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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
七章
179/208

番外編 ある夏の日の話 ~side Chloe & Louis~ 【1】

Au Defaut du Silence 【1】以前の話になります。

 からりと晴れた空の下に吹く風の匂いは爽やかで、ほんのりと甘い。

 香りの正体はこの地方の名産物である葡萄だ。

 見渡す限りに畑の広がるここはライゼンテール。クロエ、レヴェリー、エルフェの三人はテーシェル駅から乗車し、一時間ほど揺られてこの地にやってきた。

 野外用の丈の短い上着を着たエルフェは、クロエとレヴェリーの前を歩いていく。

 駅から続く長い小路の脇には葡萄畑しかない。テーシェルも田舎町だが、上には上があるようだ。十分ほど歩くと道の脇を囲む木々は途切れ、開けたそこに町があった。

 赤煉瓦の屋根が並ぶ古めかしい町並み。夏の強い太陽に照らされて石畳が白く輝いている。


「なんだか人がいないね」

「安息日だから、家にいる奴も多いんじゃね?」


 安息日というのは、何もしてはならない日だ。金銭が発生する労働を禁じられている日で、敬虔な信者は家の中で心静かに過ごしている。


「そういうものなのかな」

「そういうもんだよ」


 ドレヴェスの人間は総じて旧教の信奉者だという。クロエのような無宗教の人間には分からないが、主が死んだとされる金曜は肉食を禁じていたりと彼等には何かと決まりがあるのだ。

 だが、安息日だからといって外出まで禁じられている訳ではない。

 そういうものなのかな、と腑に落ちないものを感じながらクロエは表通りを歩く。

 不意にエルフェが曲がり角の手前で立ち止まる。その背にぶつかったクロエに、駅を出てからずっと黙っていた彼の口から鋭い一言が発せられた。


「クロエ、床に伏せろ」

「はい?」

「危険だ」


 路地に押し込まれた刹那、銃弾が地面を削った。

 数瞬見えた細長い塊と、鼻を突く火薬の香り。クロエが呆然としているとレヴェリーが手を引く。

 エルフェは腰のホルスターから拳銃を抜き、一度だけ引き金を引いた。

 轟く銃声。燻る硝煙。遠くで逃げ去る足音が聞こえた。


「えっ、え、エル、フェさん……!?」


 クロエは銃が怖い。この人たちは何故銃を持っていて平気で発砲したりされたりするのかと、頭が理解を拒絶する。

 震えるクロエを庇いながらレヴェリーは問う。


「何なんだよ?」

「俺の家は恨まれているからな」

「マジかよ……つーか、それで済ますのかよ!?」


 故郷に帰ってきて命が狙われるというのは可笑しな状況だ。エルフェは全く動じていないので、クロエは改めて義親の彼が裏社会の住人であることを思い知った。

 そもそも何故、クロエたちがライゼンテールという田舎にやってきたのか。

 事の発端はレイヴンズクロフト侯爵からの一通の手紙だった。

 青い封蝋にレイヴンズクロフト家の紋章のスタンプが押された手紙の中には、エルフェが養子二人を連れて出頭しなければ、縁組みを強制解除するという脅迫紛いの内容が書かれていた。


