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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
七章
163/208

姫君は花の国を夢みる 【9】

 雨の中、帰宅したクロエを待ち構えていたのはエルフェだ。

 玄関ホールで腕を組んで佇む彼の表情は予想通りのもので、クロエはびくりとする。


「あの、エルフェさん。ごめんなさい……」


 俯いたまま謝るクロエ。その頭部に拳骨が落とされる。


「なっ、何するんですかあ……!」


 拳骨を受けるのは初めてで、思わず涙目になる。

 理不尽な暴力には慣れているクロエだが、自身に否があることで更に拳骨という変化球には対応できない。


「何をじゃない。こんな時間まで出歩いてどういうつもりだ」

「まだ十時ですよ!?」

「最近は物騒だと語ったのはお前だろう」

「それはメルシエさんです。今持ち出してこないで下さい」

「何だ、その態度は。レヴィやヴィンスにいつも言っているが、反省しているのならまず態度で示してみろ」

「エルフェさんが叩くからですよ!」


 素直に謝ったのに拳骨を落とされたことがショックだ。

 門限破りのレヴェリーが拳骨を食らう姿を見ていなかった訳ではないが、よもや自分がその対象になるとは思っていなかった。遠慮の欠片もない鉄槌に抗議するようにクロエは喚く。その感情的な様子にエルフェまでもが感情的に返すので、収集が付かない。


「親子喧嘩は静かにお願いします」

「おい、待て」


 雨水を落とした傘を畳み、自分は無関係とばかりに玄関ホールを突っ切り、階段を上ろうとするルイスをエルフェは呼び止めた。


「クロエを見付けたと知らせ受けてから随分時間が経っているが、何をしていた?」

「その人が腹が空いて動けないというから茶を飲ませてきました」

「……わ、私そんなこと言ってない……」

「ならば担いででも連れてこい」

「大人しく担がれるような人なら、立て籠ったり門限破ったりしないと思いますよ」


 これはルイスに対して怒るべきなのだろう。だが、今のクロエは怒れる立場ではない。

 ルイスは親子の問題には関わりたくないというようにその場を立ち去った。

 唇を噛み締めて堪えるクロエに、エルフェは幾分か硬さを抑えた声で言う。


「腹が空いたならさっさと帰ってこい」

「私が帰ってきても、良いんですか……?」

「何を言っているんだ」


 帰ることができる家があるのは幸せなことだ。

 心配してくれる家族がいるのは恵まれていることだ。

 クロエにとってそれは当たり前のことではなかったから、その大切さを人一倍感じている。同時に軽んじてしまっている。

 【家】というのはクロエにとって安らぎの場所ではなくて、そこに例えあたたかなものがあるとしても、自分の為に用意されているとは思えないのだ。自分はいつだって厄介者だった。


「エルフェさん、この前言いましたけど……私って本当にお母さんに似てますか……?」


 ちゃんとした娘ですか、とクロエは訊ねた。

 質問の真意を察したのかエルフェは答えることはなく、代わりにこう告げた。


「お前は暫くディアナに関わるな」



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 彼が幸せなら良いと、この自分の心などどうでも良いものだと思っていた。

 クロエは役に立ちたいのであって、重荷になりたいのではない。だから彼の為に嘘をつけるようになりたいとあれほど願ったのに、過ちを犯した。

 本当に彼の為だけを思うのなら、あの場で忘れてもらえば良かった。我が身可愛さにクロエはそうしなかった。

 やはり無償など無理なのだ。

 誰かに必要とされたくて、何かをしてあげれば自分の居場所ができる、と。

 何処かでそう見返りを求めているから、なかったことにするのを――帳消しになることを――怖れている。【彼の為】というのは結局、自分の為の独善的なものだ。


(お母さんに対しても?)


