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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
七章
166/208

姫君は花の国を夢みる 【12】

 朽薔薇色の髪が宙を踊る。

 咄嗟にルイスの前に出たレヴェリーはエリーゼを突き飛ばしていた。

 エリーゼが床に腰を打ち付けると同時にナイフが床に落ちた。


「……え…………」


 小さな唇から、か細い声が漏れる。

 魂が抜け落ちたような声だった。しかし、痛みで正気に戻ったのかエリーゼは後も見ずに逃げ出した。

 エリーゼの凶行に呆然とするルイス。レヴェリーはその胸倉を掴み、拳を振り上げる。

 そのまま叩き付けられるかに思えた拳は顔面に触れる寸前でぴたりと止められた。


「顔は親父さんの分だから勘弁しといてやるよ」


 レヴェリーは代わりだというようにルイスの肩を弱々しく叩き、身を僅かに傾ける。

 クロエはそこで異変に気付いた。

 床に落ちたナイフの切っ先が濡れ光っていたのだ。


「くそ……オレの十年、無駄にしやがって……」


 きつく目を閉じたレヴェリーは苦しげに呻く。彼の足から力が抜けるのはその時だった。

 自分の腕の中に倒れ込んできた身体の重さにルイスはよろめき、その場にうずくまる。凭れ掛かったレヴェリーの背を支えたルイスの指の間から、とろとろと血が滴り落ちた。


「兄さん……血が……」


 仕事着の黒いベストの所為で目立たないが、レヴェリーの背には刺し傷があった。


「……あー……掠ったら血も出る、だろ」

「黙って。今助けを――」


 医者を呼ぼうと携帯電話を手にしたルイスは血で滑ったのか床に落としてしまう。クロエが代わりに店の電話で連絡をしようとする。だが、愕然とする。

 ファウストを呼んだとしても、首都からこの田舎町へくるまでには数時間が掛かる。その間、レヴェリーがもつという保証はない。

 クロエは必死に考えた。

 このような傷を見せられる医者は何処にいるのだろう。そもそもこの町の病院は何処にあるのだろう。こういう時に頼りたいエルフェの行き先も分からない。

 切り裂かれたベストの間から見えるシャツは赤く染まっている。

 錆の匂いがツンと鼻をついて、クロエは目眩がした。


「どうしてオレの前に立ったんだ……」

「兄ちゃんだからだよ」

「そういうことじゃない!」

「……大丈夫だって。オレは、母さんみたいになったり、しねーから」


 傷口を押さえるルイスの手は真っ赤だ。手を退ければ血はもっと流れるだろう。

 ナイフが抜けてしまったこの状況で手を離すのは危険だ。

 何をして良いのか分からなくてクロエは焦り、混乱する。視界は涙でぼやけた。

 赤く滲んだ視界にふっと影が射す。

 緊迫した空気の流れる店内にベルの音が響く。エリーゼが戻ってきたのかと振り向くと、エルフェが立っていた。


「おい、ルイス。ヴァレンタインの侯爵がお前を帰せと、従わない場合は追い出せと言っている。お前は一体何を…………」


 言い掛けたエルフェは途中で気付く。そして、瞬時に指示を出した。


「クロエ、タオルだ。それからメフィストを……フランツを連れてこい!」


 止血用のタオルを用意したクロエは直ぐ様、宿へ向かった。

 フェーエンベルガー親子が滞在している宿はマルシェ広場の裏通りにある。

 小さな宿なので部屋を探すのに時間は掛からなかった。訪ねた部屋にメフィストはいなかったが、幸いフランツはいた。

 クロエは事情を話し、フランツを連れて戻った。


「貸せ。俺が処置してやる」


 レヴェリーを抱えたまま止血をしているルイスにフランツは退けるように言う。

 だが、ルイスはエルフェとフランツに敵意を向ける。


「ふざけるな! 訳の分からない奴に任せられるはずないだろ」

「こいつに任せるんだ。悪いようにはしない」

「レイヴンズクロフトを……あんたを信用できると思うのか!?」


 エルフェは仕事という体の良い理由でレヴェリーを蔑ろにし続けたのだと、先刻ルイスは毒吐いていた。

 クロエも身に覚えがない訳でもない。

 他人への干渉を嫌うエルフェはクロエがヴィンセントから嫌がらせを受けようと過度に庇うことはなかったし、門限に関して以外は放任していると言って良かった。

 クロエは養女として家に置いてもらえるだけで幸せなので、与えられる以上の境遇を望みはしていない。しかし、ルイスは実の兄の置かれた立場に不満を募らせていた。


「十年前、あんたたちは治療を理由にオレから兄さんを取り上げたじゃないか。今回だって兄さんを見殺しにしない保証が何処にあるんだ」

「その件と俺は無関係だ」

「オレを人質にして揉み消した癖に、都合が悪くなったら始末するのか?」


 たった一人の家族を失うことを恐れるルイスはレヴェリーから離れようとしない。エルフェの話も聞こうとしない。ただ、ぬくもりが消えてしまわないように片割れを抱えている。


