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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
二章
17/208

お菓子の家の甘い罠 【7】

 普段は使われていない二階の一間が琥珀色に満たされている。

 ランプシェード越しの光は部屋を明るく照らす。寝台に横になった人物はその光を煩わしいと言いたげに顔を背けているので、クロエは照明をベッドサイドから部屋の隅へと移動した。

 ちく、ちく……と時計の針が時を刻む音が響いている。羅針盤を見ると時刻は午前二時だ。

 クロエは窓の前に立ち、訊ねる。


「本当に寒くないですか? 寒いなら閉めますよ」

「……涼しくて良い。そのままにしておいてくれ」


 本気で言っているのか天の邪鬼で言っているのか分からない。反抗期の弟を相手にしている感覚で、仕方ないと納得したクロエはまた席に戻った。

 あの後、帰還した一同を出迎えたのはジルベール・ブラッドレーだった。

 目を覚ましたルイスは発作を起こした。それは見ているこちらの胸が潰れてしまうような酷い咳だ。そんな身で戦っていたこともだが、敵の手は借りまいというように差し出された手を拒む姿も痛々しかった。

 従者で主治医でもあるジルベールによって、注射器で数度に渡ってステロイド剤を投与され、やっと落ち着いたところだ。

 発作は風邪と極度のストレスによるもので一晩安静にすれば大事ない。ジルベールはそう診断した。

 風邪を移してしまったのは自分だという後ろめたさのあるクロエは看病を引き受けた。


「どうしてあいつを庇ったんだ……?」


 一度眠り、また目覚めたルイスは得物を手に立ち回っていたことが想像できないほど落ち着いていた。

 淡々として、無愛想で、ぎこちない口調だからこそ刺々しさを感じてしまう。それはクロエの知るいつものルイスだった。

 けれど、元々憂いの色が濃く滲んでいた瞳は益々その深みを増し、人をぞっとさせるような色を持つようになった。

 クロエを見上げたのは、星も月もない夜空のような眼差し。


「もしローゼンハインさんを撃ったとしたら、ヴァレンタインさんはもっと傷付きます」

「オレは平気だよ」

「【平気】でも【大丈夫】じゃないです」


 復讐だけを支えにして生きてきた人間がそれを成し遂げた後、生きる気力を持てるだろうか。その目的の為に動いていたと言っても過言ではない心臓が機能するだろうか。

 クロエにはルイスは目的を達した後、もう一度拳銃を使うように思えた。

 ルイスが銃を手に取ったのは復讐の為だ。復讐相手がいないのだと――今までしてきたことが全て無駄だったと知った彼は、自暴自棄になっていた。


「オレは死んでも良かった」


 そうすればエリーゼが家を継げたのに余計なことをする。

 ルイスは自分の命を奪わなかったヴィンセントと、自分の命を繋いだジルベールへ向けて毒吐いた。

 レヴェリーがいたら激昂しかねない言葉を聞いてクロエが思い出したのは、エリーゼのことだった。


『わたしがいなくなれば……お兄様は笑ってくれるの……』


 兄は妹に家を継がせる為に死を望み、妹もまた兄の為に自分が消えることを望んだ。

 ルイスとエリーゼは互いの幸せを願っているのに、それ故に擦れ違っている。


「エリーゼちゃんはヴァレンタインさんがいなくなることなんて望んでいません」

「他人のキミに何が分かるというんだ」

「エリーゼちゃんは、自分がいなければヴァレンタインさんが笑ってくれるって……何も気に病むことなく家を継げるって言ったんです」


 勝手に伝えて良いことではないかもしれない。けれど、ジルベールは間違えてもルイスには言わないだろう。そうなるとエリーゼの想いはずっと知られないままだ。

 口に出さなければ伝わらないことはある。

 想いを胸に秘めたまま、互いを理解し合えずにクロエは継母と決裂した。

 あの時、もし自分の想いを伝えられていたら今とはまた違ったかもしれない。そんな後悔があるクロエは、ルイスとエリーゼがこのまま拗れていくのを放っておけない。それが【自分】の在り方を歪めることだとしても。


「それはつまりエリーゼちゃんが貴方と同じ考えを持っているということじゃないでしょうか」


 自己犠牲によって他の存在を救うことは尊い。それ以上の愛はないのだと聖書では語られている。そんな家族が擦れ違っているのはとても悲しいことだ。


「違う。多分それは哀れみだ」

「哀れみ?」

「下賤育ちの卑しいオレを哀れんでいる。ヴァレンタインの夫妻だってそうだ。キミだって親に捨てられたというなら分かるだろ? 他人から受ける同情なんて御免だと」

「そうですね……」


 けれど、クロエに施設の先生はこう説いた。


「同情は本当にいけないことか。同情の本来の意味は同じ気持ちになるということ。同じ気持ちになって、同じ痛みを感じるということ。……ジョゼット先生(ママン・ジョゼット)は私にそう言いました」

