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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
七章
181/208

番外編 ある夏の日の話 ~side Chloe & Louis~ 【3】

 晴れた空の下で、教会の鐘が気怠げに鳴っている。

 毎日聴いている夕刻の鐘の音を聞くとテーシェルに戻ってきたのだと実感が湧く。

 ここを離れていたのはたった一日とはいえ、旅行など生まれてから一度もしたことがなかったクロエにとってはとても長く感じられた。

 ライゼンテールに呼び出された件は、メフィストが密かに口利きしていたお陰でスムーズに片付いた。クロエとレヴェリーは晴れてレイヴンズクロフト家の一員として認められ、その証として十字の紋章入りの金貨を持たされた。

 苦手視している姉に助けられた事実と、兄の酒盛りに一晩中付き合わされたことによる疲労で、エルフェは帰りの列車内で半分死んでいた。

 そうして一日振りに帰った我が家で出迎えたのは、意外な人物だった。


「ヴィンセントさん帰っていたんですね」

「帰ってきちゃ悪い?」

「私たちがいない時に帰ってくるなんてタイミング悪いです」

「お前がいないから帰ってきたんだけどね」


 玄関ホールの左手にある応接室を酒蔵にしているヴィンセントは、誰もいないことを幸いとばかりにウイスキーを飲んでいた。

 二日酔い気味のエルフェは勘弁してくれというように立ち去り、レヴェリーも部屋に引っ込んでしまう。残されたクロエは溜め息をつき、テーブルにボトルを置いた。


「お土産です」

「へえ、ライゼンテール産のワインか。お前にしては気の利いたもの選んだね」

「エルフェさんのお兄さんからですよ」


 ヴィンセントは舌打ちしたが、酒自体は好きなので大人しく受け取った。そしてまたタンブラーを傾ける。

 クロエは陽がある内から酒を飲んでいることを良くは思えない。だが、久々に帰ってきたヴィンセントに小言を言うのも気が引けたので、今日は容赦することにした。


「まさかとは思いますけど、ルイスくんと喧嘩してませんよね?」

「あの子、昨日帰ってきてないよ」

「え……」

「昼頃帰ってきたけど、夜遊びでもしてきたのかなあ」


 驚くクロエにヴィンセントは意地悪なことを言う。


「やっぱりお前みたいな貧相な子供じゃ満足できないよね。彼も健全な子供だったみたいで安心したよ」

「る、ルイスくんは貴方みたいに不潔じゃありませんっ」

「理想と現実って違うものだよね」

「そんなことないです!」

「じゃあ、本人に聞いてみたら? 自信があるなら簡単に訊ねられるよね」

「当たり前です」

「精々頑張りなよ。今からお前の醜い泣き顔を見ることを覚悟しておいてあげるからさ」

「……お酒は程々にして下さいね」


 酒の入っている時のヴィンセントは絡み癖が酷くなる。これ以上関わることは精神衛生上良くないと判断したクロエは、うさぎを構いにいった。


「お留守番させてごめんね、クリーム」


 一日寂しくしていたのだろううさぎの背中を撫でる。

 留守番させるのが心配で置いていった二日分の餌を全て平らげていた。これはまた太ったかもしれないと焦りながらも、うさぎに今日のおやつをあげたクロエはキッチンに立つ。

 本当なら旅の荷解きやシャワーを浴びたりしたいところだが、主婦には仕事がある。

 クロエは貯蔵庫(パントリー)にあった有り合わせの食材でシューファルシを作った。

 そんなこんなでルイスと会えたのは夕食の支度を終えて、呼びにいく時だった。


「留守の間、大丈夫でしたか?」

「昨日も聞かれた」

「何かあったら大変じゃないですか」

「キミはそんなにオレを不良扱いしたいのか?」


 心配なのだから仕方がないと、呆れたようなルイスにクロエは食い下がる。


「本当に本当に大丈夫でした?」

「くどいな」

「だってヴィンセントさんが……」

「自分の家にいたんだ。あの男が何を言ったかは知らないけど、キミを騙すつもりはなかった」


 ルイスは素直に白状するので、クロエは何も言えなくなってしまう。

 元より怒ってはいなかった。ヴィンセントが言うようなことを疑った訳でもない。クロエはルイスにまた何かあったのではないかと心配だったのだ。


(しつこかったかも……)


 過干渉だったと反省したクロエは話を食後にしようと決め、一先ず気持ちを抑えた。

 食卓を五人で囲むのは久々だ。

 シューファルシやトマトファルシを手抜き料理だと莫迦にするヴィンセントも、ライゼンテールワインで煮込んだことが幸いしたのか、珍しく大人しく食べていた。

 食事を終えて洗い物と荷解きを済ませ、漸く落ち着いたのは午後九時だ。


(会いに行っても大丈夫かな)


