番外編 ある夏の日の話 ~side Chloe & Louis~ 【2】
かつては貴族の邸宅だったというフォルカ・ホテルは石造りの外観が特徴だ。
ホテルに到着したクロエとレヴェリーは部屋に荷物を置くと、一階のレストランに向かった。
安息日故に持て成しは期待できずディナーはライ麦パン、作り置きのシチュー、葡萄のシャーベットという質素な内容だ。しかし、ライゼンテールのワインを使ったシチューは充分すぎるご馳走だった。
そうして食事が終わったのは午後六時を回る頃。
さほど夜も更けない内にディナーを済ませたのは、単純に暇だったからだ。
領主であるレイヴンズクロフト候から出された外出禁止令が解かれたライゼンテールは賑やかだった。きっとこれが町の本来の姿なのだろう。だが、賑々しさの反面で、反政府の思想を持つ者が多いこの土地は治安の悪さも群を抜いている。
フォルカ・ホテルで一晩を過ごすことになったクロエとレヴェリーは、闇夜の危険を避ける為に、朝までホテルを出ないようにと支配人に言われていた。
「先にお風呂使わせてもらってごめんね」
「良いって」
双子侯爵に提供された部屋は一つだけなので、クロエとレヴェリーは相部屋だ。
テーブルの上の皿には、マンゴーやプルーンといった夏のフルーツが溢れるほどに盛られている。レヴェリーはつまらなそうに葡萄を摘まんでいた。
「エルフェさんってお屋敷に泊まってくるのかな」
「だろうな。オレ等は厄介払いってわけ」
「お兄さんたちはきっとエルフェさんと話したかったんだよ」
「迷惑だよなー」
レヴェリーはまた一つ葡萄を食べる。
何処となく双子侯爵の語る養子云々は口実だとクロエは感じていた。
養子の適正検査という割には彼等はクロエたちに関心を示していなかったし、エルフェが三人で話すことを求めるとすぐに応じた。恐らく彼等は何十年も故郷に帰っていなかった弟と会いたかったのだろう。
天蓋付きのベッドで寝間着に着替えたクロエは窓辺に寄り、重いカーテンを開ける。
窓の外にはガス灯の橙色の明かりが無数に煌めいている。
クロエはベッドに座り、ガス灯の色に染まった夜闇を眺める。
枕元に置かれた香り袋からは仄かにオレンジの香りが漂ってくる。その涼やかな香りに促されるように、クロエの胸にじわりと一つの感情が湧いた。
(ルイスくん、どうしてるだろ)
朝に別れた彼のことが気になった。
今日は仕事があると言っていたから半日は外で過ごしたはずだ。
(ご飯ちゃんと食べているかな。やっぱり何か作ってくれば良かったかな)
ルイスは少々己に無頓着なところがある。
最近は以前よりも食事をきちんと取るようになった。心なしか顔色も良くなったようでクロエは安堵していたのだが、彼が一人で料理してまで食事を取らないような気がして心配だ。
こういう時に限ってヴィンセントが帰宅して厄介なことになっている可能性もある。
(大丈夫かな……)
半日離れただけなのにこれだ。クロエは自分に呆れた。
普通の友人ならこれが当たり前なのだろう。
離れて暮らしていることが普通で、会えない時間というものが存在する。クロエとルイスのように同じ家で生活していることの方が異常なのだ。
(……ルイスくん)
彼が心配だということもあるけれど、クロエ自身が寂しかった。
共に暮らし始めてからもう七ヶ月だ。それだけの時間を共有してきたのだから寂しく思って当然だ。
近頃は特に彼と同じ時間を過ごすことが増えていたものだから、余計に寂しい。
毎日、朝から晩まで一緒にいられることがどれだけ贅沢なのかを痛感する。
クロエがベッドで足を抱え込んでいると、不意に天蓋のカーテンが開けられる。
「ほら」
レヴェリーはクロエに自分の携帯電話を差し出した。
「どうしたの?」
「ルイに電話したら」
「え……え、えっと、なんで?」
クロエは想いが独り言になって口を出てしまっていたのかと焦った。