『あらぁ、丁度良いじゃない。休暇だと思って行ってらっしゃいな』


 手紙開封時に息子のフランツと共に遊びにきていたメフィストは笑っていたが、エルフェはどん底に突き落とされたような顔をしていた。

 疲れきったその表情にクロエは哀れみと憐憫の感情を抱いた。

 こうしてクロエたちは【ロートレック】の田舎の中の田舎、ライゼンテールにやってきたのだ。

 路地を奥へ奥へと進んでいく。

 表通りを行くことを危険と判断したエルフェは裏道を選んで目的地を目指した。やがて町の中心にある一番大きな屋敷に辿り着く。

 威厳をもって聳え立つここが目的地のレイヴンズクロフト邸だ。

 エルフェが門番に手紙を見せると、すぐに屋敷内の応接室に通された。

 クロエたちは革張りの長椅子に落ち着く。すると間を置かずにコーヒーと焼き菓子が運ばれてきた。

 応接室は巨大なシャンデリアに照らされ、緋色の絨毯が敷き詰められている。家具や調度の壺も見るからに高価な品で、いかにも貴族の邸宅という雰囲気だ。

 エルフェはここで生まれ育ったのかとクロエがしみじみと部屋を見回していると、応接室の扉が開いた。部屋に入ってきたのは壮年の男性二人だ。


「良くきたね。私はミヒャエル」

「そして私がリュシフェルだ」


 クロエとレヴェリーに向かって名乗り、長椅子に座る彼等こそレイヴンズクロフト侯爵家の現当主だ。

 噂には聞いていたが、そっくりな双子だった。着ている服も同じなのでまるで見分けがつかない。

 レイヴンズクロフトの特徴である銀髪碧眼の長身で、外見の年齢は四十後半というところだ。エルフェが年齢相応の成長をしていれば、こうなったのかとクロエは感慨深いものがある。


(エルフェさんと同じお母さんから生まれたお兄さんなんだよね)


 エルフェとこの双子侯爵が同腹で、ファウストとメフィストは異腹。

 一夫多妻を認めているドレヴェス人らしい複雑な家庭模様には驚愕するばかりだ。


(お茶いただこう)


 兄弟の再会に水を差すのも悪いので、クロエはレヴェリーに倣って茶菓子を食べることに専念する。エルフェには「子供らしくしていろ」と言い付けられていた。


「ウン十年振りだけど、変わりないようで良かった良かった」

「感動の兄弟の再会だ。祝杯を挙げようじゃないか」

「祝杯よりも用件を言え」

「はははっ、レイフェルは照れ屋さんだなあ」

「そうか、そんなにお兄様たちとの再会が嬉しいのか。私たちも嬉しいぞ」

「……俺の話を聞く気はあるのか?」


 双子侯爵は彫像のような硬質な見た目に反してフレンドリーだ……というか、物凄く軽い。

 貴族という高貴なイメージが壊れそうでクロエは辛い。しかし、レイヴンズクロフトの人間は得てしてこういうものだ。ファウストもメフィストも癖がある。あれが【まともな部類】というのならクロエはもう何も期待はしない。

 顔を引き攣らせるエルフェの心情が痛いほど分かる。出会ってまだそれほど時間は経っていないが、双子侯爵の厄介さは肌に伝わってくる。

 レヴェリーが虚ろな目でケーキをつついている。クロエも同じような目でビスケットを食べる。


「いやあ、それにしても鈍っていなくて良かったよ」

「うちの刺客にやられたらどうしようかとヒヤヒヤしたからね」

「何だと……?」


 聞き捨てならない言葉が双子侯爵の口から出た。


「あれはあんたたちが差し向けたのか?」

「養子たるもの、この程度の試練を乗り越えられなくてどうする!」

「そうだとも! この程度でくたばるようではレイヴンズクロフト家の人間とは認められないぞ!」

「ミカ、ルシ……。三人で話をさせて貰えないか……」


 低く押し殺した声で言うエルフェは怒っていた。

 クロエやレヴェリーに拳骨を落とす時の比ではない怒気に、甘ったるい香りの漂う応接室の空気が震えた。


「ん、別に構わないが?」

「ホテルに部屋を用意した。養子諸君は明日まで好きに過ごしたまえ」


 そうして、クロエとレヴェリーは早々に屋敷から追い出されてしまった。

 宿への道すがらレヴェリーはげんなりと呟く。


「変な奴ってそこそこ見てきたけど、あれはまたベクトル違うわ……」


 怪人ヴィンセントと貴人エルフェの知り合いとして、奇人変人に関わることの多いレヴェリーから見ても、双子侯爵はその辺にいる変人とは趣が異なる(ハイレベル)変人のようだ。


「双子でもレヴィくんとルイスくんとは違う感じだよね」

「あー、あれ多分ワンセット扱いされても怒んないタイプだぜ」

「普通は嫌がるよね?」

「当たり前だろ。気持ち悪ぃよ」


 同じ服を着て同じような口調で同じようなことを喋る彼等は、例え片割れと名を間違われようともそれを楽しみそうな雰囲気がある。

 レヴェリーとルイスは二人で一つのような扱いを受けることをとても嫌がるのに、双子侯爵は喜んでいる。

 一卵性双生児と二卵性双生児の違いなのだろうか。

 何にせよ、風変わりということは確かだ。また世の中の不思議を一つ知ったクロエだった。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 薔薇は赤い

