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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
七章
160/208

姫君は花の国を夢みる 【6】

 その夜、ルイスは戻らなかった。

 エリーゼを別宅まで送り届け、そのまま家で過ごしたのだろう。

 連絡がなかったものだから、用意した夕食は無駄になった。夜まで居座ったフェーエンベルガー親子が幸い片付けてくれたが、一言くらい連絡を入れてくれても良いのではないだろうか。

 日付が変わるまで玄関ホールの明かりを点けていたクロエは虚しさを味わう。

 寝支度もせずに待っていた自分の滑稽さに絶望し、家族を優先にした彼を責めた自分に失望した。ルイスにとっては家族以外の全てが二の次なのだと思い知った。

 一夜明けた今日の予定は、白紙だ。

 こういう日にするべきことは決まっている。母親であるディアナの見舞いだ。

 午前中の雑用を終わらせたクロエは外出の支度を始める。手早く着替えを済ませ、いつものように、下ろした髪に一房だけ三つ編みを作ろうと途中まで編み込んだところで気持ちが萎えた。

 手を止めるクロエの眼裏に浮かんだのは、かの侯爵令嬢だ。

 エリーゼは長く美しい髪を凝った形に結い、パールのアクセサリーで飾っていた。豪奢な髪飾りは良く似合っていた。

 光り輝くような美貌も、優れた器量も、全てが遠く及ばない。

 己を磨く努力はするつもりだ。けれど、住む世界が違ってはどうしようもないのだ。

 ハンドバッグを掴んで家を出たクロエは、家の数件隣にある砂糖菓子屋の扉を潜った。


こんにちは(ボンジュール)

「こんにちは、いらっしゃいませー……って、クロエ!」


 カウンターから出迎えるのは良く知った顔だ。


「レヴィくん、お疲れ様」

「サボってないからな」

「分かってるよ」


 レヴェリーはエルフェかメルシエの差し金で見張りにきたのではないかと疑う。

 アルバイトとはいえ、働くというのは社会に出ることだ。【Jardin Secret】を手伝うのとは訳が違う。レヴェリーもその点は弁えているとクロエは信じているし、親代わりの二人もそれは同じだろう。


「これからお母さんのところに行くんだけど、何かお勧めのお菓子ある?」

「御袋さん寝てるんじゃなかったか?」

「私たちが食べる分」

「あー……、そっち」

「アンジェリカちゃんが好きそうなお菓子ないかな」

「あのピンク頭の好みなんて知んねーし」

「そんなつれないこと言わないで」

「オレはあいつの名前も思い出したくないんだよ」


 レヴェリーはアンジェリカを妙に毛嫌いしていて、名前を出すだけで顔を顰める有り様だ。

 母親の問題で家を飛び出したレヴェリーはメルシエに世話になっていたという。そのメルシエ宅にはアンジェリカが居候している。

 誰ともそつなく付き合うレヴェリーがここまで嫌うとは何事だろうか。


(レヴィくんもアンジェリカちゃんも負けず嫌いというか)


 アンジェリカも臆病な割には相手に喧嘩を売るようなところがあるので、売り言葉に買い言葉を返すようなレヴェリーとは悪い科学反応を起こしている可能性がある。どちらとも面識のあるクロエの心情は複雑だ。

 クロエは気を取り直して、店内を見て回る。

 ギモーブにボンボン、プラリネにドラジェ。昔ながらの砂糖菓子や地方菓子の詰まったガラス瓶が並ぶ店内は乙女心を擽る。

 砂糖菓子屋というと円錐形の容器(コルネ)にくるむ量り売りを想像するが、缶入りの菓子も多く扱っている。可愛らしく包装された菓子は食べる楽しみを膨らませてくれ、店を眺めているだけで心が踊る。