「留守番中に変なことしてないか心配じゃん。かといってオレがするとうざがるし、クロエがするのが一番だろ」
「電話借りても良い?」
「だから渡してんだって」
クロエは有り難く使わせてもらうことにした。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
テーシェルの裏通りは人通りがなく静かだ。
アパルトマンに囲まれた路地から見上げる空には月が浮かんでいる。
ルイスは入り組んだ路地を月明かりを頼りに進んでいく。
迷宮のような路地の奥にあるアパルトマンの門を潜り、玄関ホールの重い扉を開けて階段室に入る。白熱灯に照らされた螺旋階段を黙々と上る。
この古びたアパルトマン――六階建ての五階の一室がルイスの借りている部屋だ。
部屋に入り、明かりを点けると壁に影の輪郭が刻まれる。
夜気に濡れた上着を脱ぎ、ネクタイをほどいたルイスは、外に部屋の明かりが漏れてしまわないようにカーテンを閉めた。以前は申し訳程度のレースを掛けていただけだが、グレーの厚手のカーテンを下げたことによって随分とまともな部屋らしくなった。
椅子に座ったルイスはパン屋で買ってきたクロワッサンを紅茶で流し込み、手っ取り早く食事を終わらせる。今は早くシャワーで汗を流してしまいたい。
血を浴びた衝動を抑える為に女や酒を使う者が多いというが、ルイスにとっては血を洗い流すことが一番の薬だった。
自分の家を持ちたいと思ったのは、生きると決めたからだ。
復讐後も生きるなら住む場所が要る。クラインシュミットから持ち出した品を保管する場所が必要だったこともあって、ルイスはテーシェルの外れに部屋を借りた。
家というには貧弱な狭い部屋。ここが帰る場所だとは残念ながらまだ思えない。
だが、クロエはきちんと住める場所にしようと言って、カーテンや食器選びを手伝ってくれた。
誰にも教えるつもりがなかったこの家をクロエに知らせてしまったのは、ルイスの甘さとしか言えない。
雨の降る日、ルイスは自分を曲げる決断をした。
あの日は約束をしていた。クロエが約束の時間になっても現れず、帰ってこなかった時には本当に心配した。このまま二度と会えなくなってしまったらと恐ろしくなった。
両親を突然奪われ、ルイスは感謝の気持ちを伝えられなかった。それが今度はクロエとの間に起きるかもしれないのだ。
嫌だ、と思った。
見限らないでくれて有難うなんて建前だけの感謝で済むはずがない。それだけが胸にある訳ではない。
【気に入っている】などと不誠実な言い方しかできていないが、ルイスにとってクロエは幸せになって欲しいと思う相手で、特別な存在だった。
シャワールームを出たルイスは髪が半分濡れたまま、ベッドに落ち着く。
誰の邪魔も入らない空間とは良いものだ。
普段はいつクロエやレヴェリーが踏み込んでくるか分からないから、だれていられない。屋敷にいる時は使用人たちが世話をしようとするのでもっと落ち着かない。
こうして誰の目もないと怠けてみたくなる。だが、あまりだらけているのも落ち着かないので、シャツのボタンをとめ、首の傷を隠した。
ルイスは、少しでも良い眠りになるようにと願掛け混じりに購入した安ワインに手を伸ばす。
マグカップに半分くらいまで注いだ液体を飲む。安物ながらに美味だと評判のライゼンテール産のワインは苦くて酸い味がした。
酒の美味しさが分からないからヴァレンタインの人間と上手くいかなかったのかと考えてしまう。
誕生日の夜には決まって侯爵とワインのボトルを開けた。ルイスは不味いとしか感じない液体を飲んで、愛想笑いを張り付けていた。
本心を告げずにきたから、ああなった。
本心を告げたから、こうなった。
(不味いと言えば良かったんだ)
自分も他人も偽って全て壊れてしまった。ルイスがヴァレンタインの家を出たのは自業自得だった。
ルイスは狭いベッドの上に横になり、読み掛けの本を捲り始める。
