姫君は花の国を夢みる 【15】
「メルシエさん、助けて下さい!」
買い物に行くことを決めた日の夜、電話の子機を掴んで自室に籠ったクロエはメルシエに連絡を取っていた。
「助けって……クロエちゃんどうしたの? 大丈夫!? どこ怪我したの!?」
「あ、私は大丈夫です。服を一緒に選んでもらいたいんです」
クロエに助けを求められたメルシエはヴィンセントからの嫌がらせを疑ったのか焦った様子だったが、その平和な用件を聞くと困惑した。
「えーと、理由が良く分からないんだけど、どうしたの?」
「レヴィくんとルイスくんが私のこと男扱いするんです……。二人のこと見返したくて……」
日頃から男扱いを受けて悲しい。大人の女性であるメルシエに服を見立ててもらい、美しく変身したいのだとクロエは切々と訴えた。
同じ女性としてクロエのことを放っておけないメルシエは親身になって話を聞いた。
「失礼な奴だね。分かった、あたしで良ければ協力するよ」
「有難う御座います!」
「土曜日にディヤマン通りでね」
「はい、折角お買い物なんですからメルシエさんもお洒落してきて下さいね!」
こうしてクロエはメルシエを連れ出すことに成功したのだった。
待ちに待った休日が訪れ、メルシエの店で落ち合ったクロエはディヤマン通りのブティックを見ている。
「このストール、メルシエさんに似合います」
「そうかなあ」
「掛けてみて下さい」
夏らしい爽やかなレースのストールを手渡すとメルシエも満更でもない様子なので、クロエはぐいぐい押していく。
「ビスチェとスカート、セットになっていて可愛いです」
「あ、ほんだ」
「メルシエさんピンク似合いますよね」
「ビスチェのセットアップも良いけど、チュールスカートを合わせても可愛いと思うよ。クロエちゃん着てみなよ」
クロエが手に取っていたのはストライプ柄のコンパクトなビスチェだ。淡いブルーとクリアボタンが涼しげで、裾のフリルが控えめながらも可愛らしさを出している。
自分の服を買いにきたという建前上、メルシエには従わなければならずクロエは試着室に入った。
七分袖のシフォンブラウスにビスチェを重ねて、膝下丈のチュールスカートを合わせた。トップスが短めなので、自然とハイウエストになってスタイルが良く見える。
試着室から出てきたクロエにメルシエは大絶賛だった。
「ディアナもアンジーもこういう格好しないから新鮮。うん、これが良い。絶対これ」
「え、えっと……私はメルシエさんに……」
「あんたが買わなくてもあたしが買ってあげる。まずはこれにしな」
メルシエに勧めたつもりが何故か自分の服が決まってしまった。
そんなこんなで女性たちの長い買い物は進んでいった。
クロエはメルシエがプレゼントしてくれたものの他に二着ワンピースを購入したが、結局メルシエは香水を幾つか試しただけだった。
「メルシエさん、今日は有難う御座います。これ良かったら使って下さい」
「ありがと。あたしには可愛すぎないかな?」
「絶対似合います。メルシエさん美人ですもん」
今日のお礼にとこっそり選んでいたフラワーレースのストールを贈ると、彼女ははにかんだように笑った。
炎天下の中、ディヤマン通りを歩き回ったので喉が乾いていた。クロエとメルシエはスタンドで飲み物を買い、通りの中央にある噴水広場で休憩を取ることにした。
「クロエちゃん、この前はごめんね」
「メルシエさん?」
「気持ちは他人に言われたからって変えられるものじゃないのに、嫌なこと言って」
「いえ、そんな……」
メルシエはクロエを思って厳しいことを言ったのだ。それが分からないクロエではなかった。
甘いカフェオレを傍らに、休日の穏やかな時間が過ぎていく。時計はもうすぐ二時を指す頃だ。
女同士の会話を楽しんでいると、クロエたちの前方を見知った人物が通り過ぎようとした。
「あ……ルイスくん!」
偶然通り掛かったルイスはクロエに手招きされて渋々近付いてくる。
「き、奇遇ですね」
「奇遇だね」
自分も大概だと思いながらも、相手の棒読み台詞には頭痛を感じるクロエだ。
ルイスに対してあまり良い感情を持っていないメルシエは途端に目付きが鋭くなる。
「あんた、クロエちゃんに酷いこと言ったんだってね」
「……何のことですか?」
「わ……私のことっ、男扱いしたじゃないですかっ」
話を合わせてくれと視線で訴えると、ルイスは渋い顔をした。
