姫君は花の国を夢みる 【7】
「こいつが起きないことに救われているのはおまえたちですよ」
クロエとヴィンセント、両者の保身を嗅ぎ取ったアンジェリカは残酷に言い切った。
「おまえは捨てられて、おまえは捨てる。選択をしなくて良い今がどれだけ幸せか分からないのです? そんなことにも気付かず小せぇ責任の擦り合いをしているなんて大莫迦ですぅ」
ヴィンセントはディアナに捨てられ、クロエはディアナを捨てる。
アンジェリカの口調は揶揄めいたものだったが、内容は笑えるものではない。当然ヴィンセントは怒りを露にした。
「お前に何が分かるんだよ」
「アンジーの方がこいつといた時間は長いです」
クロエも、そしてヴィンセントも言い返せなかった。
ディアナは外法を利用する為に最下層部に潜伏した。利用しようとしている相手には容赦がない。それはつまり本性を見せていたということだ。皮肉なことにこの中で最もディアナを理解しているのはアンジェリカだ。
ヴィンセントが沈黙したのも、アンジェリカの言葉が自身も予想している未来だからだろう。
二人の間で立ち尽くすクロエは己の心にある洞を覗き込む。
(捨てられたのは私なのに、私がお母さんを捨てる……?)
そのようなことはないと言い切れるだろうか。クロエには答えが分からない。
咄嗟に否定できなかったのは自信がなかったからだ。
母を一番に考えられないこと。
あの人の役に立てないということ。
母を重荷だと感じてしまっていること。
何が悲しいのか序列を付けることなどできない。クロエは自分が何を悲しんでいるかも分からなかった。
雨が降り出した。
小雨が本降りに変わり、クロエが辿り着いたのは、林檎の森だった。
どうやってここにきたのかも覚えていない。クロエはずぶ濡れの身体を守るように木陰に寄り添う。
雨に濡れた土と草の匂いに混じって甘酸っぱい香りがする。
夏の林檎は香りほど味は良くない。何よりここの林檎は食用ではないので、そのままでは酸っぱくてとても食べられたものではなかった。
これを美味しく食すには調理をするしかない。ディアナはいつも試行錯誤していた。
クロエが母の味として思い出すのは妙にしょっぱいジャガイモスープと、甘いアップルクーヘンだ。
先日もそのジャガイモスープを食べさせられたが、味は相変わらずだった。食べることが好きな割りに料理の腕はいまいち。けれど、菓子だけはいつも美味しく作ってみせた。
春には親子三人で林檎の花を見て、秋には母と林檎の菓子を作って。
過去を思い返したクロエは虚しくなった。
「なに、やってるんだろ」
美しい思い出がある土地に一人できても悲しくなるだけだというのに、何故ここへきたのだろう。
よりにもよって雨の日だ。
クロエは雨も雷も嫌いだ。
居場所が何処にもなくて一人で泣いたことを、林檎の木陰にうずくまって嗚咽を噛み殺した日々を思い出す。
果てのない嘆きに疲れ、諦めた。諦観に身を委ね、愛想笑いを覚えた。
またあの頃に戻るのか。惨めだったあの頃に。
雨水が髪や頬を伝って流れていく。濡れた身体に吹き付ける風は体温を奪っていた。クロエはうずくまる。
(お母さんはあの時も探しにきてくれなかった……)
父と母が喧嘩をして、幼いクロエは居場所がなくて林檎の森にやってきた。
両親がまだ仲良かった頃にクロエと三人で訪れた、林檎の森。ここにいれば探しにきてくれると思った。
日が暮れてくると雨が降り出し、クロエは雷が怖くて家に帰れなかった。夜になってクロエが帰宅すると、父は酔って眠り、母は仕事に出ていた。二人は迎えにきてくれなかった。
ディアナはクロエが一番大切なのだと言うが、それは本当なのだろうか。一番なら、もっと早く迎えにきてくれても良かったはずだ。
誰の一番でもないという事実に震えが沸き起こる。口許を手で覆うと、頬も指先も冷たくなっていた。
