姫君は花の国を夢みる 【11】
『捨てられるのはお前か、俺か、或いは――』
嵐の幕開けとも取れる発言があったあの日以来、ヴィンセントの機嫌が可笑しなほど良い。
レヴェリーなどはヴィンセントは反抗されると喜ぶのだと恐ろしいことを言うので、クロエは気が滅入った。
ヴィンセントが捨てられたら、娘の自分がディアナの一番なのだと信じることができる。
クロエにとってあれは己を奮い立たせる言葉であって、相手を喜ばせるつもりはなかったのだ。
あの者が常人には理解のできないことで上機嫌になったり不機嫌になったりするのはいつものことといえばそうなのだが、クロエにとっては真剣に悩んでいることなので、それを面白がられるというのは不愉快だ。
早くディアナが目覚めて欲しいと心から願う。
「じゃあ僕は出掛けてくるけど、ディアナに伝言があるなら伝えてあげるよ」
「バーベキューしたいなら早く起きてと伝えて下さい」
ディアナの見舞いへ行くヴィンセントを送り出したクロエは、いつものように店の手伝いに入る。
夏の連休中ということもあり、マルシェ広場は観光客でごった返している。今が書き入れ時だと店々の主は気合いを入れているところだ。
常連客用のコーヒーカップを店の棚に戻すクロエは、エルフェの横顔を窺う。
美味しいコーヒーとケーキと軽食という持て成しも、主人が不景気な顔をしていたら台無しだ。
仕事人間のエルフェは私情を職場に持ち込みはしないし、カウンターに立つ姿は整然としている。しかし、クロエから見ると疲れているのが良く分かる。
メフィストがきてからというものエルフェは日に日に窶れていくようで、今日はレヴェリーが手伝いを買って出ているほどだった。
「それでね、あいつったら虫も殺せないって言うのよ」
「生死さ迷うとそうなるもんかな」
「だからって害虫を放置って違うでしょというか。ほんと有り得ないの」
「取り敢えずさ、病み上がりなんだから優しくしてやれって」
エルフェがコーヒーを淹れる横で、レヴェリーが常連客のお喋りに付き合っている。
砂糖菓子屋での勤務もそうだが、レヴェリーは接客自体は得意としている。エルフェも今日は渋々任せているといった風だ。
(エルフェさんももっとレヴィくんのこと認めてあげれば良いのに)
信頼して任せているのだと伝えればレヴェリーは更に成長できるに違いない。エルフェは言葉足らずだ。
(メルシエさんのことどうしよう)
色々なことが重なりクロエはメルシエの同居人がアンジェリカであるということも伝えられていない。
夜にでもレヴェリーに相談してみようか。
そう決めたクロエは、テラス席からさっぱり戻ってこない臨時給仕の様子を見に行くことにした。
店から一歩外に出ると、じりじりと焼けるような陽が射している。店のファサードが日光を遮っているとはいえ、肌に触れる空気は熱い。
「大丈夫です?」
「……ああ」
テラス席の片付けを言い付けられているのはルイスだ。
部屋で読書をしていたところを捕まったらしい。暑さの所為か、やりたくもない仕事を押し付けられているからか、いつもはぴんと張った背も心なしかぐったりとしている。
食器をトレイに乗せ、丸テーブルを布巾で拭くルイスは言う。
「どうしてあそこまで汚せるんだろう」
「そんなに酷かったんです?」
「魚の骨がテーブルに散らばっていて始末に悩んだ」