クロエから泣き付かれているメルシエは、空になったカフェオレのカップを握り潰しかねない形相だ。
「どういうつもりなんだい?」
「胸も括れもないんだ。仕方ないだろ」
「ちょっと小侯爵。この子は女の子なんだよ。何てこと言ってるの!」
「外見以前に女性としての意識があるのかも怪しいですけど」
(た、耐えろ、私……)
話を合わせてくれているのは分かるが内容が酷い。
涙目になりそうなクロエが頑張って堪えていると、ルイスの名を呼ぶ声が聞こえた。
「おい、ルイス。何をしているんだ。ガンショップは反対方向だろう」
ルイスを探していたらしいエルフェは、クロエたちの姿を見てはっとする。正確には、クロエの隣にいる女性の存在に驚いていた。
「クロエちゃん、今日はありがとね。楽しかったよ」
メルシエは席を立ち、早足でその場を去ろうとする。エルフェはすかさず呼び止めた。
「メルシエ、待て」
肩を掴まれたメルシエは無言で相手を睨む。
「何を怒っているのか知らないが、不満があるなら改めよう」
「はあ……? あんたがそうだからあたしは怒ってるんだよ」
「……俺が悪いのは分かった。分かったから話してくれ」
昔何かあったのか、怒ったメルシエを宥めるエルフェはとても慎重だった。
腕を組んで仁王立ちするメルシエの前で、哀れなエルフェは許しを乞うている。クロエが作った状況とはいえ、その気の毒な様子には同情を禁じ得ない。
「大丈夫なのか、あれ」
「なるようになりますよ。私たちが生まれる前からの付き合いなんですよ」
こそこそと大人たちから遠ざかったクロエとルイスはぽそぽそと小声で会話する。
「焼けぼっくいに火がつくとは言うけど、あれはただの友人同士だろ。燃えかすもないのに今更どうにかなるとは思えない」
「あの……ルイスくん。はっきり言いすぎです……」
「キミはそういう展開を望んでいるんじゃないのか?」
「私は仲直りしてもらいたくて……。その機会を作りたかったんです」
メルシエの想いが通じるのならそれは幸せなことだと思うが、友人として上手くやっている彼等も【彼等らしい】ような気がして、あまり強くは言えないのだ。
「今日は無理な頼みを聞いて下さって有難う御座います」
クロエはメルシエを買い物という口実で連れ出し、ルイスには非礼の詫びということでエルフェを呼んでもらった。当人たちに仲直りを求めたところで従うようには思えなかったから、クロエはこのような手段に出た。
あとは彼等が解決することを祈るだけだ。
「では、プリンを買いに行きましょうか」
「何処か寄りたい場所があるなら付き合うよ」
久々に故郷へ帰るのだから好きなところに付き合うとルイスは言う。約束を守ろうとする彼の言葉を嬉しく思いつつも、クロエは戸惑った。
皆と暮らし始めて半年以上の月日が流れ、クロエが【ベルティエ】に戻ったのは数度だ。
一度目はヴィンセントの裏の顔を知って逃げた時、二度目はルイスと桜の花を見た時、三度目はディアナの見舞いに林檎の花を拾いにきた時、四度目は先日の雨の日だ。
一度目と二度目は未だしも、三度目に訪れた時もクロエは町を見て回ることはしなかった。
理由は簡単だ。空っぽな人間が死んでも何も残らない。クロエには帰る家も、迎えてくれる人もなかった。
「いえ……、特にないです。早く買い物を済ませてレヴィくんのところに戻りましょう?」
案内できるような場所が一つもないことを寂しく思いながらも、クロエは【埋め合わせ】を忠実に行おうとする。すると、ルイスは考えるような面持ちをしてこう言った。
「林檎の森に寄って行こうか」
「気を遣わなくて良いんですよ。今日はプリンを買いにきたんですから」
「この前は雨が降っていて良く見られなかったから案内して欲しい」
ルイスは何処までも律儀だ。ここでむきになっても仕様がないので、クロエは頷いた。
夏の休み中だというのに、林檎の森は変わらず静かだ。
散策用の遊歩道では観光客と思しき家族と擦れ違ったが、脇道に入ると人の気配が感じられない。
クロエが案内をする道すがらしたのは家族の話だった。
ディアナに対する憤りは収まらないけれど、ヴィンセントと共に待つしかないのだということをクロエは伝えた。ルイスはその話を否定も肯定もせず黙って聞き、こんなことを訊ねた。
「あの男は何をしているんだ?」
「お母さんのところに泊まっているんですよ」
ヴィンセントはこの数日、家に帰っていなかった。
