番外編 ラプンツェルの密やかな殺意 ~side Elysia~
姫君は花の国を夢みる 【1】以前の話になります。
「お母様。わたしはお兄様が好きなの」
兄があの鳥籠姫の血を引くと知った時、エリーゼは自分の想いを偽ることができなくなった。
エリーゼは聞き分けの良い利口な娘を演じながら、周囲をいつも観察していた。
目と耳を使って相手を観察して、自分がどういう存在なのかを確かめてきた。そんなエリーゼの耳には、お喋り好きな使用人たちがこぼす話もしっかりと届いていた。
兄は人を殺したことがあるだとか、兄を追い出して妹が家を継ぐべきだとか、病弱な兄妹は信用できないから新しい子供を作るべきだとか、母はもう子供を産めないから父に愛人を宛がうべきだとか。
エリーゼは知っていた。全て知っていて無知な天使の振りをして、兄の胸のぬくもりに甘えていた。
だけど、その兄が出ていってエリーゼは無邪気なだけではいられなくなってしまった。
兄の消えた冷たい屋敷の中で過ごす間にエリーゼは次第にこう考えるようになった。どちらが家を継ぐかで延々と揉めるのなら、どちらも継いだら良いのだ。
施設出の平民だと兄を軽んじていた者も、クラインシュミット侯爵夫人の実子ということを知れば黙るしかなくなるだろう。問題の父親のことはどうとでも握り潰せる。
兄妹が家を継ぐ。これは夢のような案だ。
養子問題の体面を保てるし、血も絶えずに済む。エリーゼが嫁がなければ財産が減ることもないし、兄が相続するクラインシュミット家の遺産もヴァレンタイン家のものになる。
エリーゼは思いの丈を母にぶつけた。
「お兄様とわたしが家を継ぐの。そうすればお母様が肩身の狭い思いをなさることもなくなるわ。お母様はわたしの味方をして下さるでしょう?」
「いつからそのようなことを考えていたのです……?」
「ずっと。わたしの傍にいてくれたのはお兄様だけだったもの」
流行り病に倒れたエリーゼの傍にいてくれたのは兄だけだった。
エリーゼは命を肯定してくれた兄だけが支えだった。
「お兄様がいなかったらわたしは死んでしまうわ……」
早く妻を見付けろと、早く孫の顔を見せろと、兄を責付くその様にどれだけ傷付いたか。
母は妻としての務めを果たそうとしていたのだろうが、エリーゼは胸が軋むようだった。
兄が何処の家からか娘を貰い、子供を作る。エリーゼはヴァレンタイン家の娘というブランド名で出荷され、政略結婚という形で購入される。
娘は結婚したら相手の領地を離れられない。家の為にずっとそこで生きていくことになる。それは兄の為に生きることなのかもしれないが、エリーゼはそのような日陰は嫌なのだ。
「ねえ、お母様。わたしは今までずっと我慢してきたのよ……? 好き嫌いを言わなかったし、苦いお薬だって飲んだわ。欲しいものだって我慢してきたもの」
深窓の令嬢という商品に仕立てられようとしていたエリーゼは今まで我が儘など言ったことはなかった。
ずっと父と母の言い付けを守ってきたのだから、一度くらい想いを遂げても良いはずだ。
「お母様はわたしの幸せを願って下さるでしょう……?」
「ええ……そうね、わたくしのエリー。ずっとずっと辛かったわね……」
こうして自分を人質に取れば母が折れるだろうことは計算していた。
白百合の香りのする母の胸に抱かれながら、エリーゼは決意を強くする。
何としてでも兄を連れ戻す。母とこの家の為にもエリーゼは兄の心を取り戻さなければならないのだ。
そもそもこのようなことになったのは、分からず屋の父の所為だった。
久方振りに下宿先から帰ってきた兄を父が殴りつけた。よりにもよって顔を。
両親と兄が顔を合わせた小広間でどのような会話があったのかは知らないが、エリーゼが駆け付けた時には母が部屋の隅で座り込んで泣いていた。
父は恐ろしい形相で兄を睨んでおり今にも手元のサーベルを抜きそうで、執事が必死に止めていた。
『オレは……もうこの家には戻りません』
誰の顔も見ずに吐き捨てられた言葉は秋の風のようだった。
兄は傷の手当てもせずに出ていってしまった。
エリーゼは兄を呼び止められなかった。父を諌めることも、母を慰めることもできずに、兄の部屋にやってきていた。
(お兄様はもう帰ってきて下さらないの?)
