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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
七章
173/208

閑話 Au Defaut du Silence 【4】

 テーシェルの水上花火を目前とした日の夕刻、クロエは喫茶店の片付けを手伝っていた。

 クロエはテラス席の椅子を店内に運び、エルフェはレジの前で売り上げの計算をしている。


「花火の日ってお店やるんですか?」

「無論だ」


 仕事人間らしい答えにクロエはいつもなら好感を抱くところだ。

 しかし、今回は事情が違う。


「少しだけ早く切り上げませんか? 折角のお祭りなんですから息抜きした方が良いと思います」

「息抜きか……」

「メルシエさんを呼んで、一緒に町を歩いたら楽しいですよ」


 ルイスを誘えるかと思い悩んでいたクロエは、自分のことが済んだら他人の節介を焼きたくなってしまった。

 クロエが期待を込めて見上げる前で、エルフェは淡々と答える。


「あいつにも仕事があるだろう」

「エルフェさんが誘えばメルシエさんもお店休みますよ」

「何故だ?」

「何故って……友達に誘われたら時間作りますよね?」

「わざわざ都合をつけて会うような付き合いはしてきていないな」


 もう先月になるがクロエとルイスの工作によってエルフェは、関係を拗らせていたメルシエと話す機会を得た。

 仲直りをした後もエルフェは奥手というか受動的というか相変わらず駄目だった。そんな煮え切らない様子を見ているとクロエは歯痒くてならない。

 エルフェも大人の男なら動いて欲しい。

 しかし、ここで動くようならクロエは口出しなどしていない。


(どうしよう、この人)


 世の中には肉を求めず、草ばかりを食べている男性がいるものだが、エルフェの女性の遠ざけ様は尋常ではない。草食ならぬ僧職、神を信仰する道に帰依しているのかと言いたくなる。

 女性からの恋文を断る気概があるなら、メルシエに一緒に暮らそうと言えば良いのだ。

 クロエはカウンターに乗り出すようにする。


「エルフェさんとメルシエさんって幼馴染なんですよね」

「そうだ」

「好きだからずっと友達でいるんですよね」

「嫌いならそもそも友とは呼ばないな」

「なら、どれくらい好きなんです? ワインくらいですか? それともショコラくらいですか?」

「……は?」


 エルフェはぽかんとする。

 彼にそれほどの顔をさせる質問だったらしい。クロエは臆さず畳み掛ける。


「メルシエさんのこと、ワインと同じくらい好きですか?」

「いや、待て。意味が分からん」

「ショコラくらいなんですか?」

「ディアナのようなことを言うな」

「じゃあ、その二つより好きなんです?」

「あいつは人間だ。それを食べ物と同じ次元で考えるのは可笑しいだろう」


 そのようなことは承知していた。

 この質問の主旨は、クロエが蜂蜜と桃ではルイスへの気持ちを言い表せなかったように、エルフェも何かに心付かないかということだ。

 クロエは、メルシエはエルフェのことが好きなのだと伝えてしまいたい。だけど、それは他人が言ってはいけないことだから遠回しに攻めている。


(エルフェさんはメルシエさんのことどう思っているんだろう)


 ヴィンセント曰く、男女の友情は有り得ない。クロエはあると思っているが自分が可笑しな方向に転がってしまったので、余計に分からなくなった。

 悩んだ末にクロエは思いをぶつけることにした。


「エルフェさん……。私、お義母さんが欲しいです!」

「ディアナがいるだろう」

「この家にお母さんが欲しいんです、メルシエさんみたいな美人で料理上手な……!」


 カウンターから更に身を乗り出し、にじり寄る。真剣なクロエの様子にエルフェは目をきょとんと丸く見開いたかと思えば、耐えきれないというように噴き出した。

 店に響く笑い声にクロエは呆気に取られる。


「あ……あの……そこまで笑うことですか……?」

「いや、悪い。お前が冗談を言うとは思わなかったのでな」


 一頻り笑ったエルフェはまだ笑いたそうにしている。

 本気です、とは流石に言えない。


「お前があいつを好いているのは分かった。来るように声を掛けてみよう」

「絶対ですよ」


 何やら意味が違うのだが、一応目的は達成されたようだ。

 エルフェがメルシエを呼ぶという既成事実さえあれば、あとは本人たちにどうにかしてもらうまでだ。

 クロエはずっと時が止まったままのような二人に進んで欲しかった。






 今日も一日の仕事を終えたクロエはカレンダーを眺めた。

 八月の三週目も後半に入り、花火の日は明後日だ。あと二度眠るだけの短い時間も、花火を見ると決めてから指折り数えていたのでとても長く感じてしまう。

 楽しみで眠れずに、当日に寝不足になったら子供のようだ。

 ハーブティーを淹れることを考えたクロエは部屋を出て階下に向かう。リビングに入ると、ルイスの姿があった。

 ソファに座っているルイスの膝上ではうさぎが寛いでいる。

 餌で釣らずともうさぎは彼の膝上が気に入ったらしい。あやされているうさぎはとても幸せそうだ。


(良いなあ……)


