閑話 Au Defaut du Silence 【2】
「お勘定お願いします」
「すぐ伺います」
手を挙げる客の元に給仕の青年が急いで向かう。
アパルトマンを借りていることで何かと金が入り用なルイスは、最近エルフェの手伝いをしている。エルフェからすると片付け係がいるだけでも助かるようで、ルイスは低賃金ながらも真面目に働いていた。
無愛想なルイスは笑顔が重要な喫茶店の給仕として問題のはずだが、「レヴェリーくんの弟なのね、可愛い」などと女性客にはうっとりされているので、これはこれで良いのかもしれない。
とはいえ、本音を言えばクロエはあまり面白くはない。
勤務中にエルフェが常連客から手紙を渡されているのを何度か目にしているクロエは気が気でない。エルフェは丁重に手紙の受け取りを断るのだが、同じ状況に置かれたルイスがどうするのか分からない。
ルイスが嫉妬とは無縁の人物なのに、自分ばかりが思い悩んでいるというのは情けないとクロエは恥じる。
(そろそろ行かないと)
広場の時計は約束の時間の三十分前を示していた。
クロエは広場を抜け、湖へと繋がる坂道を下り始めた。
前々日、クロエ宛の手紙が届いた。
差出人の名の記されていない、薔薇のスタンプの押された赤い封蝋をクロエは迷わず切る。
薔薇はクラインシュミット家の紋章にも使われている花で、赤はヴァレンタイン家の色だ。どちらとも繋がる人物はルイスの他にもう一人存在する。
手紙の送り主と連絡を取ったクロエは今日こうして対面している。
「クロエ嬢、貴女は自分の立場を分かっておられますか?」
「レイヴンズクロフト家の養女で居候の立場です」
「そういうことを言っているのではありませんよ」
「じゃあ、エルフェさんの義娘で、貴方の姪です」
丸テーブルを挟んだ向かいには黒い背広姿の男がいた。
ファウストとしてではなく、飽くまでも小侯爵付きの従者として警告しているのだと言いたいのか、彼は黒髪で従者の装いをしている。
もう変装が趣味なのだな、とクロエは生暖かい気持ちで受け入れている。
人の趣味はそれぞれだ。他人をデコレーションするのは問題だが、己を飾り付けている分には物理的な害はない。序でに精神的な危害も加えてこなければ助かるのだが、高望みなのだろうか。
ファウストから話をしたいという連絡を受けたクロエは、以前エルフェに招待券を貰ったフルーツパーラーで会うことにした。
折角の人気店だ。本来なら、もっと楽しい気分で訪れたかった。
待ち時間が数時間という今流行りの店を、何故この人物ときているのかを考えると虚しくなる。
(こういうことってあんまり良くないと思うんだけど……)
クロエはファウストという人間が生理的に受け付けない。
ルイスに関する小言を言われるだけならまだ良い解釈をすることもできていたファウストのことも、エリーゼのことがあった今は庇いきれない。誰が誰を洗脳したのだと言いたい。
クロエがそんな人物との会談にフルーツバイキングの店を選んだのは、食べることに集中していれば脅しも聞き流せると考えたからだ。
プレートに取ってきたオレンジ色のメロンを食べるクロエに、ファウストは愛想笑いを向ける。
「良いですか、クロエ嬢。あの年頃の男は獣ですよ。愛しているだとか好きだとか言っても、それは表向きであって頭の中は性欲しかありません。貴女の心など本当の意味では見ていないのです」
「はあ……」
「貴女は手近にいる都合の良い存在というだけなのですよ」
ファウストはクロエが身を引かないので、年頃の男子の悪い点を上げて幻滅するように仕向けているつもりらしい。
「私、あの人に好きとも愛しているとも言われたことありません。ただの友達ですから」
「それはそれは……。そこまで対象外なのであれば、離れるべきではありませんか」
「どうして友達と一緒にいたら駄目なんです?」
クロエとルイスが傍にいる理由は簡単だ。あたたかくて心地好いから共にいる。
寒さに震えるうさぎが仲間にくっついているのと同じだ。ぬくもりを得ることで精一杯なのだから、それ以上を求めることはない。
ファウストが何を想像しエリーゼに何を吹き込んだかは知らないが妄想が行き過ぎている。