まるでここの生活が無価値だったとでもいうように、兄は何も持たずに出ていった。
エリーゼが母と選んだ万年筆も、父が贈った懐中時計も置き去りになっていた。折角仕立てたフロックコートも一度も袖を通さず終いだ。
(わたしと一緒にお出掛けするって言ったのに……)
今年の流行のショート丈で、合わせるようにボルドーのウエストコートも仕立てた。左利きの兄が扱いやすいように左の袖に若干のゆとりを持たせたこれはオーダーメイドだ。四月に兄が帰ってきた時に、エリーゼのドレスと共に仕立て屋に頼んだ。
一緒に出掛ける時のドレスが欲しいのだと、エリーゼは採寸を嫌がる兄を何度も説得した。兄はエリーゼの熱意に負け、出掛けることも採寸も受け入れてくれた。だというのに、やっと出来上がったドレスを着る機会はなくなった。
「……お兄様……」
エリーゼが悲しい気持ちで兄の部屋に佇んでいると、ノックもなく扉が開かれた。
ここに訪ねてくる者も、その理由も分かっているエリーゼは振り返らない。
「エリーシャ様、こちらでしたか。お薬の時間ですよ」
兄の従者で、兄妹の主治医でもある男は和やかに言った。
エリーゼは自分の部屋に戻り、長椅子に座った。
「お加減はいかがですか?」
「大事ないわ」
「ご無理は禁物ですよ」
黒髪の従者は水の入ったグラスを差し出し、屈託なく笑う。エリーゼはシートから錠剤を押し出しながら考える。
お喋り好きな使用人は珍しくはないが、この男はいつも笑っている。自分の主が消えたというのに笑っていられるのはどうしてだろう。何か解決策を持っているのだろうか。
「お兄様はなぜ可笑しなことを言い出したのかしら……」
彼が他の使用人とは違うということを知っていたエリーゼは、迷い子のような気持ちで答えを求めた。
「お兄様が家を離れるのは来年までだと聞いていたわ。それなのにどうして出ていくだなんて言い出すの? お父様がまた何か言ったの?」
「いいえ、旦那様は引き留めておられましたよ」
「だったらなぜなの? お前はお兄様の側にいたのでしょう?」
側仕えとして兄と父の会話を聞いていたなら分かるはずだと、エリーゼは黒髪の従者を問い詰めた。
「ルイシス様が戻らない理由をお知りになりたいのですか」
「そうよ」
「……それはですね、エリーシャ様。悪い魔女が誑かしてしまったからですよ」
「魔女?」
「借宿に住む、青い目の彼女です」
黒髪の従者は内緒話をするように密やかに教えてくれた。
「彼女はさも自分しか理解者がいないように語り、ルイシス様を洗脳してしまったのです」
「あの人がお兄様を……?」
「ええ、そうです。ルイシス様は毎夜のように繰り返された言葉の所為で、すっかりお心を弱くしてしまった。痛ましいことです」
枕元で魔女に何度も可笑しなことを囁かれて、兄は可笑しくなってしまったのだという。
何故、兄は傍に寄ることを許したのだろう。男だからやはり金髪碧眼が好きなのだろうか。
エリーゼは絶望的な気分になる。
枯れ葉のような色の髪も、碧眼に至らない紫陽花の目も彼女に負けてしまった。いや、そんなことはない。家柄も品位も容姿も負けているはずがない。ずっと傍にいたのはエリーゼなのに、どうしてあんな半年しか傍にいない人間を信じるのだ。可笑しい。可笑しいではないか。
何を吹き込まれたのかは知らないが、兄が家を出ていくのはあってはならないことだ。
エリーゼは兄の役に立つことができる。
ヴァレンタイン家を居心地の良い場所にすることができるし、兄の望むものを与えることもできる。父と母のように宝石と犬を買い与えて押さえ付けたりはしない。兄と同じ立場で支えるのだ。
「人の命は儚く、いつ何が起きるか知れません」
後悔がないように、というその言葉がエリーゼの心の水面に波紋を描いた。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