「骨って……。あれですかね、コーヒー飲みながらフィッシュフライを食べたとか」
「常識的に考えて持ち込みは禁止だろ」
場所柄を弁えろとエルフェも最初は持ち込みに難色を示していたが、広場の店々との付き合いもあるのでパンの持ち込みだけは許可していた。
だが観光地というのはそれだけ様々な人種が訪れるということでもあり、マナーが悪い客もいる。
「連休中ですし、大目に見るようにはしているみたいですよ」
「そうなんだ」
「きっと休みが終われば落ち着きますよ。そうじゃないとエルフェさんが過労で倒れちゃいます」
「稼ぐ気もないのに中心街に店を開くのが莫迦なんだ。どうせ今までも仕事にかまけてレヴィを顧みなかったんだろ。そんな人が倒れてもオレは同情できないな」
辛辣な答えにクロエは悲しくなる。
ルイスがエルフェに向ける敵意は彼がヴィンセントに向ける嫌悪とは違う。そう、これは彼とヴァレンタインの家族との間にある溝に近い。
クロエの沈んだ顔を見たルイスはばつが悪そうに視線を逸らし、それから不機嫌な声のまま言った。
「レヴィ、そこで立ち聞きしているなら片付け代わってくれないか」
クロエがはっとして振り返る。ユーカリの隣にレヴェリーの姿があった。
目が合った瞬間、レヴェリーは植物の陰に身を隠そうとするのでクロエは距離を詰める。
「立ち聞きしてたの?」
「してない! してないって!」
「本当に?」
「タイミング窺ってたんだよ」
「それって聞いているのと同じだよ」
「聞かれちゃ不味い話してねーだろ!」
「開き直らないの!」
レヴェリーは首を竦める。そして緩まぬクロエの視線に逃げるが勝ちと考えたのか、観葉植物の陰から出ると一目散にルイスの背後に回った。
「そ、そうだ! 注文してる珈琲豆が駅にきてるからオレとルイで取ってこいだってさ」
「どうしてオレまで行かなきゃならないんだ」
「この炎天下の中、一人でカート引いてこいっての?」
「オレも暑い日は出歩きたくないんだけど」
店の手伝いに辟易しているルイスは使い走りは御免だと断った。
「あとでアイス奢ってやっからさー」
「キミじゃあるまいし、アイスで釣られる訳ないだろ」
「トリプル頼んでも良いぞ」
「一人で行きたくないならクロエさんを連れて行きなよ。丁度その人はキミに言いたいことがあるようだし、日陰でアイスでも食べながらゆっくり話してくれば良いんじゃないか」
「ば……っ! ごちゃごちゃ言ってないで行くぞ」
レヴェリーは慌て、ルイスのウエストコートを掴んで引き摺っていく。
あのような引っ張り方をしたらルイスは怒るだろう。そうクロエが心配すると、案の定レヴェリーは前髪を掴まれて反抗されていた。
「クロエ、悪ぃけどそれ片付けといて!」
「うん。喧嘩しないでね」
レヴェリーは積極的にルイスと関わりを持とうとしているので、その邪魔をしたりはしない。そもそもレヴェリーが思うほど怒っている訳ではなかった。
クロエは布巾で残りのテーブルを拭いて食器を下げ、店に残っていた最後の客を見送った。
「また来て下さいね」
「ありがとう。良い週末を」
笑顔で気持ち良く帰っていく客を見ると、クロエも幸せな気分になる。この感情は花屋に勤めていた頃、自分で作ったアレンジメントを客に喜んでもらえた時のものと同じだ。
きっと、こういう気持ちを大切にすれば良いのだろう。
相手が笑顔になるように振る舞えたら、自然と自分も幸せになるのだ。
(……あれ?)