 羨ましい。膝に甘えて頭を撫でてもらえたらどれほど幸せだろう。もし自分がうさぎだったら、嫌われるとか、図々しいとか、そのようなことを恐れず好きなだけ甘えられる。

 うっかりそんなことを考えてしまったクロエは不埒な考えを追い出すべく首を横に振る。

 心の中の動揺をどうにか鎮めたクロエはルイスの膝元にしゃがみ込んでうさぎの顔を覗き込む。すると、うさぎはふいと顔を背けた。


「なんで……?」


 うさぎに拒絶を受け、ショックを受ける。

 ご飯をあげたり、家の中を散歩させたり、外で草を食べさせたり。クロエが一番構っているはずなのに、何故かうさぎはルイスやレヴェリーに懐いていた。

 うさぎはルイスの手に頭をぐいぐいと押し付けて、撫でることをせがんでいる。少しだけ焦らされた後に背中が撫でられるとうっとりとした。そのふにゃりとゆるんだ様は動物のものとは思えない満ち足りた表情だ。

 もしや、これは恋敵なのだろうか。


「クリームもルイスくんが好きなの?」


 蜂蜜色の毛並みのうさぎは我が物顔で寛ぎ、もっと撫でろと言わんばかりのポーズをしている。

 クロエが耳の付け根をぐりぐりと撫でると、心地好いらしく顎を鳴らした。


「膝枕してもらえるなんて幸せなんですからね」

「そんなにして欲しいなら僕が膝枕してあげようか」


 うさぎの額を擽りながら話し掛けると、返事があった。

 ヴィンセントが帰ってきていることを忘れていたクロエはぎくりとする。すっかり油断していた。

 傍にやってきたヴィンセントはクロエの頭をぐりぐりと撫でる。


「ちょ、ちょっと触らないで下さい!」

「女ってこうされるの好きじゃない?」

「好きじゃないですよ」


 ヴィンセントのように掻き混ぜてくるのは嫌だ。髪を乱されたクロエはむっとする。


「何その態度。可愛いげがないなあ」

「ヴィンセントさんに可愛くないと思われても何とも思いません」

「可愛くしたら花火に誘ってあげようと思ったのに」

「どうぞ好きな方と行かれて下さい」


 ヴィンセントが嫌がらせをしたいのは分かっているのでクロエは冷静だ。微笑みを浮かべる余裕さえある。

 どうせ後はシャワーを浴びて寝るだけだったのだから髪を乱されたのも痛くない。ポジティブに考え、クロエはまたうさぎの額を擽った。


「お前たち、まさか居候の分際で二人で行こうとかいうわけ?」

「悪いですか?」

「不毛な傷の舐め合いをしていて本当に莫迦らしくて可愛いと思うよ」


 クロエから望む反応を得られなかったヴィンセントの声は意地悪げだ。

 その声が冷たいだけならまだ良いが、嘲笑を含んでいるから性質が悪い。某医者とは別の意味で、人を怒らせる才能があるとクロエはつくづく思う。


「僕って功労者だよね。可哀想な一人ぼっちの子供にお友達を作らせてあげたんだから」


 クラインシュミット夫妻の命日に墓参りに付いて行ったことが友情の始まりだった。

 あの時、出会わなければ冬の公園で語り合うことはなく、自分と似た人だと感じることもなかっただろう。ヴィンセントが語るように、今のクロエがあるのは彼のお陰だ。


「ねえ、ルイスくん。お友達をくれてどうもってお礼言ってみる気ない?」

「大人げないことは止めて下さい、ヴィンセントさん」

「僕はルイスくんとお話ししているんだから、お前は黙ってなよ」


 子供の喧嘩でももっとまともなことを言うだろうということを言って喜んでいるヴィンセントは大人げない。

 ヴィンセントが現れてから黙っていたルイスはうさぎを撫でる手を止めた。


「貴方がこの人の父親だとしても礼は絶対に言いません」

「安心しなよ。絶対に違うから」

「……絶対になんて言い切れないようなことをしたから刺されたんだろ」

「それだけ愛されてるってことだよ」

「前向きですね」

「君みたいに後ろ向きで根暗だと人生がつまらないからね」


 クロエははらはらしているが、当人たちは淡々と嫌味の応酬をしている。


「自分が愛されていると疑わずにいられる秘訣を教えていただきたいくらいです」

「……ふうん、そう」


 慇懃な言い回しは嫌味とも取れるが、ルイスの目はヴィンセントもクロエも見ていなかった。

 うさぎは手に頻りに額を押し付けているので、ルイスはその背中を撫でた。

 興が削がれたのか、ヴィンセントはリビングから出ていった。クロエは話したいことがあったので彼を追って部屋を訪ねた。

 窓際の椅子に腰掛け、足を組んだヴィンセントは目を眇める。


「お前さ、僕の部屋に入って良いわけ?」

「私はこの家の子供ですから」

「そういう意味じゃなくてさ。お友達が妬くんじゃないの?」

「あの人はそこまで心は狭くありませんよ」


 ルイスがヴィンセントに関わるなというのは嫉妬ではなくクロエの安全を考えてだ。