「どうして兄さんが死ななきゃならないんだ……」

「おい、ルイ……。勝手にオレを殺すな……」

「キミは一度殺されたんだ!」

「落ち着けって。お前が嫌なら……お前が良いって言う治療受けっからさ……」


 我を失った弟を宥めたレヴェリーはファウストが到着するまで待つと言う。

 失血と痛みでレヴェリーの顔は蒼白になり、シャツは汗と血でぐっしょりと濡れている。

 この状態で耐えられるとは思えない。

 自業自得による理由で説き伏せられないエルフェと、頑として譲ろうとしないルイスに、見かねたフランツは懐から刃物を取り出した。


「ルイシス・ヴァレンタイン。お前は【死神】に教育(ちょうせい)されたんだろう。ならば、動け」


 レヴェリーを抱えている為、ルイスは咄嗟の反応ができない。

 フランツはレヴェリーの背に刃物を宛がった。

 クロエは息を呑む。服を切るのに使われる刃物を見たルイスは抵抗を止めた。


「その刃は……」

「元仲間さ」


 事情は分からないが、ルイスはフランツに任せる気になったらしい。

 フランツの指示に従うその姿を確かめたクロエは、あることを切り出す。


「……私、エリーゼちゃん探してきます」


 レヴェリーがこんな時に傍に付いていないのは心苦しいが、この場で素人のクロエにできることはない。ならば、エリーゼを追うことが最良だろう。

 エリーゼは混乱していただけで、本気でルイスを――レヴェリーを刺すつもりではなかったはずだ。

 過ちを犯した彼女がどのような行動に出るか分からない。今は一刻も早く保護するべきだ。

 クロエは震えの止まらない足を叱咤して外に出た。






 クロエがその場所に辿り着いたのは程なく夕陽が西の空を赤く染めようかという頃だった。

 宵の頃に向かう雑踏の賑わいから外れた湖の畔にエリーゼは立っていた。

 エリーゼの纏う見るからに仕立ての違うドレスは市政に馴染めておらず、大衆に紛れ込むのは不可能だ。衆目を集める彼女の所在はすぐに知ることができた。


「この湖を流れていったらどうなると思う?」


 桟橋に立つエリーゼは対岸に灯る明かりを見つめている。

 エリーゼは人の営みを羨ましそうに眺めながら、夢を見るように語った。


「初めは蝶々が助けてくれるの。次は鼠のおばあさん。わたしが良い子にしていれば、黒い燕が王子様と引き合わせてくれるのよ」


 花の蕾から生まれた小さな女の子が花の国で幸せになる物語の名はクロエも知っている。

 けれど、今はそのような話をしにきたのではない。