 菫は青い

 砂糖は甘い

 そして、あなたも


 世界がその詩のように美しいものに満たされていれば良いのにとルイスは思う。

 春の花、夏の雨、秋の月、冬の雪。人の人生がそういうものだけで満たされるのなら、自分はこれほど虚しさを抱えることはないのではないかと最近は思う。

 けれど、現実は得てして残酷で、醜いものが溢れている。


「…………」


 手を洗う。靴底についた汚れも落とす。

 蛇口から大量の水が流れている。排水溝に赤く濁った水が消えていく。

 ルイスが洗い流すのは、自分のものではない他人の血。この血液の持ち主は、政府の実験に協力することを承諾した死刑囚だ。どのような方法でも良いから生き延びたいと願う彼等は実験に身を捧げ、使えないと判断された者はこうして試斬に使われる。

 死刑囚なのだから殺めても良い人間だ。だが、そこには人道などはない。ファウストがルイスに教えるのは死体を使った据物斬りではなく、生きた相手への拷問だった。

 排水溝に流れる水はもう透明になっていたけれど、ルイスは気分が悪くて暫く水に手を浸していた。

 薄暗い洗い場から出て休憩室に戻ると、監視官で教官でもあるファウストが待っていた。


「お疲れ様です。ジュースでも奢りましょうか」

「いえ、別に喉は……」

「水分はきちんとお取りになって下さい」


 ファウストが従者の時のように小言を言うので、ルイスは自販機のボタンを押した。

 椅子に腰掛け、ペットボトルのキャップを開ける。林檎の爽やかな香りが立ち上るが、やはり気分が悪くて飲む気にはなれなかった。

 このままでは小言が飛んできそうだと危ぶんでいると、休憩室のドアが開く。入ってきた青年は、ルイスやグロリアと同じ班――ファウストが教官を務める――に所属するディーノだ。


「お疲れ」

「お疲れ様」


 ディーノはルイスと挨拶を交わすと、ファウストの髪が黒いことに突っ込む。


「教官、イメチェンすか?」

「若々しく見えるでしょう」

「あはは……」


 冗談か本気か知れない言葉に、ディーノは半笑いだった。

 ファウストの髪が黒いままの原因でもあるルイスは気分が重くなる。


「じゃ、お先です」

「ご苦労様でした」


 愛想笑いを張り付けディーノを見送ると、ファウストはその顔のままルイスの方を向いた。


「今日はレイフェルが家にいないのでしたね」

「……はい、朝から三人で出掛けています」


 エルフェ、レヴェリー、クロエはレイヴンズクロフト家の領地であるライゼンテールに行っている。

 何やら養子の問題で呼び寄せられたようだが、詳しいことを聞いていないのであまり分からない。


(あいつが一人で行けば良いんだ)


 ルイスはクロエがまた可笑しなことになって帰ってくるのではないかと気が気でない。

 母親のことで鬱いでいたクロエが最近やっと笑うようになったのに、その微笑みを枯らすようなことが起きないか心配だ。病み上がりのレヴェリーにとっても鉄道の長旅は辛いだろう。

