閑話 Au Defaut du Silence 【5】
花火の当日、喫茶店の手伝いをしていたクロエとルイスは午後になってから町に繰り出した。
二人がまず訪れたのは常設の花市だ。
【ロートレック】は花の都と言われるだけあって花屋の規模は大きく、品数も充実している。今日はテーシェルの窓辺に見られるゼラニウムや紫陽花の鉢が土産用に並べられていた。
アーケードの天井からはガーデニング用の飾りなどがぶら下がっていて、中を歩くだけで楽しい。植物が好きなクロエにとってここは心踊る場所だ。
「ルイスくんルイスくん。この蛙の如雨露、可愛いですよ」
「そう、かな……」
「並んで葉っぱの傘に入ってますよ。こっちが王様でこっちがお妃様です」
持ち手の部分に二匹の蛙が座っている如雨露にクロエは目を輝かせる。
蛙が苦手なルイスは引き気味だが、クロエはこのディテールが気に入った。
「これ、今度くる時まで残っているかな」
折角の祭りなのだから記念に何か欲しいとクロエは思う。
散策の邪魔にならない小さなものはないだろうかと探していると、ルイスが手招きした。
「買うならこれにしよう」
ルイスが示したのは、天井から吊るす木彫り細工の飾りだ。テーシェル名物のレモンや、星や月といった形をした木彫りの飾りは暖かみがある。
ルイスはアパルトマンを彩るものが欲しかったらしく、クロエにも買ってくれるという。
「好きな形のものを選んで良いよ」
「ルイスくんはどれにするんです?」
「オレはこの三日月の」
「私も一緒のものを――」
「駄目だ」
「アパルトマンなら誰にも見られませんよ」
「キミと揃いは困る」
好きなものを良いと言ったのに、それは狡い。ルイスの頑なな様子にクロエはむうと唇を押し曲げる。
友人とお揃いのものというのは、いけないことなのだろうか。そんなことを思いながら、クロエは林檎の形の飾りを選んだ。
「そうだ。部屋の窓に花を飾りませんか?」
「花を?」
「うちだけ何もないのは寂しい気がして」
【ロートレック】に暮らす人々は美意識がとても高い。ディヤマン通りも管理委員会があり、景観を損なわせるような建築物や装飾を禁止しているのだ。
このテーシェルでも屋根や窓の形一つ一つが、地域に合ったデザインを指定されており、住民たちはその完成された景観を花で彩っていた。
「私と部屋の窓から貴方の部屋に繋げる感じでゼラニウムを飾ったら綺麗だと思うんです」
お揃いを嫌がったルイスだが、花を飾ることは意外なほど穏やかに受け入れた。
「色はどうする?」
「やっぱり紫は入れたいですね」
「白と紫を交互に並べるとか」
「良いですね。黄色も入れて三色にしても華やかかもしれません」
窓辺のガーデニングの構想を練っていると、クロエはもう一つしたいことが見付かる。
「あと、玄関に薔薇を植えたいです。ポール仕立てにする感じで」
「黄緑の壁に合う薔薇か」
マルシェ広場の店々は、パステルカラーがバランス良く配置されている。町の指定によって建てられたあの家の外壁は、喫茶店のある一階は黄緑色で、二階は焦茶色だ。
クロエは黄緑の壁に合う薔薇は何かと考え、花市を見回す。
「黄緑に合わせるって難しいですよね。白だと無難ですし」
「オレンジ色が良いと思う」
「メロンみたいで可愛いです!」
黄緑と橙のコントラストはメロンのようだ。クロエが思わずはしゃぐと、何が可笑しかったのかルイスは少しだけ笑った。
クロエは胸が騒いでしまう。
自分が可笑しなことを言ったのかという恥ずかしさと、彼の一挙一動に心が乱れてしまう恥ずかしさで赤くなりながら、クロエは訊ねた。
「オレンジのクライミングローズで何か良いの知ってます?」
「今思い付くものだとロイヤルサンセットかな。あれは大輪で見映えが良いし、丈夫で育て易い」
母親の庭作りを手伝っていたことを知られた今はもう隠す気もないようで、ルイスはクロエの相談に乗る。
「私、ポール組むのやったことないんですけど、手伝ってくれますか?」
「上手くできる自信ないけど……。オレで良ければ手伝うよ」
「お願いします」
「今日は荷物になるから、今度材料を揃えようか」
「はい。エルフェさんにも許可貰わないとですね」
クロエは花を育てるのは個人の趣味だと思っていた。
誰かと花を育てられるということが――それが他ならぬ彼だということが嘘のようだ。
「広い庭があったら前に貴方に選んでもらったものも育ててみたいんですよね。コーネリアとジュリアと……えっと」
