番外編 手のひらの宝石 ~side Ellen~ 【1】
本編より十二年前の話になります
ある夏の日の十一時のお茶の時間。
午前中の日課である庭の水やりを終えたエレンはクラインシュミット邸宅の画廊を歩く。
息子たちを呼びに子供部屋に行くものの姿はない。行方を探して夫の書斎に入ると、彼等はソファに並んで座っていた。
「レヴィ、ルイ。父さんの仕事の邪魔をしては駄目よ。お茶にするからいらっしゃい」
「邪魔してないよ」
「いいからいらっしゃい」
夫は土地の管理や証券取引で財を築いているので家にいることが多い。午前中は大事な取引先と連絡をすることも多く、息子たちには邪魔をしないように言い聞かせていた。
「エレンさん、良いところにきたね」
夫は構わないというように笑い、近くへくるように言った。
「午後からレヴィたちと【ロートレック】の祭りに行こうと思うんだが、キミもこないか?」
「毎年やっているあれでしょう、花火を五千発上げるとかいう」
八月最後に行われるのは、ベルシュタイン市のシューリス祭だ。
ディヤマン通りをパレードが歩き、公園にはシューリスフードの屋台が立ち並ぶ。夜になるとシャンバラの塔の周辺で花火大会が催され、朝から晩まで【ロートレック】が賑わう一日だ。
「今日はあまり暑くないし、ルイの調子も良さそうだ。たまには外で美味しいものを食べるのも良いんじゃないか」
「ねえ、母さんも行くよね?」
上の息子がソファから飛び降り、抱っこしてというように両手を伸ばす。エレンは膝を折ると頭を撫でた。
「母さんね、花火の大きい音怖いの。父さんと行ってらっしゃい」
「母さん行かないのー!?」
「行かないのー」
「えー! 行こうよ!」
「父さんが母さんの分までお菓子買ってくれるんですって、レヴィ」
何食べるのと訊ねるとレヴェリーは答えた。
「チーズのパンケーキ! あとクレープとアイスチョコレートとエクレア! 青い綿あめも食べるんだ」
「綿あめなんて食べたら口の中、真っ青になってしまうわよ」
「じゃあクリームソーダ!」
「緑になるわね」
レヴェリーらしい冷たくて甘いものばかりだ。【ベルティエ】の施設で育ったレヴェリーには【ロートレック】の祭りは珍しいものだらけだろう。楽しみで仕方がないと紫の目が語っている。
エレンは夫の隣にいるもう一人の息子にも訊ねた。
「ルイは何を食べたいの?」
「タルティーヌとマカロン」
マカロンが好きな子供は珍しいとエレンは思う。あれは味よりも、小さくて作るのに手間の掛かる菓子という価値や見た目を楽しむものだ。そんな中々貧乏性が抜けない息子にエレンはとっておきを教える。
「マカロンだったらアイスマカロンが美味しいわ。父さんに探して貰いなさい」
「うん」
くすんだ金色の髪を撫でると、擽ったそうに目を伏せた。
「あなた、ワインなんて飲んで酔わないのよ」
シューリス祭の名物といえばワインとチーズの店が立ち並ぶことだ。ワインに目がない夫に釘を刺すと彼は曖昧に笑って誤魔化した。
独身時代にワインの店や、地方の葡萄畑にまで付き合わされたエレンは、仕様がないひとだと呆れる。
息子たちはアヒル釣りをして林檎飴を買うなどと無邪気に計画を立て、夫は呑気に笑っている。侯爵である夫が出歩くとなれば仕える者たちは大忙しだ。きっと侍従は荷物持ちや何やらで大変なことになるだろう。
親子だけで出歩けない不自由さは特権階級に生まれた者の宿命だ。窮屈な身の上だからこそ、エレンは夫と息子たちに楽しんできて貰いたい。
十一時のお茶の時間を四人で過ごした後、エレンは彼等を送り出した。
三人がいなくなった屋敷内は静かだ。
階下から使用人たちの雑談が時折聞こえるが部屋に入ればそれも耳に入らない。エレンは窓から外を眺める。
「奥様、宜しかったのですか?」
エレンは大きな音や人混みが苦手だ。それを知る侍女のコリンナが気遣わしげにするので、エレンは安心させるように笑む。
「薔薇の手入れもしたいし、ルイが弾きたいって言っていた曲の練習もしないと」
十月に咲く秋薔薇の為に剪定をする時期だ。この自分の都合で水を差したくないという思いも本心だが、やるべきことも沢山あった。
「明日世界が滅ぶとしても林檎の木を植えるという言葉があるでしょう。私がすることは決まっているのよ」
毎日の繰り返し。穏やかな日常の羅列。
優しい夫と可愛い息子たちに囲まれた幸せな――恐ろしいほど幸せな日々。エレンは満たされていた。
痛みを感じるのはほんの一時、外の世界でのことだ。
夫に連れられて時折社交場へ出ると雑音が耳に入る。