「キミは【アルカンジュ】のジョゼットを知っているのか?」

「ヴァレンタインさんは自分が思うよりずっと皆から想われています」


 クロエはルイスの質問に答えなかった。

 例え同情だとしても【情】だ。そうやって気に掛けて貰えているということは即ち他人から想われていること。ルイスが気付いていないだけで、彼は孤独という訳ではないのだ。


「そんなこと、他人に言われたって説得力がない」


 不機嫌そのものの顰め面でそう言うと、ルイスはごろりと身体の向きを変えた。

 肩から落ちてしまった毛布を掛け直してやりながら、レヴェリーがお兄さん面をしたくなるのも分かるなとクロエは密かに思った。


「他人の癖に説教するし、他人の為に徹夜で看病しようとしたりもする。キミは変だ。訳が分からない」

「……他人でも、友達です。友達が困っていたら口も出したくなります」


 暫し躊躇(ためら)った後、クロエは腹を決めて言う。


「友達? オレはキミと友達になった覚えはない」


 ルイスは酷いことを言っている自覚はあるのだろうか。しかし、めげることはせず、クロエはきっぱりと言い切った。


「一緒に犬の飼い主さんを探した時点で友達です。そ、それに、エリーゼちゃんに言っちゃいましたから!」

「は……?」


 犬の飼い主を探した程度で友情が芽生えるとは両者共に思っていなかった訳だが、あれから付き合いが始まったのだから切欠であることは確かだ。


「兄姉は弟妹の手本になるようにしなければ駄目です。だから、嘘もついては駄目です」


 今更友達ではないと言えないということをクロエは伝えたかった。

 要領をいまいち得ない言い方に、下手に賢いルイスは余計に訳が分からなくなったという顔をした。

 挫けてなるものかと己を叱咤するクロエの様子に、然しものルイスも切り返す気力を削がれてしまったのか、短く溜め息をつき、そしてただ一言ぽつりと零した。


「オレと友達になるなんて……クロエさんは奇特だね……」


 初めて名を呼んでもらえたことに驚きながらも、クロエはしっかり訂正を入れる。


「奇特じゃないです」

「いや、奇特だよ。真冬の公園で風に(なぶ)られる趣味も持っているようだし」

「真冬に窓を開けて眠ろうとするルイスくんに比べたら私は普通です」


 友達ということ、そして彼が気にしているヴァレンタインの養子という立場を刺激しない為にも、クロエはルイスを名前で呼ぶことにした。


「涼しいから開けているだけだ」

「これは涼しいのではなく、寒いというんです!」


 部屋の中だというのに白い息が出るこの冷え具合は明らかに可笑しい。こんなことをしているから風邪を引いたのではないかとクロエは胡乱な気持ちになる。

 誤解がないように言っておくが、北風に嬲られて楽しむような趣味はない。あれはただ冬の澄んだ空を眺めていただけだ。平凡を愛するクロエにとって変人扱いされることは堪えられないことだった。

 素直ではないルイスの様子に苛立ったクロエはぴしゃりと窓を閉めた。そして埒の明かない会話に終止符を打ち、訊ねる。


「お好きな飲み物は何ですか?」

「突然何なんだ?」

「何が好きですか?」

「……ストロングティーにジャムを落としたものだけど」

「では、お持ちします。それまでお休みになっていて下さい」


 ルイスを刺激しないように好きにさせていたが、これでは良くなるものも良くならない。

 残念ながらこの家の二階には暖房がない。そうなると手っ取り早く暖を取るには温かい飲み物を飲むのが一番だ。それに好きなものを腹に収めて気持ちが落ち着けば、眠ってくれるかもしれない。

 本調子ではないだろうに、看病するクロエを気にしてルイスは瞼を閉じようとしなかったのだ。

 また窓を開けたりしないで下さいよ、と念を押すとクロエは部屋を出た。






 もう午前二時を過ぎている。物音を立てて皆を起こしてしまったら大変だ。

 最小限の明かりと足音でクロエはキッチンを歩き回っていた。

 来客用のティーカップを探しているのだが、正直どれが使って良いものか分からない。

 エルフェが趣味で収集しているカップは、高いものでは一般市民の半年分の生活費に相当する。当然それは鑑賞用の品であって、食器として使おうものなら大変なことになるだろう。