「レヴィくんだって沢山お友達いるのに、ルイスくんに友達付き合いをするなというのは可笑しいですよ」
「話を飛躍させないで下さい。貴女が悪い友人だから、私はこうして忠告しているのです」
「私は……あの人に可笑しなことをさせるつもりはないですし、嫌なことを押し付けたりもしません。普通の生活をして笑っていて欲しいだけです」
「貴女の言う【普通】とは、ただ平穏を享受することでしょう。それはあの方の幸福ではありません」
ファウストはルイスの救済を仇討ちと信じて疑わない。
復讐という望みは、ルイスが両親を大切に思っているということが大きいだろう。だが、このような思想を持った者が傍にいては少なからず影響を受けたはずだ。
クロエはメロンを切り分けていた手を止め、ナイフを皿に置いた。
「この際だからはっきり言いますけど、そんなに復讐させたいなら先生が代わりにすれば良いんですよ。そうすればルイスくんの望みも先生の望みも叶って、皆幸せになれるじゃないですか」
「恐ろしいことを仰るのですね。私は貴女がそのようなことを口にするとは思いもしませんでした」
「皆に良い顔をするようじゃ駄目だって、先生が言ったんですよ……」
ルイスを救いたいのなら、とことん彼の側へ堕ちてみろと言ったのはファウストだ。
今、クロエの中の神様は傾いている。誰からも嫌われないような綺麗事は吐けない。
ルイスは公平であろうとするクロエを認めるだろうが、きっと何処かで壁を作る。クロエはそのことに知っているから、苦しくても不公平になる。
大切な彼に幸せになってもらいたいから、他の人間を傷付ける。例えば彼の妹のように。
「貴女は私に罪人になれと言っているのですか。自らの欲望の為なら、その他はどうでも良いと?」
「手を汚さないことに越したことはないですもん……」
「仇討ちは自分でしてこそではありませんか」
「仇討ちが本当にしたいことなら仕方ないことだと思います。でも、心の中に少しでも躊躇う気持ちがあるなら、手を下した後に苦しみます。これからルイスくんは生きて、それこそ亡くなったご両親の分まで幸せになるんです。そこにそんな苦しさが付き纏うなんて駄目ですよ。私は、嫌なんです」
「その躊躇いは貴女方が夢を見させるから生じたものです」
「違います。ルイスくんはずっと前から後悔して、自分を追い込んでいて……。先生だって、復讐なんて止めれば良いって言ってたじゃないですか」
クロエはルイスが手を汚してはいけないと思っている。
本来ならば法の裁きによって下されるべき罰を、遺族の彼が与えなければならないというのは可笑しい。
最もやりたいことで、やりたくないこと。
ルイスは敵を皆殺しにすることをそういう夢だと語った。だからこそ、クロエは強く感じた。
「恥を忍んで言います。先生があの人の為に何かをしたいなら、犯人を捕まえて二度と表に出さないで下さい。法の裁きが無理だというなら、貴方がどうにかして下さい」
「……それができたらどれだけ楽でしょうね」
そう独り言のように言ったファウストの目はクロエを見ていなかった。
クロエは息苦しさと喉の渇きを感じて炭酸水を一口飲む。
ホールは食事を楽しむ客たちの賑やかな声が溢れているというのに、この席だけ切り取られたようだ。
だが、言うことを言って多少は気も晴れた。
小さく深呼吸をして気持ちを切り替えたクロエは、義親の兄へ話し掛ける。
「折角のバイキングなのに食べないんですか?」
「貴女は私がこのような女性しかいない場所に連れてこられて楽しいと思いますか」
「心の保養になりません? 男の人はそういう生き物だってさっき言いましたよね」
「はははっ、年寄りに何を下らないことを言っているのですか」
「そんなに年取っているようには見えませんよ」
「貴女のお母様と同年代ですよ。もう脱け殻のようなものです」
好色貴族という猫被りをもうするつもりがないファウストは明るく笑った。
こうして話している分には気さくな良い人なのにルイスが絡むとこの人物は可笑しくなる。
偽りではない明るい笑顔を見ていると、クロエは余計にこの人物のことが分からなくなる。
(エレンさんのことだって隠していたみたいだし)
