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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
七章
159/208

姫君は花の国を夢みる 【5】


『わたしはお兄様のお役に立てるわ』


 可憐な少女の放った一言は、クロエに自分ができることは本当になくなったのだと思い知らされた。

 気付くのは遅すぎたくらいだった。

 それは無意識に目を背けていたからかもしれない。ルイスが前を向いた時点で、クロエは置き去りになるのだという事実から。

 彼の助けになりたいという思いの裏側には何処かで見返りを求める気持ちがあった。それはまた明日も一緒に茶の時間を過ごせれば良いという程度のささやかな願いだった。

 けれど、願いは膨らんで欲になる。

 役に立ちたいというのは、裏を返せば必要とされたいということ。つまり、目的と手段が入れ替わっているということではないだろうか。

 もしそれが正しいのなら、クロエの思いはルイスが立ち直らないことを前提としたものだ。

 両親の愛に触れて、彼は孤独ではなくなった。傷に傷を重ねて寂しさを紛らわせる意味はなくなり、ルイスにとってクロエの存在は必要なくなった。

 これから前を向いて歩いていくルイスの役に立てるのは、エリーゼのような存在だ。彼に同調することで傷を埋めようとしたクロエはこれ以上の助けにはなれない。

 遅れないように必死で走り、隣を歩むことが精一杯なクロエにはルイスの手を引くことはできない。

 悲しいけれど、それが現実だった。

 クロエがそうしてぼんやりと考え事をしながらダイニングの片付けをしていると、詰め襟(スタンドカラー)のドレスを一分の隙もなく纏った小間使いがやってきた。

 エリーゼの付き人である彼女とクロエは二度会ったことがある。

 一度目はある冬の日の夜に、二度目はセフィロトを目指す際にだ。

 その時、彼女の瞳は赤い色をしていたのに、今の彼女の双眸は黒い色を湛えている。エリーゼが【ビアンカ】と呼んでいることもあってクロエは混乱したのだが、癖の強いブルネットの髪も、女性にしては低い声もグロリアのものだ。


(ビアンカさんって呼ぶべきなのかな?)


 ファウストのように素性を隠してヴァレンタイン家にいる可能性もある。何かの任務中なら邪魔をしては悪いし、かといって気安くビアンカと呼ぶのも憚られる。

 クロエが何と呼ぼうかと考えていると、グロリアが先に口を開いた。


「エリーシャ様は?」

「エリーゼちゃんなら、さっきルイスくんが帰ってきたから一緒に部屋にいますよ」


 エリーゼを家に連れてきたルイスは茶会の邪魔をしないと言い、出掛けていたのだ。

 茶会の間、ルイスは貸本屋に行っていたようで、戻ってきた兄にエリーゼは本を読むことをせがんでいた。

 そのことを伝えるとグロリアは落胆したように息をつき、その場に座り込んでしまった。

 突然のことにクロエは驚く。

 壁に寄り掛かるようにして床に座るグロリアは心なしか顔色が悪い。メフィストに用があると呼び出されていたはずだが、どうしたというのだろう。


「あの……、メフィストさんと何かあったの?」

「別に」


 短い返答は回答になっていなかった。

 拒絶の姿勢に怯みながらもクロエはグロリアに近付き、話し掛ける。


「良かったらお茶飲みませんか? ショコラクッキー味っていう変わった紅茶があるんです」

「知らない奴に出されたものは口にしない」

「え……と、じゃあビアンカさんも二人のところへ行ったらどうですか。エリーゼちゃん待っているかもしれませんよ」

「私がいない方がエリーゼは喜ぶ」


 だからここでこうしているしかない、と言うようにグロリアは再び嘆息した。

 グロリアは会話を望んでいなかった。そのまま放っておくこともできずにクロエも膝を折った。


(何となく似ているんだよね……)