 ケトルの湯が沸いた音を聞きながらクロエは食器棚を漁る。すると、部屋の明かりが点った。


家捜(やさが)しでもしてるの、メイフィールドさん。泥棒みたいだよ」

「お客さん用のカップを探しているんです」


 からかいを含んだヴィンセントの問いに、クロエは飽くまでも真面目に答える。


「それならこの棚。これを使いなよ」

「あ……はい、有難う御座います」

「紅茶を淹れるなら僕にも頂戴」


 プラムの絵が描かれた高級感のあるカップとソーサーを受け取りながら、クロエはまじまじと相手を見返した。

 普段一つ結びにしているヴィンセントが髪を解いているのも珍しいのだが、こんな時間に起こされて不機嫌になっていないのも珍しい。


「皆起きてるよ」


 クロエが気まずそうに見上げていると、ヴィンセントは決まり悪そうに肩を竦めた。


「え……、そうなんですか?」

「昨日の今日で眠れません。なに、君には僕たちがそんなに図太い神経をしているように見えるの?」

「そういう訳ではないんですけど、ちょっとだけ意外です」


 ヴィンセントにもそのような人間らしい部分があるのか。クロエは俄かに衝撃を受け、感動すらした。

 けれども。


「戦った後ってどうにも落ち付かないしね。もっと斬り合いをしたくて正直眠ってるどころじゃないよ」


 どうやら感動したのは間違いだったらしい。


「それは神経細いとかではなくて、ただ単に喧嘩好きの類というかそんな感じですよね?」

「うん。だから?」

「否定しないんですね……」


 クロエはげんなりとした気持ちで洗ったばかりのカップに湯を注いだ。そうしてカップを温める間に、茶葉を入れたティーポットにも湯を注ぎ、じっくりと蒸らした。


「このジャムとキャラメルは?」


 茶葉が熱湯によってしっかり開くのを待つ間、ヴィンセントはふと目に留まったものについて訊ねてきた。


「ルイスくんが紅茶に落とすのが好きだと言ったので」

「ストロベリー・キャラメルとかってレヴィくんと味覚は同じか」

「そういえば、そうですね」

「精神だけでなく、味覚もお子様ってどうなんだろうね」


 レヴェリーもストロベリーアイスクリームやキャラメルが好きだが、きっとルイスの好みも同じなのだろう。

 そのことに呆れたらしいヴィンセントは再びルイスを子供と称して莫迦にした。


「そんなに子供だと思いますか?」

「君たちは自分が子供じゃないとでも思っているの? そういう考え自体がお子様の証だよ」

「それは社会的に見れば私たちは子供かもしれないですけど、一言で切って捨てられたくありません」


 普段なら間違えても反論などしない。ヴィンセントを敵に回して暴言を吐かれるなど御免だ。

 だが、今夜は先刻の出来事によって恐怖心よりも不信感や軽蔑心が勝っているクロエは言い返していた。


「いや、僕も君たちを子供という括りに押し込める訳じゃないよ。ただ、現実を理解していながらもそれを受け止める寛容さがなかったり、妥協できない部分が青いって言いたいだけさ」

「あの、何を言われているのか分からないんですけど……」

「彼は聡明な人間だから、情と利が両立しないと最初から分かっていたはずだよ」

「情と利ですか?」


 ポニーテールの髪を揺らしながらクロエは首を傾げた。


「ろくでなしに捕まった可哀想な君たちを助けたいという思いと、そんな君たちを利用してでも自分の目的を達したいという気持ちだよ。だからね、彼は最初から無理だったんだよ。復讐に生きて修羅に堕ちるには優し過ぎるようだから」


 そう語ったヴィンセントは優しいような冷たいような曖昧な感情を内包した目をしていた。

 ヴィンセントは意地悪で冗談ばかりを言っているが、たまに真面目な時もある。そして今、彼が真面目に話していると思ったからこそクロエは感じた。


「ヴィンセント様ってルイスくんに取り分けにきつくないですか?」

「昔の誰かを見ているようで意地悪したくなってしまうんだよ」


 クロエの疑問にヴィンセントは呆気ないほどに簡単に答えてくれたが、それでも釈然としないものが残る。

 何にせよ、あまり良くない感情のように感じられてならない。


「それにあのくらいの年頃って痛々しいし、捻り潰してやりたくなるんだよね」

「あの、一つだけ言わせてもらっても良いでしょうか?」

「ん、何?」

「私から見ると、ヴィンセント様も充分痛々しいというか、寧ろ貴方の方が痛いです」


 カップに紅茶を注ぎながら言われた内容は地味にきつい。

 最近の出来事でクロエにどれだけ鬱憤が溜まっているかを窺わせる、実に冷たい一言だ。


「ふ……あははははは! メイフィールドさんってつまらない顔でぼけっとしている癖に、たまにやたら面白いなあ。前に啖呵切った時も思ったけど今日は面白過ぎるよ。ああ、やっぱり人間って良い。実に良い。最高だ」


 クロエが銀のトレイにティーカップとジャムの瓶を淡々と乗せる前で、ヴィンセントは弾けるように笑い出す。


(ああ、また莫迦にされてる……というか、ローゼンハインさんって)


 この男は本当に大丈夫だろうか。特に頭の螺子の緩み具合が心配だ。

 人間を面白いと言って笑う彼の瞳は煌めき、獲物を品定めする獣のように鋭い。悪魔だとクロエは心の中で呟いた。するとその言葉が聞こえたように、ヴィンセントは一層猟奇的に笑うのだ。

 これは宜しくない本性を引き出しつつあるのかもしれない。


「じゃあ、お茶が冷めてしまうので私は戻りますね」


 クロエは生温い気分になりながらも「お休みなさい」と一言残し、キッキンを出た。


「やっぱり人間は面白い」


 そうして一人繰り返すヴィンセントの双眸は紅茶と同じ色だ。

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