避暑地の各地にヴァレンタイン家の別荘がある。今年滞在することにしたのはテーシェルだ。
湖と檸檬畑しかない辺境の田舎町。エリーゼはここでの生活を気に入っている。
郊外の生活は不便ではあるが、厳格な父と心配性な母がいない生活は兄を独占できる一時だ。
膝上で本を読んでもらっても咎められないし、そのまま眠ってしまっても邪魔をされない。好みの食べ物だけの食事のリクエストをしても許されるし、何より空気が綺麗で気分が良い。短い夏は特別な季節だ。
今年もそうするのだとエリーゼは当然のように決めていた。
黒髪の従者に使いに出し、テーシェルへきたことを知らせると兄はすぐにやってきてくれた。
兄と父が喧嘩したことはまだ記憶に新しく、エリーゼは顔を見るまで不安だった。だが兄の傷は綺麗に治っているようだったし、父への恨み言も何も言わなかった。
例年と変わりなく、昼は夏の休暇をめいいっぱい楽しんだ。ただ一つ違うのは、夜になると兄がいなくなってしまうということか。
兄は昼の間はこの別宅で過ごしても、夕刻になると下宿先の家に戻ってしまう。
「お兄様! 今日は涼しいからディナーは外に席を用意させたら素敵よ」
「済まない。当番があるから帰らないといけないんだ」
「当番? お兄様が料理をなさるの?」
「手伝いだよ」
ここでゆったり過ごすより、あちらの家でこき使われることが良いとでもいうのだろうか。
エリーゼは面白くなくて唇を噛んだ。
形が崩れてしまうからといつもなら使用人に諫められるところだが、兄とふたりきりではそういうこともない。そうしていじけていると、エリーゼの不機嫌の理由を勘違いした兄はこう言った。
「そんなに外に出たいなら、クロエさんにアフタヌーンティーに付き合ってもらえるか聞いてみようか」
「……えっと……迷惑じゃない?」
「彼女はそういうことを考えないよ」
どうやってあの家を探ろうか悩んでいたエリーゼにとって、それは願ってもない提案だった。
エリーゼは病弱で滅多に家から出られない可哀想な少女として、青い目の魔女――クロエと午後の茶の時間を過ごすことになった。
(ジルベールが言っていたことが本当なのか見極めなければならないわ)
結果がどうであれ、クロエのことは少し牽制するつもりだった。勿論、兄がいる前でだ。
裏でこそこそと糸を引くというのはエリーゼの性分に合わない。もしクロエが黒髪の従者の言うような存在だったとしたら、正々堂々と悪を挫くつもりだ。
けれど、兄はエリーゼを案内すると、読みたい本があるのだと言って出掛けてしまった。
「貸本屋って本を借りるところ?」
「うん、そうだよ。カードを持っていくと暫く本を貸してもらえるの」
「新しい本を買わないなんて不思議ね」
「ルイスくんはいつも本を読んでいるから買ってたら大変じゃないかな」
(ルイシスお兄様よ)
クロエが兄を気安く呼んでいるということに、胸がちりちりとした。それでもエリーゼは冷静だった。冷静に目的を達成するつもりだった。
そして、エリーゼは彼女の部屋で兄の裏切りの証拠を見付けてしまう。
(お兄様はあの人の涙も拭うのね……)
自分が特別だと思っていた。
頭を撫でてもらえるのも、膝に甘えられるのも、抱き締めてもらえるのも、涙を拭われるのも。それは自分が妹だからではなく、特別だからだと願っていた。
兄の心変わりを知ったエリーゼは、ふたりきりになった時に気持ちを伝えた。
「お兄様が家を継いで、わたしがずっと傍にいれば良いの」
クラインシュミット家を再興したいならその協力もできる。ヴァレンタイン家の家来という形で、あの家を残すことができる。
兄の瞳は揺れていた。
胸に飛び込んだエリーゼの肩に触れた兄は、少し時間をくれと言った。
この時、エリーゼには手応えがあった。兄の心を取り戻すのは頭で考えるよりも簡単に思えた。
「明日、湖に行きたいわ!」
エリーゼは高揚する気持ちを抑えられず、これからのふたりの予定を立てようとした。