『あの人だよ、鳥籠の姫君』
『三日とあげずに通いたくなるのは分からんでもないが、気の毒なもんだ』
『あんなに若いのに養子なんて取らされて、アデルバート様も何を考えているんだか分からないな』
美しいものばかりに満たされた世界に暮らすエレンは籠の鳥なのだと人々は噂する。
悪いのは夫で、妻は被害者。誰が描いたのか知らない物語が社交界で語られる。羨望、嫉妬、同情、そして失笑。反吐が出そうな貴族社会にエレンはうんざりしていた。
幸福なんて他人には分からないものだ。
庭の手入れをして、紅茶を飲み、ピアノを弾く。それしかない生活を不幸だと感じる者がいたとしてもエレンにとってはそうではない。
アデルバートと息子たちのこともそうだ。愛がない結婚という訳でもないし、血縁が全てという訳でもない。夫と息子と庭の花々、それだけで充分だ。
過去なんて要らない。振り返ったところで厄介な己の亡霊しかいない。素晴らしい未来だけを夢見る。
夫が裏社会でどう呼ばれているのかも、息子の身体に流れている血も、知らない。そんなことはどうだって良い。エレンは自ら華奢な靴を履き、髪を伸ばし不自由に身を縛る。
何も知らない女であること。それは【母親】としてのエレンが幸福を守る為に己に架したことだった。
日が落ち辺りが薄闇に染まった頃、エレンは庭で摘んだ薔薇をフラワーベースに生けていた。
ふと、玄関から賑やかな声が聞こえる。
ぱたぱたと廊下を駆けてくるのはきっとレヴェリーだ。珍しいことにもう一つの足音も弾んでいる。家の中を走ってはいけませんという言葉を飲み込んだエレンは、部屋に飛び込んできた息子の顔を見て驚いた。
「お帰りなさい。そのお面どうしたの?」
「アヒル釣りでとった!」
「アヒル釣りでもらった」
アヒルの風船を一定数釣ると好きな景品を貰えるゲームは祭りの定番だ。
レヴェリーもルイスも何故そういう気味の悪いお面を選ぶのだとエレンは突っ込みたいが男子の趣味はこういうものだ。二人はお面に加え、玩具の鉄砲と羊のぬいぐるみを手に入れて、祭りを満喫してきた様子だった。
息子たちに遅れてやってきたアデルバートの手にもふさふさとしたものがある。
「意外とアヒル釣りは難しいものだね。大人のほうが夢中になっていたよ」
「あなたもやったのね」
「可愛いエレンさんにお土産だよ」
アデルバートに犬の被り物を渡されたエレンはどうするべきか数瞬悩む。そして自分が被ると髪が崩れることに思い至ったエレンは相手に被せることを試みる。
「入らないわ」
「子供用だからね」
「ちょっと屈んで。頑張れば入りそう」
「エレンさんは面白いひとだな」
「ところで、帰ってくるのが早かったわね」
「二人が家で花火をやりたいと言ってね。ほら、珍しいだろう?」
アデルバートはエレンの傍若無人な行動を見逃しながら何処ぞで手に入れた玩具花火を出した。
「これ前に映画で見たわ! 手に持ってやるんでしょう?」
「これならキミもできるんじゃないか」
「ええ、やってみたいわ」
「準備をするから、レヴィとルイは玩具を部屋に置いておいで」
花火で遊ぶと聞いて息子たちは大はしゃぎだ。エレンも初めてするものに少なからず興味をかき立てられる。
「ふたりとも。喧嘩にならないようにきちんと分けなさいね」
石畳の上で花火を分けている間に執事が蝋燭を立てた燭台を運んでくる。
「母さん。火つけていい?」
「危ないから順番にやるのよ」
「うん、兄さん先にやっていいよ」
花火の穂先に火を着けると、音と共に華やかな火花を散らして燃え尽きてしまう。レヴェリーもルイスもエレンも玩具花火に触れたことがなかったのでその刹那の輝きの虜になる。
エレンが手に取った変色花火は次々に色を変えるので一瞬も目を離せない。
これほどに胸が弾むのはいつ以来だろうか。エレンは傍らに立つ夫を見上げた。
「アデル、とても楽しいわ」
「喜んで貰えて良かった」
「あなたも見てないでやりましょう」
「私は見ているだけで楽しいよ」
花火の数も多くないし自分は見ているとアデルバートは一歩引いた。エレンはその厚意を受け取り、彼の分まで楽しむことにする。
エレンが幾つの色に変わるのだろうと数えてみたりする隣で、線香花火で遊び始めたレヴェリーが勝負を持ち出す。
「いいか、ルイ。どっちが長くつけてられるか勝負だからな!」
「兄さんには負けない」
「母さんも混ざろうっと」
普段あまり外に出られないルイスが楽しそうにしていることが嬉しくてエレンも笑顔になる。
夏の夜の楽しい時間はあっという間に過ぎていった。