「マチルダ」
「そう、マチルダ。あの色、好きです」
散策に戻った二人は花市から続く鳥市を眺めながらアーケードを通り抜ける。
湖沿いのダーム・デュ・ラック通りは出店で賑わっていた。
甘い匂いに鼻腔を擽られてクロエが近付いていくと、綿あめ屋が開かれていた。【ロートレック】名物のピンクの綿あめだ。
「綿あめ、買ってきても良いですか?」
「ああ、良いよ」
クロエは子供の行列に混ざり、大きな綿あめを一つ作ってもらった。
出来上がった綿あめをルイスに差し出すと、彼は戸惑ったように綿あめと周囲を見比べる。そして、恐る恐るといった様子で指先で綿あめをちぎり、口許へと運ぶ。
「砂糖だ」
ルイスが言ったのはそのものずばりの感想だ。クロエも一口味わってから訊ねる。
「もしかして、食べたことなかったんです?」
「ああ」
「意外ですね」
「そうかな」
「【ヴァレンタイン】ってお菓子屋さんですし、色々お菓子を食べてきているのかなって」
「だからだよ。衛生とかにうるさくて、外で売っているものは食べるなと言われてきた」
ルイスはまた毟り取って食べる。どうやら嫌いではないようなので、クロエは嬉しくなってしまう。
(ルイスくんの好きなもの、もっと見付けたい)
こうやって好きなものや楽しいことを見付けていければ良いなと思う。そして、その瞬間に共に在ることができたら良い。
砂糖菓子の甘さに釣られてうっかりそのようなことを考えてしまうクロエだった。
午後七時を知らせる鐘が町に鳴り響く。
辺りが薄暗くなると花火の舞台である湖沿いは人でごった返し、散策を楽しむ状況ではなくなる。
マルシェ広場へ戻ってきたクロエとルイスは、そこで店仕舞いをしているエルフェとメルシエに出会した。
「メルシエさん、きていたんですね!」
「急に呼び出される身にもなってもらいたいものだけどね」
メルシエは今の今まで店の手伝いをしていたといった様子で、戸締まりをしているエルフェを睨む。
「当日の朝に言ってくるとか有り得ないでしょ。ここまで何時間かかると思ってるんだよ」
「来たということは暇だったのだろう」
「そういう問題じゃないって何回言わせれば分かるのかな」
睨まれたエルフェは視線でクロエに抗議する。クロエに言われたからメルシエを呼んだのだと言わんばかりだ。
夏らしいノースリーブシャツに細身のパンツ姿のメルシエは長身も相まってモデルのようだ。陽が落ちているので常ほど目を引かないが、彼女は美人なのだ。
(エルフェさんは贅沢者なんですからね)
果報者なのだとクロエが睨むと、エルフェは最早何も言わなかった。
メルシエはエルフェに噛み付いたところで無駄だと諦めているのか、話を変える。
「レヴィは屋根で花火を見るみたいだけど、あんたたちは?」
「オレたちは高台の方に行きます」
「エルフェさんたちはどうするんですか?」
「俺たちは下で見るつもりだ」
レヴェリーと友人たちが家を使っているので、エルフェとメルシエは湖沿いまで下りるという。
花火開始まではまだ時間がある。別れを告げた二組はゆっくりと目的の場所へ向かった。
テーシェルを見渡す高台に立つ白い教会は柔らかな明かりを灯している。
安息を約束する神の御家を囲む菜の花畑は黄金に輝き、風にそよぐ姿は光の海原のようだ。ルイスは自分の着ていた上着を脱ぎ、それを地面に敷くとクロエに座るように言った。
「上着汚れちゃいますよ」
「キミの服が汚れる方が困る」
「じゃあ、ルイスくんも隣に座って下さいね」
「分かってる」
白いスカートを身に着けてきたことを恨めしく思いつつ妥協案だとクロエがせがむと、ルイスは小さく笑って、隣に並んだ。
「意外と誰もいないんですね」
「墓が近いし、観光客はこないだろうね」
花火が上がっても騒げる場所ではないことから皆避けるのだろう。湖が一望できるここにはクロエたちの他に人影はなかった。
吹きさらしの高所を風が吹き抜ける。
「寒くない?」
「大丈夫ですよ」
風避けのストールを肩に掛けたクロエは気遣う彼に笑みを向ける。
こうして並んで座っているだけで胸がぽかぽかしてくる。冷ややかな夜気は心地好かった。
「そういえばこの前、あいつと何を話していたんだ?」
「気になります?」
「……それなりに」
「私とあの人は離れている方がまともに話せるって話です」
妬いてくれたりしないのかとクロエが顔を見ると、ルイスはばつが悪そうに目を伏せた。
溜め息めいた吐息を聞いたクロエは反省し、ひとつ告白する。