クロエが一人きりでうなだれていると辺りは薄闇に染まっていた。
曇り空からの明かりは望めず、雨は一向に止む気配がない。
林檎の森は雨音だけに包まれている。
「……帰らなきゃ」
帰らなければエルフェに怒られてしまう。きっとレヴェリーも心配する。
こんな時間まで帰らなかったことを何と説明すれば良いだろう。髪も服もずぶ濡れだ。この姿で町を歩くのは目立つだろうな、とクロエは考える。そういえば日傘を持っていたのを忘れていた。雨宿りをする必要もなかったのだと思うと、自分の愚かしさに少しだけ笑えた。
クロエは立ち上がり林檎の木陰を出て歩き出す。
泥が靴底に絡んで歩き辛い。クロエは泥濘を避け、草の上を進む。散策用の歩道を辿らずとも森の地形は知っていた。暗がりでも迷うようなことはない。
濡れた髪から雫が垂れてきて顔を汚すので、クロエは自然と俯きがちになる。
森の歩道が石畳へと変わる。ここまでくると林檎の森の出口はすぐそこだ。
本音を言えばもう少し家に帰りたくないが、周りに掛ける迷惑を考えると我儘は言えない。
仕様がないと諦めるその時、不意に声を掛けられた。
「【寄り道】は済んだのか?」
クロエは驚いて顔を上げる。声の聞こえた方角を見れば、石畳の道の先にルイスがいた。彼は傘を差していない。
どうして彼がここにいるのか。
クロエが戸惑いよりも先に感じるのは、どうしてという疑問だった。
「よく……見付けられましたね」
「見付けられなかったから、こんな時間になった」
クロエが何処にいるかなど誰も分からないはずだ。
他人にあまり過去を話したことはない。ただ、彼に林檎の花が一番好きなのだと話したことはあった。
そういえば、以前にディアナの見舞いに林檎の花を持っていきたくて、彼を誘ったことがあった。もしかすると彼はそのことを覚えていたのかもしれない。
「キミに何かあったのかと思った……」
「何かって、大袈裟ですよ」
今日はエリーゼとの約束があったはずだ。クロエは別にルイスとの約束を破った訳ではない。
「最近様子が可笑しかったじゃないか」
「そんなことないですよ」
「レヴィもレイフェルさんも心配している」
「まだ検問は通れる時間ですよね」
門限は過ぎてしまったが、成人ならまだ出歩いていても可笑しくない時間だ。エルフェもレヴェリーも心配性なのではないかとクロエは思う。ルイスも彼等にクロエ探しを手伝わされて可哀想だ。
「そういう問題じゃないだろ」
「あとで謝ります」
堪えようとしても、クロエは棘のある声になる。
雨に打たれた頭は冷えていたけれど、今は虚勢を張らなければ、気持ちごと崩れ落ちそうだった。
クロエは頭半分ほど背の高い彼をただじっと見る。
「どうして傘差していないんです?」
「今日が雨なんて知らなかった」
「良ければ、貸しますよ」
濡れた青草を蹴って傍へといく。
爪先に泥が掛かっても気にしない。クロエにとっては今更だ。だが、ルイスにとってはそうではない。
ルイスは雪に当たって熱を出したことが何度かある。こんなに雨に濡れて風邪を引いたらどうするのだろう。
「使って下さい」
「キミが使えば良いだろ」
「私は大丈夫ですから」
傘を強引にルイスに持たせたクロエは、バッグの中からハンカチーフを取り出し雨の滴を拭おうとするが、自分もずぶ濡れでどうしようもない。それでもめげずに額、頬、顎、首筋、肩と雨を吸わせてゆく。
「……自分でやるから、キミはキミ自身のことをしてくれないか」
布を押し付けられて拭かれることがうるさかったのか、ルイスは溜め息をついた。
ルイスが取り出したハンカチーフには黒い染みがあった。エリーゼの手で彼に返されたものだ。
捨てて良いと言われたのに、未練がましく持っていた。
ヴィンセントの言うようにどんな些細な繋がりでも欲しかったのかもしれない。今だって、こうして理由があるからこそ触れているではないか。