 ルイスは夜に会うのは良くないと言って、一定の時間を過ぎるとクロエに会おうとしないことがある。

 陽がある内もこちらの部屋には入らないのだ。自分から訪ねていくしかないクロエはこういう時、悩む。大人しく壁越しに話すだけで我慢した方が良いのだろうか。

 けれど、昨日から気を揉んでいたクロエは結局我慢できずに彼の部屋を訪ねていた。


「さっきはごめんなさい」

「……何が?」

「しつこく訊いてしまって」

「別に怒ってないよ」


 ルイスは本を読んでいるので、そろそろと近付いたクロエはそっと覗き込む。

 シューリス語なので全ては読み取れないが、詩集のようだ。ルイスはクロエに目をくれずに読書に没頭している。夜空のような色の瞳はクロエを映さず、文字ばかりを追っている。


(……私だけ浮かれているみたい)


 一日振りの再会だというのによそよそしい。

 もっと嬉しそうにして欲しい。それとも嬉しいのはこちらだけなのだろうか。

 クロエはルイスことが大切だと伝えている。対してルイスがクロエに向けた言葉は、気に入っていて、嫌いではない。

 温度差については勿論理解しているし、これから努力しなければならないことだと思っている。

 だけど、自分が一方的に気持ちを押し付けているのではないかと不安になる。

 しょんぼりと落ち込んだクロエは静かに背を向けた。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 クロエが帰ってきたことを喜んでいなかった訳ではない。

 旅先からどんな顔をして帰ってくるかと不安だった相手が普段と変わらない穏やかな表情をしていることに、ほっと胸を撫で下ろした。

 その気持ちを素直に表せるほどルイスは器用ではない。曖昧な態度を取った所為で勘違いをしたクロエは夜になって部屋を訪ねてきた。

 そっと近付いてきたクロエは立ったまま本を覗き込む。屈んだ拍子に髪が揺れる。

 こうしてクロエが傍にきてくれるのは嬉しくもあるが、後ろめたくもあった。

 ルイスはクロエの想いを半ば受け入れながらも、頭の中では考えていることがある。例えばその一つは、どうすれば彼女を笑顔にさせられるかということ。

 そんなことを考えているとクロエは小さな溜め息をついて去ろうとするので、ルイスは咄嗟に腕を掴んだ。

 腕を掴まれたクロエはびくりと身体を強張らせた。


「わ……っ、読書の邪魔してごめんなさい……!」

「そうではなくて……。ごめん、何を話そうか考えていた」


 やはりというかクロエの目は潤んでいて、良からぬ誤解を与えてしまったルイスは反省して本を閉じた。

 クロエをベッドに座らせ、手を握る。彼女が身じろぎすると長い髪が肩を滑る。今日の彼女は一房作った三つ編みを花の形のように巻いていた。

 蜂蜜色の薔薇だとぼんやりと思う。

 クロエは目を伏せてじっとしている。触れる彼女の手がとても熱いことに気付きながら、ルイスは意地悪な頼みごとをする。


「目を良く見せてくれないか」

「ど、どうして……そんな変なこと……」

「どうすればキミの不安を取り除けるか分からないから、目を見て話そうかと」

「だ……だ、だめですっ!」


 クロエは真っ赤になって目を瞑ってしまった。

 ルイスは毒気を抜かれる。


(変なことをされたらどうするんだか)


 前髪を持ち上げられて一度懲りているはずなのに、目を閉じることがどれだけ危険か分かっていない。

 クロエが嫌がっていなかったのなら良いと、ルイスは昨晩のことについてレヴェリーとエルフェに何か言うことを止めたが、それにしても彼女は無防備だった。

 本を読むことをせがんできたエリーゼよりもずっと幼いと感じる。

 クロエの手を離したルイスは指先で頬に触れる。

 前に触れた時は涙に濡れていた頬が今はただ柔らかくて、熱い。金色の睫毛が小さく震えている。

 輪郭をなぞると、耐えきれなくなったのかゆうるりと瞼が開かれた。

 こうして間近で向き合うようになって気付いたのだが、クロエの瞳には瞳孔の周りに花のような輪がある。中心から外へ向かって淡く澄んでいく色合いは見ていると吸い込まれそうだ。


 薔薇は赤い

 菫は青い

 砂糖は甘い


 不意に詩の一節が頭に浮かび、ルイスは平和呆けした自分を内心笑った。

 復讐のことだけを考えていたかったはずなのにこの様とは笑えない。


「クロエさん」

「何ですか?」

「触れても良い?」

「もう……触れてるじゃないですか……」

「そういう意味ではなく、もっと近くで触れても良いかということを訊いている」


 クロエは小さく息を呑む。

 一応礼儀として訊ねはしたものの、答えを待つのも何かが違うような気がしたのでルイスはクロエを抱え込んでしまう。その瞬間に相手の身体も、そして自分の腕も硬く強張った。