 土産にフルーツの砂糖漬けを選んだクロエは、精算をしながら訊ねる。


「そういえば、フェーエンベルガーさんはどうしたの?」


 昨日は一日エルフェの家に居座ったフェーエンベルガー親子は、今日は朝から出掛けている。その息子フランツの姿が店の片隅にあった。


「なんか母ちゃんにあげるプレゼント探してるんだってさ」


 菓子を前に難しい顔をしているフランツは真剣に母親への贈り物を選んでいる様子だ。

 母親思いなのだな、とクロエは感心する。


「おい、フラン。まだ決まんないのかよ」

「ヌガーとカリソンとシュネーバルならどっちだと思う?」

「お前の母ちゃんの好み、オレが知るかよ」

「役に立たない店員だな」

「じゃあ、間取ってマシュマロは?」

「そんなふわふわしたもの、食べてる感じがしない。何より色が安っぽい」


 田舎の砂糖菓子に食べごたえや高級感を求めるのも可笑しな話なのだが、そのようなことを指摘しても疲れるだけだと学んでいるレヴェリーは投げる。


「あー……なら、クロエは女だし何か参考になるんじゃね」

「わ、私!?」


 少年二人から期待の眼差しを向けられたクロエは焦る。

 同性だからといって数度話しただけのメフィストの好みなど分かる訳がない。何より彼女も貴族だ。


「えっと、何かの記念の贈り物なの?」

「いや、ただ何となく」

「何となく……」


 何となくで花や菓子を贈るのが貴族なのか、それとも単に母親思いというだけなのか。どちらにしても、他人の贈り物を選ぶというのは難しいものだ。クロエは当たり障りのない無難なものを探す。