 顔を背けて黙っているところはルイスと似ているような気がして、放っておけない気持ちになる。

 以前もそう感じたことがある。容姿も性格も異なるのに何故似ていると感じてしまうのだろう。

 二人の共通項を考えたクロエは、思い出す。


「ビアンカさんは昔クラインシュミットの家にいたの?」

「誰から聞いた?」

「エレンさんに仕えていたって何処かで聞いた気がして」


 レヴェリーがそんなことをこぼしていた。

 あまり名前を出すのは良くないような気がしてクロエはその部分をぼかす。するとグロリアは目を細めた。

 尖った印象の双眸が鋭利さを増し、クロエを射る。

 剣呑な眼差しを向けられたクロエは薮を突いたということに気付いた。


「あの赤毛と同じか? 貴様もエレンの死を冒涜するのか?」

「冒涜なんてそんな……!」

「何故、貴様等はエレンを否定するんだ」

「私は――」


 言い掛けて、唇が止まる。何かが可笑しい。

 彼女を冒涜というなら話として分かるのだが、【彼女の死】を冒涜とはどういうことだ。

 クロエは慎重に言葉を選んだ。


「だって……エレンさんが亡くなったのは悲しいことでしょう。悼むのは当たり前です」

「悼む必要などない。彼女はかねてからの望みを叶え、この世界から解放された。これ以上ない救いだ」

「そんなの救いじゃないです。死んだら終わりなんですよ」


 クロエは死にたいと思ったことは一度や二度ではない。いっそ消えてしまえば楽になると血迷ったことを考え、けれどその勇気もなく生きてきた。

 クロエ自身、どうしようもない人生だと思う。

 生きるのなら前向きになれば良いし、後ろ向きのままなら潔く終わらせてしまえば良い。どちらにもなれずに生きる自分はみっともない存在だと今でも感じている。

 だが、そうした惰性でも生きていたからこそ手に入れたものもある。

 終えていたら、知らなかった。

 消えていたら、気付かなかった。

 死んでしまったら、その記憶まで失ってしまう。

 だから今のクロエは死にたいとは思わない。


「終わることがエレンの幸せだった。それを否定することは冒涜と同義だ」


 死が救済だと語るグロリアの眼差しは銀器のように冷たい。

 同じ風景を捉えているはずなのに全く違うものを見つめているようで、クロエは自分とグロリアの間に大きな隔たりを感じた。

 クロエとグロリアは互いの正義を翳して見つめ合う。その背後で嘆息がこぼれる。

 はっとして振り返ると、渦中にある人物の息子が立っていた。


「その人に何を話しているんだ、グロリア」

「こいつが根掘り葉掘り聞こうとするからだ」

「だとしても、答えたのはキミだろう」


 そう指摘を受けたグロリアは舌打ちした。

 クロエは肩を震わせる。根掘り葉掘りとまではいかないが、詮索しようとしていたのは事実だ。

 自分にはその権利はないと理解しているのに、踏み込もうとした。ルイスの不興を買うには充分な行為であり、クロエ自身も自分に嫌気が差す。

 けれど、ルイスは咎めの言葉の代わりにこう言った。


「あの人は死ぬことを望んでいない」

「貴様がそう信じているだけだろう」

「生きたいのに思うように生きられないから【死にたい】んだ」

「エレンを苦しめた元凶の癖に知ったような口を利くな」


 自分たちが生まれた所為で母親は生き地獄を味わった。それでも母親が自分たちを愛してくれたと理解しているからこそ、ルイスもレヴェリーも苦しんでいる。

 彼等が一番己を責めているようなことを、他人が言ってはいけない。

 クロエはグロリアを諌めようとした。しかし、割って入ろうとするその前にエリーゼが叫ぶ。


「お兄様、ビアンカ! 喧嘩はやめて!」

「エリーシャ様……」

「ビアンカはお兄様に謝って!」


 エリーゼは大きな瞳に涙を溜めて声を張り上げる。

 主人に叱責されたグロリアは銀器のような双眸を見開き、義妹に庇われたルイスは瞼を伏せる。

 悲しみに濡れた花の顔を一層悲哀の色に染めた少女の身体はふらりと傾いだ。






 クロエは水差しとグラスを乗せたトレイを持って階段を上る。

 ルイスとグロリアのいさかいを止めようとしたエリーゼは、その心労から倒れてしまった。

 普段からあまり寝所を出られず、テーシェルへも療養の為に訪れているような虚弱な少女にとって、兄と侍従が衝突するという事態は大きな負担になったのだ。

 幸い意識はあり、今はルイスの部屋で休んでいる。トレイを片手に持ち直したクロエは扉をノックしようと手を伸ばす。そこでふと声が聞こえて手が止まる。


「済まない。無理をさせるべきではなかった」

「いつものことよ」

「家で休んでいればこうはならなかっただろう?」

「お兄様が傍にいてくれるから平気」


 兄を信頼していることが窺える、安堵の滲んだ声。

 エリーゼはルイスが傍にいることをとても心強く思っているようだった。ルイスはそれを断ち切るように言う。


「ビアンカを呼んでくるよ」

「お兄様はここにいて」

「……オレがいたら落ち着かないだろう」

「何処にも行かないで! ひとりにしないで……」


 自分の傍から離れようとするルイスをエリーゼは呼び止めた。

 エリーゼの切実な訴えに、ルイスは戸惑ったように返す。


「急にどうしたんだ、エリーゼ」

「……だって……だって、わたし、お兄様がいないと不安で、とても寂しいの……。寂しいと、ずっとこのままなのかとか……ひとりで死んでしまうのかとか、そんなことを考えてしまうの」

「お父様とお母様がいるじゃないか」

「お母様たちは何も分かっていないわ。わたしのことを分かってくれるのはお兄様だけ」

「あの人たちはエリーゼを愛しているだろう。どうしてそういうことを言うんだ」

「わたしは飼い犬(ペット)宝石(ダイヤ)も欲しくないもの」


 エリーゼが両親よりも、血の繋がらないルイスを理解者と感じるのは不足を負って生まれてきたからだ。

 ヴァレンタイン夫妻は寝所から離れられないエリーゼが寂しくないように様々なものを与えたのだろう。十三匹の犬と、美しい宝石や衣装。物に不自由しない豊かな生活は確かに恵まれているかもしれないが、エリーゼが求めたのはそういうものではなかった。


