姫君は花の国を夢みる 【10】
マルシェ広場から駅との間に位置するスーパーマーケットはテーシェルで一番の規模を誇る総合商店だ。
田舎町なのでその規模も決して大きなものではないが、市場では手に入らないものを買うにはここを訪れることになる。
厳しい顔をしたガードマンの横を通り過ぎ、クロエはコインを入れてカートを取る。
「ヴィンセントさん。先に行かないで下さい」
こういう商店で男性を一人歩きさせるとろくなことにならない。
彼等は菓子や酒を何処ぞの棚から値段も確認せずに取ってきて、カートに入れていくのだ。家計を預かる身としてそれを見過ごすことはできない。
「何でお前にくっついていなきゃならないのさ」
「別に傍にいなくて良いですけど、今日はお酒買いませんよ」
「僕が付いてきた意味ってある?」
「トマト欲しいですよね」
自由行動に静止を掛けられたヴィンセントはうるさいと言いたげな舌打ちをした。
夕飯の買い出しに出掛けたクロエは、駅から歩いてくるヴィンセントと鉢合わせになり、彼を半ば強引に店まで連れてきた。
ディアナの見舞い帰りらしいヴィンセントは明らかに不機嫌だった。尚且つクロエには先日の遺恨がある。
だが、それが何だというのだろう。
共同生活をしている限り、相手を避け続けるということはできないのだ。気まずくはあるが、今更揉めたくらいでヴィンセントと距離を置くという選択肢はクロエにはなかった。
「ライゼンテール産とテーシェル産、どちらが良いと思います?」
「栗なんて産地で変わるものじゃないよ」
「分かりました。テーシェル産にします」
クロエはカートを押しながら、若鶏と栗のクリーム煮に必要な材料を集めていく。
集めるといっても野菜は家に買い置きがあるし、クリームに使う檸檬はテーシェルの名産品なので迷うまでもない。ここへは栗と鶏肉を買いに来たようなものだ。
「魚も買おうかな」
「今日って魚料理のわけ?」
「明日の献立考えているんです」
「どうせ暇なんだから、また明日くれば良いじゃない」
「特売ですよ。安い時に買っておきたいじゃないですか」
「貧乏人丸出しだね」
ジャイルズ及びシューリスのスーパーマーケットの特徴として、肉のラインナップは充実しているのに、魚の売り場はとても狭いというところがある。
小さなスーパーでは冷凍の魚の切り身があるくらいで、頭の付いた魚はまず御目に掛かれない。
共同生活を始めてから生魚を捌く機会も増えたが、クロエは切り身の方が扱い慣れているのでこういう機会に纏め買いをしたくなる。
悩んだクロエは魚を後回しにし、今日のメインである肉売り場へ向かった。
「そうだ。外でバーベキューなんてどうです? 皆でお肉焼きましょう」
良いことを思い付いたとクロエが振り返ると、ヴィンセントは呆れ顔だった。
「普通、女なら肉焼こうとか言わないで茶会しようって言わない? 嘘でもそう言おうと思わない?」
「お肉、好きですよね?」
「今はお前の話をしているんだけどな」
屋外の風に吹かれながら直火を使った料理を堪能するのは短い夏にしかできないことだ。
皆も夏負け気味のようだから休暇も兼ねて一日騒ぐのも良いかもしれない。
「折角だからメルシエさんと先生も呼んで。……あ、先生はお肉食べちゃ駄目なんですっけ。ルイスくんもいるし、魚を焼くというのもありですよね。鮭のホイル焼きなんて外で食べたら美味しそうです」
「バーベキューで焼き魚して何が楽しいのかな」
「デザートはマシュマロと、エルフェさんにパイを作ってもらって焼けば良い感じです。あと焼き林檎もですね」
「お前が肉も魚もデザートも食べたい食い意地が張った奴だっていうのは分かったけど、メンバー最悪じゃない?」
「皆揃うなんて滅多にないんだから良いと思いますよ」
「収集つかなくなるよ」
主にその要因になりそうな人物が何を言っているのだろう。
「賑やかなのも良いです。……ディアナさんだって起きてくれるかもしれませんし」
「ああ……、あいつも食い意地張ってたね」
「お肉大好きですもん。絶対起きてきますよ」