 二人をエルフェに奪われたルイスは休日を台無しにされたような気分を味わっていた。


「折角一人になれたのに憂鬱そうですね」

「……あの男がいますから」

「どうせ今日も帰りませんよ」

「どうせならずっと帰ってこないで欲しいんですけど」

「まあ、その方があの家は平和でしょうね」


 ヴィンセントは今日も【赤頭巾】のところに泊まってくるのだろう。

 ルイスはこのままヴィンセントが帰ってこなくても良いと――【赤頭巾】を連れて何処か遠くに行ってしまえば良いと思った。


「ところで、貴方はヴァレンタインの家に帰らないのですか?」

「帰りません」

「旦那様と奥様が心配なさっていますよ」

「そうですか」

「どうしても帰りませんか」

「どうしてもです」


 ルイスが家を出たのは、ヴァレンタインの人間に話が通じないからだ。

 生みの親を知った後、ルイスは侯爵にクラインシュミット家を再興したいのだと訴えた。

 侯爵はこちらの話を聞くと言っておきながら、いざ話を切り出すと殴って口を封じてきた。


『お前は私の期待を裏切るのか!?』

『ルイシスさんは混乱しているのです。今必要なのは休養でしょう』

『ああ、そうだな。お前は頭を冷やせ』


 侯爵と侯爵夫人はルイスを家に閉じ込めようとした。

 以前二ヶ月軟禁されたことはあったが、今回はそれより長い時間になるだろう。

 綺麗な洋服、高価な宝石、血統書付きの十三匹の犬。物を与えることでルイスを飼い慣らしたつもりになっている侯爵夫妻は、今回も自由を奪おうとした。

 だが、それでもまだ本当の意味でヴァレンタインに見切りを付けようとは思わなかった。ルイスに家を捨てることを決めさせたのは侯爵夫妻の言葉ではなく、エリーゼの一言だ。


『お兄様が家を継いで、わたしがずっと傍にいれば良いの』


 エリーゼは共に生きてくれるのなら、ルイスの望みを何でも叶えると語った。

 幼い自分を買った貴族の女のように、上から与えてこようとするエリーゼに拒否感を抱いてしまい、ルイスはヴァレンタインの家族である資格を失った。

 人形失格だと自嘲し、苦い気持ちごと飲み物で押し流す。

 ルイスがそうして憂鬱な気分でいると、また休憩室を訪れる者がいる。


「人を働かせて茶をしばいているとは良いご身分ですね」

「……アンジーか」

「気安く呼ぶなです、弟!」

「なら、アンジェリカ・グラッツィアさん」

「アンジーで良いのです!」


 ゴシック調のドレスを纏い、頭に大きなリボンを乗せたアンジェリカ。

 とても裏社会に組するようには見えない愉快な姿の彼女もまた、ルイスと同じ班に所属する見習い騎士だ。


「リストの奴等、処分したですよ」

「ご苦労様です」


 隔離施設である【監獄】に収容されていたアンジェリカは、【上】への忠誠を証立てる為に同族殺しをしている。

 処分したということは殺したということ。

 二人の間で交わされるやり取りにルイスは気分が悪くなる。

 こういう仕事は無慈悲かつ効率的になされるべきだ。だが、ルイスは未だにそれができない。血に触れると震えそうになるし、内臓を見てあとから吐いてしまうこともあった。

 これではいけないと思うのに、命を奪うことに慣れない。今だってこうして平静を保つのに苦労している。

 人形失格で復讐者としても失格のルイスの顔を、アンジェリカは覗き込む。


「顔色悪いですよ? 食中毒にでもなったのです?」

「違う」

「ははーん。アンジーの成績があまりに優秀なものだから、手柄を横取りされないかびびっているですね」

「……そうかもね」


 アンジェリカは胸を反って誇らしげな様子だ。

 彼女のポジティブかつ自信家なところは魅力の一つなのだろうが、殺した人数で勝ち負けを考えるようなところは普通ではない。

 口を開かずとも、足元を見れば彼女の非凡さは如実に物語られている。


「先生、その鎖って意味あるんですか?」


 アンジェリカの両足首には枷が嵌められ、両側を細い鎖が繋いでいる。

 彼女が歩く度にじゃらじゃらと鎖の音が立つ。このように鎖が弛んでいては意味がない。

 ルイスが疑問をぶつけると、ファウストは何処か楽しげに答えた。


「これは拘束が目的ではなく、走らせない為のものなのですよ。この長さでは歩くことができても、走ることはできないでしょう?」

「確かにそうですね」

「ある程度、自由があった方が拘束された時の恐怖も強くなりますしね。因みに、これを拘束具として使う場合は押し倒して首に掛けると良いですよ。中々屈辱的な体勢になります」


 実践の気配が濃いことに怯えたアンジェリカはルイスの背後に回った。


「おやおや、何故逃げるのですか?」

「お、おまえは何をするか分からないのです!」

「スカートを穿いている女性にそんな無体なことはしませんよ」

「変態なのですぅ!」

「人聞きの悪いことを言わないで下さい。私は紳士的です」


 紳士的な拷問などありはしない。審問官としてのファウストはとても怖い。先ほどのことを思い出して気分の悪くなったルイスは席を立った。


「そろそろオレも帰ります」

「テーシェルの家に戻るのですか?」

「……いえ、面倒なので宿を探します」


 誰もいないならあの家に戻る必要もない。帰るのは自分の家だ。

 アパルトマンのことをクロエ以外の人間には教えていなかったので、ルイスは誤魔化した。

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