「ボートに乗るの。ね、良いでしょう?」
「……ごめん。明日はあの人と約束がある」
「約束?」
「旅雑誌を見にいこうという話をしていたんだ」
雑誌などいつでも見にいけるはずだ。そんなことよりボートで湖を泳いだ方が気持ち良いに決まっている。
そんなことは間違えても口に出さない。エリーゼは聞き分けの良い妹なのだ。
「……じゃあ、お散歩。朝に一緒にお散歩して!」
「ああ、それなら良いよ」
「約束よ」
これから時間は幾らでもあるのだ。明日はクロエに譲ってあげても良いと思った。
夕陽が射す中、エリーゼは兄と手を繋いで別宅に帰った。使用人のビアンカはエリーゼの心を汲んで、先に戻っていた。エリーゼの世界は先刻見た夕陽のようにきらきらと黄金色に輝いていた。
だけど、光の中にふっと闇が落ちる。
「今夜もあちらに帰ってしまうの……?」
「戻らないといけないんだ」
「お兄様の家はここよ? お兄様の帰る家はあそこじゃないの」
「……朝に迎えにくるよ。おやすみ」
兄を引き留め、それを断られた時は心が散り散りに裂かれてしまうようだった。
その夜は枕が涙で濡れてしまった。
朝になって鏡を覗くと、泣いて眠った所為で目蓋は腫れていた。みっともない顔色にエリーゼは益々悲しい気持ちになった。
鏡台の前の椅子に腰掛けると、ビアンカが髪を梳かし始める。
「どのような髪型にされますか?」
「編み込みを入れてサイドで一つに纏めて。髪飾りはこれを使って」
エリーゼが示したのは、兄に贈られた髪飾りの一つだ。
大輪のアマリリスと紫陽花がセットになった髪飾りはパールが上品な甘さを出している。
エリーゼはあまり外出することができないので、年頃の少女のようなお洒落も諦めてきた。その代わりに髪と掌の手入れを欠かしたことはない。
何処ぞの庶民の娘のように荒れた手をそのままにはしないし、髪の毛も綺麗に整える。侯爵令嬢として髪の毛の一本から爪先まで何処も手を抜きはしないのだ。
「ドレスのお色は?」
「ラベンダーが良いわ」
雪のように白い肌を際立たせる、襟ぐりの大きく開いたグレイッシュラベンダーのドレス。ベルベットの黒いリボンが全体を引き締めているドレスは、シューリスらしいアクセントが効いていた。
エリーゼはドレヴェスのように仕来たりや格式を尊んだ青や薄緑のドレスを纏うつもりはない。兄は落ち着いた装いをしているので、互いに引き立てるようなドレスが良かった。
「ビアンカ。わたしって醜いのかしら?」
背中のボタンを留めてもらいながら、エリーゼはビアンカに問い掛ける。
「いいえ、エリーシャ様はとても可愛らしいです」
「ビアンカ」
「何でしょうか」
「わたしと二人だけの時は駄目と言ったでしょう」
鏡越しにビアンカは目を見張り、少しだけ眦を下げた。そして淀みない口調で答える。
「そうはまいりません。主と口を利いては叱られます」
「ジルベールに? だったらあの者だってお兄様と二人の時は砕けているわ」
使用人としては失格だが、友人としてはあれくらいが丁度良い。兄はあの従者の明るさに救われているところがあった。
エリーゼもビアンカとはそのような関係を築きたいのだ。
けれど、願えどもビアンカは頷かず、黒い睫毛を伏せて淡々と着付けを行うだけだった。
エリーゼが支度を済ませて待っていると、兄は約束の時間丁度にやってきた。
「何だかいつもと雰囲気が違うわ」
「そうかな。最近はこんな感じだよ」
「そう……なの?」
屋敷の外ではこうだと語る兄は茶のウエストコートに、紺のジャケットを合わせていた。
こういう格好をするのだとエリーゼは意外に思った。
「エリーゼのエスコートを任せられたから、一応はまともな格好をしてきたつもりだけど」
「まあ、お兄様ったら」
朗らかな微笑みの裏でエリーゼは苦い心地だった。
(水色のドレスにすれば良かったわ)
マローネ・エ・アズーロという言葉があるように茶色と空色の組み合わせはお洒落だ。