 配膳と洗い物という単調な作業を繰り返していると、合間につい考え事をしてしまう。

 ディアナの見舞いを禁じられたクロエは、店の手伝いという役目を与えられていた。

 暑ければ喉が乾き、老若男女問わずコーヒーには甘いものをというのがシューリス人だ。二十度を超える真夏日続きに【Jardin Secret】は大繁盛だった。

 駄賃代わりの洋梨のタルトを断り、クロエが厨房で黙々と洗い物をしているとエルフェがやってきた。


「手伝うか?」

「もう終わりますから大丈夫です」


 見張られずとも皿を割るようなことはしない。

 クロエは態度で示すようにてきぱきと洗い物を終え、濡れた食器を拭いていく。

 しかし、エルフェは店に戻ろうとしない。


「カウンターにいなくて良いんです?」

「今日はもう閉める」

「早いですね」

「たまには夕飯を作ろうと思ってな」


 何が食べたいかとエルフェに問われたクロエは考える。

 何が食べたいかと言われると困る。栄養のバランスや、他の者たちの好き嫌いを蔑ろにはできないからだ。


「そうだ。お昼の残りのキッシュ、冷蔵庫にありますよ」

「それは明日で良い。今日はお前の好きなものを作る」

「本当に私の食べたいもので良いんですか?」

「ああ」

「じゃあ、栗を添えた若鶏のレモンクリーム煮と……ジャガイモのポタージュ。あと、クリームチーズに焼きプリン(クレームブリュレ)が良いです」


 それは、ヴィンセントの嗜好を考えれば間違っても作ることのできない組み合わせ。


「くどくないか……?」

「だ、だって好きなものって言ったじゃないですか! 問題あるなら私は皆の好きなもので良いです」

「分かった分かった。それを作ろう」


 クリーム尽くしな上に、ちゃっかりとデザートに注文を入れる辺りにエルフェは引いているが、好きなものを作ると言ったのはあちらなのでクロエは責められる謂れはない。

 肉を食べることも、プディングを欲することも何ら恥ずべきことではない。ただクロエの好みが少々偏っていて、それを表に出さないようにしていたというだけだ。

 珍しくクロエの好みを聞いたエルフェはレヴェリー並の偏食に呆れ、それからふと気付いたように言う。


「あまりお前は作らないが、ジャガイモのスープ(ヴィシソワーズ)が好きなのか」

「いえ、そういう訳ではないんですけど……。私にとって【母の味】のようなものなんです」

「ディアナの料理と聞くと嫌な予感しかしない」

「エルフェさんも知っている通りで、お母さんは料理が駄目でした。駄目といっても食べられない訳じゃないんですよ。ただ、ジャガイモのスープが一番インパクトがあったというか……あまり自分で作る気にはなれなくて」


 いつもの妙にしょっぱいジャガイモスープをライスの上に乗せて出されたのは今も忘れられない。

 グラタンみたいだとディアナは喜んでいたが、ネギ風味のジャガイモスープとライスの組み合わせは幼いクロエには受け入れ難く、母の味として強烈な印象を残している。あれはヴィンセントのココア粥と並ぶ――ココア粥もディアナの発案だったか――破壊力だ。


「昔、あいつの料理の味見をさせられた時、将来同居相手の味覚の崩壊があるだけだと思った」

「ヴィンセントさんは好みが独特だから大丈夫ですよ」

「本人の前では言わない方が良いな」

「はい、私もそこまで命知らずじゃないです」


 クロエと父は大いに味覚崩壊の危険に晒されたが、ヴィンセントは適応するだろう。

 そんなことを考えた瞬間、胸にちくりと鈍い痛みが走った。


「……お母さんはどうして私を産んだんでしょうね」


 微妙な関係にあるエルフェだからこそ、クロエは本音をこぼしてしまう。


「きっと邪魔だったと思うんですよ。私みたいな荷物を作って、お父さんまで傷付けて何をしたかったのか、私は分からないです」


 生きる為に稼ぐにしても身重の身体は不便だ。ディアナに子供を産む意味など何もない。

 クロエは悲観や自虐などではなく、事実としてそう感じる。

 エルフェが聞かされても困るだろうことを承知でクロエは続けた。


「好きな人の子供なら一人でも頑張って育てていこうって気持ちになるけど、私はそうじゃないし」

「レヴィの母親はそうではなかっただろう」

「エレンさんとお母さんは違いますよ。ルイスくんたちと私だって……」

「個人の振る舞いについては俺からは何も言えないが、母親になるという覚悟は同じではないか?」

「ヴィンセントさんと喧嘩したから私を選ばざるを得なくなったんじゃないですか。私しかいなかったから私を選んだだけで、産みたくて産んだとは思えないです」

「お前が言いたいことは分かる。だが、それは考え出したらきりがないぞ」

「そうですけど――」

「そうよ。不毛よ、不毛。そんな考え、紙にでも包んで捨てておしまいなさい」


 暗鬱なクロエの言葉を遮ったのはメフィストだった。


「厨房に勝手に入ってくるな」

「母親の気持ちなんて、母親にしか分からないものですわよ」

「人の話を聞け」


 神聖な厨房に入るなとエルフェは怒るが、メフィストは構うことなく踏み入る。


「大体ね、レイフェル、あなたもですわよ。義親として正しく振る舞いたいのかもしれないけれど、あなたは論外。あなたは男ですもの」

「その差別は何だ」

「殿方は産む痛みも、毎月の煩わしさも分かりやしませんものね。ああ、不平等。不平等だわあ。殿方だって毎月苦痛に苛まれて生え変わるくらいしても良いんじゃありません?」


 何が、とはクロエも聞かない。訊いてはいけないと察した。

 エルフェの顔は、これだからこの姉は嫌なのだと言わんばかりの渋面だ。

 物騒なことを真顔で言い放ったメフィストはエルフェを一度睨んだ後、爪先をクロエへ向けた。


「私、二人の息子がいるのですけれど、どちらも可愛くて仕方ありませんのよ。ええ、それはもう何にも代えられないほど。親指のように小さかった子供の成長が楽しみで、私は愛情全てを注いでいましたわ。……けれど、上の子はこう答えましたのよ。【もう要らない】って」