「わたしはお花が欲しいの」


 わたしにはお兄様しかいないの、と。

 それは小さな告白だった。

 縫い止められたように動けないクロエは、思わず水差しを落としそうになった。

 扉を隔てた先にクロエがいることを知らないエリーゼは切々と続ける。


「ねえ、お兄様。お兄様がエレン様の子供だというなら、お兄様はヴァレンタイン家にいるべきよ。ヴァレンタイン家にいればクラインシュミットの家だって建て直せるわ」

「キミは何を言っているか分かっているのか……?」

「お兄様が家を継いで、わたしがずっと傍にいれば良いの」


 それは、エリーゼはルイスのものになって、ルイスはエリーゼのものになるということ。

 二人の将来を約束する言葉。


「お母様もそれを望んでいるし、そうなったらわたしも嬉しい」

「エリーゼ……」

「わたし、お兄様のためなら何だってする。わたしはお兄様のことが大好きだから」


 薄い扉の向こうからは衣擦れの音と息使いまでもが聞こえた。

 お兄様、という滴るように甘い声を耳にしたクロエは後ろめたい気持ちなった。

 盗み聞きがいけないことという以上に、自分がこの場にいることが耐えられなかった。部屋に踏み込む勇気など疾うに打ち砕かれていた。

 クロエは水差しを廊下に置き、階段を下りた。






 青い薔薇を贈られた。

 紫陽花を分けてもらった。

 白い桜の花を共に見にいった。

 赤い桜の花の下で友人になった。

 花など贈られたことがなかったから、嬉しくなって勘違いをした。夢を見て、自分でも彼の役に立てるのではないかと錯覚した。

 愚かなことだとクロエは己を恥じる。

 本当に愚かだ。エリーゼがルイスのことを大切に思っていると知っていたのに、クロエはそんな優しい少女から彼を奪おうとしていた。最低で最悪だ。

 別宅に先に戻るというグロリアを送り出し、手持ちぶさたとなったクロエは黙々と掃除をしていた。

 客がいる時くらいじっとしていれば良いのに、何かをしていなければ落ち着かない。心がざわついて、身体を動かしていなければそのことばかりを考えてしまう。己の悪癖だと感じながらもクロエは手を動かす。

 落ち着くまでずっと続けていただろうその行為を止めたのは、名を呼ぶ声だ。


「クロエさん」

「エリーゼちゃん、もう具合は良いの?」

「ええ、もう大丈夫。心配を掛けてごめんなさい」

「ううん……、私こそ何もできなくてごめんね……」


 エリーゼは申し訳なさそうに眉を寄せた後、クロエを安心させるように穏やかに微笑んだ。

 体調を崩した客人を放置し、己を優先にしているような相手に対しても細かな気遣いを見せるエリーゼは本当に良くできた淑女だった。

 エリーゼは自分の体調がもう大丈夫なのだと示すように言った。


「あのね、明日、お兄様と一緒に湖を見にいくの」


 明日――週末は約束があった。

 だが、家族を優先することに何の文句が言えようか。家族思いのルイスだから仕様のないことだ。


(ルイスくんとエリーゼちゃんは家族だもの)


 自分がいると兄は家を継げないから消えてしまいたい。自分がいなくなれば兄は笑ってくれる。そう嘆いていたエリーゼが前向きになったのは良いことだ。

 互いの幸せを願い、それ故に擦れ違っていた兄妹が手を取り歩いていけるのなら、これ以上ない幸福だろう。その幸福に水を差すことが誰に許されるというのだろうか。

 クロエがそうして心を封殺した時、エリーゼを追うようにルイスがやってきた。


「エリーゼを家まで送ってくる」

「一人で帰れるって言っているのに」

「途中で倒れたらどうするんだ」

「お兄様に迷惑を掛けることなんてしないわ」


 互いを気遣い合う美しい兄と妹はまるで対で(あつら)えた人形のように似合いの二人に見えた。

 眩しくて見ていられなくてクロエは目を伏せた。

 本当に眩しい。眩しすぎて目の奧が痛い。


「クロエさん――」

「見て、お兄様! 夕日が綺麗よ」


 黙り込んでしまうクロエを訝るように名を口ずさんだルイスは、エリーゼに袖を引かれるまま窓の外を見た。

 空は茜に染まり、雲は金色に輝いていた。クロエは自分の目が夕陽に焼かれてしまったのだと思った。

 赤く滲む世界で二人は手を取り合ってクロエの前から去っていった。


「……良かったんだよね」


 誰に対してでもなく、ただ自分の心を納得させる為に呟く。

 エリーゼは可愛らしい少女だ。今は幼くとも、あと五年もすれば美しい娘になるだろう。エリーゼのように容姿も美しく、性格も明るい娘に想いを寄せられて嫌な気分になる男などいない。

 ルイスだって例外ではない。いや、ルイスだからこそだ。

 エリーゼを選べばクラインシュミットの血もヴァレンタインの血も残せるのだから。

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