エリーゼはクロエが淡い水色のワンピースを着ていたから、意識的に同じ色を避けたのだ。
(これじゃだめ……全然だめ)
理想はチュールレースをたっぷり使ったベビーブルーのドレス。銀糸で縁取りしたフリルの付け襟をつけて清楚に纏める。考えただけでうっとりとするくらい素敵だ。
今日のドレスはちっとも可愛くない。
昨日の涙を喜びに変えるのだと気合いを入れた装いも、エリーゼの中で途端に価値がなくなった。
それでも――それでもエリーゼは耐えられていた。兄が自分を選んでくれると信じていたから。
クロエがエリーゼの頼みを断った時も、卑踐の民だからと哀れむ気持ちがあった。
兄の役に立てないくらいなら死んだ方が良いというのは本心で、その自信もあった。
だけど、ルイスがクロエに手を差し伸べたのを見てエリーゼは混乱し、全身の血が沸いた。
「ジルベールの言う通りだわ……。お兄様はこの人に洗脳されてしまったから、哀しいことばかりおっしゃるのね」
兄はクロエに唆されて可笑しくなってしまったのだ。ここにいるのは兄であって兄ではない生き物だ。
エリーゼは一縷の望みをもってナイフを己に向けた。
自分を人質にすれば昔の優しい兄に戻って、自分の元へ帰ってきてくれるのではないかと期待した。返ってきた答えは残酷だった。
(お兄様じゃないわ……これはお兄様じゃない……)
知らない名前で呼ばれ、知らない服を纏い、知らない耳飾りを着けているこの生き物は何なのだろう。
答えは簡単だ。エリーゼのお兄様ではない生き物だ。
「わたしのお兄様は、そんなこと言わないわ!!」
エリーゼの兄を食らってしまったそれに、エリーゼは兄を取り戻す為に刃を向けた。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
兄ではない兄に刃を向けたあの時、エリーゼは漸くルイスと同じ土壌に立てたのだ。
クロエ風に言えば、【気持ちが分かる】というやつだ。
(これでお兄様とお揃いね)
刺す相手が狂ってしまったのは計算違いだったが、ルイスと同じ罪を背負うことができた。
エリーゼにとってルイスと同じ罪を得ることができたのは幸いだった。
兄を理解者となれるのは嬉しかった。それに、その罪から自分が家を継げなくなったとしても、兄が家を継いだら良い。エリーゼがいないのなら兄は気兼ねなく家にいられるだろう。
どちらに転んでも幸せだ。
裁かれても、裁かれなかったとしてもエリーゼはルイスの役に立てる。生肉を切り裂いた手応えは忘れられなかったけれど、エリーゼはそうして心を鎮めた。
だが、そこまでしてもルイスはエリーゼの元へ帰ってくることはなかった。
「わたしに意味はあるの……?」
ゆらゆらと流れて、ぶくぶくと沈んでいく。
流された先には花の国があるというなら沈んだ果てには何があるのだろう。
もし水の国でもあるのなら、それも素敵に思えた。
桟橋に立ったエリーゼは湖を覗き込んだ。不意に、腕を引かれた。
「何やってるんだ!」
突然触れられたことに驚き、その大きな声には嫌悪を感じながら視線を上げる。
そこにはフェーエンベルガー家の息子――フランツが立っていた。エリーゼは冷めた気持ちで訊ねた。
「なにってなあに?」
「お前、入水しようとしてたな」
「入水……? 水浴びをしたら涼しそうね……」
「そういう話じゃないだろう。何か思い詰めるようなことでもあったのか?」
「お兄様が盗られてしまったのよ。憂鬱にもなるわ」
「盗られるってな……、お前の兄は姫様か何かか?」
紳士として乙女を慰める心積もりがあるのかと思いきや、フランツは呆れを隠さない顔をしていた。
エリーゼは嘲られたことが不愉快でフランツの腕を振り切った。
(こういう人だけは嫌よ)
ルイスが家に帰らないのならエリーゼは婿を取らねばならないが、デリカシーのない男だけは御免だ。