「……っ」
クロエは身を強張らせ、後ずさる。
雨傘から出たクロエに冷たい雫が降り注ぐ。
それを見たルイスが一歩出る。
「こないで、ください」
訝られると分かっていても身体は無意識に動き、背中が木の幹にぶつかったところで漸く自由になった。
クロエは両手で口許を覆う。悲鳴がこぼれないように、震えを気取られないように。
(だめ……だめ、だめだ……これじゃ、駄目だ)
ディアナを恨んでいるクロエはルイスに探してもらう資格なんてない。触れられる権利はない。
ルイスは眉を顰め、クロエを見る。
「オレはキミの気に障ることをしたのか?」
「いいえ……」
「こうして目の前にいることで苦痛を与えているのか?」
気遣う声に、首を横へ振る。
「違います。私が……勝手に……」
「逃げるくらい嫌なら言って欲しい。そうすれば莫迦なことを考えずに済む」
放たれた言葉の冷たさに、クロエはびくりと身体が強張る。
莫迦なことを考えていたと読まれていたのか。これではルイスへの当て付けで姿を消したようだ。
身体の奥がざわざわと騒ぐ。震えが止まらない。
雨ですっかり冷えた頬を熱いものが流れた。
「……勝手に、勘違いして……好きになってごめんなさい……」
彼の両親に敵わないこと、義妹にも敵わないこと。
あんな無垢な少女に嫉妬した自分が許せなかった。狡いとか、盗られてしまうとか、そんなことを考えそうになったから聞き分け良く諦めてみた。良い子の振りをするのは得意だった。
では、良い子のクロエはディアナを一番に思えるのだろうか。
クロエは一番大切な自分を守る為に逃げた。クロエは自分自身に負けたのだ。
「役立たずなのに……私なんかが……気持ち悪いこと言って、ごめんなさい」
クロエは冷たい手の平に顔を伏せ、力のない声で訴えた。
ルイスもこのようなことを聞かされて気持ち悪いだろう。
これは告白などではない。許しを乞いたかったのではなく、終わらせてしまいたかったのだ。
「どうしてそうなんだ……?」
否定的な告白を受けたルイスは独り言のように問う。
「キミの弱さに付け込んで……、ろくでもない奴に気に入られて可哀想だってずっと思っていたのにどうしてそういうことを言うんだ」
拒絶を待つクロエは顔を上げた。
気に入るとは誰が誰をだろう。
一瞬、頭の中が真っ白になる。クロエはその思考を途中で放棄した。そしてすぐに己を守った。
「私、前に言いましたよね……。惨めな思いはもうしたくないって……」
「それが今関係あるのか?」
「ですから、惨めにさせるようなこと言わないで下さいと言っているんです」
「オレもキミも他人から見たら惨めな人間だ。惨めな人間同士で見栄を張ってどうなるというんだ」
「貴方は優しいから、施しをしてくれているんですよね。そうやって変なことばっかり言うから私みたいな人間は勘違いするんです」
「勘違いしているのはキミの方だろ」
「ええ、勘違いしたんです」
「そうではなく、キミがオレを勘違いしていると言いたいんだ」
「貴方が勘違いさせたんです。そういうのを止めて下さいと言ってます」
「それがそもそも勘違いだ」
もうまともな会話になっていなかった。
クロエも段々と訳が分からなくなってきて自棄になる。涙もそのままに睨むと、ルイスと目が合う。
また涙が込み上げてくるのを感じつつクロエは声を絞り出した。
「……凄いこと、言ったんですよ。なのにどうして無視するんですか。気持ち悪いとか勘弁してくれとか、いつもみたいな反応してくれたって良いじゃないですか」
「なら、オレなんかを好きだというキミを許せない。こう答えたら満足するのか?」
何ということもないことを話すような声色でルイスは言う。クロエは肯定することができなかった。するとルイスは機嫌を損ねたような仕種で顔を背けた。