どちらかというと本を一気に読んでしまう性質のルイスが栞を挟むというのは、つまらないという証だ。退屈な内容に、次第に眠気を催し始める。
このまま一眠りしてしまおうと目を閉じた。そんな時に携帯電話が音を立てた。
ディスプレイにはレヴェリーと表示されていた。
(何なんだ……)
面倒に思いつつ、ルイスは電話に出る。レヴェリーの相手など本を読みながらでも寝ながらでも構わない。
睡眠妨害を受けたルイスは不機嫌そのものの声で応えた。
「オレだけど。何の用?」
『――あ……えっと、クロエです』
聞こえてくる声が兄ではなく彼女だと分かった瞬間、ルイスは目が覚めた。
『夜に済みません。あの、今お時間大丈夫です?』
「……ああ、大丈夫だよ」
微睡みに入ろうとしていたことを忘れたように身を起こしたルイスは本もきちんと閉じた。
その対応の違いはレヴェリーが知ったら泣きそうだが、知ったことではない。
『そちらは変わりないですか? 何か困ったことないです?』
「変わりないよ」
朝に別れたばかりなのにクロエは心配性だ。この一時に水を差したくないので家に帰っていないことは黙っておく。
ルイスは枕をクッションにしてベッドヘッドに背を預けた。
「キミとレヴィの方はどうなんだ? 養子のこととか何か可笑しなことになっていない?」
『多分それは大丈夫です』
「何もないなら良いんだ」
『今夜はエルフェさん解放されそうにないですけど……』
変わり者で有名なレイヴンズクロフトの双子に捕まっているエルフェを好い気味だと思いながら、ルイスはクロエ自身のことを訊く。
「キミはレイヴンズクロフトの屋敷に泊まるのか?」
『私とレヴィくんは町のホテルに泊まることになりました』
「危険はないのか?」
ライゼンテールはあまり治安が良くなく、民宿は危険だ。
クロエのような女性が一人というのは心配で、ルイスはつい過保護になる。
『レヴィくんが一緒の部屋だから大丈夫ですよ』
「……そう……」
そうか、大丈夫か。頷き掛けたルイスは顔から一切の表情を消した。
(どうしてレヴィと?)
レヴェリーと同室とはどういうことだ。年頃の娘をあのようなデリカシーに欠けた男と同じ部屋に押し込むなど、正気とは思えない。エルフェはやはり親失格だ。受け入れたレヴェリーもレヴェリーだ。
大体こちらだって彼女と同じ部屋で眠ったことは一度しかないのに……とルイスの気分は最悪なところまで落ちる。
「レヴィはそこにいる?」
『はい、いますよ。代わります?』
「……ああ、頼む」
無邪気な彼女に表面上平静に答えながら、ルイスはレヴェリーに何を言おうかと考えた。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
電話を代わって欲しいということを聞いたレヴェリーは嫌な予感がしていた。
クロエの手から渋々携帯電話を受け取り、耳許へ運ぶ。
「あい、代わったよ」
『野宿する気はないか?』
「はぁあああ!?」
ほらみろ。予感が当たった。
レヴェリーはクロエに話を聞かれないように部屋の外へ出た。
かつて貴族の邸宅だったというホテルの廊下は長く、暗い。レヴェリーは部屋から離れるように歩いていく。
「どういうつもりだよ……」
『それはオレの台詞だ。どういうつもりで彼女と同じ部屋にしたんだ?』
「いやいやいや! それはあっちが用意した部屋が一つしかなかったんだから仕方ねえんだよ」
『仕方なくない。キミは外で寝ろよ』
乱暴な言葉遣いになっていることからして、ルイスの虫の居所はかなり悪いようだ。
だが、この程度で怯んでいてはルイスの兄など務まらない。先日も弟の無茶の所為で背中に穴が空きかけたレヴェリーはどっしりと構える。
「無茶言うなよ」
『まだ夏だし、莫迦だから風邪は引かないだろ』
「お前、兄ちゃんに向かって何つーこと言うんだ!」
『キミはしぶといから大丈夫だ』
「何も大丈夫じゃねーよ!」
