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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
七章
168/208

姫君は花の国を夢みる 【14】

 午後になり、レヴェリーの為にアイスクリームを買いに行くことにしたクロエは、店先で片付けをしているルイスを発見した。

 朝から外出していたが、いつの間にか戻ってきたようだ。彼は黙々とテーブルを拭いている。


「大丈夫かな……」


 実親のことを知った時も、何ということもないような顔で生活をしていたのを知っているクロエは心配する。

 クロエが声を掛けるか掛けまいかと悩んでいる前で、食器を乗せたトレイを持ったルイスの身体はふらりと傾ぐ。


「ちょ、ちょっと……なんでそんなにふらふらなんですか!?」


 悩んでいたことも忘れて駆け寄ったクロエはルイスの手からトレイを奪い、テーブルに置いた。

 ルイスは驚いたというように目を見開いたが、より驚いたのはクロエの方だ。

 ルイスの目は真っ赤だ。ファサードの下でも分かるほどに、明らかに不調だという青白い顔をしている。この状態で無理をしたら熱疲労になってしまう。


「あんなところで寝るからですよ」


 可笑しな姿勢で寝たからだと諌めたクロエは、次に出た言葉に再び驚くことになる。


「あの状況で寝る訳がない」

「え……、寝た振りだったんです?」

「レヴィのことを一晩看るならああするしかないだろ」

「だからって……」


 レヴェリーは病弱な弟に自分の看病などさせないはずだ。レヴェリーも相手が寝ているのならわざわざ起こさないだろうし、良い手ではある。クロエはもどかしさを感じずにはいられない。


(本人に心配だって言えば良いのに)