また疑心暗鬼に囚われそうになったクロエはそんな自分を叱り、席から腰を上げた。
「取りにいくのが恥ずかしいなら、私が取ってきます。待っていて下さい」
「いえ、そういう話ではないのですが……」
「美味しそうなもの選んできますから」
このまま暗い気分で別れるというのも嫌なので、ファウストにもフルーツバイキングを楽しんでもらうことにする。
クロエはプレートに旬のフルーツを取っていく。
マンゴー、ライチ、パイナップル、ドラゴンフルーツ。トロピカルフルーツの甘い香りには気分も華やぐ。スイカのジュースに惹かれたクロエがドリンクコーナーに向かおうとすると、声を掛けてくる人物がいた。
「あらぁ、こんなところで会うなんて奇遇ですわ」
「あれ、メフィストさん」
銀色の髪を品良く纏め、外出用の青いドレスを纏った淑女は目を細めて笑う。
「ごきげんよう。マドモワゼルはお一人かしら?」
「知り合いときています。メフィストさんもですか?」
「いいえ、一人よ。フランツったらスイーツバイキングに付き合うのは恥ずかしいと言って付き合ってくれないんですもの。私は一人で列待ちをしてくたくた」
残暑の陽が降り注ぐ中、三時間も待ったというメフィストは悩ましげに柳眉を曲げる。
メフィストは行動的なのだ。貴族なのに使用人も息子も連れずに自ら長い列に並んでしまうようなところが気取らなくて、クロエは彼女に好感を持っている。
「あの……、良かったら一緒に食べませんか?」
「まあ、宜しいんですの? だったら店の者に言って席を移動しますわ」
「窓際の席ですから、すぐ分かると思います」
食事は大勢でした方が楽しいという理由でクロエはメフィストを誘った。
そうして、フルーツを綺麗に盛ったプレートを手にやってきたメフィストは、クロエの向かいに座る人物の姿に目を見張った。
「あらあら、殿方と逢い引きだなんてマドモワゼルは見掛けによらず遣り手ですのね」
「え……あの、これはその」
「大丈夫。私、こう見えても口は固いんですの。安心して良くってよ」
女同士の秘密話を楽しむようにうっとりと笑ったメフィストは、相席の有無を訊ねる。
「ご一緒しても宜しいかしら?」
(そ、そういえば……!)
ファウストにとってメフィストは同腹の姉ではないか。
変装をしているからつい失念していた。今になってそのことに気付いたクロエは背筋が冷たい。
クロエはちら、と窺う。ファウストは微笑んでいる。彼は完璧にジルベールという人物を演じるつもりだ。
「ええ、構いませんよ」
「では遠慮なく」
優雅に席についたメフィストはテーブルナプキンを膝の上に掛ける。
クロエはこのまま穏やかに食事の時間が過ぎることを期待した。
「ご挨拶が遅れました。お初に御目に掛かります、私は――」
「お初に……? 久しくご挨拶もせず恐縮しております麗しのお姉様でしょう、ファウスト?」
その台詞にこの席の周辺の空気が凍り付いた。
クロエは思わずしゃっくりのような息をする。
メフィストはエルフェに向けたことのない、まるで汚物でも眺めるような目で弟を睨む。
「人違いをなさっていませんか、マダム」
「はあ? あなた、莫迦じゃなくて? 眉も睫毛も染めてきちんとお化粧しているつもりかもしれないけれど、他は? 髭、鼻毛、腕毛、その他諸々はどうなっているの? 立ち振舞いを繕っても、そういうところで手を抜くからお里が知れるのだわ」
確かにそうだが、そこまで拘るというのも酷な気がしてクロエは半笑いになる。すると睨まれた。
色々な意味でファウストが恐ろしくてクロエは狼狽える。
メフィストは手に取ったフォークでライチを掬った。
「従僕みたいな格好をして若い子とお喋りに洒落込んでいるなんて、相変わらず気持ち悪い子ね。私、情けなくてお母様の墓前にどんな顔をして立てば良いのか分からないわ」
「墓そのものに入れられたくないなら黙って頂けませんかねえ。折角の休みに可愛い女の子とお茶をしているというのに、喧しくされては台無しですよ。クロエ嬢、この無礼な人は何なのですか」
「……はあ……」
ファウストはメフィストの弟であることを認めない。
それにしても一目で見破るとは凄い、とクロエは内心感心する。