店の手伝いをしている間、クロエは作り笑いをしていた。けれど、客の笑顔に応えた時の表情や感情は偽りではない。
クロエは自分が最近笑っていなかったという事実に愕然とする。
笑わなければ笑えなくなるという思いまでも忘れて沈み込んでいた。空元気でも浮上する気持ちがなかったのだから、立ち直れないはずだ。
(これじゃ、お母さんに早く起きてなんて言えないような……)
深みに嵌まっていた事実は少なからず堪える。
クロエは肺に溜まった息を吐き出した。
胸に手を当ててゆっくりと呼吸をする。そうして緊張を解き、店の中に戻ろうとすると声を掛けられる。
「クロエさん」
振り向くと、パステルカラーの家が並ぶ広場に、童話の中から抜け出してきたようなドレスを纏ったエリーゼが佇んでいた。
遊びにきたのだろうか。側仕えの姿が見えないことを不審に思い、クロエは訊ねる。
「エリーゼちゃんどうしたの? ビアンカさんは一緒じゃないの?」
「抜け出してきたの」
「え……!?」
驚くクロエをエリーゼは真剣な眼差しで見上げてきていた。
狭い店内にカフェオレの香りが漂う。
クロエはテーブルの上で洋梨のタルトを切り、エリーゼの前の皿に取り分ける。
しかし、エリーゼはタルトにもカフェオレにも手を付ける様子はない。
双子はエルフェの使いで駅まで品を取りに行っている。エルフェも携帯電話に着信があったと思えば、扉に閉店の札を下げて出掛けてしまった。
大切な侯爵令嬢の応対を任されたクロエは安否を知らせるべきかを悩んだ。
「ねえ、エリーゼちゃん。ここにいても大丈夫なの?」
「ええ、平気よ」
「ビアンカさんに知らせなくて良いの?」
「いつものことだもの」
「い、いつもなの?」
「家ではよく隠れんぼをするの。わたしが何処に隠れても、ビアンカはいつもわたしを見付けるわ」
それは誇ることなのだろうか。クロエは突っ込みたい気持ちを抑えて、エリーゼに思い直すよう説得をする。
「エリーゼちゃんが突然いなくなったら吃驚すると思うよ? ここはお家の外なんだから」
「……皆、わたしに家から出て欲しくないのね」
「心配しているからだよ」
「心配……そうね、ヴァレンタインの子供はわたしだけだもの。わたしに何かあったら、お父様は別のお母様を探さないといけなくなるわ」
優しく朗らかな口調で語られるには重い内容で、クロエはどきりとする。
強張った顔を見たエリーゼは淡く笑い、利発そのものの声で言った。
「お母様はわたしを命懸けで産んで下さったから心配しすぎるところがあるのよ」
侯爵夫人は子供を産む時に命を懸けたという。夫妻がルイスを養子として引き取ったのも、もう侯爵夫人が男子を産めないと判断したからなのだろう。
けれど、それとヴァレンタイン家の血が絶えることは別だ。
もしエリーゼに何かあれば侯爵は子供を産めない妻の代わりを見付けなければならない。
エリーゼが残酷な現実を理解していることが痛々しくて、ルイスがただの養子としか見られていない事実が悲しくて、クロエは唇を噛んだ。
「ねえ、クロエさんのお母様はどんな方?」
エリーゼは無邪気に問うてくる。
クロエの知る母親は明るくて、強引なところがあって、料理が下手で。クロエの知らない女性は苛烈で、女性的な弱さがあって。そのどちらも彼女の顔だというなら、とクロエは答えを口にした。
「私のお母さんは、私にはないものを沢山持っている人かな」
「わたしのお母様はとても頭が良くて優しいの」
「そうだね。エリーゼちゃんのお母様は優しそうで……、今だってきっと心配しているよ」
「ええ、お母様はわたしの幸せを何より願って下さっているわ。だからこそ、わたしがお母様を幸せにしなければならないと思うの」
親が子供を幸せにするのではなく、子供が親を幸せにするのだと語るエリーゼに衝撃を受ける。
自分がディアナを幸せにする。それはクロエが考えもしなかったことだ。
それほどまでにも自分の心は汚れきっているのだろうか。清く正しく美しいエリーゼと醜い自分の比較を無意識に行ったクロエは、慌てて思考を止めた。
「お願いがあるの、クロエさん」
「お願い……?」
「お兄様に家へ帰ってきて下さるように言って欲しいの」
紫陽花色の大きな瞳に上目遣いに見つめられる。