優れた紳士に求められるのは知性と優雅さだというのに、この男にはそれがない。いかにも体力しかなさそうで、この男を推すメフィストの冗談は全く笑えなかった。
荒んだ気持ちのエリーゼが不躾に観察していると、フランツは眉を寄せた。
「物騒なことを考える前に内面を磨け」
「あなたはわたしの何を知っているというの?」
「正直、今のお前は俺でも遠慮したいな」
「無礼者……!」
あの家に出入りしている人物だからと警戒してみれば、フランツはエリーゼを冷やかしにきたのだ。
かっとなったエリーゼは誰もが怯えるその一言を聞かせた。
「わたしはオーギュスト・エクトル・ヴァレンタインの娘よ。わたしに無礼を働くことの意味があなたは分からないの?」
フェーエンベルガーなんて、父に言えば取り潰してもらえる。教会に胡麻すりをして生き長らえているような家はヴァレンタインの敵ではない。
這いつくばって謝る必要はない。ただ震えて眠れ。
エリーゼは、生まれた時代を二代間違えたと囁かれる父譲りの苛烈さでフランツを糾弾しようとした。
「貴族らしい女だよ」
「そう。あなたは物分かりが悪いのね」
フランツはまるで事態の深刻さを理解していないようだったので、エリーゼはこれ以上の関わりは必要ないと判断した。
「あなたに用はないわ。下がって」
下僕に命じるように告げるとフランツはまた呆れたような顔をして、エリーゼの前から消えた。
エリーゼは兄と何処か似た黒い上着の背中が見えなくなったことを確認し、また湖を眺める。
「わたしの気持ちなんて……分かるわけない……」
フランツに言われるまで思いもしなかったが入水自殺をするというのも魅惑的ではないだろうか。
綺麗な夕焼けの湖に身を投げて、全てを終わらせるのだ。そこまで考えたエリーゼは即座に却下する。
ルイスが戻らない以上、エリーゼがヴァレンタイン家の唯一の跡取りだ。命を粗末にすることはできない。侯爵家の人間としての誇りがエリーゼに自害を禁じている。
ビアンカの迎えを待たずに一人で別宅に帰ると、黒髪の従者が出迎えた。
他の使用人たちに遅れてやってきたジルベールは、いつものように柔和な笑みを浮かべていた。
患者の緊張を解すその微笑みに、エリーゼは堪えていたものが崩されるのを感じた。気付けば、泣きじゃくる子供のように救いを求めていた。
「ねえ、ジルベール。わたしはどうすれば良いの? あなたなら良い案が出せるでしょう?」
「買いかぶりすぎですよ」
「いいえ……いいえ! あなたなら盗られたお兄様を取り戻す方法を知っているはずだわ……!」
窓辺の長椅子に座り込んだエリーゼは自らの前に片膝を着くジルベールに訴えた。
ジルベールは賢く、有能な男だ。いつものように分からないのことの答えを教えてくれるはずだ。いつものようにエリーゼとルイスの為に動いてくれるはずだ。
けれども。
「盗られるも何も、あの方は元からエレン様とアデルバート様のものですよ」
「え…………」
「これで私と同じですね、エリーシャ様」
薄い唇に酷薄そのものの微笑を浮かべて、ジルベールはそう告げた。
エリーゼは失う。何を言われたのか理解できずにただ身体から力が抜けた。
涙が両目から溢れ出し、震える手にぽたぽたと落ちた。
「……ジルベール、あなたは……」
「ご自分の立場を分かっておられますか。貴女は既に罪人なのですよ」
ずっとベッドを離れられなかったエリーゼは他人の悪意には敏感だ。だからこそ、解る。
この男はエリーゼのことなど欠片も考えていない。
夏の強い陽射しの中でも透けない漆黒の髪は闇を溶かしたようだ。エリーゼは震える両手を胸の前で組み、目の前の男を睨む。その視線をジルベールは鼻で笑い飛ばしながら、ふと真面目な顔を作る。
「罪を犯した私たちはあの方を救うことはできないのです。――だから夢を叶えさせてあげましょうよ」
そうして、男は哀しみの涙に濡れた少女の手を愛しげに掴み、悪意も善意もない乾いた声で囁いた。