毎日通うのが億劫になったのか、それとも一時も離れたくないのか、ヴィンセントはディアナの収容されている施設の別室に泊まっていた。
監視付きの鉄格子の中で良く眠れるものだとクロエは呆れるが、それだけヴィンセントが本気ということだ。
暫く帰らないという連絡を受けたクロエは今、生暖かい気持ちでいる。
「キミが暗くなるのも分かる気がした」
「私だってぐれたくなりますよ……」
何が何でもディアナに自分を選ばせるのだという執念が感じられて、正直その熱意が羨ましくもなる。それ以上に、まだ正式に仲を認めた訳でもないのに不愉快だ。
色々な意味で疲れたクロエは次に見舞いに行く時に連れ戻すことに決め、今は放置することにした。
「あの人のことは置いておいて。貴方はどうして家に帰らないなんて言い出したんです?」
「……元々、ヴァレンタインを継ぐ気はなかったから良い機会だと思ったんだ」
クロエの急な話の転換にも慣れたのか、ルイスは大人しく答えた。
「家を継がないでどうするつもりなんですか」
「オレはクラインシュミットを立て直したい」
自虐的な回答がくるものと覚悟したクロエはぽかんとする。
それは、今まで思い至らなかったことが不思議なほどしっくりくる答えだった。
「オレは父さんの血は引いていないけど、父さんがクラインシュミットの人間だと……妻だと認めた人の血は引いている。だから継ぐ資格はあると思っている」
「……エリーゼちゃんも協力するって言ってましたよね」
「もしヴァレンタインの協力で成し遂げたら、クラインシュミットはあの家の家来になる。オレの夢の為にはあの家にはいられないんだ」
エリーゼはヴァレンタインが協力すれば容易くクラインシュミットの名など取り戻せると語っていた。そこには何等かの取引が発生するのだろう。
ルイスは爵位は返上したままで良いが、名前だけは取り戻したいのだという。そんな彼にとってエリーゼの取引は呑み込めるものではなかったのだ。
「貴方が仇討ちをして、クラインシュミットの名前を名乗ったら危ないことに巻き込まれるんじゃないですか? 悪い人でも家族はいるんですから……」
「それ看板に、仇討ちにきた奴も倒す。これが一番の復讐だろ」
クロエは復讐の連鎖によってルイスが危険な目に遭うことを心配する。
けれど、ルイスは恐ろしいことを楽しげに語った。
「あの……ルイスくん、何処か打ちました……?」
「どうしてそう思う?」
「どうしてって……貴方らしくないですよ」
「オレが一番したくて、一番したくないことなんだ。充分オレらしいよ」
ルイスは結局、己が苦しむ道を選ぶのだ。本人が言うように【彼らしい】夢だった。
「貴方って本当に面倒な人ですよね」
クロエは思わず本音をこぼす。
心地良さそうに日溜まりを歩く彼の横顔を眺めていると、無性に憎まれ口を叩きたくなった。
「私、心配し損のような気がしてきました」
最近の彼は憑き物が落ちたようだとクロエは思う。勿論危ういところはあるのだが、クロエが心配するよりもずっとルイスは落ち着いていた。
悩み損だとクロエがいじけていると、ルイスは心外そうに言う。
「やっぱりキミはオレが落ち込んでいる方が良いのか」
「そ、そうじゃありません! 私が莫迦みたいだなって思ったんです」
「今更だろ」
「う……っ」
事ある毎に莫迦にされてきたクロエはそう言われると何も言えなくなる。
ルイスの意地悪にクロエはむっと唇を引き結ぶ。けれど、意識とは反して唇は弧の形を描いた。
(良かった)
クロエは嬉しい。ルイスが自分自身に価値を見い出したことが嬉しい。
復讐して死ぬしかないと諦めていた彼が、家を再興したいのだという夢を語る。夢の中には穏やかではないことも含まれているが、そんなことはどうでも良いのだ。
辛い経験から、夢なんて恵まれた人間しか見ないものだと語っていた彼が夢を見てくれた。本当に良かったと、クロエは涙ぐんでしまう。
(私って私のことばっかりだ)
ルイスが幸せであるなら復讐も良いと考えてしまうようなクロエは、エリーゼの言うように自分の幸せしか考えていないのだろう。
本当にどうしようもない。
夏の林檎の実る森が涙で滲む。可笑しな顔を見られたくなくて、クロエは小走りで木の幹に身体を寄せた。
「ここが私の特等席です」
「よく絵を描いていたというところか」
「はい」
遊歩道を外れた森の奥深く。雨水が溜まってできたのだという小さな池が望めるここからの景色は素晴らしいとクロエはいつも思う。