「レヴィくんは怪我をしたんだよ」

「これでお兄様は帰ってきて下さるかしら」


 赤い湖を見遣りながら独り言のように呟くエリーゼは事の重大さを理解していないようだ。

 蟻の列を辿りながら一匹ずつ踏み潰していくように、幼さと残酷さは隣り合わせだが、あれほどに家と両親のことを考えられるなら善悪を判断できないはずはない。

 クロエは信じたくない気持ちで一杯だった。


「レヴィくんが傷付いたらルイスくんが苦しむとは思わないの……?」

「お兄様を惑わす人と、偽物のお兄様がいなくなれば良いのよ」

「ルイスくんは偽物じゃないよ」

「お兄様は昔から少し可笑しなところがあったの。庶民のような格好をなさって、わざわざ家の外へ学びに出られて……。何を考えているのか良く分からないところもあるわ。きっと施設での習慣が抜けきらなかったからなのでしょうね。そんなお兄様の近くに卑踐の民がいたら悪い影響を受けるのではないかって、お母様は心配なさっていたのよ」

「そんな……」

「レヴェリーお兄様は、お兄様の血族だから良いわ。だけど爵位(タイトル)領地(エステート)もないあなたは何の価値もない。お兄様を煩わせる重荷だわ」


 冷たく険しい声が突き刺さり、クロエは目の前が暗くなった。

 エリーゼは大きく開いた目に涙を溜め、告げる。


「役に立たない重荷は必要ないの」

「どうしてそんなこと言うの……?」

「だって可笑しいでしょう。お兄様のお役に立てない人がどうしてお兄様の傍にいるの?」


 酷い言葉を浴びせられているというのにクロエは怒る気になれない。

 年下の少女に釣られてはいけないと自制していた訳ではない。喚き立てる彼女を哀れんだ訳でもない。

 何故だろうか。クロエにはその言葉がエリーゼ自身も傷付けているように思えたのだ。


「あなたはそんなにお金が欲しいの? お兄様を操って何をしようというの?」

「私はただ友達になりたくて……」

「友達……? お兄様は家よりも友達が大切だというの?」

「そうじゃないよ! あの人が大切にしているのは、亡くなったご両親なんだよ」


 エリーゼは大きな勘違いをしている。

 ジルベール(ファウスト)が何を言ったのかは知らないが、クロエはエリーゼが考えるほど大きな存在ではない。

 ルイスが一番大切にしているのは今も昔もクラインシュミットの家族だ。ヴァレンタインの人間も例外ではない。ルイスにとっては友人も義家族も等しく二の次なのだ。


「やっとわたしがお役に立てるのに……」


(エリーゼちゃんは……)