「マロングラッセはどうだろ」


 クロエからするとマロングラッセは贈答品だ。自分では決して買わないものなので、贈り物として貰うと嬉しい菓子だったりする。


「紅茶とも合うし、特別な感じがするかも」

「ああ、じゃあそれにするよ」

「早いな!」

「母上は繊細なお方なんだ。お前より、女性の意見を聞いた方が確実に決まってる」

「はいはい、繊細なラッピングをさせて頂きますー」


 レヴェリーは適度に突っ込み、適度に流しつつ包装をした。

 菓子を受け取ったフランツはレヴェリーに礼を言うと店を出る。長居をしてしまったクロエもそれに続く。

 外に出た途端に熱気が襲いくる。

 広場の時計を見ると、電車の時間にはまだ余裕があった。駅までゆっくり歩いても充分間に合うだろう。

 クロエがバッグから日傘を取り出す様子を、先に店を出たフランツは見ていた。

 何処となく観察されているように感じたクロエは疑問を口にした。


「ここにきたのって、旅行じゃないですよね」


 フェーエンベルガー親子は何かを調べ回っている。

 メフィストは冗談で煙に巻いているつもりかもしれないが、クロエは詮索を受けることには敏感だ。かつては棘が尖らないように己を律していたくらいなのだ。


「ルイスくんとレヴィくんに何かするのはやめてくださいね。やっとご飯食べてくれるようになったんですから」

「俺と母上があいつに何をするっていうんだ」

「あと、ヴィンセントさんとエルフェさんにもです」

「お前たちに何かしにきた訳じゃない。母上の弟を探しにきたんだよ」


 クロエに疑いを向けられたフランツは堪らないと白状した。


「エルフェさんを?」

「その兄だ」

「ファウスト先生ですか」


 かの人物は偽りの身分を名乗りヴァレンタイン家に詰めているのだから、易々とは見付からないだろう。


「なんだ、顔見知りか」

「……ええ、まあ」

「その様子だとあまり良くは思われていないみたいだな」

「いえ、そんなことは……!」

「それで良いんだよ」


 あまりあの人物には関わりたくない。そんな感情が声色に表れてしまったクロエは取り繕おうとするが、フランツは親類に向けられた否定的な感情を何故か肯定した。


「教会から娑婆に戻ってきた人だ。普通とは違うだろうさ。もし【普通】なら、それが【異常】だ」

「……あの……私が言えたことじゃないですけど、叔父さんのこと悪く言うのは良くないですよ」


 庇える義理も庇う義理もないが、クロエは人の礼儀として諌める。すると、フランツは声を硬くした。


「世の中には自分の母親を用済みだと追い出すような息子もいるのに、何が家族だよ。血縁なんて何の保証にもならない」

「私が言いたいのはそういうことではなくて……」

「同じことさ。お前は【赤頭巾】の子供だと聞いたが、母親の罪を正当化できるっていうのか?」


 投げ掛けられた問いはクロエの心に重く響いた。

 ディアナはきっと沢山の人間を殺めてきた。その罪を擁護することは娘のクロエであろうと不可能だ。

 家族として庇わなければならないという気持ちの一方で、何故他人を傷付けられるのかという理解を超えた嫌悪がある。ディアナのことは考えれば考えるだけ分からなくなる。

 クロエは血縁というものの脆さに凍り付く。その首筋を、生温い風に撫でられた。






 なぜ。

 なんで。

 どうして。

 ディアナへの疑問はクロエの中に幾つもある。そして、疑問は不信感へも繋がっている。


「どうして私を捨てたの……?」


 クロエの一番古い記憶にあるのは、家族で林檎の森を一緒に散歩したことだ。

 初めから疎まれていた訳ではなかった。では、優しかった父が豹変してしまったのは何故なのか。クロエは今までそれを考えようともしなかった。継母に示唆されていたのに、クロエは目を逸らし続けていた。


(お母さんが、お父さんを裏切ったからなんだよね)


 酒で身体を壊した父はろくな定職に就いていなかったのに、生活には不思議と不自由しなかった。一家を支えていたのは母だ。

 母が夜な夜な出掛けて何をしていたのか、幼いクロエは知らなかった。

 思えば父は母がいない晩ほど酒を飲んでいた。

 恐らく父は知っていたのだ。だから母を拒絶し、他の女に救いを求めたのではないだろうか。継母はクロエには冷たかったが、父を愛していた。母のように裏切ることはなかった。

 父は母がしていること、そしてクロエが実の子供ではないと知ってしまったから、壊れた。

 勿論、手を上げた父にも非はある。だが切欠を作ったのは母だ。


「いい加減に起きてよ」


 クロエは眠り続けるディアナを責めた。

 目が覚めないまま、もう三月が過ぎた。眠るディアナをヴィンセントは美しいと語るが、意識のない人間は決して綺麗なものではない。

 段々と窶れ、汚れていく【母親だったもの】を見ている内にクロエは幼い頃に覚えた感情がよみがえるのを感じていた。


『わたしを汚らわしいと思う? おぞましいと……酷い親だと思う?』

『……言わせない、でよ……』


 身売りをしていたことを知らずとも、クロエはディアナを恨んでいた。

 家族を捨て、一人だけ逃げた母を憎んでいた。


『お父さんもお母さんも事情があって今は貴方と暮らせないだけなの。だから、恨んではいけませんよ』


 父にも捨てられて、追いやられた施設で繰り返し説かれたその言葉。

 そんなものは嘘だ。金銭的な事情で施設に預けられていた子供もいたが、クロエはそうではない。クロエは母にも父にも捨てられた。良い子にしていても誰も迎えにくるはずがなかった。

 帰る場所もなかったのに、両親を恨んではいけないという教えを守ろうとしていたなんて、なんと滑稽なのだろう。結局守れもしなかったのだから本当に救い様がない。


「何か言ってよ……」


 八つ当たり染みた言葉に返ってくる声はなかった。

 空白は苦手だ。余計なことを考えてしまう。

 沈黙が苦手だ。(わだかま)りが煮詰まっていく。

 林檎の森の様子や、来月開かれる祭りのこと、日々の生活であった可笑しなこと。初めの頃は沢山のことを話して聞かせていたが、もう楽しい話題など尽きた。今、クロエとディアナの間には凍えた静寂だけがある。