 レヴェリーもルイスも不器用だ。

 すっかり目が据わってしまったクロエに見上げられ、ルイスは居心地悪そうに訊ねた。


「用件は?」

「こんなこと言うのもどうかと思いますけど、エリーゼちゃんに酷いことしてますよ」


 傷付けることを承知でクロエは言った。


「分かってる。オレが刺されれば面倒なことにはならなかった」

「そういうことじゃなくて、貴方は色々と抱え込みすぎなんです。レヴィくんが心配するじゃないですか。エリーゼちゃんだってどれだけ傷付いたか……」

「これでエリーゼは可笑しなことを考えたりはしない。それくらいは脅したし、オレにも幻滅しただろうから」


 ルイスは首を切るとどうなるのか、わざと嫌な言い方をしたのだ。血の泡を吐いて窒息して……などと言われたらエリーゼでなくてもショックを受ける。

 レヴェリーが目を瞑ると決めた時点でクロエがとやかく言えないのだが、やはりルイスはエリーゼに厳しすぎる。

 エリーゼはルイスの役に立つことで自分の存在価値ができると言っていたようだった。

 その気持ちまで否定することは、クロエにはできない。


「エリーゼちゃんが本当に自分を傷付けたりしたらどうするんです?」

「自分が家の跡取りだと自覚している人間が命を粗末にしたりはしないよ」

「それはただの貴方の考えじゃないですか」

「そうだよ。オレはエリーゼを信じているから、自分の勘に従った」


 首を突いていたらどうするつもりだったのかとクロエが厳しく問うとルイスは断言した。

 エリーゼのことを信じていると語る彼は、確かにエリーゼの兄だ。嫌っている人物に対する態度にはとても見えなくて、クロエは胸が痛んだ。

 広場のざわめきが遠く感じる。


「ルイスくんは……エリーゼちゃんのこと、本当に苦手なんですか……?」

「ああ。嫌いではないけど……というより、尊敬している」

「尊敬?」

「エリーゼは人の話を聞かないでごり押ししてくるところがオーギュスト様にそっくりだ。敵に刃を向けるところも貴族らしくて、あれはある種の美徳だと思う」

「貴族らしいって……」

「オーギュスト様はこの時代にサーベルを持ち歩いているような人だ。あの家を継ぐのにエリーゼ以上の適任はいないだろ」


 エリーゼの気質は古い貴族そのものだと語るルイスは、嫌悪を抱いているというよりは、彼女とその父親の人間性を良く理解している風だった。

 クロエはヴァレンタイン家がどのような家なのかは分からないが、サーベル所持というのは時代錯誤だ。そのようなことがまかり通る辺りが【上】の恐ろしさだろう。

 貴族の感覚は分からないと思いつつ、クロエは少しばかりほっとする。

 ルイスがエリーゼを嫌っていないということは素直に喜べる。

 ヴィンセントやエリーゼに心の底から嫌われていて修復は絶望的なクロエと違い、ルイスとエリーゼはこれから話し合っていくこともできるだろう。

 だが、軽々しく仲直りをしろとは言えず、クロエは代わりにこう訊ねた。


「今回のことで家同士で何か起きたりしませんか?」


 レヴェリーはレイヴンズクロフト家の養子だ。その存在をヴァレンタイン家の人間が傷付けたというのは大変なことのはずだ。


「ヴァレンタインとレイヴンズクロフトは痛み分けのようになっているから、レヴィが何か言わない限りは手打ちになると思う」

「昔何かあったんでしたっけ」

「……ああ」


 宗教の問題や、レイヴンズクロフトの令息がヴァレンタインの令嬢を手に掛ける事件があったのだと、以前ヴィンセントから聞かされたことがあった。

 ルイスは肯定し、続けた。


「前はレイヴンズクロフトから仕掛けてきたから、あちらも強く言えないんだ」

「何もないのに越したことはないですけど、もやもやします……」

「【上】の人間はこういうものだよ。レヴィには悪いけど、仕方ない」


 いつだって臭いものには蓋をされるのだと――口封じされるのだと、ルイスは苦々しく吐き捨てた。

 けれど、仕方ないと言ったその声も表情も、諦めているというだけのものではない。後悔よりももっと前向きな感情が滲んでいるようで、クロエは首を捻った。


「何だかあんまり動じていないんですね……?」

「もっと落ち込んでいた方が良かったのか?」

「そんなことはありません。ただ、心配したんです。ルイスくんがまた……傷付いたりしたらどうしようって……」

「キミとレヴィには心配掛けられないから」

「え――」


 呆けるクロエ。ルイスは顔を背けてしまう。

 その答えは狡いとクロエは感じた。

 彼が産みの親や養父母の問題を受け止めて立っているそこには、レヴェリーと同じ空元気もあるのだろう。それは自分を蔑ろにする意味での無理ではなく、自分と他人の為の我慢――愛すべき嘘――だ。

 この状況で不謹慎かもしれないが、クロエはやはりルイスが前を向いているのは嬉しかった。


『わたし、あなたを軽蔑するわ』


 様々な感情が溢れる胸に、不意にあの言葉がよみがえる。

 どうして兄を返してくれないのかと、自分の幸福しか考えていないのかという批難はクロエの胸に大きな傷を残していた。


(エリーゼちゃんの言う通りかな……)


