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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
七章
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閑話 Au Defaut du Silence 【1】

Au Defaut du Silence / 沈黙の代わりに

 七月は去り、八月に入る。

 小鳥たちの囀りで目覚め、窓を開ければ朝霧によって匂い立つ花の香りに肌を擽られる。そんな生活も三月が過ぎ、もう八月も半ばだ。新生活の春は慌ただしく去り、夏の暑さも峠を越えて一日毎に涼しくなってきている。

 雨も雪も降らない、からりと晴れた毎日は穏やかだ。

 半月前に怪我をしたレヴェリーも日常生活に戻っていて、怠けようとする度にルイスに叱られる有り様だ。

 何もない穏やかな日々で変わったことがあるとすれば、ヴィンセントが家にいないということか。

 ディアナが収容される施設に入り浸っているヴィンセントは数日に一度、着替えを取りにくるだけでちっとも帰ってこない。

 クロエは見舞いに行く度に連れ戻そうとしているのだが、あれは梃子でも動かない様子だ。

 寝食等の生理的な欲求が許す限り、ヴィンセントはディアナに寄り添っている。見舞いに通うクロエやアンジェリカからすると、彼は目の上のたん瘤のようなものだ。けれど、傍にいたいという彼を無理に彼女から引き離すこともできずに半月が過ぎてしまった。

 ヴィンセントの勝手を許すのは、クロエの心境の変化があったからかもしれない。

 昼が過ぎ、クロエが自室で言語教室で習ったことの復習をしていると、玄関のチャイムが鳴った。

 訪問者は大抵店の方へ行くので、玄関にくるのは珍しい。クロエは急いで玄関ホールに向かった。

 階段の正面にある玄関扉を開けると、そこには三人の少年が立っていた。


「どもー」


 年齢は十代後半で、背格好もばらばらの彼等は見知らぬ人物だ。

 誰だろうと内心首を傾げていると、三人の内の一人がぐいりとクロエの顔を覗き込んだ。


「うわあ、ほんとに碧眼じゃん。かわいー」

「え……あの……」


 これは新手の押し売りだろうか。褒めて煽てて高額商品を売り付ける魂胆ならクロエは引っ掛からない。

 長身の男性が苦手なクロエは色々な意味で警戒し、怯える。


「はー……、困ってるところもかわいー」

「変態かよ。お前、こいつのこと押さえとけよ」

「めんどくさい。ティメオがやりなよ」

「お姉さん、好みのタイプは?」


 長身の少年の背後で残る二人がぼそぼそと会話をする。

 押し売りや変質者なら追い返すところだが、まだ正体が分からない。何より複数の男を同時に捌くスキルがないクロエは狼狽える。


(し、しっかりしなきゃ)