「お母さんのこととか色々あって考えたんですけど……、私は自分と似た境遇の貴方に私を重ねていたんです」
「重ねて?」
「はい。私は私に自信がなくて、貴方が幸せになれるなら私も幸せになれるのかな、とか……。私は自分を認める勇気がなくて、貴方の中に逃げたかったんです。だけど、私は私で、貴方は貴方なんですよね」
ルイスを【羨ましい】と感じるのは、クロエが自分を見つめる勇気がなく、彼の中に逃げていたからだ。
けれど、こうして彼と向き合うようになって、クロエは幸せになりたいと感じる。
幸せになっても良いのだと思いたい。
クロエは今の穏やかな時間を守りたい。ちっぽけでも満ち足りた幸福を失いたくない。ヴィンセントに負けないと誓った時と同じように、強くそう思う。
言葉が見付からず、顔を伏せるクロエの両頬が手で包まれる。
クロエは驚き、目を見開く。
彼の目には金色の髪の女が映っている。初めてという訳でもないのに、触れられた感触に放心する。
クロエは瞬きをして、ふいと顔を逸らした。交わっていた視線を外した理由は自分でも名状し難い。
「……ごめん。答えを言えなくて」
ルイスはクロエの頬に触れたまま囁いた。
「オレは多分キミよりも親が大切で、キミに何かを言える立場じゃない」
「私は……そういう貴方だから好きになったんですよ」
子供の時分より愛情に飢え、心の奥に寂しさの根が張っていた。クロエは自分と同じその匂いに惹かれてしまった。
一番になれないのは悔しいけれど、やはり両親を大切に想っている彼が愛しいのだ。
クロエは伏せていた瞼を上げ、ルイスを見る。
「不誠実だというのは分かっているんだ。こういうことを口に出して言うのも卑怯で、こうして触れるのも……最低だ」
「最低、ですか?」
「キミを傷付けている」
愛の告白もせずに触れ、その贖罪を乞う。気を引いているようだろうとルイスは自嘲した。
彼が離れていくような気がしてクロエは咄嗟に服を掴んだ。
「良いんです。私、好きになってもらえるように頑張るって決めましたから」
「そうじゃない。キミは今のままで良い」
「ルイスくん……?」
「オレが両親に向ける気持ちはこれからも変わらないと思う。あの人たちは死んで、その時から変わらないものになってしまったから。……でも、キミはそうじゃない。キミは生きていて、奇特にもオレの傍にいてくれる」
頬に触れていた手が離れていく。代わりに宥めるように肩に触れられた。
「だから、キミは今のままで良い」
変わるべきなのは自分なのだから、と。
クロエはルイスの服を掴んで握り締めていた手をほどき、けれどもう一度胸倉を掴んでしまった。
「さっき卑怯だって言いましたけど、本当にそうですよ。そういうの、ずるいです」
「今のはそういうつもりじゃなかったんだけど」
「奇特にも、とか余計な一言は聞かなかったことにします」
するとルイスは少しだけ面白くない顔をした。そんな一つの反応すらも愛しくて、クロエは目が離せなくなる。
眩しいものでも見るようなクロエをルイスはただ見返す。
口を噤んだまま、ただ見つめあって、時が流れていた。
この沈黙の代わりに言葉を求めるのは贅沢なことなのだろう。
「私は月でも良いんです。貴方がいつかお日様を選ぶとしても、それで良いです。それまでは一緒にいますから」
太陽が誰とは言わない。ルイスに安らぎを与えられる存在は他にもいるだろう。復讐を終えた時に彼が必要とするのが他の人間だとしても、クロエはそれを責めるつもりはない。
「私が傍にいる間は私が全力で幸せにしますし、そうじゃなかったとしても貴方は幸せにならなきゃいけないんです」
幸せになっても良いのだと、自分の胸にも言い聞かせる。
幸せが怖いという寂しい気持ちを思い出さないように、きつくきつく刻み込む。どちらともなく手を握りあって、想い人の顔を見つめる。
そうしている間に、暗い夜空に色とりどりの花が咲いた。
夜の色をした彼の瞳にもきらきらと光が映り込んでいる。クロエは目を離しがたかった。
「花火あがってますよ」
「……ああ。でももう少し」
クロエに絡み付く棘も、ルイスを突き刺した氷も簡単に消えるものではない。
自分を傷付け、時として相手も傷付けて。自分の弱さも、相手の弱さも、互いに理解していた。危うい関係だと、例えそれが互いにとって茨の道であるのだとしても、クロエは彼の傍にいたいと願った。
雪が止んで、雨が上がった。
芳しい花の咲く夏に、ただ恋をした。