 エリーゼの頼みを断った時点で、クロエは敵だ。

 中途半端な気持ちで手を差し伸べ、再び突き放すのでは彼女を傷付けるだけだ。彼女の願いを叶えられないのだから、クロエは彼女に関わる資格はないのだろう。

 家同士が手打ちと決めるのならそれは仕方のないことだ。クロエが把握できるのは自分の周りのことだけなのだから、その小さな範囲で自分のできることをやるしかない。

 ルイスとレヴェリーが前を向いているのだから、クロエが落ち込んでいる訳にはいかないのだ。


「話変わりますけど、エルフェさんとちゃんと仲直りして下さいね」

「……何が?」


 ルイスは不思議そうに瞬くので、クロエは呆れる。


「何がじゃないです」

「なら、どうして?」

「【あんたなんか信用できるか】とか言ったじゃないですか。お世話になっている人に言うことじゃないですよ」

「生憎、キミとレヴィを引き取って解決だと思っているような人に向ける優しさはない。それに世話になっているからといって、意見しないというのも問題だろ」

「貴方のそれは暴言って言うんですよ……」

「どちらでも良い。オレはずっと黙っていてヴァレンタインの人間と上手くいかなくなったんだ」


 それを聞くと同情したくなるのだが、解決の為にはクロエは中立で在らなければならない。

 放任主義のエルフェに対するルイスの不信感は、やはりヴァレンタインの人間への嫌悪と似ている。そう感じたからこそ、クロエはこんな話をした。


「エルフェさんは頑張っているんですよ」

「具体的に?」

「私にも拳骨してくれました。……子供を叱るのって難しいことじゃないですか。どうでも良かったら怒ることすらしないって、ルイスくん言いましたよね?」


 雨の中でクロエに向けた言葉を返されたルイスは黙ってしまう。

 門限破りのクロエを叱ったように、エルフェは壁を越えようとしてくれている。

 拳骨を受けた当初は酷いと困惑したクロエもあれは理不尽な暴力とは違うと気付いた。そもそも、他人の子供の世話をしているだけで充分過ぎるほどのお人好しだ。


「多少言葉足らずだとは思いますけど、悪い人じゃないんですよ」

「キミはオレの言動は裏読みしようとする癖に、あの人については良い風に解釈するんだな」

「私に突っ掛からないでくれませんか」

「やっぱりキミは誰にでも優しい」


 ルイスの言葉に一喜一憂して解釈が慎重になるのは、嫌われたくないからだ。

 そんなことを面と向かって言えないクロエはむっとする。今のルイスの言い方は意地悪だ。


「私は……私に優しくしてくれる人にしか優しくできませんよ」


 クロエは、ルイスを返してというエリーゼには優しくできなかった。

 泣いている彼女を震えが止まるまで抱き締めることもできたはずなのに、向けられた刃の恐怖に負けた。

 自分はルイスが思うような人間ではないのだと伝えようとすると、客を見送りに店の中からエルフェが出てきた。クロエは口を噤む。


「おい、いつまでテーブルを拭いているつもりだ」

「済みません」

「やる気がないなら前掛けを外せ。大体お前は――」


 テラス席から戻ってこないルイスを注意したエルフェは言葉を続けようとしたが、クロエがいることに気付くと観葉植物の向こうに消えた。


(な、なんなの……!)


