姫君は花の国を夢みる 【8】
雨の日は良いことがない。
寄り道が見付かったのも、その相手がルイスというのも運がない。雨の日はいつも悪いことばかりだ。
テーシェルまで戻ってきたクロエが連れてこられたのは、裏通りにあるアパルトマンだった。
じめじめした玄関ホールを抜けて、白熱灯の明かりに照らされた階段を上る。ルイスが案内したのは六階建ての建物の五階だ。
階段室を出て玄関を潜ると、まずキッチンが目に入る。右手にシャワールーム、左手がリビング兼ベッドルームという間取りの部屋は天井が高く、開放的な印象がある。淡いグレーの壁と木張りの床がシックな【ロートレック】の典型的なアパルトマンだ。
「ここは?」
「オレが借りている部屋」
「え……え!? や、家賃は?」
「副業をしていると言っただろ」
間抜けな問いだと思いながらも【ロートレック】の物価に泣かされているクロエが訊くと、ルイスは面倒そうに答えてシャワールームに入る。
このような家を用意してルイスは何をするつもりなのだろう。もしや家出でもするのか。
既にヴァレンタイン家から家出し、エルフェ宅に居候している状況だが、そこからも出ていこうというならクロエは思い直すよう説得しなければならない。
ルイスはヴァレンタイン家から預かっている大切な子息だ。もしその身に何かあればレイヴンズクロフト家の人間の首が飛ぶだろう。
両家の微妙な立ち位置を聞かされているクロエはどうしたものかと考える。その間に戻ってきたルイスにバスタオルを押し付けられ、我に返った。
「寒かったら適当に毛布でも使って」
「あの、貴方は……」
「オレは替えの服があるから」
「私が使ったら汚れますけど……」
「あとで洗濯する」
ルイスはクローゼットから出した服を掴むと再びシャワールームに消えた。
着替えを貸してと言える立場ではないし、他に落ち着く場所もないので大人しく従うしかない。クロエはバスタオルにくるまり、部屋の隅にある椅子に腰掛けた。
一間にキッチンとベッドがあるワンルームの光景は、元々アパルトマンで一人暮らしをしていたクロエには懐かしい。
大きな窓からは雨に濡れた街並みが見える。
(ルイスくんの、家)
居候という立場の所為かルイスは私室に物を置かず、神経質なほどに掃除も行き届いていたが、やはり自分の家となると違うらしい。
壁には小さな絵が掛けられていたり、机には本が少しだけ雑に並べられていたり。そんな様子を見ると、ヴァレンタインの別宅もルイスの居場所ではなかったのだと感じる。
そうしてクロエが濡れた髪を拭っていると、ルイスが戻ってくる。その手にはカップを持っていた。
机の上に置かれたカップからは湯気と共に紅茶の澄んだ香りが立ち上る。
「砂糖はないけど……」
「大丈夫です。済みません」
クロエに出されたのはティーカップで、ルイスの手にあるのはコーヒーカップ。食器が統一されていないところが一人暮らしを始めたばかりという印象だ。
ルイスはクロエに背を向けるようにベッドに座り、ラジオのスイッチを入れた。
「……いただきます」
ゆらゆらと立ち上る湯気を見つめるクロエは小さく呟き、一口飲む。
紅茶は舌が焦げるかと思うほどに熱く、正直味は分からない。
熱く淹れた紅茶を猫舌のルイスはすぐに飲むことができないようで、彼はラジオのチャンネルを変えて暇を潰している。
クロエは机の上のものに目をやった。
「家から運んだ本、全部移したんですね」
「ああ」
「別宅に置いたままでも良かったんじゃないですか」
「ヴァレンタインの人間に見られたくなかったんだ」
ここにはクラインシュミットの邸宅から運び出した本と、エレン・ルイーズの日記があった。
両親の遺品を他人に見られたくないという気持ちは分かるが、ルイスの口振りからはヴァレンタインの家族との埋めようがない溝を感じた。
(……嘘ばっかり)