「そうだと良いけどね」
「いい加減、起きてもらわないと困ります」
ヴィンセントに気を遣っての発言ではない。これは本心だ。
クロエはディアナに対しての蟠りがあるが、それと目覚めないという問題は別だ。
今の状況はとても苦しい。
クロエもヴィンセントもディアナへ向けるべき感情を持て余している。クロエの場合それは不安定さに繋がり、ヴィンセントの場合は苛立ちを増幅させる結果となっていた。
楽しい話は尽きてしまったけれど、訊きたいこと、言いたいことが沢山ある。ディアナが心配だとか、ヴィンセントが可哀想だと綺麗事を言うつもりはない。クロエは自分の為にディアナに目覚めて貰いたいと願っている。
取り繕いもせず淡々と言い放つクロエの様子に、ヴィンセントは機嫌良さげな笑みを浮かべる。
彼は彼女が目覚めることが余程楽しみなのだろう。クロエがそんなことを考えていると、ヴィンセントはその油断を突くように言った。
「ところでこの前、門限破ったんだってね」
「……そんなこともありましたね」
あの晩、ヴィンセントは家に戻らなかったので、エルフェかレヴェリーから聞いたのだろう。
この先に続く話は厄介なものだとクロエは確信し、心を平静に保つ努力をする。
「何がショックだったのかなあ。お前がディアナに不誠実だってこと? それともお前があの子を傷付けたってこと?」
「どちらもですよ。どちらもに決まってます」
「へえ、それで仲良く門限破りした訳だ。どうやって慰めてもらったのさ?」
天気を話すような気軽さでヴィンセントは問う。クロエは声の高さを落とす。
「ヴィンセントさんが喜ぶような何かがあると思いますか?」
「いや、思わないね。体面とかそういう下らないこと気にするつまらない子供だからね」
「……体面とかじゃないです」
あの夜に限っていえばヴィンセントが想像しているようなことはなかったが、今までにそういうことがなかった訳ではない。
クロエはルイスの気が済むなら八つ当たりの道具になっても良いと思ったことがある。
友人として救えないのなら……と、その時のクロエには覚悟があった。だからヴィンセントとディアナのことを汚らわしいと詰れはしないのだ。
だが、それでも同じ場所まで落ちてしまわなかったのはクロエとルイスの性質が関係している。
(私も……私が一番嫌い)
自分が一番疎ましいから他人には優しくでき、嫌いな自分の行動にはブレーキが掛かるのだ。
クロエは自分とは正反対の人種の男に訊ねた。
「ヴィンセントさんはどうしてディアナさんと一夜の夢を結ぶことができるんですか?」
「真っ昼間から何訊いてくるんだよ? というか、遠回しな言い方をしたいみたいだけど、却っていかがわしいよ」
「そういうこと気にする人じゃないですよね。話戻しますけど、ディアナさんは自分を……売り物にしたんですよ。触れたら、買った人たちと同じじゃないですか」
「金で買った訳じゃないよ」
「してることは同じです」
「やけに突っ掛かるなあ」
「私は自分の父親も分からないんです。少しでも可能性がある人には八つ当たりくらいしたくなります」
「ふうん、そうなんだ」
ヴィンセントが他人事のように相槌を打つのでクロエは苛立つ。
町で擦れ違う男たちの誰が母親と通じたかも知れない。それはとても気持ちの悪いことだ。
ヴィンセントはディアナに触れたら自分も他の男たちと同じになるとは想像しなかったのだろうか。そもそも後のことを考えなかったのだろうか。
「ああ言ったら喧嘩するとか、こうしたら友達でいられなくなるとか、考えないんですか?」
「先のことなんて一々考えるかな」
「理性を放棄したら人間じゃありません」
「なら何で酒や薬が溢れてるんだよ。現実忘れて莫迦やりたい人間が多いからだろう? いや、これはそういう話じゃないか。そうだなあ、想い合う男女が誰の邪魔も入らない密室にいたとする。そこで相手から迫られて、お前は一々考えるの? もう二度と機会はないかもしれないのに」
「その例えは止めて下さい」