 その反応は何なのだとクロエは焦る。

 レヴェリーにもエルフェにも気を遣われているような気がするのは気の所為だろうか。クロエは気を遣われる理由が分からず、落ち着かない気分になる。

 兎に角、今は仲直りだ。

 クロエはトレイを持つと、ルイスを店内に連行する。

 外の空気で逆上(のぼ)せた身体にひんやりとした風が触れる。店内に客がいないことを確認したクロエは、カウンターにトレイを置いた。エルフェはそれを厨房に下げた。


「ルイスくん」


 ほら、とクロエは促す。

 ルイスはエルフェがカウンターに戻ってくると切り出した。


「昨日の件ですが、貴方に迷惑を掛けるつもりはありません。出ていけというなら出ていきます」

「え……!?」


 何ということを言い出すのだ。仲直りどころか絶交しようとしている。歩み寄りの姿勢がないことにクロエは頭が痛くなる。案の定、エルフェも渋い顔をした。


「行く宛もないのにどうする?」

「宛くらい自分で見付けます。一人の方が気楽ですから」


 ヴァレンタイン侯爵の命にエルフェが従うというなら、ルイスはすぐにでも出ていくだろう。

 ここでルイスを引き留めるということは、エリーゼから兄を奪うということだ。クロエは言葉が出なくなる。


「レヴィの弟を追い出す訳にはいかない」

「……同情ですか?」

「俺は昔、考えなしに家を出て兄に頼ることになった。お前たちに轍を踏ませるくらいなら、ここに置いておいた方が良い」

「オレは先生を頼るつもりはないです」

「お前にそのつもりがなくともあの人は世話を焼くだろう」


 エルフェは【二十歳になったら追い出す】と告げていたが、レヴェリーとクロエを引き取ってからはそういうことを言うことはなくなった。

 レヴェリーとクロエを置くことが義親としての責任だとすれば、ルイスを留めるのは何なのだろう。

 エルフェはその疑問の答えを自分から語った。


「あの人は昔の話をしないが、友であったという夫妻の話をしたことがある。お前たちはその忘れ形見だ」

「だから何だというのですか?」

「あの人は人質として育てられ、俺と姉たちはあれを家族だと思うなと言われてきた」

「旧教派の貴族は教会に人質を出し、人質は家と家族の為に働くのでしょう? ならば貴方たちの受けた教育は【普通】なんじゃないですか」

「教会の務めを終えた後もあの人は家に戻らなかった。あの人が選んだのはお前たちだった」


 家の為に働いて、家に戻らなかった。

 それはあの人物に良い感情を持っていないクロエでも胸が痛くなる話だった。


「俺はあの人の頼みでレヴィの面倒を看ていた。お前がいつからあの人の下で働き出したかは知らないが、それ以前からお前を気に掛けていたはずだ」

「……つまり、オレたちの世話をするのは貴方にとって兄さん孝行なんですね」

「そう取って構わない」


 エルフェはヴァレンタイン侯爵の命令は関係なく、飽くまでも皆の為にここにいろと言っていた。


「レヴィと先生のことを持ち出すのは卑怯だと思いますよ」

「俺は信用されていないようだからな。お前の良心に訴えるしかないだろう」


 ルイスもエルフェも弟という立場で、兄に複雑な感情を抱いている。そこを付け入られると身動きが取れなくなるのだ。

 ルイスは悔しげに唇を引き結び、拳を握り締める。


「もう少し置いてもらいます。レヴィが怪我をしたのはオレの所為ですから……」

「分かった」

「でもオレがいることで迷惑を掛けても、オレは貴方に罪悪感なんて持たないと思いますよ」

「子供が何を言っているんだ」


 その響きは子供は遠慮しなくて良いというよりは、今更だという風だった。

 エルフェの正直な返答を聞いたルイスは腰のエプロンを外してしまう。


「やる気がないので、今日は上がります」

「手伝うと言い出したのはお前だろう」

「やる気がないなら帰れと言ったのは貴方です。まだ舌の根も乾いていませんよね」

「あ、あのエルフェさん! 買い物終わったら私が洗い物しますから……!」


 やはりルイスはエルフェに歩み寄る気持ちがない。折角纏まった話が破談になることを恐れたクロエは、ルイスの背中を押して店の外に退避した。

 観葉植物の陰にルイスを押し込み、クロエは頭の痛さに思わず唸る。

 ルイスは自分は無関係だと言わんばかりの涼しげな顔をして、ワイシャツの袖を整えていた。それを終えると、改まった様子でクロエを見た。


「訊きたいことがあるんだけど」

「何です?」

「バケツプリン、何処のものが有名か分かるか?」

「た……食べるんですか?」

「レヴィが食べたいと言っていたから、買ってきても良いかと思った」


 改まって訊ねられて緊張したクロエは呆ける。

 ルイスがレヴェリーに兄孝行をしようとしている。気紛れでも、優しくしようとしている。クロエは感激してしまった。


「バケツプリンといったら【ベルティエ】のエマちゃんの魅惑のプリン屋さんです。レヴィくんの好きそうなトッピング沢山ありますよ」

「……名前からして行きたくないな……」

「プリン専門店だから大丈夫ですよ」

「菓子屋に入るのが嫌なんだ」

「別に、男の人がお菓子買っても変じゃないですよ? お土産なのかなって思うし、仕事帰りに甘いもの買っていく人だっているでしょうし」

「ケーキとバケツプリンは違う」

「……はあ……」


 クロエからすると花屋に入る方が難易度が高いような気がする。ルイスの感覚はたまにずれているので気にしたところで仕様がない。


「じゃあ、一緒に行きましょう」

「どうしてキミが付いてくるんだ?」

「埋め合わせしてくれるんですよね。だったらプリンを買いに行きたいです」

「そうだけど……、それじゃ埋め合わせにならないと思う」


 孝行の手助けをしようとするクロエ。ルイスは疑問を投げ掛ける。

 クロエの中には双子の仲を取り持ちたいという気持ちがあったが、もう一つ思いがあったのだ。そしてそれは他人には頼めない――信頼する相手にしか任せられないことだ。


「貴方に頼みがあるんです」

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