 抱き締めることも抱き締められることも初めてではない。自分たちの間には何度かあったことだ。

 こちらからそうしたこともあれば、あちらからそうしたこともある。

 けれど、ルイスは緊張する。拒絶されないかと恐れ、怖がられないかと怯える。好きだという言葉に甘えられるほど、自分自身を許せていない。


「……あの……私、まだ、答え言って……」

「キミに【答え】を聞くと色々と長くなりそうだから」

「そういうの、意地悪です……」


 クロエに文句を言われながらも突き飛ばされないことに少しだけ安堵する。

 甘い香りのする蜂蜜色の髪に頬を寄せて、ルイスは目を伏せた。


(最低って言うんだろうな)


 人を傷付けた手で彼女に触れているという事実が恐ろしい。

 以前はあれだけ遠ざけようとしていたのに、今はこうして自分から触れた。正気とは思えない。

 ルイスはここで居候暮らしをしながら敵を探す。敵を見付けるまでの間、ファウストから人を苦しめる方法を学ぶ。その過程できっと人を殺めることになる。

 産みの親を知った後、自暴自棄になっていたルイスは六人の外法の命を奪った。人を食い殺した化け物だから殺せと命じられ、銃の引き金を引いた。あれから命を奪う行為自体はしていないが、ファウストはきっと許さない。中途半端なことでは復讐など遂げられないと言うだろう。

 ルイスは人の命を奪った自分はきっとろくな死に方をしないと受け入れている。復讐さえできれば良いと考えていた頃は、それに疑問を感じてもいなかった。

 だが、今は違う。

 仇討ちをして得るだろう満足感よりももっと穏やかで心を満たすものに気付き掛けている。


「ルイスくん」


 名を呼ばれ、無言のまま促すと、クロエはまるでルイスの中の迷いを見透かしたように言った。


「……私、貴方に好きになってもらえるように頑張りますから」


 その言葉に思わず放心したルイスは、ぎゅうっと力を込めて抱き締めてくるクロエの力強さに焦る。情緒も何もあったものではない。このまま倒されて締め殺されるのではないかと思った。

 力に任せれば逃れることはできたが、この状況はある意味で魅惑的ではないかと頭の隅で思う。

 【貴方だけ】という言葉を体現するようにしがみつくクロエを宥める為に髪を撫でる。うさぎにそうするように撫でていると、彼女の顔もうさぎと同じようなうっとりとしたものになった。

 名を呼んだ時と同じくらいに嬉しそうにしているので、彼女を笑顔にする方法の一つとして記憶する。


(オレがはっきりすればキミはもっと笑ってくれるのか……?)


 好きだというたった一言で彼女を喜ばせられるのなら簡単なことだと思う。

 言うことは容易い。けれど、ルイスは先のことを考える。

 自分の中にある復讐心と彼女を大切だと思う心は両立して良いものなのだろうか。

 復讐をいけないと言わなくなったクロエだからこそ、ルイスが手を血を染めた時に傷付くだろう。

 仇討ちによる解放も、彼女との穏やかな時間も、どちらも欲しいということは許されない。


(そうじゃない)


 その考え方をルイスは自ら否定する。

 許されるか許されないかというのは違う。それは諦める為の建前だ。

 これは覚悟の問題なのだろう。復讐を遂げて、それでも彼女を幸せにするという思いの強さの問題だ。

 ルイスにはまだその覚悟がない。

 彼女の望む言葉は、今の自分が口にして良い言葉ではない。覚悟が決まるまでは言うつもりもない。今は【気に入っている】と――【嫌いではない】と酷い言い方しかできない。そうして情けない男として彼女の優しさと弱さに甘えている。


「キミが可哀想だって本当に思う」

「私に好かれている貴方も凄く可哀想です」

「……そういうことで対抗しなくて良いよ」

「貴方が意地悪ばかり言うからですよ」


 少しばかり嫌われてみようと思ったのに、やはり彼女は離れてくれなかった。

 人の世界の中に勝手に入り込んできて居座ろうとする女がどのような顔をしているのか見たくなり、けれどルイスは確かめることはしなかった。代わりに腕に力を込める。


「く、苦しいですっ」

「オレもさっき苦しかった」

「いえ、あの、貴方も対抗しなくて良いですから……!」

「少し黙っていてくれないか」


 喧しいクロエを腕の中に閉じ込めながら、ふと時計を見ると午後十時を過ぎていた。

 己の中で定めた規定(ルール)を破ってしまったが、ルイスは暫くクロエを解放するつもりはない。次にいつこうできるのか分からないからまだ離したくない。

 今はただ、どうすれば彼女を笑顔にできるのかということだけを考えていたかった。

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