 夢の中に逃げ込むように眠ったままのディアナを見ていると、恨みが募っていく。

 クロエはこの時間が苦痛だ。母とのかけがえのない思い出までが汚れていきそうで怖いのだ。

 両者無言のまま時間が過ぎていく。

 クロエは動かず、ディアナも動かない。空気は滞り、重く沈んでいる。自らも沈んでいくように疑問の海を漂っていると、部屋の扉が開け放たれた。

 まるで水槽の水が抜けるように空気が流れ、浮かんでいたクロエは陸に打ち上げられる。


「ヴィンセントさん」

「ああ……お前、きてたんだ」


 クロエと目が合うと、ヴィンセントはわざとらしく言った。

 最近ディアナの見舞いから遠ざかっているクロエを珍しいと揶揄するように、棘のある言い方だ。

 ヴィンセントがきたのなら、自分はもう去り時だろう。アンジェリカに会えなかったのが残念だが、機会は幾らでもある。彼女もまた、三日に上げず訪れていた。

 クロエは帰り支度をする。ヴィンセントは呼び止めるように訊ねた。


「今日ってルイスくんとお出掛けじゃなかった?」

「……あの人なら妹さんと予定が入りました」

「あはは、あんな子供に負けたんだ?」

「家族を優先にするのは当たり前ですよ」

「お前は家族を優先にしないのに」


 自分を納得させる為の【理由】が崩される。

 平静を装い答えていたクロエは唇を戦慄(わなな)かせた。

 今回ルイスがクロエとの予定よりもエリーゼを取ったのは、エリーゼが家族だからではない。単純にクロエよりもエリーゼとの関わりが魅力的だったからだ。

 エリーゼはとても魅力的なカードを提示した。クロエと比べるまでもない。

 住む世界が違うのだから仕様がない。そうして諦観に身を委ねるクロエに、ヴィンセントはサイドテーブルに転がる果物ナイフを指し示す。


「これで邪魔な女を刺し殺すっていうのは?」

「…………」

「序でに男の目を潰す。目が見えなくなれば復讐もできないしね。甲斐甲斐しく世話をしてあげれば、ものになるんじゃない?」


 善意で言っているのではないことは明らかだ。

 その言葉は悪意にまみれていた。そして、都合が良いとでもいうようだった。


「やっぱり何か知っているんですよね……?」

「知っていたとして何だっていうのさ。クラインシュミットの事件があって得したのはお前もだろう」

「得って何が――」

「僕があいつを物好き共に売った金でお前は生きられた」


 クロエの掠れた声は簡単に掻き消される。


「自分の不幸の裏で幸せになっているような奴に付き纏われるってどんな気持ちだろうなあ。僕はディアナを不幸にしたお前に慕われて不快だったよ。今でも捻り潰したくて仕方ないくらいに、ムカつくよ」


 クロエはルイスにこちらを恨んでいないかと訊ねたことがある。

 ルイスは詮索を受けたくないと語り、そして【良かった】と言った。

 自分の命と不幸に意味があったのだと考えれば救われるという彼の回答はクロエを傷付け、そのことに触れるのを禁じさせた。


「お前たちはそういうことを承知の上で傷の舐め合いしようっていうんだろう?」


 だから気持ち悪いと言っているのだ、とヴィンセントは蔑みの目でクロエを見た。

 ただの蔑みなら嫌がらせなのだと割り切ることができた。けれど、性質が悪いことにその双眸には憐れみの色があった。目の辺りが熱くなるのを感じたクロエは反射的に俯き、奥歯を噛み締めた。

 ここで泣けばヴィンセントの言葉が事実だと認めるようなものだ。

 クロエがなけなしの自尊心で涙を堪えていると、遠慮がちに部屋に踏み入る者がいた。

 フルーツが入った籠を手に下げたアンジェリカは部屋に入るタイミングを逃したと言わんばかりの面持ちで、クロエを一瞥した後、ヴィンセントを睨む。


「ロ……ローゼンハイン! こいつに当たるなです」

「うるさいな」

「こいつを苛めればディアナが起きるとでも思っているのです?」

「母親なら起きるんじゃない?」

「阿呆です! 破滅的阿呆です!!」

「食べることしか頭にないような奴に莫迦にされたくないよ」


 ディアナがいるからこそヴィンセントは狂っている。

 ヴィンセントはクロエを傷付ける為にわざと酷い言葉を選んでいる。

 そうだと理解しながらも痛みを感じるのは、心が弱いからだろうか。それとも欺瞞を抱える己を後ろめたく感じているからだろうか。


「おまえも一々反応してどうするですか」

「……大丈夫だよ、アンジェリカちゃん。私、何とも思ってないから」

「嘘です」

「本当だよ。私を殺そうとしたのも、あの人に酷いことしたのもヴィンセントさんだもの。それを私の責任みたいに言うのは可笑しいって分かっているから」


 ヴィンセントの不機嫌さに怯えながらも立ち向かうアンジェリカにクロエは言い聞かせた。

 稚拙な言い訳は己に返り、胸を抉った。

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