 流されずに用件を訊くべきだ。それがレイヴンズクロフト家の養女で、家計を預かる主婦としての責務だ。

 クロエが己を奮い立たせようとしていると、ルイスが二階から下りてきた。


「もうきたのか」

「ルイスくん! この方たち知っているんですか?」

「レヴィの友達だよ」


 長身で軟派なのがヴァン、中背で真面目なのがティメオ、小柄で面倒臭がりなのがリオンという名前らしい。

 ルイスが説明すると、彼等は小さく会釈をする。怯えていたクロエもやっと落ち着くことができた。


「――で、お前の兄貴の調子どうなの? あいつから怪我した以外のこと聞いてないんだよ」

「通り魔に軽く切られただけだから命に問題はないよ」

「レヴィみたいなお金持ってなさそうな奴を襲う通り魔っているんだ……」

「これで捕まったら襲い損っしょー」


 纏め役でもあるティメオが訊ね、ルイスの答えを聞いたリオンとヴァンは茶化した。

 少年たちはレヴェリーの無事を知って笑みを見せた。事情を知るクロエとルイスは笑わない。


「レヴィの部屋に案内するよ」

「お姉さん、またねー」

「いい加減にしろよ、みっともない」


 ルイスは玄関ホールの近くにあるレヴェリーの部屋をノックすると少年たちを置いて、戻ってきた。


「驚かせたようでごめん。キミには伝えておくべきだった」

「いえ……、それは大丈夫なんですけど」


 レヴェリーの友人が訪ねてくることを伝え忘れていたルイスは謝ったが、クロエが他人の交友関係に干渉しないのはいつものことなので仕様がないことだ。


「……それは? 何かされたのか?」

「何もされてないです。個性的だなってちょっと思ったんです」

「類を以て集まると言うから」

「似た者同士なんですね」

「酒の代わりにケーキを食べながら話していそうな奴等だよ」


 ルイスはレヴェリーの友人である少年たちのことをある程度は知っているようだ。兄の交友関係に興味がなさそうだった以前と比べると、大きな進歩だろう。


「お茶出してきますね」


 ルイスを部屋に戻したクロエはキッチンで冷たい飲み物と茶菓子の用意をした。

 茶を乗せたトレイを持って廊下に出ると、部屋の外まで賑やかな声が漏れ出ている。

 クロエは扉の外から声を掛けた。


「レヴィくん、お茶持ってきたよ」

「サンキュー」


 許可が出たので扉を開ける。少年たちは人数分の椅子がないので床に直接座っていた。

 クロエは空いている机の上にトレイを置く。


「あー、どうも」

「済みません。ご馳走なります」


 リオンとティメオが礼を言う。

 レヴェリーの友人が家に遊びにくるということは初めてだ。かつてレヴェリーの素行に頭を抱えていたというエルフェもこれなら安心だろう。レヴェリーの幸せを願っているメルシエも喜ぶに違いない。

 クロエが感心していると、空気を読まない一人が声を上げる。


「僕たちー、レヴィくんと花火見に行くんですけど、お姉さんも一緒に行かない? 男ばっかでむさ苦しいんだよねー」

「節操ないのな」

「お前だってむさいのやだろー」

「クロエ、断って良いぞ。こいつ莫迦だから」

「へー、クロエお姉さんって言うんだ。名前もかわいー」

「女なら誰でも良いんだよ、こいつ」


 ヴァンはレヴェリーの姉に興味津々だ。レヴェリーは関わらないことを勧めるのでクロエは苦笑いだ。


「レヴィくんはそんなんだから彼女いないんだよ」

「言えてる……」

「うっせえ!」


 仲良さそうにどつき合っているので、クロエは眩しく感じてしまう。

 友人といる時のレヴェリーはルイスやフランツといる時とは少しだけ雰囲気が違う。

 遠慮がないのは変わらないのだが、身内に対する容赦のようなものが存在しない。より対等な関係といって良いだろう。

 レヴェリーはクロエの知らない間に新たな居場所を作っていたようだ。


(ルイスくんは寂しがるんじゃないかな)


