に外で失くして見付からず仕舞いだ。アデルバートは笑って許したが――新調しようとも言った――エレンは片方だけを着け続けていた。


「耳飾りってお守りなの?」

「悪いものから守ってくれるって父さんが言っていたわね」

「あと、身分証明にもなるんだって」


 ルイスが興味津々なのも珍しいことなのでエレンは訊ねる。


「ルイも欲しいの?」

「父さんと一緒の青いのがいい」


 即答されて、エレンは苦笑した。


「もう少し大きくなったらね」


 この子が生まれた四月の誕生石が良い。尤も、大きくなってからでは母親の選んだものなど気持ちが悪いと言いそうだ。こういうものは思い立った時に見繕うべきだ。近い内にアデルバートに相談しようと決め、エレンは寝そべった。


「もう寝なさい。母さんが傍にいるから」


 耳通りの良い【ラ】の音で子守歌を口ずさむ。

 息子を甘やかし過ぎだろうか。いや、愛し子を甘やかして何が悪いのだろう。レヴェリーにもルイスにも寂しい思いはもうさせたくない。エレンは息子の寝息が聞こえるまで傍を離れなかった。


(今日も良い一日だった)


 特別なことではないけれど、とても大切なものがある。

 毎晩こうして息子たちと語らうことはエレンにとってかけがえのないひと時であり、日記に綴りこそしないが幸福な出来事でもあった。


「二人は眠ったのか?」

「ええ。はしゃいで疲れたみたい」


 長い画廊(ろうか)の奥にある寝室のカウチには読書をする夫の姿がある。

 夜更かしをする夫より先にベッドに潜るのがエレンの常だが、今日は隣に腰掛けた。


「何を読んでいるの? 恋愛もの?」

「ミステリーかな。キミも読むなら貸すよ」

「遠慮します。難しい本を読んでも疲れるだけだもの」

「良い趣味なのだけどね。本は人生を豊かにしてくれる」

「そう?」

「主人公の【優しくなれなければ生きている資格がない】という台詞は有名だね。ハードボイルドものの名作だよ。死ぬまでに一度は読んだ方が良い作品だ」

「あなたは好きな本のことは良く喋るわよね」


 読書は新しい視野や知識といった人生に有益なものを齎してくれる素晴らしき趣味と語るアデルバートの影響で、ルイスまで本の虫になりかけているので頭が痛い。

 何度も繰り返し読まれたのだろう本には折り目がついている。つい揶揄するような答えをしてしまったけれど、エレンが花の手入れを日課とすることとアデルバートの本を読む行為に違いはないのだろう。

 気が向いたら借りると告げたエレンは膝の上で手を組んだ。


「今日はありがとう」

「手の凝った懐柔策だと言われるかと思ったよ」

「負い目を感じることではないでしょう? 私の問題であなたやあの子たちが嫌な思いをすることなんてないのよ」

「キミもあの子たちも楽しめたんだ。難しいことを言うのはなしにしよう」


 アデルバートが気を利かせたのか、レヴェリーが駄々をこねたのか、ルイスが何かを言ったのか。祭りの花火を見ずに帰ってきたのは誰の提案だったのかは分からない。ただ夫の配慮は感じていた。


「……あのね、私は良い母親ではないわ。映画の中に出てくる母親のように優しくないし、ご飯だって作ってあげられない。教えられるのはピアノの弾き方と、薔薇の棘の取り方に育て方。それだって生きていくのに必ず知らなければならないものじゃないわ。だからこうして思い出を作ることができて嬉しいの」


 幼い頃に母から教わった刺繍も男子には必要のないもので、息子たちに与えられるものは殆どない。

 せめて楽しい思い出くらい作ってあげたいと思うのに、意識と反してエレンは不変を願い、息子たちに退屈な日々を過ごさせている。

 良い母親になりたい。清廉で優しい母親で在りたい。彼等の母親になるにはどうすれば良いのか。そんなエレンのどうしようもない想いをアデルバートは笑いはしなかった。


「キミは真面目過ぎるな」


 まだ二十歳にもなっていないエレンの人生経験の未熟さは仕方のないことだとアデルバートは宥め、続けた。


「思い出というのは意識しなくてもできているものだよ。案外彼等が大きくなってから思い出すのは、私たちが口喧嘩をしたり、キミが薔薇ごと蜂を叩き潰したようなことだったりするのだろうからね」

「確かに……変なことのほうが覚えているものよね。あなたも余計なことばかり覚えているけれど」

「キミだって私との思い出と言われて頭に浮かぶのはそういうことだろう、エレン・ルイーズ」

「そうね、アデルバート様」


 エレンもアデルバートに言われた嫌味の数々は覚えている。あれほどに腹の立つ男と結婚したことが不思議でならない。

 アデルバートが冗談めかすように出会ったばかりの頃の呼び名を持ち出すので、エレンもかつてのように彼を呼ぶ。すると懐かしいはずなのに何故か可笑しく感じられて、エレンは笑ってしまった。


「聖人で在ることに拘る必要はないと思うんだ。何が宝物なのかは将来彼等が決めることなのだから」


 その言葉にエレンは頷いた。

 良い母親で在りたいと悩むこと自体が未熟な証なのだろう。理想へ近付こうと努力したところでそれは自己満足でしかなく、息子たちの幸福と結び付くものではない。勿論できることはこれからもするつもりだが、食べ物の好き嫌いをなくすことや汚い言葉遣いをしないという当たり前のことをだ。


「花火、またやりたいわ」

「いつでもできるよ。キミがその気なら冬の日でもね」


 大きな幸せは望まない。手のひらに収まる幸せを慈しんで生きていく。

 だから眠りにつく前にはこう願う。

 明日も晴れますように。

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