ルイスでさえも二年間騙され、エルフェも気付いていないというのに、メフィストは一言口を利いただけで正体を見破った。やはり母親が同じだと違うのか、それとも女の勘というものなのだろうか。
クロエがそんなことを考えていると、ファウストは幾分か疲れた声で言った。
「話を戻しましょうか」
「いえ、先生。メフィストさんがいるところでする話では……」
「構いませんよ。他人に聞かれて困るような疚しい話ではありませんからね」
ファウストにとってはルイスを復讐に導くことが正義だ。
クロエが構える横で、メフィストは素知らぬ顔でライチを食している。
「今思ったのですが、貴女のその青い瞳はエレン様に似ているかもしれません」
「……何を、言いたいんですか?」
「あの方にとって貴女は母親代わりなのかもしれませんよ。だとしたらとても哀れで……早く終わらせることが互いの為だと思うのです」
「言うに事欠いて何を言うんですか!」
「おや、初めて声を荒げましたね。心当たりがあるのですか?」
「違います。先生に苛ついたんです」
「貴女が怒るのは、その問題が貴女にとって大切なことだという証ですよ。実は心当たりがあり過ぎて不安なのでしょう?」
「あ……貴方に私とルイスくんのことは分からないじゃないですかっ」
ルイスにとってクロエはとても年上だ。エレン・ルイーズとクロエが三歳しか離れていないということを考えると分り易い。
だが、十年眠っていたクロエの精神は幼いままだし、外法の血の影響で外見も二十歳ほどだ。ルイスがそれに触れることはないが、心の中では年長者に好かれてどう感じているのかは分からない。
意識的に忘れていた年齢差を持ち出され、母親代わりという罵倒にはクロエはかちんときた。
【灰被り猫】の策に嵌まり、心を乱されたクロエは冷静な思考ができない。完全に掌の上だ。
ふと、メフィストが笑い声を上げた。
「あなた、そんなにあの坊やが大切なのね。その言い方はまるで嫉妬に狂った女のようだわ」
二人の会話を黙って聞いていたメフィストは紫の紅を引いた唇を弧の形に曲げる。
クロエを助けたというよりは、ファウストを叩きのめしたいという感情がそこにはあった。
「見ず知らずの者に侮辱を受けるとは思いませんでした。ああ、気分が悪いですよ。クロエ嬢、別の場所で仕切り直しませんか」
「あらぁ、先にこの子を侮辱をしたのはあなたじゃない」
「部外者は口を挟まないで頂きたい」
「部外者だから言わせてもらうわ。年寄りは潔く引きなさい。それともあなたの大事な大事な小侯爵、私が貰ってしまっても良いのかしら?」
今まで余裕を崩さず、外野に取り合おうとしなかったファウストの顔色が変わった。
メフィストは悪魔のような微笑を浮かべ、芝居掛かった口調で語り出す。
「私、三年前に夫を亡くしていますの。これまで一人であの人を想ってばかりきたけれど、そろそろ慰めてくれる相手が欲しいわあ」
「伴侶の死後に若い愛人を求めるなんて流石はドレヴェスの貴族様は違いますね」
「夫は自分のことを忘れて幸せに生きろと言ってらしたわ。私は夫の為に面白可笑しく生きますの」
「私の主人は貴女のような年増に靡くほど趣味は悪くありません」
「やさしーく手解きして、大人の階段を上らせてあげますわあ。ホテルに戻ったら早速お誘いの手紙を書きましょう」
「貴女の魔の手が伸びる前にヴァレンタインの家に連れ戻すまでです」
「だ、駄目です! ルイスくんはルイスくんのものです! 貴方たちには絶対あげませんから!!」
姉兄の陰険なやり取りを聞いていられず、クロエはそう宣言していた。
ファウストにもメフィストにも渡すものか。彼は彼自身のものであって、例え兄のレヴェリーでも彼の自由を奪うことをしてはならない。彼の自由と尊厳を守る為なら、クロエは悪女になる。
その想いは可笑しな形で伝わることになる。
「可愛いマドモワゼル。そこは形だけでも【私のもの】というべきですわよ……」
「頭が痛くなってきましたね」
「そ、それは……」
私のものと言い切るほど、クロエは自信がなかった。
必死すぎる訴えに白けた姉弟は黙り込み、フルーツを食べることに専念した。