 彼は他人に妬くほどクロエに入れ込んではいない。妬くのも不安になるのも、いつもこちらだけだ。胸がちりちりとするのを感じながら、クロエはヴィンセントに話し掛ける。


「ヴィンセントさん、明日は帰ってきます?」

「こないよ、面倒だし。お前も僕がいなくて清々してるんじゃないの」

「自覚あったんですか」

「殺されたいの?」

「冗談ですよ」

「そうかなあ」


 周囲に煙たがられている自覚があったとは驚きだとクロエが感心していると、ヴィンセントは笑いながら怖い顔をした。

 条件反射でドアの取っ手を掴んだクロエはゆっくりと手を下ろす。


「行き来が面倒だというのは分かりますけど……。ずっと帰ってこないと、ご飯ちゃんと食べているのかなとか心配になりますよ」

「うわ、また良い子ちゃんの台詞だ」

「茶化さないで下さい。私はディアナさんの為に貴方を更生させたいんですから」

「うるさいな。これだから帰ってきたくないんだよ」


 ヴィンセントはクロエを使ってディアナを誘き出す為にエルフェの元に身を寄せていた。それが達せられた今はここで暮らす理由はない。

 クロエもそのことは承知しているし、往復の手間暇――片道二時間だ――を考えるとあちらに泊まった方が良いというのは分かっている。ただ、心配なのだ。

 ルイスが己を蔑ろにして復讐をしようとしていたように、ディアナに執着するヴィンセントが寝食を疎かにしていないか気掛かりだった。


「というか、この方がまともだと思わない?」

「まともって何がです?」

「たまに会うだけなら僕もお前に苛つかされることが少ないし、多少はお前の話を聞いてあげようかって気分になれる。僕もお前もストレスが減って良いこと尽くしじゃない」

「私のこと丸め込もうとしていますよね……」


 さもクロエのことを慮っているような発言だが、そのまま流れでディアナと同棲に持ち込もうとしているように思えてならない。


「家族でもない他人が暮らしてるのって可笑しな話だと思うよ」

「私とレヴィくんとエルフェさんは家族です。ヴィンセントさんだって同じようなものですよ」

「じゃあ、ルイスくんは?」


 じとりと目を伏せたクロエに対し、ヴィンセントは痛いところを突く。


「確か二十歳までって条件付きで居候を許されたんだよね。エルフェさんはお人好しだし、レヴィくんの為に彼を置いているのかもしれないけど、あの存在は異質だよ」

「そんなこと……」

「クラインシュミットの遺子で、ヴァレンタインの養子の紫の君。おまけにアップルガース伯爵家の娘が産んだ子供とくる。お前が思う以上に彼は複雑な立場だよ」


 ルイスはそういうことをクロエに話さなかった。

 両親の思い出話はしてくれても、自分が現在置かれている状況については口を噤み、クロエが関わろうとすると遠ざけてしまう。

 ルイスがディアナの見舞いに付き合うように、クロエも彼の助けになりたかった。しかし、ルイスはクロエの部屋に踏み入らないように、そういうところは譲らない。自分の規定(ルール)を定めている。

 クロエにできることは、日常の羅列という穏やかな世界を守ることだけだった。


(いつかは出ていっちゃうんだよね)


 ヴィンセントが家を離れたように、ルイスも遠くない内にここを出ていくだろう。

 クロエはその時に自分がどうすれば良いのか分からない。

 引き留めれば良いのか、送り出せば良いのか、そもそも彼と自分がどうなっているのか何も分からない。


「自分が相手の傍に良いんだって自惚れられる秘訣は何ですか?」


 ルイスも言っていた、その答えがクロエも知りたくなった。


「相手を好きになることじゃないかな。相手の気持ちなんてどうでも良くなるくらい好きになれば、傍にいられるよ」

「それは一歩間違えると犯罪ですよ」

「じゃあ、自分が相手を幸せにするって覚悟を決めれば良いんじゃない?」

「済みません、ヴィンセントさんが言うと真実味がないです……」

「あはは、僕もそんなに自惚れている訳じゃないからね。ディアナが嫌がったら身を引くよ」


 横暴かつ自信過剰な言動が目立つヴィンセントは、ディアナに捨てられる可能性があることは理解しているのだ。

 儘ならない想いに振り回される仲間だと思ってしまったが、ヴィンセントはクロエよりも上手(うわて)だった。

 クロエは窓から秋の空を眺める。


「……ディアナさん起きれば良かったんですけどね」

「あいつは花火より食い物だよ」

「そうかもしれません」


 何だかんだで彼は彼女のことは理解している。それが意外なほど嬉しい。

 クロエはそこでやっと眦を下げた。

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