 レヴェリーは外に働きに出ているのだから徐々にこういうことは増えていくのだろう。

 ルイスから歩み寄りを見せ始めた時に限ってこうなのだから、レヴェリーは罪作りだ。

 兄が距離を詰めようとすると弟は逃げ、弟が近付こうとすると兄は遠ざかる。双子はつくづく噛み合っていなかった。


「ねーねー、クロエお姉さん。レヴィくんはほっといて僕たちと行きましょうよー」

「あの……私、花火は一緒に見たい人がいるの。誘ってくれてありがとね」


 また遊びにきてね、と言い残してクロエは部屋から出た。

 扉が閉じられた瞬間、部屋の中に静寂が広がった。


「うわあああ……振られたああああ……」

「ざまーみろ」


 女友達がいないことをからかわれたレヴェリーは胸が空いたと言わんばかりだ。


「もしかして一緒に見たい奴ってお前の親父?」

「銀髪で仕事ばりばりですって感じの? 僕ってあれに負けたの?」

「いや、そっちはないわ。つーかお前に敵う要素ねーよ」

「金髪の方じゃないの……?」

「あー……」


 少年たちはレイヴンズクロフト家の複雑な家庭事情を面白がってクロエの意中の相手を想像するが、銀髪と金髪の男の厄介さを知っているレヴェリーは半笑いになるしかない。

 エルフェには解決しなければならない女性問題があるし、ヴィンセントに至ってはクロエの母親に想いを寄せている。当のクロエも大人たちには全く興味がない。


「ところで、弟は花火行くのか?」

「さあなー」


 生真面目にルイスを誘おうとするティメオを、レヴェリーは笑いながらはぐらかした。






 夕刻になるとクロエはいつものように買い物に出掛けた。

 今日の目的地は青空市場だ。

 早くも秋の食材が並び始めた商店で野菜と果物を選ぶ。手に下げた籠からは、本日の無駄遣いである熟れた桃の香りが漂ってくる。

 桃が好物のクロエは甘い香りに釣られ、店主に勧められるままに買ってしまった。桃は香りと味が比例しないことを購入してから思い出したので、渋くないことを祈るばかりだ。

 もし渋かったら蜂蜜漬けにしようと幸せなことを考えながらクロエは帰路につく。

 湖沿いの道をのんびりと歩くと風が心地良い。

 石畳を行く人の喧騒に溢れた首都と比べて、この辺りは本当に静かだ。

 もう三月が経つのだとしみじみ考えながら歩くクロエは、ふと足を止めた。

 桟橋が架かる船着き場には看板が立っている。内容はテーシェルの水上花火の告知だ。


「ルイスくん、一緒に見てくれるかな」


 勇気が持てず、まだ切り出せていないクロエだった。

 レヴェリーの友人たちの話でそろそろ誘わなければならないということを思い出したクロエは、内心落ち着かない気分だ。

 夏の林檎の森にて、クロエは恥を忍んで想いをぶつけた。

 クロエ自身は結構凄いことを伝えてしまったと思っているが、ルイスはまるで動じていない。

 砂糖と同じという誤解を解いたにも関わらず、ルイスは拒まない代わりに喜びもしない。家族のような共同生活をしている所為で却って変化がないというのだろうか。

 勿論、全く何もないという訳ではないのだけれども。

 こういう時は自分から積極的にいくべきなのだろうかと生来から奥手のクロエは悩んでいる。


(誘っても大丈夫、かな……)


 エリーゼとあのようなことがあって不謹慎だと分かっていた。

 傍にいる許可が下りたことを幸いとばかりに甘えられないのはクロエの性格もあるが、やはりあのことが関係している。

 エリーゼの涙の影に自分の今の幸せがあるのだという事実が苦しい。


『エリーゼのことは気にしなくて良いから』

『……私……エリーゼちゃんに酷いこと言って……』

『オレは好きでキミの母親のことに干渉しているけど、キミはそうじゃないだろ』


 しばしばエリーゼの言葉に苛まれて不安になるクロエに、ルイスはそう言った。

 ディアナの見舞いに付き合うという、ルイス自身の為なのかクロエの為なのか分からない望みを聞き入れながら、クロエはこれまでの人生で経験したことのない痛みを味わっている。

 けれど、クロエはルイスと花火が見たい。

 クロエにとって最も美しいものは林檎の森だった。青空に燦々と輝く太陽と、花に埋もれた大地。あれに勝る美しいものはないとずっと思っていた。

 そう、過去形だ。過去形になってしまった。

 クロエにとってルイスは花よりも太陽よりも眩しい存在だ。

 ディアナの傍にいようとするヴィンセントを連れ戻せないのは、自分も同類だと思ってしまったからだ。


「誘ってみよう」


 これは自分の選んだ道だ。強くなると決めたのだから、うつむいていてはいけない。

 クロエは顔を上げて、またゆっくりと夕暮れの道を歩き始めた。

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