先刻ルイスはクラインシュミット夫妻にこの歳まで育てられたら、彼等を恨んでいただろうと語った。
それは憎しみではなく、愛故の反抗期のようなものだろうとクロエは思う。
ルイスにとって親はクラインシュミット夫妻だけなのだ。本当の親子だからこそ、喧嘩もしたはずだと彼は言いたかったのだろう。
(私とは違うよ……)
ディアナのことに関して、クロエはルイスに慰められたくらいではどうにもならない。
勿論、気遣いは嬉しくも思う。
ルイスは自身の傷を見せた上で歩み寄ろうとしてくれた。その手を取りたくなる気持ちもあった。
だが、クロエは自分が許せない。こうあるべきと描いた理想と、現実の自分は大きく食い違っている。
これはきっとディアナが目覚めるまで解決しないことだ。ルイスの言うように、彼女と対話するまで胸の中で燻り続けることだろう。
クロエの口から溜め息がこぼれる。
裏通りに面したアパルトマンは静かだ。窓の外から雨音が絶え間なく聞こえる。
「どうして今日いなくなったんだ?」
ルイスはクロエに背を向けたまま徐に訊ねた。
クロエはカップを持ったまま目を伏せて考える。
「ヴィンセントさんと喧嘩したんです。それで……帰りたくなかっただけです」
ヴィンセントに言われたことがショックで、ふらふらと歩いている内にクロエは林檎の森に辿り着いた。
落ち込んだ時に一人になろうとする癖のあるクロエは、皆との生活を始めた当初も公園に寄り道をしていたことがあった。そういう【逃げ場所】の一つが林檎の森だった。今回も、悪い癖が出てしまっただけだ。
「本当に、私が悪いだけですから」
「そうではなく……いや、それもだけど、母親のところに行くなら予定を入れたりしなかった」
「はい……?」
クロエは首を傾げる。ルイスは振り返らずに言った。
「今日は昼から出掛けると言っただろ」
週末は外食でもしながら貸本屋を眺めてこようと、それがクロエとルイスの約束だ。
夜に洗い物をしながら計画を立てた。遊びにいく場所を決めるだけなのに、それ自体がちょっとした外出のようだった。だからこそ、それを反故にされて傷付いたのだが、ルイスの口振りは可笑しい。
「今日、エリーゼちゃんと出掛けるって聞きましたよ」
「何の話だ?」
ルイスは初耳だと言わんばかりの顔をして振り向くので、クロエも目を瞬かせる。
「エリーゼちゃんと湖を見にいくんじゃないですか?」
「それなら断った。埋め合わせで朝の散歩に付き合わされたけど……」
エリーゼは兄と湖に出掛けると言って嬉しそうに微笑んだ。
あれは朝に湖の散歩をするという意味だったのだろうか。だとすれば、クロエの早とちりも良いところだ。
(私、最低だ)
詫びなどと面倒なことを言っていたのにそれもなかったことにするのか、と憤った。
口では仕方ないと語りながら心では美しい彼の妹を妬み、家族のことしか考えていない彼を責めた。
勘違いして約束を破ったのはクロエの方なのに、ルイスはそれを責めることもせず、こうして理由を聞こうとしている。
この中で悪いのは誰だろう。考えるまでもなく、悪いのはクロエだ。
しかし、本当の問題はそこではない。
「……断って良かったんですか?」
エリーゼの誘いを断るというのは今のルイスにとって良くない選択のはずだ。
「別に、あちらを優先にする理由もないだろ」
「何故です? 貴方はヴァレンタインの家に戻ってエリーゼちゃんと――」
「聞いていたのか?」
言葉を遮られ、勢い付くクロエは背中にざあっと冷たいものが流れ落ちたような心地になった。
心臓が騒ぐ。濡れた髪が垂れた肩も、バスタオルを掻き合わせる両手も震え出す。
「キミはエリーゼがオレに言ったことを聞いていたのか」
「……済み……ません」
「責めている訳じゃない。ただ、廊下に水が置いてあったから……」
「ごめんなさい」
必死に絞り出した声は、涙声になった。
これではルイスに不審に思われるというのに、身体はその自制の意識に反する反応をする。