「何もできない癖に、ずるい……! あなたもアデルバート様もエレン様もずるいわ!」


 彼の役に立てるエリーゼが妬ましい。兄弟としてずっと縁の切れないレヴェリーが羨ましい。美しいままずっと彼の心に留まっている両親が、狡い。

 エリーゼとレヴェリーには努力次第で追い付けるのかもしれない。けれど、両親だけは違う。

 エリーゼが口にした言葉はクロエも懐いた感情だ。


『何で母さん、お前だけにそんなもん残したんだよ』

『母さんのイヤリングを欲しいと言ったことがあるんだ。多分、その代わりだと思う』

『何だよそれ。狡ィなあ』


 あのブルーダイヤを見る度にクロエは安堵する一方で、胸が詰まるような心地になった。

 羨望だと己に言い聞かせていたその感情の名はとても醜いもの。

 可笑しなことをして嫌われるのではないかとクロエが怯えているというのに、死んでしまった両親はただ平然とそこに在る。彼の心の中で永遠に生きている。

 まるで雪の女王のように彼の心を奪ったままの両親を恨めしく思った。

 絶対に表には出せない感情をエリーゼが少しだけ共有していたということに、クロエは泣きそうになる。

 クロエは自分より背の低いエリーゼと目の高さを合わせ、真っ直ぐと顔を見た。


「あのね……私は役立たずかもしれないけど、気持ちくらいは理解できるよ」

「……そんなもの、何の解決にもならないわ」

「そうだね……。でも一人で悩むよりは良いと思うの」


 一人で悩んでいると深みに嵌まって可笑しなことまで考えてしまう。

 胸が苦しくて、どうして良いのかも、自分がどう在りたいのかも分からなくなってしまう。


「私もエリーゼちゃんと同じだよ。何かをしてあげれば自分の居場所ができるんじゃないかって……」

「ちがうッ!!」


 クロエは自分の弱味を見せた上でエリーゼの心の痛みも理解しようとした。

 けれども。

 エリーゼはクロエの声を遮り、目の前の身体を突き飛ばした。

 胸を強く押されたクロエは尻餅をつく。咄嗟に着いた手にちくりとした痛みが走る。ささくれ立った橋板が掌を引っ掻いていた。

 だが、何よりも深く突き刺さったのはエリーゼの言葉だ。


「わたしはそんなこと思ってない! わたしは家とお母様の為に行動しているの。私利私欲にまみれたあなたと一緒にしないで!」

「私は……、私の気持ちはエリーゼちゃんと一緒だよ……」

「いいえ、違うわ!」


 エリーゼは一切の迷いもなく断言すると、クロエを冷ややかな目で見下ろした。


「クロエさん、貴族じゃないあなたには分からないでしょうけれど、理性も責務も放棄して自らの幸福を求めるなんて恥ずべきことです。わたし、あなたを軽蔑するわ」


(……貴族じゃないから?)


 大切な相手の幸せを願う気持ちに違いはないはずなのに、クロエとエリーゼは相容れなかった。

 ヴィンセントやディアナのように、エリーゼも住む世界の違う人間なのだろうか。

 そんなことはない。そんなことはないはずだ。


(……どうしてなの……)


 分かり合えると信じた人間からの拒絶はクロエの心を傷付けた。

 西の空へ沈みゆく夕陽が目を焼く。逆光でエリーゼの顔が良く分からない。


「こちらにいらっしゃったのですね、エリーシャ様」


 ふと、背後から声が聞こえた。

 声の主は彼女の腹心の小間使いだ。エリーゼは隠れんぼが見付かってしまったというように茶目っ気のある声で応えた。


「今日は遅いのね。待ちくたびれてしまったわ」

「申し訳ありません」


 エリーゼを迎えにきたグロリアは座り込んだクロエを一瞥することもなく、自らの役割を遂行する。


「陽に当たりすぎるのは良くありません。お部屋に戻りましょう」

「ええ、そうね。戻りましょう」

「はい、エリーシャ様」


 宵の風が髪を乱し、立ち去る少女のドレスの裾や襟が翻る。風は白百合の香りに混じって、仄かにチューベローズの香りがした。

 取り残されたクロエは湖を見遣る。

 風が木々を揺らし、枝から離れた葉が水面をくるくると回りながら泳いでいた。

 優しい母親が作ってくれたクルミのベッドで眠っていた少女はその愛らしさから拐われ、川を流されることになる。物語の中では白い蝶が助けてくれるが、その蝶に出会う前に自分の意思で逃れた少女が向かうのは何処だろう。

 クロエの脳裏に先刻の出来事がよみがえる。


『それ以上、お兄様に近付かないで!』


 エリーゼは義兄よりも母親が大切で、自らの幸せを欠片も願っていないというのか。

 本当に、そうなのだろうか。

 クロエはそうは思えなかった。だからこそ、彼女のことを理解できると思った。

 だが、現実はこうしてエリーゼから痛烈な批判を受け、クロエだけが汚い心を晒してしまった。


「エリーゼちゃん……」


 こちらにナイフを向けた彼女の眼差しが焼き付いて離れなかった。

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