 メフィストは一歩、また一歩と近付いてくる。

 クロエにはメフィストの息子が何を不要としたのかは分からない。ただ、それは彼女の存在を否定するようなものだったのだろう。


「私、とっても傷付きましたのよ? でも、それが我が子の成長であれば仕方ありませんものね。親には親の気持ちがあって、子には子の気持ちがある。それを血の繋がりだ何だと言って一緒にしてはいけませんもの。そうではなくて?」


 自分の生まれを気にするルイスに、父親は父親で貴方は貴方なのだとクロエは励ましたことがある。

 クロエも頭では理解している。

 ディアナがどうであろうとクロエはクロエなのだ。他人にどう言われようが、自分は自分なのだと胸を張って生きれば良い。

 母親の問題と己の問題を同一化し、劣等感や憎悪をまぜこぜにして平静さを欠いているのは弱さだ。

 クロエがそのようになってしまったのは幼いクロエを庇護しなかったディアナの責任もあるが、本人の問題もないとは言えなかった。


「マドモワゼル、そんな顔はしないで頂戴。私だって人様の子供に何かを言えるような親という訳ではありませんのよ」


 メフィストはすっかり落ちてしまったクロエの肩にそっと手を置く。

 母性を感じさせるその振る舞いに余計に悲しくなる。


「取り敢えず、親の気持ちが知りたいなら親になることですわね。――ということで、うちのフランツはどうかしら?」

「え……」


 クロエは呆けた。

 メフィストは先日エリーゼも口説いていたが、その矛先を向けられ反応に困る。


「うちの子の黒髪と、あなたの金髪、並んだらうっとりするくらい素敵じゃなくて?」


 メフィストは夢見がちな乙女のように頬に手を当て、首を傾げている。

 どういう基準の嫁選びなのかさっぱり分からない。この調子だとエリーゼとフランツの瞳の組み合わせも好きだと言いそうだ。


「真面目だけが取り柄できついところがある子だから、年上のおおらかな相手が似合いだと思いますのよ」

「としうえ……」

「家の政策も大切ですけれど、やっぱり本人たちの相性もありますものね。ねえ、どうかしら? あなたは親の気持ちが分かって、あの子には可愛いお嫁さんができるなんて一石二鳥ではないかしら?」

「色々話が飛びすぎじゃないですか!?」

「可愛いお姫様は早く捕まえないと他の殿方のものになってしまいますもの」


 クロエは悩んでいたことも忘れて焦る。今、頭にあるのはこの場の切り抜け方だ。

 しかし、善意を(かざ)すメフィストの手を振り払うこともできない。クロエはどうしようもなくなってエルフェを見上げた。


「冗談はここにいるということだけにしろ」


 エルフェはクロエに食い掛からんとばかりに迫るメフィストの肩を掴み、押し戻した。


「こいつは貴族ではない」

「私は構わなくってよ」

「俺が構うんだ」

「うちのフランツに何の不満があるというの、レイフェル?」

「あいつに不満はないが、あんたの玩具になることが目に見えているのに誰が娘を差し出すというんだ」

「あらぁ? 何のことかしらぁ?」

「……頭が痛い……」

「まあ、大変! 優しいお姉様が看病してあげるわあ」


 自称優しい姉は自分より背の高い弟の頭を鷲掴みにするようにぐしゃぐしゃと撫でる。

 メフィストはにこやかだが、そのにこやかさが胡散臭い。これは嫌がらせの笑みだ。

 クロエは怒りと不快感とで真っ青になるエルフェからそっと離れた。


「あの……私、お肉買いに行ってきますね、鶏肉を」

「安物は買うな」

「は、はい! 行ってきます!」


 エルフェを生け贄(みがわり)にして済みませんと心の中で詫びながら、クロエは厨房を出た。

 小走りな足音と、店の扉の開閉を知らせるベルの音が響く。

 それによってクロエが店を出たことを確かめるとメフィストはエルフェの頭から手を退けた。そして、今までと声の調子をがらりと変えて喋る。


「ああは言いましたけれどね……、子供に愛情を疑われるようじゃあ親は失格だと思うわ」

「事態を収めるつもりもないのに、横から妙な口を挟むな」

「マドモワゼルは賢そうだから大丈夫よ。問題はあなた。いつ薄情者から偽善者に戻ったのかしら」


 クロエはエルフェがディアナを知るからこそ、部外者(ルイス)にも話せない悩みを打ち明けるが、関係者故にエルフェの言葉には私情が混じっている。それはクロエも承知の上なので、本当の意味でエルフェに答えを求めることはない。

 メフィストはその行為に付き合うエルフェの歪さを指摘する。


「親のいない子供の面倒を看ていると聞いて来てみればやっぱりそう。レイフェルのそれは持っている人のゆとり。偽善だわ。それはね、薔薇の香りをしていても腐った生ゴミなのよ」

「何を言いたい?」

「そうねえ、一度誰かに捨てられてみると良いんじゃないかしらぁ?」


 問う弟に姉は答えない。

 愛想を捨てきった淑女の顔はぞっとするほどに冷ややかで、声色だけが妙に軽やかだった。

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