目の奥がじわりと熱くなり、視界がぼやけた。
霞んだ視界の中でルイスは傷付いた子供のような顔をしている。クロエは慌てて顔を背けると、髪を拭く振りをして涙を拭った。
確かに拭ったつもりだった。
ぼろり、ぼろりと、可笑しなほど大粒の涙が落ちた。
「本当に、ごめんなさい……」
泣く理由など何もないはずなのに、拭い切れない痛みがある。
誤魔化しきれなくなったクロエはルイスに背を向けるように窓の外を見た。けれど、雨に濡れた暗い町の景色は見えず、窓に映ったのは陰鬱な顔の自分だ。
「エリーゼに……何か言われたのか?」
「違います。本当に、本当に私の勘違いで……」
クロエは先の言葉を紡げなかった。その後に続く静寂は、自責の刃となって己に突き刺さった。
勘違いでも、そうでなかったとしても、何も変わらない。
クロエはルイスの役に立てない。役に立てないという事実は覆らない。
彼という人間の人生に、その世界に、居場所はない。そうであるはずだと、弁えるのだと己に言い聞かせる。その痛みによってクロエは自らの心を思い知る。
だからこそ、クロエは告げた。
「貴方は家に戻った方が良いですよ」
ルイスはもう自棄になって復讐を望んでいるのではない。両親に愛された己を認め、その愛に報いる為に敵を討とうとしている。
きっと彼は復讐を果たしたとしても自害したりはしないはずだ。
目的を果たしたら、後に残るのは幸福だけ。ルイスとエリーゼは末永く幸せに暮らすだろう。
「幸せになれます」
「それはキミが決めることじゃないと思う」
皆が幸福になれる理想的な未来を指し示したクロエに、ルイスは硬い声で言った。
必死に絞り出した考えを即座に否定され、クロエの目にはまた涙が込み上げた。
「ええ……、貴方の気持ちは貴方のものですからね」
「ああ。それにエリーゼに幸せにしてもらいたいと思ったことはない」
「じゃあ、誰に幸せにしてもらうんです?」
「誰にも。オレの幸せの器はもう十年前に満たされて、溢れてしまったから」
「ふざけないで! 貴方が幸せじゃないなら私は――!」
頬を伝う涙の意味さえ忘れてクロエは叫んだ。
ルイスのような人間が救われなければ、クロエなど救われるはずがはない。彼が幸せになるからこそ、この自分のことは諦められる。彼の幸せはきっと自分の幸せにも繋がっている。きっとそうだ。そうに決まっている。
だけど、言い放った途端に熱くなった全身の血潮が恐ろしいほどに冷えた。
ああ、結局そこに行き着くのか……と思い知ってしまう。
「どうして他人に優しくするのかとさっき言ったね」
嗚咽もなく静かに涙を流すクロエを宥める訳でもなく、ルイスは何処とも知れないところを見つつ独り言めいた調子で呟いた。
「キミは優しいから【貴方だから】と言ってくれたけど、オレは違う。自分が一番疎ましいからだよ」
こういう考え方は止めると言ったけれど、と前置きして話は続く。
「オレはこれ以上幸せになりたいとは思わない。でもオレがそうなることでキミやレヴィが安堵するなら、努力はする。もう【要らない】とは言わない。だから、泣かないでくれないか」
後ろ向きなのか前向きなのか分からないルイスの言葉は実に彼らしい。彼らしいとクロエは思った。
これからルイスが選ぶ道は沢山ある。そして、その道の数だけ幸福の形があるだろう。
ガラス窓に映る彼の顔を見てクロエは慎重に問う。
「それはさっきの私の言葉を踏まえて言っているんですか……?」
もし彼が【欲しい】と望むのなら。
彼が本当に【幸せ】を見つめてくれるのなら。
この自分が彼にとって【要らない】ものではないのなら。
「一応、そのつもりだけど」
「一応……って……」
「じゃあ、キミに泣かれると不幸なような気分になるからとでも言えば良いのか」
「じゃあ? そういう変な言い方するから私は莫迦みたいになるんです」
「何がキミの幸せなのか分からないから、こう言うしかないだろ」