「じゃあ、目の前に好きな菓子があっても、今食べたら夕飯に差し支えるとか太るとか一々考えるの?」
「余程お腹が空いていない限り考えますよ」
「ああ、お前は餓えて死にそうになったことがない人間だったね」
ヴィンセントに莫迦にしたように笑われ、クロエはむっとする。
「死にそうになったことはありますよ」
「一時的なものだろう? お前は生きる為に盗んだり殺したりしなくても良かったんだからさ」
クロエは恵まれない幼少期を過ごしたものの、切羽詰まって犯罪を犯すということはなかった。
では、ディアナはどうだろう。考えたクロエは凍えるような気分になる。
『家族ぶっ殺しているような君にわたしを説教する資格なんてあるの? まあ、両親を手に掛けたわたしも文句は言えないけどさあ』
ヴィンセントもディアナも己の肉親を殺しているのだ。
どのような状況でそうなったのかをクロエは知らないが、まともな家庭環境でなかったとすれば生きる為に手を汚すこともあるかもしれない。
「殺人は手段だけど、別に目的でも構わないんだよ。明日どうなるか分からないから食えるものは食っとくし、やることはやっとく。常にぎりぎりのところで生きてきた側からすると、お前みたいな平和呆けした人間はムカつくよ」
「……私たち、やっぱり分かり合えないんですね」
「今更だよ」
ヴィンセントは悪辣と笑うと、トマトが積まれたバスケットをそのままカートに入れた。
ディアナとも真に分かり合うことがないと言われたようなものだった。
けれど、これは収穫だ。
ディアナと自分が分かり合うことがないのなら、そういう方向で自分を納得させていくしかない。相容れなくても、歩み寄ることはできるかもしれない。クロエは漸く気持ちの整理をすることができた。
頭が冷えたクロエはトマトの値段を確認し、元の場所へ戻した。
「やっぱり今日はトマト買うの止めましょう。高いですし」
「ほら、性格悪い」
「私、食べ物に関しては平等なつもりですよ」
月曜日はヴィンセントの好きなもの、火曜日はエルフェの好きなもの、木曜日はレヴェリー、金曜日はルイス。水曜日と土日は皆の好きなもの。あの家の夕食はそういうローテーションだ。
食事に関してクロエは誰かを贔屓にしたことも、不遇に扱ったこともない。それにトマトはなるべく切らさないようにしているのだから、ヴィンセントは優遇されている方だ。
「食事に関しては、ね。その言い方だと他のことでは誰かを依怙贔屓してるって聞こえるんだけど」
「して悪いんですか?」
「……は?」
「親切にされたら相手にも優しくしてあげたくなって、嫌なことされたら冷たくしたくなるのって可笑しいことじゃないですよね」
それはクロエの描く理想の自分ではないが、人間には少なからずそういうところがある。現に今のクロエとヴィンセントの関係がそうだ。
ヴィンセントはクロエの生意気な態度が気に食わないのだろうが、それはヴィンセントが嫌がらせをした結果だ。相手が友好的ならクロエも喧嘩腰になったりはしない。
「それは見返りがないからディアナに尽くせないって言っているように聞こえんだけどなあ」
「そうですよ。見返りが欲しいから、自分の中の何かを他人に分け与えているんです」
「ディアナはお前が尽くすに値するよ。母親は無償の愛ってやつを子供に注いでいるんだろう?」
カートを押しながらクロエは前を見たまま告げた。
「私がお母さんに愛されていると信じられるとすれば、それは貴方が選ばれなかった時です」
口からするりと出てきた言葉は棘にまみれていた。
クロエは自分の口からこれほど恐ろしい言葉が出るとは思ってもみなかった。
ヴィンセントは少しばかり目を丸くし、それから面白がるように緑の瞳を細めた。
「それは俺もだよ」
小さく息を呑むと、ヴィンセントの唇が意地悪く吊り上がる。
彼は笑っていた。喉の奥で、まるで闇の底を這うような低い声で笑った。
「ディアナが目覚めるのが楽しみだね」
「そう、ですね」
「捨てられるのはお前か、俺か、或いは――」
最後の選択肢はクロエの耳に届く前に雑踏に掻き消えた。