「……前はそう思っていたけど、今は止めた」
「ルイスくん……?」
「そう考えるのはオレを育ててくれた人たちに失礼だから。……だから、もしキミがオレを好ましいと感じるならそれを否定しないし、それに甘えて傍にいても良いかと思った。本当に、今思ったことだけど」
「そんなの駄目です!」
クロエは声を張り上げた。
「私は、貴方に許してもらえるような人間じゃないんです。貴方から見たら最悪の人間なんです」
「キミの自虐趣味に付き合う気はない」
「お母さんのこと面倒だって思っているんですよ! 実の親なのに……!」
「それが特別なことなのか? 子供が親に反発するのは普通のことだろ」
「お母さんたちを大切にしている貴方が言ったって説得力ないです!」
今だって両親を侮辱したくないから自分を大切にすると言ったではないか。
例え親に反抗するのが子の宿命だとしてもクロエは己を許せない。
今のクロエの基準はルイスだ。
彼が親を愛しているのに、自分は親を大切にしていない。悪い子の自分は、良い子の彼には触れてはいけない。自分と彼の境遇が似ているからこそ、そうなのだと思い込んでいた。
身体の内側に溜まっていた気持ちを一気に吐き出したクロエは肩で息をする。
嗚咽は雨の音で消える。その雨音の狭間で声を聞く。
「多分、オレはあの人たちが生きていてあの人たちに育てられたら、あの人たちのことを嫌いになっていたと思う」
「……嫌い……?」
「父さんの狡さに嫌悪しただろうし、母さんに不信感も持った。頼んでもいないのにどうして生んだんだって最低の言葉をぶつけたかもしれない」
「でも、貴方は……」
「あの人たちがいないから、ぶつけようがない。キミとの違いはそれだけだよ」
仮定を断定の口調でルイスは言う。
星のない夜の空の色のような彼の瞳はクロエを真っ直ぐ見ている。
「喧嘩は生きている相手としかできないんだ。キミは母が目覚めた時になんて罵倒するかでも考えていたら良い」
「……恵まれているのにこんなことを考える私は……冷たい娘なんじゃないですか……?」
生きていれば和解もできるだろうというルイスに、愚にもつかない問いだと自分でも思いながらクロエは訊き返す。
「本当にどうでも良かったら、怒りすらないと思う」
「なんで……そうなんです……? いつも、私が欲しい言葉くれて。そんな風だから、私は駄目になるんじゃないですか……」
クロエがディアナと距離を置いているのは嫌いだからではなく、嫌いになりたくないからだ。
どれだけ憎んだとしても彼女は母。幼い頃からずっと求めていた母だ。再会の時、クロエは泣くほど嬉しかった。その母をこんな目で見たいはずがない。
本当は母の胸で泣きたい。
どうして捨てたのだということと、また会えて嬉しいということを、駄々っ子のように喚きながら母の膝で眠ってしまいたかった。
しかし、器用ではないクロエはそれができない。
何が一番という話ではない。母のことが大切で、彼のことも大切にしたい。それだけなのだ。
そう思ったら、もう涙しか出なかった。
「……自分のことはさっぱりの癖に、どうして他人にばっかり優しくするんですか……」
彼の所為で何度も泣いたというのに、その涙を止めようとするのも彼というのが癪だ。
慰められて、慰めて、また慰められて。その繰り返しだ。
ルイスはクロエの独り言のような問いには答えなかった。ただ言い訳も建前もないという様子で一歩前に出る。
黒い革靴が泥水で汚れることを厭わず、ルイスはクロエの前に立った。
「帰ろう」
傘の下の小さな世界で手を差し出される。けれど、クロエは手を取れない。
我儘だと分かっていてもクロエはルイスの手を取れなかった。
今までのように縋るほどクロエは純粋ではない。彼に触れる勇気など今はない。勿論、振り切る勇気も。
「……なら、雨が止むまで雨宿りを」