その眼差しも、その声も、まだ十に満たない幼い少女のものなのに、エリーゼの顔はクロエより年上の女のものに見えた。
「……できないよ……」
身を乗り出したエリーゼはクロエの言葉に表情を曇らせる。
「どうして……? クロエさんはお兄様のお友達なのでしょう? 説得することは簡単なはずだわ」
「決めるのはあの人自身だよ。仮に私がお願いしてその通りになったとしても何かが違うでしょう」
「何かって、なに?」
クロエの問題はクロエが向き合うしかないし、ルイスの問題はルイスが解決するしかないのだ。
九歳の少女に何と説明をすれば良いのかが分からず、クロエは黙する。
すると、その沈黙をどう取ったのかエリーゼは眉を吊り上げ、声を荒らげた。
「お兄様は今まで沢山苦労したのよ! お兄様はわたしが幸せにしてあげなきゃいけないの。お母様に安心していただくの! そうでなければ、わたしは生まれてきた意味なんてないのだわ……」
「それでも……私はエリーゼちゃんのお願いは聞けないよ」
家に帰って義妹と幸せになって。
あの言葉をもう一度唇に乗せることはできない。エリーゼの頼みといえど、それだけは無理だ。
「だったら、今すぐわたしを殺して!」
エリーゼはテーブルの上にあったナイフを掴むとそのままクロエの鼻先に突き付けた。
切っ先は向けられていないものの、刃物を持ち出されたクロエは息を呑む。
「あなたならできるでしょう? あなたなら、わたしの心臓を止められるでしょう!?」
「お母さんがエリーゼちゃんを愛していて、エリーゼちゃんもお母さんが大切なら、そんなこと言っちゃ駄目だよ。そんなこと、嘘でも言わないで」
「貴族じゃないあなたには分からないわ! あなたは何も分からないのよ!」
両親に愛されていると信じられるなら何故そのような心ないことを言えるのだろう。クロエにはエリーゼの言葉が高慢に聞こえた。
クロエは六歳の時に母親と別れた。それからずっと誰にも甘えられなかった。
例え苦難が待っているとしても、クロエはディアナに連れていって欲しかった。母と一緒なら何だって耐えられた。父の暴力にだってだ。
それなのにディアナはクロエを置き去りにした。
あの日、胸の奧に刻まれた寂しい気持ちは今も消えてなくならない。
「エリーゼちゃんは、贅沢だよ」
自分より頭一つ分ほど背の低いエリーゼの目を真っ直ぐ見つめながらクロエは告げた。
その瞬間、エリーゼの双眸がぞっとするほどに暗く冷たい色を帯びた。
何故このような憎しみの目を向けられるのかクロエは分からない。
「……お兄様を説得してくれなくてわたしを殺してくれないのなら、あなたが…………」
席を立ったエリーゼは手の中にあるナイフを見つめる。その刃に注がれる少女の視線は危うい。
まるで夢の中にいるような虚ろな目がクロエを捉え、エリーゼはナイフを握り直す。クロエの背筋に冷たいものが駆け抜ける。その時、扉が勢い良く開け放たれた。
けたたましいベルの音にクロエもエリーゼも反射的にそちらの方角を向く。
「あー……クロエもエリーゼも落ち着けよ。落ち着こうぜ」
「レヴィくん……」
レヴェリーは直ぐ様エリーゼの説得を試みる。
「それ危ないから手離そう。……な?」
「そ、そうだよ。エリーゼちゃん、危ないからナイフを置いて」
「わたしは落ち着いているわ。もし、わたしが混乱しているとすればクロエさんがわたしのお願いを聞いてくれないからよ」
「どうしてそうなるの?」
「クロエさんは意地悪だわ」
「エリーゼちゃん!」
「だから落ち着けよ! 落ち着いてくれないと色々まず……って、待て!」
言いながら背後を窺うレヴェリーが青冷める。慌てて制止を掛ける。けれど、もう遅い。出入口を塞ぐように立っていた片割れを押し退けてルイスが踏み込んできた。
レヴェリーとクロエに取り合わなかったエリーゼの顔色が変わる。
ルイスはエリーゼを一瞥し、それからクロエを見た。彼の紫の瞳には批難の色はなかった。だが、そこには隠しようがない痛みの感情があって、声を発することもできないクロエは見返すしかない。
すると、その交わした視線を遮るようにエリーゼが身体ごと割り込んでくる。
「お兄様……」
ルイスの前に立ったエリーゼは恐る恐るといった様子で顔を上げ、掠れた声で言った。
「ねえ、お兄様。わたしと一緒に帰りましょう? お母様はとても心配して、帰りを待っているわ」