『オレはキミより彼女が心配なんだ』
きっぱりと言い切られ、レヴェリーは呆れる。
今の言葉をクロエが聞いたら泣いて喜ぶだろう。
(何なんだかなあ……)
弟が妬いていることは良く分かった。
ああ見えてルイスはクロエにべた惚れなのだ。絶対に他人にそういうところは見せないが、かつて両親に対する態度がそうだったことを知っているレヴェリーは気付いている。
本当なら一時でも自分の傍から離したくなくて、けれど必死で自制して良い子供の振りをしている。
(クロエもだけどさ)
クロエもクロエでルイスに惚れ込んでいるものだから、始末に負えない。二人だけの空間を作っているので、レヴェリーは稀に――いや、良く被害を被る。
気を利かせて電話を掛けさせなければ良かったとレヴェリーが思い始めた頃に、ルイスは取引を持ち出す。
『分かった。アイスクリームを今度奢る。それで手を打たないか?』
「野宿とアイスを秤にかけるの無理だろっ!」
『マルクレールのストロベリーアイス、十個は』
「う……っ」
高級アイスクリーム十個と聞くと心が揺れる。
しかし、旅の疲れもあって外で眠る気にはなれない。
「オレ、別にクロエに何もしねーよ」
クロエはただの義姉でしかない。可笑しな恋慕を抱くことはない。
レヴェリーは誰もいないエントランスの長椅子に腰掛ける。
「クロエだってそんなに嫌がってねーし」
『寝顔見るだろ』
「見ねーよ」
『着替えは?』
「見ないから!」
天蓋のカーテンに阻まれて何も見えない。そこまで言って、レヴェリーは悪いことを思い付く。
久々に弟をからかうネタを思い付いた。
「クロエの下着の色、知りたくない?」
『……殴られたいのか?』
それっぽく声を潜めると、電話から聞こえてくる声の鋭さが増した。
ルイスも男だ。気になる相手のことは何だって知りたいはずだとレヴェリーは踏む。
たまにはこういう話をしてみたくなったりする。あの気難しい弟が珍しく他人に入れ込んでいるのだから、兄としてはちょっかいを掛けてみたいのだ。
「クロエって長袖ばっかだしさー、風呂入ってる時がチャンスだと思うんだよなー」
『キミは普段からそういう下品なことを考えているのか?』
「なーに真面目ぶってんだよ。お前だって本音は知りたいんだろ」
『知りたくない』
「嘘つけ」
『知りたくなったら直接本人に言うからキミの協力は必要ない』
その答えを聞いてレヴェリーは頭が痛くなった。
酔っているのかと疑いもしたが、まあ、そうだよな、と思ってしまう。たまに直球だから弟は恐ろしいのだ。
勿論実行するつもりはなかったが、爆弾発言を聞いてからかう気すら失せた。
「……あー……うん、取り敢えずクロエの寝顔は見ないからさ。そういうことで」
『レヴィ、話はまだ――』
話がややこしくなりそうなので通話を切った。
そうしてレヴェリーが部屋に戻ると、クロエがベッドから這い出してきて顔を覗かせた。
「何の話だったの?」
レヴェリーと同室で、寝間着姿を見られているというのにクロエは動じていない。
気を許されているというよりは、義弟の自分は男と思われていないのだろう。
何も気にしていないクロエに今から気にされても困るし、男同士の悪巧みも話せるはずがないので、レヴェリーは小さな嘘をつく。
「クロエのことちゃんと守ってやれだってさ」
「え……」
数瞬戸惑いを見せ、視線をさ迷わせたクロエの白い頬はほんのりと赤くなってしまった。
ほら、そうやって嬉しそうな顔をするのだ。こんな顔を見て気付かない人間がいると思うのだろうか。
本人たちは上手く誤魔化せていると思っているが、気付いていないのは本人たちだけだ。
(オレって損な役回りばっかじゃん)
かつてはレヴェリーの引き立て役がルイスだったのに、クロエの前ではレヴェリーが引き立て役のようなものだ。
膳立ては高くつくからな、と小さく独り言つ。レヴェリーは着替えを掴んでバスルームへ向かった。