小さな緑の林檎をつけた木々は優しく陽射しを遮っている。
クロエは青い瞳を細めて空を仰いだ。
「あの木漏れ日をビーズにして編んだら素敵だなあって思うんです」
「だからその鞄?」
「……はい。これは一目惚れです」
クロエが手に下げていたのは、お気に入りのビーズの刺繍入りのバッグだ。
ルイスにすっかり好みが知られていることを恥ずかしく思いながらも、それは嬉しくもあってクロエはどぎまぎする。林檎の木の下の狭い空間で向き合っているという状況に今更ながら緊張して、クロエは彼の横顔が見られなくなってしまった。
さらさらと葉擦れの音を立てて風が吹き抜けていく。
爽やかな風は林檎の甘酸っぱい匂いを仄かに含んでいる。
あの雨の日とは違う穏やかな午後だ。けれど、あの日のことを思い出したクロエは居た堪れずに林檎の木の下を出ようとする。そこで腕を掴まれた。
逃げてしまいたい時に限って彼はこうして捕まえてくる。
クロエが逃走を諦めると、ルイスはすぐに手をほどいた。離れた手の代わりに視線が合う。
「それで、この前の答えは?」
「い、いきなりそれからですか!?」
この状況ではこうなると半ば予想と覚悟はしていたものの、直球すぎる切り出し方にクロエは絶叫だ。
「結論から入った方が気も楽だろ」
「結論から入ったら即座に切り捨てますよね!?」
「ああ」
「ほら、駄目じゃないですか!」
ルイスのように面倒臭い人間はきちんと理由を述べない限り納得しないのだ。
逃げ腰になったクロエは優しく話し掛け、懐柔を試みる。
「や、やっぱり今日はやめません……? このまま気持ち良く帰りませんか?」
「やめないし、答えてもらうまで帰らない」
「門限破りは拳骨ですよ? 痛いの嫌ですよね? というか、私が嫌です」
「それならあの人も門限を破るから大丈夫だよ」
エルフェが帰らないことを見越してルイスは物騒なことを言う。クロエは有言実行の気配が濃いことを察して慄くが、逃げ場など何処にもなかった。
「答えってこの前のことを忘れるかってことですよね……?」
「それと、キミがオレにどうしたいのかということだ」
ルイスが求めているのは二つの返事だ。
クロエは覚悟を決め、想いを唇に乗せた。
「忘れなくて良いです。忘れないで、ください」
「ああ」
「私はその……貴方のことが大切で、一緒に頑張れたらって……傍にいられたらって思うんです」
それは偽りのない本心だ。
クロエは泣きそうなくらいに震えているというのに、告白を受けたルイスは全く動じない。
「それは砂糖と同じくらい?」
「……はい……?」
「砂糖と同じくらい好きだと言った」
クロエはルイスに砂糖と同じくらい好きだとうっかり言ってしまったのだ。
どうやらあの誤解がまだ続いているらしい。変な意味として受け取られていないからルイスは動じていないのかと思うと、クロエは頭が痛くなった。
このまま勘違いされていた方が楽だ。
友人としてこれからも穏やかな時間を過ごしていきたいと願うなら、肯定した方が良い。きっとその方が恥をかかずに済むし、悲しい思いもしない。
けれど、クロエの中には自分でも理解できないもう一つの感情がある。
「砂糖ではなく、変な意味のです。多分……」
「多分なのか」
「だって……だって分からないんですもん! 大体、貴方だけだって言ったんですから、変に蒸し返さないで察してくれたって良いじゃないですか。何なんですか貴方は!」
クロエがルイスに向ける好感は家族や食べ物に対する好きとは違う。だが、本当に恋か分からない。
クロエはずっと、ルイスの助けになりたいのは友人だからだと思っていたのだ。
それなのにヴィンセントやファウストが妙な揶揄をしてくるから、クロエは可笑しなことを考えてしまうようになった。異性として意識しているから、尽くそうとしているのではないかと自覚してしまった。
この心を恋と称して良いのかクロエは分からない。だから、彼に問う。
これを恋にして良いのかと乞う。
「貴方はやっぱり砂糖の方が良いですか……?」
「変な意味でも不都合はないよ」
いつだって断られることを前提にしているクロエは信じられない気持ちになる。
これではこちらの想いを受け入れるようだ。こんなことがあるはずないと、自分なんかにこんなことがあっても良いのかと戸惑う。
泣きそうなクロエから視線を外したルイスは独り言のように呟いた。
「オレは……キミはあの男が好きなんだと思っていた」