「つまり、私から言えというんですか」
そのようなことをただの友人かつ女の立場で言えるはずがないと睨むと、ガラス越しの彼はいつかの夜のような壊れそうな目をした。
(違う……)
ルイスにそのような顔をさせたいのではない。クロエはただルイスの負担になりたくないのだ。また沈んでしまう姿を見たくないから、何もできない自分は諦め、黙っているしかないと思っていた。
言葉を求められたクロエは困惑し、振り返る。
「ルイスくん。私は……」
「今まで散々迷惑掛けたんだ。キミの負担になるかもしれないことを……今更こちらから何か言えると思うのか?」
ばらばらと、さらさらと、雨音に混じって本音が溢れ落ちる。
ルイスも忘れてなどいなかったのだな、とクロエは漸く知った。
「だから、【詫び】なんですか」
「……ああ」
嫌われるのが怖い。負担になるのが嫌だ。
手を伸ばせば届くのに、諦める。諦めれば、傷付くのは自分一人だけだ。
クロエもルイスも自分たちが悪い意味で似ているということに気付いていた。いや、気付いたからこそ干渉し、その一方で距離を置くことを望むのかもしれない。
ルイスはクロエの苦痛が分かるが故に魔法の言葉を口にした。
「今日のことはなかったことにした方が良いのか?」
「できるんですか」
「キミの負担になるようなことをしたくないと言った」
できるとは言わずにルイスは言葉を濁した。
クロエが手を伸ばせばルイスがそれを振り払うことはないのかもしれない。だが、そうした瞬間に関係性は変わってしまうだろう。
けれど……とクロエは考える。
忘れた振りをしたところで元の付き合いはできるのだろうか。何も知らない子供の振りをするには、クロエは喋り過ぎていた。
「保留にして下さい」
「……分かった。オレもキミも自分のことで手一杯だから、今答えは聞かない」
クロエはディアナとのこと、ルイスはエリーゼとのこと。問題は各々にあった。
「近い内に今日の埋め合わせを。答えはその時に」
「……はい」
「今度はもう【詫び】なんて言わないから」
ディアナが目覚めない状況では問題解決までは至らないだろう。それでも区切りを付けなくては、今の場所から動けそうにない。クロエは冷めてしまった紅茶をゆっくり飲み干す。
紅茶の味はやはり良く分からず、雨と涙の味だけが余韻として残った。
クロエがカップをソーサへ戻すと、ルイスは先に立った。
「帰ろうか」
「か……帰るんですか?」
「まさかここに泊まるとは言わないだろ」
今頃になって門限破りの恐怖が込み上げてきたクロエがぐずぐずしている間にルイスは洗い物を終えて、外へ出る支度も済ませてしまう。
扉の近くへ立ったルイスはクロエを促すが、今度は手を差し出してはこなかった。
こちらの返答次第では触れることは二度とないのだろう。
そうなのだと察したクロエは、部屋の明かりを消そうという時に呟いた。
「酷いこと言っても良いですか」
「何だ?」
「貴方が今日こなければ良かったって思います。最低ですよね……」
クロエの言葉にルイスは驚きはしなかった。ただ出会ったばかりの頃のように目を伏せ、表情を隠した。
「……いや……オレもあの日、キミと会わなければ良かったと思っている」
あの日――クラインシュミット夫妻の命日に出会わなければ。そして、クロエが寄り道などして、ルイスが気紛れに声など掛けなければ。
クロエはルイスを好きだと言ってしまった。
ルイスはクロエを気に入っていると言ってしまった。
自分と良く似た相手に流されて口さえ滑らせなければ、こうと決めた自分を保つことができたのだ。こんなはずではなかったと思っているのはどちらもだろう。
相手の存在に慰められているのは確かだ。けれど、今はその存在がただ辛い。
自分と似た相手の顔は映し鏡だ。相手の瞳に映る空疎な自分を直視することが堪らなく痛い。
惑うふたりの傍らではしとしとと小雨が降り続けていた。