「……帰らないよ」
「もしかしてお父様から何か言われたの? そうなのね? だったらわたしからお父様に言って、撤回していただくわ。お父様はいつもそうだもの。いつも人の気持ちを考えないで、勝手に自分の思いを押し付けて……。お兄様が気にすることはないのよ」
エリーゼは父親であるヴァレンタイン侯爵を否定し、ルイスを庇おうとする。
説得をしているつもりだったのだろうが、言葉を重ねるほどにルイスの顔から精彩が消えていった。
「エリーゼ、もう良いよ。オレはあの家に戻るつもりはないんだ」
「どうして……お兄様……」
エリーゼの痛切な思いをルイスは切って捨てた。
幼い少女の悲痛な叫びを聞いていられず、クロエはルイスに訴える。
「ルイスくん。エリーゼちゃんときちんと話を――」
「キミは自分の母親のことを考えろと言ったはずだ」
「でも……これは私にも関係あることです」
「エリーゼが勝手に巻き込んだだけだろ。キミは余計なことを考えなくて良いんだ」
こちらに来いと――この場から出ていけと――言うように、ルイスは手を差し出した。
自分がここにいることで却って混乱を招くのかもしれない。そうしてふらりと足を踏み出したクロエは次の瞬間、エリーゼにナイフを向けられた。
「それ以上、お兄様に近付かないで!」
「……っ」
可憐な双眸は見るみるうちに潤んでいく。
エリーゼは濡れた睫毛を震わせながら、声を紡いだ。
「ジルベールの言う通りだわ……。お兄様はこの人に洗脳されてしまったから、哀しいことばかりおっしゃるのね」
洗脳という響きに、クロエは頭を殴られたような気分になる。
クロエはルイスが人の道に外れた行いをしようとした時に平手打ちをしたことはあるが、洗脳はしていない。
いや、復讐を止めなくなった時点でクロエはルイスを誑かす魔女なのかもしれない。
「お兄様のお心を取り戻すまで、わたしもここに留まります」
エリーゼは涙を拭い、決意の籠った声で宣言する。
「お兄様が昔のお兄様に戻って下さるまで絶対に諦めないわ」
「取り戻すも何も、オレは今まで一度もヴァレンタインの人間を家族だと思ったことはない」
物言いたげなレヴェリーの視線を振り切り、ルイスは腕を組んだ。
「オーギュスト様もヴィオレーヌ様も苦手だけど、一番キミが嫌いだった」
「え……」
「実子が養子を立てようとする度に惨めな気分になった」
「でも……だって……だって! お兄様はわたしの傍にいてくれたわ!」
「可哀想な存在に構って優越感に浸りたかっただけだよ。オレも咳は止まらないけど、寝室を離れられないキミよりはマシだって」
「……そんな……ひどい……」
「キミが何と言おうとオレは家に戻らない。分かったら帰ってくれ」
エリーゼを冷たく見下ろす彼が口にしたのはあまりにも残酷な内容だった。
これには黙っていた兄も弟の肩を掴むが、ルイスは鬱陶しげに顔を背けるだけだ。
クロエは心配してエリーゼの様子を窺う。
眉根をきつく寄せ、俯いたエリーゼは長い髪の陰で大粒の涙を溢していた。
「だったら私はこれで首を突くわ……」
エリーゼはナイフの切っ先を自らの喉に向けた。
己を人質に取ったことにルイスは目を見開いたが、すぐに呆れたような溜め息をつく。
「……死ぬなら切るのはここだよ。その方が痛くない」
冷めきった声で言いながらルイスは耳の下辺りを示した。
ブルーダイヤの耳飾りの揺れるそこは丁度、切り裂かれたような痕がある辺りだった。
ルイスは凍ったように静かな口調で言い放つ。
「ただ、首の筋肉は硬いから奥の血管を切るまで相当な力が要る。その精神力がキミにあるのか?」
「お……お兄様、何をおっしゃっているの……?」
「間違えて真ん中を切ると、オレの父親のように窒息して死ぬことになるんだ。口と傷口から血の泡を吐いて、のたうち回り、苦しんで苦しんで死ぬ。そうなる覚悟があるなら首を突くと良い」
「……あ……」
ルイスは止めるどころか自殺を勧めた。エリーゼの目が光を失う。
正気とは思えぬ言葉に彼女の心はひび割れた。
「うそつき!! お兄様は……わたしのお兄様は、そんなこと言わないわ!!」
言葉の毒に囚われた少女は全てを否定するように叫び、突進する。
身体ごと義兄の胸に飛び込もうとする彼女の手にはナイフが握られていた。