ルイスはいつもクロエにヴィンセントを優先にするように言っていた。
「それにレヴィだっていた」
ヴィンセントにしろと、レヴェリーの方が良いと、ルイスはいつもクロエを遠ざけようとした。
ずっと誤解をされていたのだという事実を踏まえて考えると、それは気遣いだったということが分かる。
クロエは首を横に振った。
「私の話を真剣に聞いてくれたのは貴方だけです」
「オレがあんなことをしたから、勘違いしたのかもしれない」
「何でもない人にあんなことしません」
胸を占めるこの感情を恋と呼んで良いのかと、他の呼び方があるのではないかと何度も考えた。
これは友情だと、勘違いだと何度も言い聞かせた。
だが、どれだけ考えても行き着く先は同じだった。
「貴方だけなんです」
仕方ないだろう。クロエは愛され方も愛し方も分からないのだ。
情けないくらいに正直に心を打ち明けることでしか自分の胸にある気持ちを伝えられない。相手の心の響くような言い方などできない。
森の景色を眺めるようにして視線を外していたルイスは嘆息し、改めてクロエを見た。
「オレは生きるからには自分を粗末にしないと決めた。貰えるものは貰うし、使えるものは使う。他人のこともどうだって良い。それでも関わろうとするならキミの自業自得だと思っている」
不幸になっても知らないと彼は冷たい声で言う。
酷い言葉のはずなのに、クロエは何故だか笑ってしまった。
「すっかり忘れていました。その不幸は私にとって幸いなんです」
「……凄いことを言われている気がする」
「だって私、貴方のことが好きなんです」
一緒に頑張りたいということは苦労したいということ。彼の傍で嘗める苦汁は花の蜜のようなものだ。
木漏れ日が増したような気がして、クロエは眩しさに目を細めた。
ルイスは珍しく狼狽したように視線をさ迷わせ、自分の言葉を確かめるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「キミのことは嫌いじゃない……。でも、オレのことを肯定するキミを許せるか分からない」
「……それでも良いです。傍にいさせて下さい」
嫌いではないと、曖昧な答えしか貰えなかったがクロエは充分だった。
これから好きになってもらえるように頑張ろう。対等に向き合っていけるように強くなるのだ。
そうして決意を新たにしたクロエはそこで大変なことに気付いた。
「一つ困ったことがあるんです。私、貴方の役に立てることが何もなくて」
「別に、そんなこと望んでいないよ」
「でも……」
クロエは、何の役に立てない癖にとエリーゼに言われたことを気にしていた。
役に立てるからといってそれが免罪符になる訳ではないが、エリーゼを泣かせてまでルイスの傍にいようとする自分をどう許して良いのか分からない。
「キミの気が済まなくて、どうしてもというなら一つ頼みがある」
「何ですか?」
「母親の見舞いに行く時は言って欲しい」
何かの冗談のような内容だがルイスは真面目だ。
「本当は行くなと言いたいところだけど、そこまでは強制できないから外まで付いていくことにする」
「どうして、です……?」
「寄り道くらいなら付き合うよ」
一人きりの寄り道をする前に何処かへ出掛けよう、と。
それは、冬の公園でうなだれていたクロエを知るからこその言葉だった。
ルイスは何ということもないような顔をして乞うてくるが、クロエは思い上がりをしてしまう。
「そういうこと言うから勘違いするんです……」
「それでも構わないけど」
「い、意地悪ですっ!」
さらりと返され、クロエは顔を林檎の色に染める。
早速、主導権を握られてしまったようで、焦りを感じる。ルイスは狼狽するクロエを置いて林檎の木の下を出た。
「話も終わったことだ。早くプリンを買いに行こう」
「プリンが優先なんですね……」
余韻をぶち壊すルイスの一言にクロエは半目を伏せる。
もう少し浸らせてくれたって良いだろう。乙女心を察してこその紳士だ。大人しく従うクロエの心は穏やかではない。つい、ぶつぶつと文句を言いたくなる。
けれど、彼が十も年下だったと思い出して、勘弁しようという気持ちが湧いた。
クロエが大人として寛容な心で受け入れようとしていると、ルイスはしっかり断った。
「今日はオレの用事のついでで寄っただけだ。埋め合わせはきちんとすると言っただろ」
また出掛けられると受け取っても良いのだろうか。
(一緒にいて良いんだよね?)
傍にいて良いということは、いつでも一緒に出掛けて良いということだ。これが最後ではなく、始まりなのだ。
幸せすぎる現実に、クロエは些細なことはどうでも良い気分になってしまうのだった。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
夕刻、帰宅するとレヴェリーの部屋にフランツが訪ねてきていた。
クロエがフランツに先日の非礼を詫びたところで、ルイスはバケツを差し出す。
「バケツプリンじゃん! 何これ土産? お前の奢り?」
「土産だから奢りだよ」
レヴェリーの歓声を聞いて、クロエはルイスの兄孝行の成功を喜んだ。
だがその直後、バケツの蓋を開けたレヴェリーの顔は強張った。店の入口までしか付いて行かなかったクロエも気になり、バケツの中身を覗く。
「何だこりゃ……」
「トッピングを全種類入れてもらった」
「はああああ!? 常識的に考えろよ!?」
バケツの中はアイスクリームは溶けているし、コーンフレークは水没しているしで大変なことになっていた。ルイスがやけに重そうに持っていると思ったら理由はこれだ。クロエもレヴェリーの突っ込みに同意し、呆れた。
レヴェリーが取り分ける器をと言うので、クロエは四人分のカップとスプーンを用意する。
「フレークは要らん。プリン多めで頼む」
「私はピーチ多めで」
「オレはオレンジ多めで」
「お前等、何なの……? 普通は怪我人に気とか遣うだろ……」
注文の多い面々にひとり突っ込みながら、レヴェリーはバケツからプディングを掬い取った。
そうしてプディングが皆の手に行き渡り、食べ始める。
「そういや、エルフェさん遅くなるから、夕飯はデリバリーでも頼めってさ」
メルシエへの謝罪が成功したのか難航しているのか、エルフェの帰宅は遅くなるという。
「そういうことはこれを食う前に言え。デザートとメインディッシュが逆になったじゃないか」
「これはおやつ。デザートはまた別だよ。つーか、今日もここで食ってく気かよ」
「悪いか?」
連日、母親のメフィストが我が物顔で寛いでいるからか当然のように居座ろうとするフランツだ。
バケツから直接プディングを食べていたレヴェリーは意地悪げに言う。
「フランは年下の癖に生意気なんだよ」
「母上から頂いた名を略すなと言っている!」
「あ……そうだ、フェーエンベルガーさんって幾つなの?」
少年たちが戯れ合うのは結構なことだが、デザートくらいはゆっくり味わいたい思うクロエはやんわりと話を変える。
母親思いのフランツは母親と同じ女性を邪険にはできないようで、レヴェリーを睨むに留めた。
「今年で十四になる。この毬栗頭と変わらないだろう」
十九歳の双子と、実年齢だけ二十九歳のクロエは固まる。
偉そうな口の利き方も、しっかりとした骨格も、とても十代前半には見えない。ドレヴェス人ということを踏まえても、双子より五歳も年下とは驚きだ。
レヴェリーはスプーンをプディングに突き刺したまま、片割れに悪巧みを持ち掛ける。
「やっぱフランはフランで良いよなー。なあ、ルイ」
「ああ、略称で充分だ。それにレヴィが毬栗ならフランは箒だと思う」
「んじゃ、箒頭でいくか」
「誰が箒頭だ。ヴァレンタイン家の何だか知らんが無礼だろう!」
「オレのことはどうでも良いけど、キミはまずは口の利き方を学んだ方が良い。今のままだと社交界に出てから苦労する」
「高が数歳の差で先輩ぶるな」
双子が結託して揶揄しに掛かるのでフランツは果敢に挑んでいくが、二対一では分が悪い。こうなるとフランツは双子の玩具状態だ。
皆が何だかんだで楽しそうなので良いかとクロエはのんびりと考える。事態を掻き回されるのも、掻き回すのもいつものことだ。
こうして何でもないことを話し、笑い合えることにクロエはほっとする。
先のことは分からない。母のことも、彼とのこともまだ何も言えない。だが、自分はこうしてここにいるし、これからも日々を送るのだろう。
未来は分からないけれど、今はここにいたい。
夏の夕刻は長い。窓辺から訪れる風に擽られる髪を片手で押さえながら、クロエは今暫く続くであろう時を思って微笑んだ。